高安寺城(こうあんじじょう)

高安寺城の基本情報

通称・別名

高安寺館、高安寺塁

所在地

東京都府中市片町2-4-1

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

新田義貞、鎌倉公方

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

都選定歴史的建造物

再建造物

周辺の城

大丸城(東京都稲城市)[2.9km]
三田城(東京都国立市)[3.3km]
関戸城(東京都多摩市)[3.7km]
高幡城(東京都日野市)[5.7km]
玉川上水陣屋(東京都小金井市)[6.2km]
小沢城(神奈川県川崎市)[6.2km]
立川氏館(東京都立川市)[6.8km]
深大寺城(東京都調布市)[7.2km]
寺尾城(神奈川県川崎市)[7.8km]
狛江入道館(東京都調布市)[8.1km]

高安寺城の解説文



高安寺(こうあんじ)は、東京都府中市片町にある曹洞宗の寺院である。開基は室町幕府初代将軍足利尊氏であり、室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていた。なお、江戸時代初期までは臨済宗の寺院であった。寺の随所に古刹としての面影を残すなど、多摩地域を代表する寺院の一つである。

沿革 

平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされる。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って、武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。ここは武蔵国府の近くにあり、国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えている。これら一連の戦乱によって、寺が炎上するなどして見性寺は荒廃した。

そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き、臨済宗の禅寺に改めて再興した。この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名された。これによって高安寺は室町幕府の保護を手厚く受けて、一時は塔頭10・末寺75と称されるほどの大寺院となった。

それは同時に、足利将軍家、あるいはその指揮下にあるとされた鎌倉公方の影響力を深く受けることにつながり、軍事拠点としての色彩を帯びることとなった。永徳元年/弘和元年(1381年)には小山義政討伐に向かう第2代鎌倉公方足利氏満が、続いて応永6年(1399年)には応永の乱に呼応して将軍足利義満打倒を図ろうとした第3代鎌倉公方足利満兼が、それぞれ高安寺に陣を置いている。

この状況は第4代鎌倉公方足利持氏の代にも変わらず、応永30年(1423年)に常陸国の小栗満重討伐の帰途に高安寺に入り、ここに仮の政庁を置いた。しかし、翌年には失火による焼失を招いてしまい、再建を行うことになった。そして永享11年(1438年)には関東管領上杉憲実討伐のために持氏が再び高安寺に陣を構えた。ところが、持氏の反幕府的姿勢に業を煮やしていた当時の将軍足利義教が持氏討伐の軍を派遣し、持氏は急遽高安寺を離れたが各地で持氏方が敗北を喫し、持氏は滅亡することになった(永享の乱)。

逆に康正元年(1455年)に行われた再度の分倍河原の合戦(享徳の乱の緒戦)では、第5代鎌倉公方足利成氏が籠もる高安寺に攻め寄せた上杉軍を成氏が打ち破っている。

その後もその地政学的条件から、上杉氏・後北条氏などによって軍事的に利用されることも多く、たびたびの戦乱で衰退・荒廃した。江戸時代初期には海禅寺(現在の青梅市)の末寺に入り、宗派も曹洞宗と改めた。

現在の本堂は、寛永元年(1624年)に火災に遭い消失したものを享和3年(1803年)に再建したもの。本堂正面には「等持院」の扁額があり、これは開基となった足利尊氏の法嗣名である。明治5年(1872年)に建てられ左右に仁王像を配する山門、安政3年(1856年)に建てられた鐘楼と共に、東京都選定歴史的建造物に選定されている。

所在地 

東京都府中市片町2丁目4番地の1

交通 

京王線・JR南武線分倍河原駅より徒歩7分

参考文献 

  • 【書籍】「新編武蔵風土記稿」|publisher=内務省地理局|date=1884-6|ref=}}

高安寺城の口コミ情報

2025年03月27日 マグロ常陸介祐平
人見屋敷[高安寺城  周辺城郭]



多磨霊園の西側にある浅間山公園の人見四郎(光行)の墓跡付近(写真8枚目,府中市教育委員会により平成2年に建てられた石碑)が、人見屋敷と伝わるようです。人見氏は、現在の埼玉県深谷市付近の人見郷が本拠地の武士ですが、八王子の子安神社は人見光行が再建したと伝わるようですので、無関係ではないのかもしれません。この地は元の地名を人見村といい、村名は猪俣党の人見氏が居住したとの伝承が由来とされています。新編武蔵風土記稿には、村の西に上屋敷、村の東に下屋敷と呼ばれているところがあるが、昔誰の館跡だったのかわからないとしており、また、上屋敷の近くに塚があり、その他にも4つの塚があるが、何の塚だかわからないとしています。人見氏に関しての居館や墓に関しての記述は何故かありません。

