立川氏館(たちかわしやかた)
立川氏館の基本情報
通称・別名
- 立川城、伝立川氏館
所在地
- 東京都立川市柴崎町4-20-46(普済寺)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 立川氏
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 立川氏
廃城年
- -
遺構
- 土塁、堀
指定文化財
- 都史跡(立川氏館跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
三田城(東京都国立市)[3.5km]
高幡城(東京都日野市)[3.5km]
平山季重居館(東京都日野市)[5.2km]
関戸城(東京都多摩市)[6.5km]
由木城(東京都八王子市)[6.7km]
滝山城(東京都八王子市)[6.8km]
高安寺城(東京都府中市)[6.8km]
横山党館(東京都八王子市)[6.9km]
真福寺城(東京都武蔵村山市)[7.4km]
高月城(東京都八王子市)[7.9km]
立川氏館の解説文
立川氏館の口コミ情報
2024年10月31日 いれぶん[⭕️雁雁]
立川宮内少輔館[立川氏館 周辺城郭]
『新編武蔵風土記稿』に天正以前に立川宮内少輔一族の館があったとされています。寺の創建は寛永元(1624)年三月万松和尚によるものです。
江戸時代の寺の平面図に「土手」と称する土塁があると記されていますが、寺の正面側(東側、図面の下側)にある高さ1m程の土盛の位置がちょうど符号しますが、北面西面にはなにも残っていません。南側の崖の高さや参道にあたる部分が横矢掛りとなっている辺りに、領主館防衛の雰囲気がある程度です。
"宮内少輔"が誰になるのかもはっきりしません。立川宮内少輔宗恒は普済寺の開基で知られますが1363年に亡くなっていて少々古く、天正の頃は立川照重が当主で娘の禰々が八幡神社に仏像を奉納していますが、"宮内少輔"だとする文書がありません。不明点だらけですし、館だとした場合の城域も不明です。
立川氏は北条氏没落後、氏照家臣中山氏が家康により水戸家臣に取り立てられた事で声がかかり、水戸に移住しています。
2024年10月31日 いれぶん[⭕️雁雁]
万願寺跡[立川氏館 寺社・史跡]
市指定史跡
満願寺跡
所在 立川市柴崎町一丁目九番二号先
指定昭和三十年三月十日
満願寺はもと東光院といいましたが、徳川四代将軍家綱の頃(一七世紀後半)には衰えてしまいました。
そこで元禄時代(一六八八〜一七〇三年)の頃の住僧・泰蓮が、黄檗宗の名僧・鉄牛を招いて開山しようとしました。鉄牛は弟子の別峰を派遣し、薬師仏を安置してこれを中興させました。これが医王山満願寺です。
満願寺は、その後、この地の人々の信仰を集めていましたが、排仏毀釈により、明治八年(一八七五)、廃寺になりました。今ではこの井戸だけが、当時をしのばせています。
平成二十二年一月一日
立川市教育委員会
(案内看板全文)
2024年10月31日 いれぶん[⭕️雁雁]
八幡神社跡説明板[立川氏館 碑・説明板]
武蔵国多摩郡牧監に補任された日奉氏西党に属する立川氏は、平安時代に系図上は二庁官系だったらしいくらいしかわかりませんが、鎌倉時代は御家人として戦役をこなし、土地を得て地頭職となっています。平山氏等、他の西党と同じように室町時代は宮仕えから離れて、また武州南一揆にも同調しています。そして戦国時代は北条氏照幕下でした。500年以上に渡りこの地を守り続けた一族の氏神である八幡神社も、現在は本殿を諏訪神社内に置いていますが、立川氏館や立川宮内少輔館とされる福厳寺等と、勢力範囲を大切に守っていた様子を偲ぶ処ではありましょう
市指定史跡
八幡神社本殿跡
所在 立川市柴崎町一丁目七番十七号先
指定昭和三十年三月十日
八幡神社は、かつてこの地に勢力をふるった立川氏が、代々尊崇した神社です。創建は建長四年(一二五二)と伝えられています。
社殿は再度にわたり火災にあいました。現在の本殿は、天保十二年(一八四一)に造営されたものです。その後、明治四十年(一九〇七)に、諏訪神社本殿の東隣に移築されて現在に至っています。
なお、天正十四年(一五八六)に立川照重内女お禰々が八幡神社に奉納した阿弥陀如来像(市指定有形文化財)が、諏訪神社に保存されています。
昭和六十三年三月二十一日
立川市教育委員会
(案内看板全文)
2024年10月29日 いれぶん[⭕️雁雁]
広福寺[立川氏館 寺社・史跡]
武田家臣から徳川家臣となり、家康の領地替えに伴ってこの地を知行した内藤氏の墓があります。同じ武田家臣である千人同心達と異なり直参旗本になります。
