関戸城(せきとじょう)
関戸城の基本情報
通称・別名
- 天守台
所在地
- 東京都多摩市桜ケ丘1(地図は碑の場所を示す)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 佐伯氏?
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
-
高幡城(東京都日野市)[3.6km]
高安寺城(東京都府中市)[3.7km]
三田城(東京都国立市)[4.0km]
大丸城(東京都稲城市)[4.0km]
小野路城(東京都町田市)[5.5km]
由木城(東京都八王子市)[5.8km]
平山季重居館(東京都日野市)[5.9km]
立川氏館(東京都立川市)[6.5km]
小沢城(神奈川県川崎市)[7.2km]
沢山城(東京都町田市)[8.4km]
関戸城の解説文
関戸城の口コミ情報
2025年08月15日 いれぶん武蔵守
沓切坂[関戸城 その他]
沓切坂(くっきりざか)は、急坂に馬の沓よく切れた事を由来して名付けられたと伝えられる、古鎌倉道の坂です。旧鎌倉街道から分岐して古市場を過ぎてまた合流する1kmほどの区間は、新鎌倉街道を含めて3本の鎌倉道が並ぶ形になります。由来となった故事については、元弘3(1333)年の新田義貞と正平7(1352)年の新田義興が挙げられていますが、どちらなのかははっきりしてないようです
実際に歩いてみると、3つの鎌倉道の中で一番高い位置になり見通しが良く、切り通しの両側に古い多摩の風情が所々に残っているのがわかります。
2025年08月14日 いれぶん武蔵守
古市場[関戸城 碑・説明板]
古市場
多摩市役所の敷地付近をいいます。戦国時代の一六世紀、小田原北条氏時代に、この付近で関戸郷の中心として市が聞かれていた場所といわれています。
小田原北条氏が関戸郷に送った当時の掟書によれば、一か月のうち、六回市が開かれる日があり(六斎市)、それは三日・九日・一三日・一九日・二三日・二九日と定められていたり、伝馬の数や免税などについて定められています。
多摩市教育委員会
(標柱全文)
2025年08月13日 いれぶん武蔵守
熊野神社[関戸城 寺社・史跡]
関戸熊野神社
縁起・由来
創立 延徳元年(1489年)9月9日
建立 天明6年(1786年)11月
元治元年(1864年)4月 本殿覆殿拝毅再建
令和4年(2022年)7月 本殿覆殿新築・拝殿修復
延徳元年紀州熊野三山を勧請と伝えられ、天明6年、間戸と貝取の境であった当地に、当時の名主相澤源左衛門休郭(相澤五流)が願主となって「熊野三社宮」として建立された。明治6年村社列格
御祭神
・迪玉男命(はやたまのをのみこと)
・泉事解男命(いずみことわけのをのみこと)
・意冨加牟都美命(おほかむづみのみこと:桃の神様)
(掲示板資料全文)
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現在は個人宅となっていて、一般公開されていない安保入道塚のある敷地は、その昔相澤家の屋敷でしたが、観音寺を挟んだ道沿いは霞ノ関北木戸柵が有ったとされています。熊野神社を南木戸柵に配置している事で、名主相澤家の権威は一段と高く感じられました
2025年08月13日 いれぶん武蔵守
伝・武者の屋敷[関戸城 碑・説明板]
多摩市市政40周年(2011.11.1)の記念行事として、歴史古街道団(代表:宮田太郎氏)が表示板を設置しています。縦格子フェンスに取り付けられていますが由来等の説明が全く無く、屋敷跡がどこになるのかすらよくわからないのです。谷間の湧水が小川になり、人の手が入った池がありますので、その周辺のどこかなのでしょうか
明らかに人工的に整えられた地形はあるのですが、公園造成時の物なのかどうかもよくわかりません。ただ、中世以前の自然状態を残している部分も多いようにはみえます
歴史古街道団のHPで当時の会報をチェックしても"伝・武者の屋敷"についての記事はありませんでした。代わりに公園全体を指すのかもしれませんが"関戸塁"と言うキーワードはありました
とは言え、関戸合戦(1333)や中先代の乱(1335)を始めとして後北条時代の松田憲秀(佐伯道永・山口重明)まで、度々戦場や陣地になった関戸(城)の空気だけは掴めるように思いました
2025年08月13日 いれぶん武蔵守
霞ノ関南木戸柵跡[関戸城 寺社・史跡]
ーーーー史跡説明看板ーーーーーーーーーー
東京都指定史跡
霞ノ関南木戸栅跡
所在地 多摩市関戸一一九〇 熊野神社
指定 昭和三十六年一月三十日
鎌倉時代の建暦三年(一二一三)に鎌倉街道に設けられた木柵の関で、街道沿いに設置された監視所の跡と考えられる。なお、中世の関所跡として既に地名にも関戸と称せられ歴史上貴重な史跡である。
柵跡地は熊野神社境内参道に平行し、地表下三〇-四五センチのところに、およそ四五センチの間隔に丸柱(直径二五センチ)の痕跡十六があり、道路の東側にも六、七ヶ所丸柱の跡が認められる。
平成五年三月三一日 建設
東京都教育委員会
ーーーー史跡標柱ーーーーーーーーーーーー
東京都史跡
霞ノ関南木戸栅跡
