根古屋城(ねごやじょう)
根古屋城の基本情報
通称・別名
- 竜谷城
所在地
- 埼玉県所沢市勝楽寺436他(私有地)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 山口高忠
築城年
- 室町時代後期?
主な改修者
- -
主な城主
- 山口氏
廃城年
- 不明
遺構
- 不明
指定文化財
- 県史跡(根古屋城跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
山口城(埼玉県所沢市)[2.6km]
真福寺城(東京都武蔵村山市)[2.7km]
北秋津城(埼玉県所沢市)[6.5km]
今井城(東京都青梅市)[8.9km]
藤橋城(東京都青梅市)[9.9km]
立川氏館(東京都立川市)[10.0km]
二宮城(東京都あきる野市)[10.3km]
高月城(東京都八王子市)[10.9km]
滝山城(東京都八王子市)[11.2km]
滝の城(埼玉県所沢市)[11.5km]
根古屋城の解説文
[引用元:Wikipedia「根古屋城」の項目]
根古屋城(ねごやじょう)は、埼玉県所沢市勝楽寺の山口貯水池(狭山湖)となっている人造湖の北岸にあった日本の城。埼玉県指定史跡[1]。
歴史・沿革
山口高治の子、山口高忠によって明徳・応永年間(1390年~1428年)に築城された。元々の城名は竜谷城や勝楽寺城と呼ばれていたが、後に山麓にあった集落名にちなんで根古屋城と名付けられたという。根古屋とは寝小屋という意味で、日本の各地に存在する字でもある。城主やその家臣らが平常時はこの集落や、山口城に居住し、有事の際にはこの根古屋城に籠るようになっていた。城の周辺には築城者である高忠から付けられた「小太郎坂」という地名があったと伝えられているが、現在では不明である。
父である山口高治は祖父・山口高実らとともに1383年に南朝の協力の下、上杉氏と戦ったが敗れ、山口城に火を放ち自害。
その後、上杉氏家臣の守護代大石氏に仕えた高忠によって山口城は室町時代末期に修復されたが、山口城はもともと館であったため、山口城とは別に根古屋城を築城し、山口城の城郭として機能させていたようだ。
高忠から5代目の山口高種の時、北条氏康の攻撃により根古屋城が落城し山口氏は後北条氏の家臣となった。 その後も根古屋城は改修されながらも山口氏の家臣である伏見小太郎(「新編武蔵風土記稿」による)や、後北条氏の家臣の山住彦三郎(「武蔵野話」「勝楽寺村地誌」「江戸名所図会」による)が城主として存続したとされる。 現在の東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷(当時の村山村の一部)の瀧田谷津・尾引谷一帯に、戦国時代末期、北条氏照に仕えたという村山党金子氏の一派村山土佐守義光がこの辺り一帯を治め、居館を構えたという伝承が残っている。 そのため、殿ケ谷と呼ばれる地名が残っている。
構造
大きさは南北150m、東西75m。二重土塁囲郭の城だった。山口氏による築城時は本郭と二の郭程度の小規模な構造であったが、先述の通り後北条氏支配下後も何度か改修されており、特に本郭と二の郭を取り囲む空堀は鉄砲の射程を考慮した対策として改修されたという。[2]最終的には8~9つの郭で構成された城となっていた。中田正光の『埼玉の古城址』によると、後述の影響で遺構の保存状態はかなり良好であり、 土塁、空堀、郭が見事な状態で残っているという。
その後
狭山丘陵の奥地に築城された為、近代になってからも開発による破壊はなく、山口貯水池建設の際も辛うじて水没を免れた[3]。現在狭山湖周辺は東京都水道局管理の都有地となっており、水資源の保護地域としてフェンスに囲まれている。一般人の立ち入りは制限されており、城跡も公開されていない[4]。昭和50年代初頭までは簡単な柵が張り巡らされていただけで、それを乗り越えて進入し城跡を見に行った見物者もいたと言われている[5]。
参考資料
- 中田正光著 埼玉の古城址(有峰書店新社)
- 所沢市史研究 第19号(1996年3月30日発行)
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根古屋城の口コミ情報
2023年11月12日 いれぶん武蔵守
村山土佐守義光像・説明板[根古屋城 碑・説明板]