北条氏照管轄地の旧武田家臣と言いますと、松姫従臣や大久保長安及び千人同心が有名ですが、氏照家臣となり八王子の街づくりに貢献した長田作左衛門や、同じく氏照家臣(平山氏重家臣とも伝えられる)として引田村の地を与えられて八王子城に散ったとされる志村肥前守景元、仲間の嫡子を保護して八木町に庵を持つ八木源左衛門が挙げられます。内藤源左衛門正頼と彼らに交流があったのか、歴史が気になるところです
各所に三つ鱗が有りますが、臨済宗建長寺派はそもそも鎌倉北条由来ですから、小田原北条とは無関係かもしれません
現地周辺を確認して思うのは、この地は南・西に川(水路)が流れる舌状大地を成していて(赤状立体図参照)、北に堀切か土塁が有れば土豪・領主の本拠地に適切だと言う事。福島氏の居宅が寺北側の駐車場辺りに有ったのかも知れないロマンを楽しみました
金峰山廣福寺概要
〈所在地〉
東京都昭島市福島町二丁目十四番七号
〈宗 派〉
臨済(禅)宗建長寺派〈本山〉大本山建長寺(鎌倉市)
〈本 尊〉
十一面観世音菩薩木座像(江戸前期作)
〈安置仏〉
釈迦如来木座像(室町前期作)・地蔵菩薩木座像(室町前期作)
〈開 創〉
南北朝時代 貞治二年(一三六三) 創建と伝う。
〈開 山〉
直庵啓端大和尚禅師(建長寺第一一九世・普済寺第三世)。本寺立川普済寺開山真照大定禅師物外可什大和尚(建長寺第三十七世)の高弟。応永十八年(一四一一)十二月一日没。
〈開 基〉
福島宗心大師(信女とも)。福島氏は南北朝時代の当地の豪族で、寺伝によると、当山はその氏寺として建立されたという。宗心はじめ一族の墓塔とされる宝篋印塔が今も数基残存する。
〈中興開基〉
内藤源左衛門正頼(正久とも)。元和八年(一六二二)没。法名仁德院殿力誉空勢大居士。江戸時代初頭、荒廃した当山を再興した。なお、内藤氏は甲斐武田家旧臣、江戸時代には徳川将軍家に仕えた直参旗本で、代々福島村を知行地とした。当山の大檀那で、累代の墓碑がある。
〈本 堂〉
平成十八年四月、客殿·庫裡・山門とともに再建。
〈鐘 楼〉
享和三年(一八〇三)建立。<梵 鐘〉昭和三十八年再鋳。享和三年鋳造の旧鐘は昭和十九年、戦時供出。
〈文化財·その他〉
一、市指定天然記念物「広福寺の大松」 樹龄五百年のクロマツ。
一、市指定旧跡「内藤源左衛門正頼(正久)の墓」 江戸時代福島の二代目領主の墓。板石を用いた板碑形近世墓として貴重とされる。
一、広福寺台遺跡 段丘崖上の墓地一带が縄文時代中期、奈良·平安時代の複合遺跡。縄文土器・石器・住居跡はじめ、奈良時代の鉄製直刀などが出土している。
一、古什宝 半鐘、大涅槃図、古過去帳、内藤家先祖書・遣品(武具・絵画等)、当山絵図面、近世文書類などが伝来。
一、境内石造物 中世の板碑、近世の庚申塔をはじめ、馬頭尊、富士講記念碑(明治時代)、戦没者慰霊碑、百体地藏尊、六地蔵、三界・万霊地蔵、閻魔大王、釈迦如来、聖観世音菩薩、東門門柱頂きの毘沙門天・不動明王など、新旧さまざまなものがある。
一、大賀博士の二千年蓮 昭和四十一年、緑あって府中市内より当山に分根、毎年七〜八月の早朝開花する。
住職謹誌
(説明看板全文)
2024年08月26日 きよりん安房守
立川氏館
立川駅から徒歩で15分くらいの所です。除夜の鐘が鳴り正月は初詣で人がいっぱいです。
2024年06月30日 いれぶん[⭕️雁雁]
立川市歴史民俗資料館[立川氏館 関連施設]
立川氏館である普済寺の江戸時代(江戸名所図解)・昭和初期(写真)が展示されていて、土塁・堀・残堀川等との関係性がよくわかる。また、立川氏文書が販売されていて、立川氏を偲びやすい
2022年05月26日 きた大学允ひろ
立川氏館
国宝のあるお寺です🎵テラスからの見晴らし素敵なお寺です🎵少し奥まったところにあるので、人もまばらな静かなお寺です🎵
2022年05月21日 他力本願寺弾正少弼
中嶋家の門[立川氏館 寺社・史跡]
韮山代官屋敷の門を移築したもので、当時の当主が江川太郎左衛門から譲り受けたそうです。
2022年05月21日 他力本願寺弾正少弼
沢の稲荷(古墳)[立川氏館 寺社・史跡]
立川市内で唯一、墳丘の残存する古墳だそうです。
2022年02月25日 左近衛少将てつ
立川氏館
普済寺に説明看板があります。本堂の向かって左に土塁が残っています。
2021年01月28日 さすらいライダー
立川氏館
駅から南へ歩き、住宅街の先の大きなお寺の中にあります。立川段丘の上にあり、下に多摩川が見渡せる、閑静なところでした。
2014年01月05日 中務卿一之介
立川氏館
多摩モノレール柴崎体育館駅から徒歩7,8分ほどです。
跡地には普済寺というお寺が建っています。解説には土塁が残っているとありますが、私の拙い目と知識ではわかりませんでした。
駐車場はお寺のものを使用させていただくことになるのでしょうが、お墓参りなどに訪れる方最優先と考えてください。
現在、普済寺がある場所が館跡で、本堂近くに説明板がある。また普済寺の周辺には土塁も確認することが出来る。