この付近は、鎌倉時代の建暦三(一二一三)年、鎌倉街道に置かれた関所跡で、熊野神社参道に沿って関所南側の木戸と栅跡が発見された。数少ない中世の関所跡として貴重である。
多摩市教育委員会
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(以上,説明看板及び標柱全文)
2025年08月10日 いれぶん武蔵守
九頭龍神社[関戸城 寺社・史跡]
九頭龍神社(くずりゅう)
○縁起、由来
・创建不詳
・由緒
中世のある大洪水の折、川上から関戸大河原の地に九つの頭を持つ龍のようなものか流れ着き、それを御神体として奉斎したのが始まりと伝えられています。
古くから多摩川の洪水,氾濫の際にも当社が水没することはなかったことから、多摩川の水神として近棚の祟拝を集めています。
また、当社は子供の虫歯を和らげる御神徳があるとして祟拝され、祈願のお札参りには山の萩を束ねて供えたと伝えられています。なお、龍に似た赤い兜をかぶった白蛇がしばしば境内に現れたとの言い伝えもあります。
※現社殿は、昭和50年代に聖請桜ケ丘周辺地域の区画整理事業により、かって鎮座地であった関戸二丁目大河原(現社殿より北に150m)から遷座したもので、正面鳥居(昭和5年建立)はその鎮座地より移設しました。
関戸熊野神社
(説明看板より縁起,由来のみ抜粋)
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隣接の公園との境界部分に低い土盛があり、神社裏は水路があります。"土塁と水堀の痕跡では?"と思いたくなりますが、説明看板にある通り昭和50年代に移設された神社なので残念ですが違います
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(追記)
パルテノン多摩開催の[関戸合戦]展・展示図録(2007)に拠ると、区画整理等の為に神社は現代に二度移転しています
元位置:関戸2丁目22と25間の横断歩道付近
移転①:昭和50年代、関戸4丁目13付近
移転②:昭和61年、現在地
展示図録は現在でもパルテノン多摩で販売されています
2025年08月09日 いれぶん武蔵守
関戸古戦場跡[関戸城 碑・説明板]
関戸古戦場跡
最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘三(一,三三三)年新田義貞によって滅ばされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、五月十六日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、六日後に首都鎌倉を制圧した。
多摩市教育委員会
(標柱全文)
2025年08月09日 いれぶん武蔵守
関戸合戦無縁供養塔[関戸城 寺社・史跡]
1333年5月16日だと記録されている関戸合戦は、新田義貞軍による敗走している北条泰家軍に対する追討戦です。北条方の名のある武将である安保入道や横溝八郎は、それぞれが言い伝えられている墓にて現在も供養が続けられていますが、こちらは北条方とも新田方とも定かでは無い無名戦士の墓と伝えられる所です。
700年弱になるにも関わらず、現在も供養が続けられている理由として、江戸時代の太平記ブームが指摘されていますし、安保入道塚の比定等もその頃の出来事です。それ以前・以後も度々様々な合戦に登場する関戸ですが、鎌倉幕府の命運を決定付けたとも思われる激戦には土地の記憶が特別鮮明だったのでしょうか
2025年08月01日 いれぶん武蔵守
壽徳寺[関戸城 寺社・史跡]
明徳元年(1390)念阿護法和尚が開山した後に衰退していましたが、後北条家臣とされている関戸城守将の佐伯市助(一助)道永に援助されました。道永が1541年3月に戦死し、嫡男の三河守道也が供養として同年10月に日舜宗慧大和尚に再興して頂き、道永を開基としたとされています(壽徳寺ホームページ他)
但し、道永・道也の名は小田原衆所領役帳(1559)には無く、上杉景虎や武田信玄の小田原攻めの際にも関戸城や道也の名は出て来ません。地域管轄の重臣であった松田氏や氏照傘下陪臣として名主的な地域役人になっていたか、定かなものはありません
住職に伺うと、寺の境内はかなりの広さを持っていたとの事で、とりで公園や山神社(やまじんじゃ)、駐車場や観音堂のある寺方大屋敷の地等はその一部だったそうです。大屋敷も佐伯家関連ではないかと考えている方も居られるようですが、文献資料等は見つかっていません
付近の高級住宅地の道は綴れ折りになり、車で通行していると場所がよくわからなくなる迷宮のような所です。そして、人が踏み入れない鬱蒼とした森を持つ寺院。東側の延命寺付近の佐伯屋敷と合わせて訪問すると、関戸城の本当の姿が感じ取れるのではないでしょうか
駐車場は本堂に6台分、観音堂前に30台以上
公園を含め一般用のトイレは見当たりません
御朱印は4種類あり、韋駄天のもの以外は手書きも対応されています
2025年07月27日 主計允( ・´ー・`)
関戸城
サイコーですぅ遺構が住宅地に埋もれていて遺構がほぼ残っていないので昔を想像すると楽しいです!
