極楽寺

極楽寺([横山党館  寺社・史跡])

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極楽寺の口コミ情報

2024年08月19日 いれぶん[⭕️雁雁]


新編武蔵風土記稿の子安宿の部分に極楽寺の記載があります。それによると開基は1504年で滝山城下丹木に僧が草庵を開き、滝山城主一式氏が堂宇を提供したとされます。その後、北条氏照の八王子城移転に併せて梶原谷に移り、更に大久保長安により現在地とされてますので、八王子三宿三転と同じ運命を辿っています。尚、1945年の八王子空襲では被害に遭っていません。

氏照、長安が深く関わっている為、北条氏武田氏所縁の史跡(墓)が多くなっています。①仁科信盛女小督姫②北条家臣長田作左衛門③千人組頭塩野適斎。これらは全て東京都指定旧跡ですが、他に④浮世絵師歌川国直があります。

⬜︎玉田院墓
玉田院は俗名を小督といい、武田信玄(晴信)の五男、仁科五郎盛信の娘です。天正七年(一五七九)に盛信の居城である信濃の高遠城で生まれたと推定されます。天正十年(一五八二)、織田軍による甲州攻めの戦禍を避けるため、叔母である松姫らとともに高遠域から八王子へと逃れ、この地で暮らしました。後に、関東の代官頭となり八王子に陣屋を構えた武田氏の遺臣、大久保長安の庇護を受け、寺を寄贈されます。まもなく小督は出家し生弐尼となりますが、病を得て、慶長十三年(一六〇八)に二九歳で没しました。その後、寺は小督の戒名である「玉田院光誉睿室貞舜尼」にちなんで「玉田院」と呼ばれるようになりました。
当初、墓は玉田院にありましたが、元禄年間に廃寺となり荒れ果てていたのを、仁科家の子孫である仁科資真が正德五年(一七一五)に極楽寺へと改葬しました。
(案内看板より)

⬜︎長田作左衛門墓
長田作左衛門は、はじめ北条氏照の家臣であったといわれています。八王子城落城後は前田利家に従ったと伝えられています。その後作左衛門は、八王子城の東方、横山の地に横山宿をつくり市場を発展させました。これは今日の八王子市の発展の基礎となったといわれています。元和三年(一六一七)に亡くなったと伝えられます。
現在残っている供養塔は、天保年間初期に長田氏の子孫である川邊、金丸及び飯島の各氏が願主となり、嘉永年間に建立されたものと言われています。右手にある塚も、昭和六三年の確認調査の結果、同時期に建設されたものと推測されています。
(案内看板より)
大久保長安と同時代に、互いに競いあって八王子を発展させました。武田方・大久保長安は八幡宿、北条方・長田作左衛門は横山宿に力を注ぎ、現在みるような発展を遂げさせています

⬜︎塩野適斎墓
適斎は千人同心の一人であったが、享和年間(一八〇一〜〇四)幕命により蝦夷地(今の北海道)の経営に従った。のち、原胤敦や植田孟縉(ともに墓地は八王子市内にある)らとともに「新編武蔵風土記稿」の編纂に従い、また相模風土記稿の編纂にも従事している。これらのほかに「桑都日記」「築井県行記」「日光客中漫筆」「文敲」など多くの著書がある。諱は轍、字は子明、通称を所左衛門、適斎のほか笛水とも号している。弘化四年(一八四七)十一月十六日、七三歳で残した。
(案内看板より)
植田孟縉の墓は宗徳寺にあります。元は八木町にありましたが、昭和の区画整理で滝山町に移転しています。原胤敦の墓は上野町の本立寺にあります。

⬜︎ 歌川国直墓
寛政4年(1792)〜嘉永7年(1854)浮世絵師
江戸の初代歌川豊国に入門し、文化年間から天保年間にかけて美人画・挿絵等で活躍するが、天保13年(1842)の天保の改革により人情本が発禁となり、活躍の場を失う。弘化2年(1845)ころから八王子に住む。
(案内看板より)

写真
①②③④
①玉田院墓
②長田作左衛門墓
③塩野適斎墓
④歌川国直墓

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