山口城(やまぐちじょう)
山口城の基本情報
通称・別名
- 児泉城
所在地
- 埼玉県所沢市山口1517他
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 山口家継
築城年
- 平安時代後期?
主な改修者
- 山口高忠
主な城主
- 山口氏
廃城年
- 天正18年(1590)頃
遺構
- 土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(山口城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
根古屋城(埼玉県所沢市)[2.6km]
北秋津城(埼玉県所沢市)[4.0km]
真福寺城(東京都武蔵村山市)[4.1km]
滝の城(埼玉県所沢市)[9.1km]
玉川上水陣屋(東京都小金井市)[10.1km]
立川氏館(東京都立川市)[10.2km]
三田城(東京都国立市)[11.0km]
今井城(東京都青梅市)[11.5km]
城山砦(埼玉県狭山市)[12.0km]
二宮城(東京都あきる野市)[12.4km]
山口城の解説文
[引用元:Wikipedia「山口城」の項目]
山口城(やまぐちじょう)は、埼玉県所沢市山口にあった日本の城。1962年(昭和37年)10月1日付で埼玉県指定旧跡。狭山丘陵の標高79-90メートルの南斜面に所在し、南麓部は柳瀬川が流れている。
歴史・沿革
平安時代末期に武蔵七党村山党の山口家継によって築城された。以来代々山口氏の居城となる。
南北朝時代の応安元年(1368年)新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した武蔵平一揆のおり、山口高清は一揆の中心・河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。永徳3年(1383年)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。高治の子山口高忠は上杉氏家臣で武蔵国守護代の大石氏に従い、山口城の大改修を行ったが、もともと館であったため別個に勝楽寺村に根古屋城を築き、山口城の城郭としての機能を根古屋城に移した。
その後山口氏は上杉氏が没落すると、後北条氏に仕え武蔵国入間郡山口(所沢市山口)に40貫を知行していたが、1590年、小田原征伐で敗戦。廃城になった。
廃城後
以後は再度城郭として用いられることはなく、江戸期には敷地の大半は開拓されて畑地や住居、溜池などに転用された。明治以後は更に道路や鉄道が建設され、開発によってその大半が失われている。現在でも周辺の地名にはかつて城郭が在ったことに関連する地名が見られるものの、往時の遺構は半ば雑木林と化したごく一部しか残存せず、近年になって発掘調査が行われた他は所沢市教育委員会により城郭跡であることを示す碑と案内板が設置されたのみであった。
かろうじて残存していた城郭跡の敷地のうち、北西部は私有地として畑地等に利用され、南東部は至近の県道55号線の交差点に「山口城跡前」の名称がつけられたのみで長年に渡って放置されていたが、平成12年(2000年)になり商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画もあったものの、開発反対と遺構の保存を求める運動が起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることになった。現在は城郭跡であった部分の殆どは整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀のごく一部分が保存されている。
考古資料
遺構
現在は城郭跡は商業施設及び住宅地・畑地となっており、県道55号線を始めとした道路によって敷地は大きく3つ(西武狭山線によって分割された区域を含めると5つ)に分割された形となっている。土塁と空堀が残存していた区域はファッション市場サンキ所沢店の敷地となっており、遺構は道路と西武狭山線の線路沿いに「一号」から「三号」の分類名がつけられた土塁と空堀の一部がわずかに残るのみである。
また、「山口城跡」として保存されている場所から北西方向、所沢市立山口小学校から道路を挟んで南側の畑地と林でも土塁と空堀の遺構が残存していたことが確認されているが、現在ではその痕跡を確認することは困難である。この北西部の遺構跡については私有地のため、敷地内に立ち入ることはできない。
所沢市の発掘調査によると、現在の「山口城址前」交差点付近が本丸だったと推測されている。
観光
アクセス
- 西武狭山線下山口駅から徒歩10分程度
- ところバス南路線(山口循環コース)「山口城跡」停留所から徒歩1分
- 埼玉県道55号線 山口城跡前交差点より徒歩0分
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山口城の口コミ情報