この地は、観応3年(1352年)に足利尊氏と新田義興・義宗兄弟が戦った人見原合戦(武蔵野合戦)の戦場でもあり(写真3,7枚目,Googleマップの戦場の登録地点付近)、東京都の旧跡に指定されています。

浅間山公園には、風土記稿でいうところの堂山(人見山・人見塚)、中山、前山の3つの丘で構成されています。屋敷跡とされる前山付近には(写真6枚目)、城郭的な構造は見られませんが、浅間神社が鎮座する堂山の周りには(写真1枚目)、箱堀形式の竪堀状の幅のある溝がいく筋も見られます(写真2,5枚目)。合戦の為の陣城ということではないと思いますが、用途不明の構造物です。

2025年02月25日 ようくん尾張守
高安寺城



曹洞宗龍門山高安寺で検索したら素直に辿り着けるはずです!

2024年10月01日 マグロ常陸介祐平
高安寺城



こちらのサイトの説明はあっさりしていますが、なかなかの経歴を持つお寺(城郭)です。

平安時代中期に武蔵守となった藤原秀郷が国府そばのこの地に居館を構えたとされ、墓地の奥には秀郷稲荷が祀られています。その後は見性寺というお寺になり、平安時代末期になると源義経と弁慶がこの地でたびたび過ごして、弁慶は大般若経を写経しています。ゆかりの井戸として秀郷稲荷を下った所に「弁慶硯の井戸」が残ります。
南北朝時代には、分倍河原の合戦で新田義貞が陣を構えています。

室町時代には、足利尊氏が安国寺の一つとして見性寺を「龍門山高安護国禅寺」と寺名を改め足利氏の軍事拠点としての性格を持つようになります。永徳元年には小山義政討伐のため足利氏満、応永6年には応永の乱に呼応して足利満兼、応永30年の小栗満重討伐や永享11年の上杉憲実討伐には足利持氏が陣を置いています。この戦いで持氏は亡くなりますが、風土記稿では永安寺ではなく、このお寺で自害したことになっています。
戦国時代になると北条氏の庇護を受け、氏康や氏照の朱印状が残っています。

江戸時代後期に書かれた新編武蔵風土記稿には、「四方に小渠を穿ちて堤防を続らせり」とあり、堀と土塁が残っていたようですが、現在は遺構らしいものは確認出来ません。府中市内の発掘調査では薬研堀状の溝が多数見つかっていることや、夢窓疎石の弟子の義堂周信が足利氏満に謁見した場所を「武城」(おそらく高安寺)と表現していることから、城郭の作りだったのは間違いなさそうです。

お寺は、山門、鐘楼、観音堂など文化財の宝庫でもあります。

2024年06月03日 国府左京大夫城介
府中御殿(武蔵国司館)[高安寺城  周辺城郭]



徳川家康が関東移封直後に築いた最初期の御殿

【歴史】
天正18年(1590)に、徳川家康が関東に移封直後に造営した御殿。

徳川家康が奥州仕置きに向かった豊臣秀吉を接待するために造営したと云われていますが、近年では秀吉本人が造営したという説もあります。
江戸幕府が開かれると、家康が鷹狩をするために滞在するための施設となり、秀忠、家光と三代にわたり利用されましたが、正保3年(1646)の府中大火で焼失し、再建されることはなかった。また、元和3年(1617)には、家康の柩が久能山から日光へ遷された際には、3月21日から翌日にかけて逗留して、法要が行われた。

なお、この地は7世紀後半から8世紀前半(飛鳥時代から奈良時代頃)に造営された武蔵国司館がありました。

【遺構】
府中御殿について遺構は、大型石組井戸のみが残っている。しかし、発掘調査によると、井戸の中からは三葉葵紋鬼瓦や焼土が出土し、井戸以外にも、堀立柱建物跡、柵跡、厩(推定)が発見されている。

武蔵国司館跡としては、主殿、脇殿、付属建物の跡(現在は、柱跡が復元されている)や、大型土坑が発見されている。

【感想】
関東近郊で、江戸幕府に造営した御殿・御茶屋の遺構を確認することができる数少ない御殿跡です。(ここ以外だと、浜御殿(港区)、御茶屋御殿(千葉市)の二か所のみ。石戸御茶屋(北本市)は近年それらしき遺構が発見されたようです)
井戸しか見ることはできませんが、その井戸もかなり大型で立派な石組井戸で、しかも家康公が使ったかもしれないと一見の価値はあるかもしれません。

また、武蔵国司館としての価値もありますので、一粒で二度おいしい史跡です。国府自体は、大国魂神社あたりにあり、ここと同じように一部柱跡が復元されています。

【アクセス】
府中本町駅から徒歩数十秒。
利用時間:午前9時~午後5時

【写真】
①入口と武蔵国府跡の石碑
②説明板
③大型石組井戸
④国司館の主殿
⑤武蔵国府の国司館(復元模型)