村山土佐守像は、公道が間を貫く形を成している玉林寺公園の西側にあります。この公園はかって存在していた玉林寺跡地の一部ですが、玉林寺自体が村山土佐守館跡と目されていて、西端に水堀の名残りである可能性が考えられる水路が残っています。
2023年03月22日 マグロ常陸介祐平
大森氏館[根古屋城 周辺城郭]
旗本大森氏の陣屋がこの付近にあったようです。大森氏歴代の墓の北側から西側にL字型の低い土塁が確認できます。大森氏の菩提寺の崇厳寺のあった所でもあり、陣屋の土塁ではなく、お寺の土塁のようにも思われます。墓は入間市の文化財に指定されていますが、案内板には陣屋の記載はありません。
2022年09月26日 マグロ常陸介祐平
宮寺氏館[根古屋城 周辺城郭]
城址は西勝院となっていて山門の左手前と右側に土塁が残っています。右側の土塁は部分的ですがL字型で高さもありますが、土塁に沿って建物がある為、全体が見渡せません。説明板によると西側の水路は水堀の痕跡と推定されているようです。
2021年07月02日 長森原
村山城[根古屋城 周辺城郭]
武蔵七党の一つ、村山党は狭山丘陵を本拠地とした武士団で、鎌倉時代には仙波氏、金子氏、難波田氏等の多くの庶流が各地に進出して勢力を拡大していました。
山口城、根古屋城を築いた山口氏も村山党の一流です。
戦国時代の村山氏は後北条氏に仕えており、その1人、村山土佐守義光は現・瑞穂町の福正寺がある場所に城を構えていたと言われています。
遺構は特に残ってはいませんが、武蔵野台地を見渡せる眺望の良い高台の立地は、いかにも城址の雰囲気でした。
福正寺には村山土佐守一族のものと伝わる墓が残されています。
付近一帯には「殿ヶ谷」の地名が残り、居館があったと思われる麓の玉林寺公園近くには、村山土佐守の銅像と説明板が建てられていました。
2021年06月29日 長森原
勝楽寺(水没・移転)[根古屋城 寺社・史跡]
根古屋城の南麓にかつて存在した勝楽寺村は、現在ダム湖である狭山湖の水底に沈み、今視る地形は中世のそれとは一変しています。
ダム建設前の根古屋城周辺の地形は、明治陸軍が残した迅速測図によって知る事が可能です。
明治期の迅速測図を見ると、根古屋城は舌状の丘陵尾根を利用して築城されていた事が判り、南麓の勝楽寺村からの比高は約30m、勝楽寺村を通過する山口街道を眼下に見下ろす立地でした。
山口街道は所沢から山口氏の本城・山口城の北側を通って勝楽寺村の谷間に入り、根古屋城の真下で南西の村山方向へ分岐し福生へと続く道でした。根古屋城は山口氏の詰めの城であると同時に、福生・村山等から山口城につづく街道の監視城でもあったと思われます。
麓の勝楽寺村には、地名の由来となった勝楽寺が建立されており、鎌倉時代には十二坊を数える大寺院だったと言われています。
ダム建設の際に勝楽寺は仏蔵院勝楽寺と名を変えて所沢市山口に移転しました。
境内には旧地から移し運んだ文永3年(1266)の銘を持つ阿弥陀三尊種子板碑等が有ります。この板碑は高さ160cm、鎌倉中期のものとして所沢市内最大の板碑であり、往時の繁栄振りを偲ばせます。
2015年06月28日 やまと相模守
根古屋城
城基本情報にある勝楽寺という十条は、狭山湖をぐるっと取り囲んでいるようなので、あまり住所はあてにならない。狭山湖運動公園を北上し、ホテル街の方へ左道に進みます。
途中からダート道になりかなり溝がふかいのでスピード出すと議決権です。
途中トトロの森らしきものがありますが(公益財団法人がトトロの森のモデルなとなったと紹介しているようです)、地元民はトトロの森ではないと反対しています。
GPS地点からは北の見晴らしがよいです。
湖畔側は水道局の管理下で入れませんが、GPSより西側の早稲田大所沢キャンパスから緑の森博物館の間の地名が、堀之内なのでこのあたりにも城郭遺構があったと思われる。
Wikiによるとフェンスの向こう二重土塁の城郭があるとのこと。残念
2011年06月30日 野舘宮内少輔サラマンダー
根古屋城
2011年6月30日15時半頃
車で行きましたが近くの道路は無舗装で、車高の低い車は轍にはまってしまうので危険です
また付近に来ても写真のようにフェンスが張ってありキチンと把握する事は出来ません…
モヤモヤ感が残るので行くのはお勧め出来ません…
根古屋城の周辺スポット情報
村山土佐守義光像・説明板(碑・説明板)
近衛殿屋敷(仮)(周辺城郭)
村山城(周辺城郭)
宮寺氏館(周辺城郭)
大森氏館(周辺城郭)
勝楽寺(水没・移転)(寺社・史跡)
加藤塚(寺社・史跡)
玉林寺公園トイレ(トイレ)