2024年04月04日 マグロ常陸介祐平
山口城
昭和37年に埼玉県の旧跡に指定されたお城です。村山党の山口氏が平安時代末期に館として居住し始め、城郭として徐々に拡張して最終的には東西に400m、南北に200m程度のお城となったようです。現在は衣料スーパーが立っていますが、立派な土塁の一部が残っています。南北が丘陵となっている緩やかな谷に立地した館をベースにしているため守りに弱く感じます。詰城として丘陵の上部に根古屋城を築いています。
風土記稿の入間郡・多摩郡には山口領とされる村が多数見られ、山口氏は元々強大な勢力を誇っていたと思われますが、北条氏の傘下としては小田原衆所領役帳に他国衆40貫文と記載されており、軍役は5~6人程度で、城の規模とマッチしていません(戦国期の山口氏は、村山党の山口氏とは別流で、三河国額田城主岩岡氏(調べても出てこない)の子孫との説があります、埼玉苗字辞典の山口項四・五・六及び岩岡項に詳細)。勝手な想像ですが、城は北条氏の支城として機能して、有事には「清戸三番衆状」(興味のある方はネットで見てください)のような感じで近隣の地侍層が招集されたのではないかなどと想像してしまいます。
山口氏の菩提寺は1,5km程東にある瑞岩寺で、3基の墓塔が見られます(写真6枚目)。そのうちの1基は、永徳3年に足利氏満と戦って討死した山口高実の位牌と刻まれた紀年が一致した貴重ものです(風土記稿では懐疑的)。
また、瑞岩寺にはこの地を知行した旗本宇佐美氏と宇佐美氏の縁者で知行地を引き継いだ久貝氏の墓があります(写真8枚目)。久貝氏は山城国久貝城主の一族とされ、今川氏の旧臣で、枚方(大阪府)に本領的な知行地があり長尾陣屋を置いています。枚方の正俊寺が菩提寺となっていて、正式なお墓はそちらにあります。
このお城は、風土記稿の打越村塁蹟を見た段階で???となり、調べれば調べるほど迷路に迷い込める面白いお城です。
2024年01月10日 武蔵守マクシミリアン
山口城
その名もズバリ「山口城址通り」と西武鉄道狭山線(西武球場前〜西所沢)の踏切の脇に、切れ切れになった土塁が残っています。ほとんどが衣料品スーパー「サンキ」の敷地です。
通りを挟んでセブンイレブンがあるので、そこ車を止めて買い物してから、城跡の説明などを見て、早々に立ち去りました。
2023年12月04日 陸奥内大臣至宏
山口城
ファッション市場サンキと言う店舗と融合しており、在りし日の面影はほぼ無い。それでも土塁から微かに存在を推測することはできる。わざわざ見に行くほどでも無いが、近くへ行く機会があったらどうぞ。
2023年06月20日 ニワニワ
山口城
西武山口線が、山口城址を分断しての跡地であった。土塁部分がかすかに見られました。
2022年09月27日 里のシロクマ侍従
山口城
車両、人流とも多く写真が撮れません。土塁の一部を確認、説明板を見るのみ、街中の残骸を見るようです。
2022年07月18日 nob3i
山口城
スーパーの横、線路沿いに遺構が残っています
2022年06月27日 RED副将軍
山口城
武蔵七党のひとつ村山党の分家である山口氏の居館跡🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1368年、武蔵平一揆に際して山口高清は一揆方の河越氏に付き、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ落城。
上杉氏が没落すると後北条氏に仕えるも、1590年、小田原征伐で敗戦し廃城となりました。
見所
西武鉄道狭山線沿いに土塁が残ります。
しかし、市街化開発により遺構の大半は消失しています。
2022年04月20日 緒方弾正忠惟栄
山口城
城郭の面影はほぼないと言っていいと思います。近隣の城郭跡と同じく形が分かりにくく、言われないと分からないのご残念。。。
2022年01月07日 武蔵新城左衛門督
山口城
交差点の角に石碑はありますが、残念なことに残土の山のように見えます。
2012年03月19日 新田トロ
山口城
城址の碑や解説板より、その上にある看板の方が目立っています。雰囲気が台無しです。何とかならないものでしょうかね
2011年06月22日 野舘宮内少輔サラマンダー
山口城
2011年6月22日16時頃
石碑や看板のある第1号土塁からみて、南側の第2号土塁は大きく残されており、高さはサンキの地下駐車場と合わせて6〜7m、少し東にある第3号土塁は少し規模が小さく高さ5m位です。
金網があったため入れませんでしたが祠?社?のようなものがありました
東から見た時に灯篭が三基ありましたが、一基は崩れていました…
線路を渡って見てみると第2号土塁の形状が良くわかるかと思います
山口城の周辺スポット情報
山口稲荷大明神・土塁と堀跡(遺構・復元物)
小手指原古戦場跡の碑(碑・説明板)
北野天神社(寺社・史跡)
所沢市立埋蔵文化財調査センター(関連施設)
鎌倉街道小手指道跡(その他)