2024年05月10日 埼玉だ
高安寺城



高安寺、とても立派な寺院で、宗徒さん用の駐車場に駐車させてもらい駆け足で見て回りました。

2024年02月04日 まりん治部大輔
高安寺城



分倍河原駅から歩く時は北に向かって歩くとT路地(左に踏切)の所が旧甲州街道で、右に曲ります。高安寺の入り口はこの旧甲州街道沿いで、駅から10分もあれば着きます。静寂な雰囲気です。奥に・弁慶硯の井戸・があります。

2023年11月25日 大納言Z太政大臣369
秀郷稲荷堂[高安寺城  寺社・史跡]



平将門を討ち取り、大百足を退治したという伝説を持つ藤原秀郷(俵藤太)の居館があったこの場所に、高安寺の鎮守として建立された。

2023年11月25日 大納言Z太政大臣369
弁慶硯の井戸[高安寺城  寺社・史跡]



檀ノ浦の合戦で平家を滅ぼし、平宗盛を鎌倉に護送することになった源義経と武蔵坊弁慶。ところが、義経は兄頼朝の許可なく勝手に朝廷から検非違使の任命を受けたことで怒りを買い、鎌倉に入る事を許されませんでした。

仕方なく、立ち寄ったのが高安寺で(旧名称は見性寺)、義経は赦免祈願として大般若経を書写したといわれているが、弁慶が墨をつくるのに使う水をこの井戸から汲んだので「弁慶硯の井戸」と呼ばれたようです。

2023年08月28日 八咫烏紀伊守鉄龍
高安寺城



静かなお寺です。奧に弁慶井戸があります。往時に気持ちをはせながら訪れましょう。

2023年02月26日 式部大輔こやまん
高安寺城



静かな佇まいのお寺でした。分倍河原駅方面から行くと、ちょっと分かりづらいかもしれません。

2023年02月26日 カンスケ伯爵
高安寺城



秀郷稲荷。藤原秀郷が武蔵国国守となり館を建てた跡に秀郷稲荷があります。

弁慶硯の井。
源義経が頼朝の怒りを買い鎌倉入りを拒否され見性寺(高安寺)に滞在。
赦免祈願の大般若経を写した時に使われたのが本堂裏山から清水を汲み取ったのが弁慶硯の井。

足利尊氏が開基となり本堂正面にある当持院の扁額は尊氏の法嗣名で寺紋も足利氏の紋章丸に二つ引両を用いています。
建武の中興による功賞で高氏から尊氏と改名したが高氏の一字をあて髙安寺としたものといわれています。

寺領は東は世田谷代田、西は立川貝坂、南は川崎向山、北は所沢山口に及び四方四里を有していた。

以上曹洞宗龍門山髙安寺より抜粋。

城跡らしきものは見当たりませんが境内保育園裏手辺りに土塁と思われる場所があります。

厳かな場所を散策してみてはいかがでょう!

2023年01月27日 武州左兵衛督 憧れの天守閣
高安寺城

静かな佇まいのお寺です。お城の感じはあまり無い。

2022年02月25日 左近衛少将てつ
高安寺城

城址は高安寺内にあり、高安寺には、弁慶硯の井戸があり、歴史が感じられます。

2022年01月25日 のぶ修理大夫
高安寺城



分倍河原駅から7分、弁慶硯の井戸があります。

2021年12月27日 後志守あったらもんだ
高安寺城



曹洞宗の古刹、古井戸以外に遺跡はないが境内の雰囲気は良い

2019年06月16日 満州里
高安寺城



夏日の暑さでしたが、弁慶硯井戸の辺りは涼やかな日陰となっており、行き交う車を遠目に往時を偲んで来ました。

2019年05月07日 長森原
高安寺城



弁慶硯の井から秀郷稲荷神社を見上げる。足利氏ゆかりの寺となった高安寺は府中崖線のきわに建つ。鎌倉街道上道も近くを通っており交通と軍事の要衝の地だったそう。

高安寺城の周辺スポット情報

 武蔵国府跡(遺構・復元物)

 分倍河原古戦場跡の碑(碑・説明板)

 鎌倉街道上ノ道・元応の板碑(碑・説明板)

 源義家の銅像(碑・説明板)

 江戸城外郭の石積(碑・説明板)

 府中御殿(武蔵国司館)(周辺城郭)

 人見屋敷(周辺城郭)

 武蔵国分尼寺跡(寺社・史跡)

 武蔵国分寺跡(寺社・史跡)

 武蔵府中熊野神社古墳(寺社・史跡)

 弁慶硯の井戸(寺社・史跡)

 秀郷稲荷堂(寺社・史跡)

 新田義貞公之像(その他)

 伝・鎌倉街道上ノ道(その他)

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