2025年05月01日 マグロ常陸介祐平
関戸城
城址には、「天守台(関戸城跡)」の標柱が建っています(写真1,2枚目)。もちろん天守閣があった訳ではなく、お城の名称が天守台と呼ばれていることによります。江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿には、眺望が大変良く足立・豊島・荏原・多磨・入間・高麗郡を望み、玉川(多摩川)を前にして東西に甲州街道が通り、東も西も丘となった絶景の場所で櫓など建てたら良い要害だとし、櫓の大きいものを天守ということからこの場所も天守台と呼ぶようになったのではないかとしています。また、誰が住んでいたか伝わらず、古い書物にも見られないとし、昔闘いがあった時にここに登って物見をした跡ではないかとしています。金比羅宮が建つ場所(写真5,6枚目)が城址のようですが、説明板には新田義貞軍と北条泰家軍が戦った場所といわれている旨が書かれています。
戦国期に関戸村には松田氏や布施氏が領主として見られ、有姓の百姓も多数いたようですので、戦国期にも物見台として活用されたかもしれません。
お城は、山頂が削られた現在でも、桜ヶ丘いろは坂と名付けられたつづら折りの急坂の上にあり、物見には最適な場所に感じられます。明確な遺構は、わかりませんでしたが、標柱の説明書きには、わずかにその一部を留めるとあるので、気が付かなかっただけかもしれません。金比羅宮の背後の腰郭風の平場が見える崖や(写真7枚目)、段々になった標柱の下(写真3,4枚目)などに雰囲気は感じられます。
2024年09月02日 大蔵大輔hino
関戸城
駅から徒歩で25分程 いろは坂を登り続けると天守台があった場所に案内のポールが立っています。山全体が城跡だと思われるが、遺構等はみられなかった。
2024年06月11日 感謝包αヌン乙π勘解由長官
関戸城
住宅地の脇にあり、近くからは見晴らしの良い場所もあり素敵です。森も近くにあり癒しです。少し山(坂道)を登るものの、駅からも歩いてアクセス出来ます。
2023年04月06日 はらぽん東市佑
関戸城
山頂は削られ地形も変わっているとは言え、見下ろせるこの地形は絶好だったのがよくわかります。
2022年05月31日 杉玉右京大夫
関戸城
住宅地だけど、本丸跡からは多摩川を越えて都内まで見渡せたんでしょうね。
2022年02月24日 宮内大輔てつ
関戸城
天守台の説明碑しか見つかりませんでしたが、高台にあるので、当時は見張り台として活躍したと感じました。
2021年04月24日 いれぶん武蔵守
落川遺跡[関戸城 寺社・史跡]
あまり顧みられる事がないとても貴重な遺跡です。竪穴住居跡等がありますが、位置の表示だけで発掘状況等わかりません。駐車場やトイレ等ありません
2021年01月17日 三ツ鱗▲如意成就
関戸城
曲輪の跡?と思えるのが存在するのは、関戸城の標識看板のある一角のみ。ラウンド式交差点辺りが関戸城が現存当時の山の頂きと比定されるかと。鎌倉へ向けての道を抑える目的も有り、この城が築城されただろうは、現地からの景色を眺めたら理解が出来ました。
2021年01月17日 アラン胆振守ポー
関戸城
「耳をすませば」の聖地がある城郭。今は住宅地であるが、広い本丸があったと推察される。15世紀から武蔵野平野を望む要所。所々に土塁が残っている
2020年12月15日 へこ
関戸城
聖蹟桜ヶ丘が最寄だがかなりある。しかも有名な坂道をのぼりきったとこなのでかなり時間と心に余裕を持った人でないと勧められない。
遺構も全く無いがジブリアニメの舞台になった風景は楽しめるのでそういう人には良いかも。
関戸城の周辺スポット情報
関戸古戦場跡(碑・説明板)
一ノ宮(碑・説明板)
古代東海道と丸山城案内板(碑・説明板)
伝・武者の屋敷(碑・説明板)
古市場(碑・説明板)
諏訪坂館(周辺城郭)
黒川丸山城(周辺城郭)
佐伯屋敷(周辺城郭)
観蔵院(寺社・史跡)
金比羅宮(寺社・史跡)
霞ノ関南木戸柵跡(寺社・史跡)
観音寺(寺社・史跡)
関戸合戦無縁供養塔(寺社・史跡)
九頭龍神社(寺社・史跡)
小野神社(寺社・史跡)
真明寺(寺社・史跡)
落川遺跡(寺社・史跡)
清鏡寺(寺社・史跡)
壽徳寺(寺社・史跡)
山神社(寺社・史跡)
武将塚 横溝八郎之墓(寺社・史跡)
入道塚(安保入道の墓)(寺社・史跡)
熊野神社(寺社・史跡)
原峰公園駐車場(駐車場)
壽徳寺駐車場(駐車場)
延命寺駐車場(駐車場)
とりで公園(その他)
沓切坂(その他)
現在は天守台(関戸城跡)の碑があるが周囲は宅地開発のため、特に遺構は確認出来ない。