横山神社

横山神社([横山党館  寺社・史跡])

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横山神社の口コミ情報

2024年10月18日 いれぶん[⭕️雁雁]


横山神社由緒略記
 往古より「多摩の横山」は名馬の産地として世に名を知られており、平安の御代には陽成天皇の私牧 (御料牧場) として発達し、延長二年(九二四) 武蔵守小野隆泰が横山の地へ石清水八幡宫(現在の八幡八雲神社)を祀り、天慶二年(九三九)「将門の乱」の翌年に動使牧(国営牧場)となった「横山の牧」に武蔵権之守に任是られた小野義孝は小野姓を横山氏に改め、八幡宮を中心に祭政一致を行い、ここに定住されました。この御方が武蔵七党の一つである横山党の始祖であり、日本における「横山姓」の始まりであります。孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする小野氏一族は小野妹子、篁、道風、小町などの逸材を輩出し、その血筋を引く横山氏は後々の世にまで武士の鏡として数々の「物語」の中に語られております。又、源氏一族との深い結び付きにより代々、源氏の嫡子の誕生に際しては「引目、鳴弦の神事」を行っておりました。
 横山義孝の孫、経兼は「前九年の役」(一〇五一〜一〇六二)陸奥守源頼義に従い先陣を賜り敵将安倍貞任の首級をあげ首懸けの儀を担当いたしました。
 その子孫たちは保元、平治の乱に参加し、一の谷、屋島、壇の浦の合戦に活躍し「平家物語」にも語られております。又その子孫の横山野新太夫隆兼の子、横山散位権守時重の妹は鎌倉幕府の侍所の所司を務めた梶原景時の母であり、時重の娘は侍所の別当和田義盛の妻となっております。
 横山一族の男達は義を貫き、勇をもって世の中が平和になるよう鎌倉幕府創業に尽力しました。建久元年(一一九〇)の頼朝上落のおり、騎馬にての随兵の総数三一八騎、そのうち武蔵出身の武士は約一四〇騎で半数近く、又、横山党の面々は上洛武士の一割を超える三十数騎を占めたという事が「吾妻鏡」に語られております。
 正治元年(一一九九)源頼朝の死後、北条一族の台頭により梶原氏が失脚し、和田一族に対する北条の陰謀に、横山右馬介太郎時兼は義慣を感じ、建暦三年五月三日(一二一三)「和田義盛の乱」に荷担し、一族合戦に及びましたが時節利なく横山の人々之討死いたしました。この時、累代の所領である横山庄は没収されましたが、時兼の子、野内小名犬房重時は生かされ、その子孫は全国に散り、後の世に武勇を表しました。
 乱の後、横山庄は大江広元(鎌倉幕府、政所の別当)の支配となり、一年後の建保二年(一二一四)に開祖横山義孝の御霊を鎮め、八幡神社をお守りする御社として「横山神社」が創建されました。
 現在では、八王子の地名発生の神と言われる八雲神社とともに、八幡八雲の両社をお守りする神社として境内にお祀りされ、東京都の旧跡に指定されております。
 御神徳といたしましては、家内安全・無病息災・学び事の成就・商売繁盛などがあるといわれております。
  八幡八雲神社奉賛会
  第五回全国をぐりサミット実行委員会
(由緒書看板全文)

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