楯の城

楯の城([辛垣城  周辺城郭])

辛垣城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「楯の城」の地図・口コミがご覧頂けます。

「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。

楯の城の口コミ情報

2025年07月25日 マグロ常陸介祐平


日本城郭体系によると、青梅郷土史を出典として辛垣城の東木戸と称し、三田氏の部下が城砦を築いて守ってきたところであると伝えているとしています。三田氏が滅びると、武田氏の旧臣で、武田氏滅亡後に北条氏に仕えた田辺清右衛門惟良の館となり、北条氏滅亡後は徳川氏に仕え、この地にそのまま居住し、子の平四郎、孫の宇太夫と続いています(風土記稿と金剛寺の伝承と思われる)。寛政重修諸家譜では、田辺重真(=惟良)が武田氏滅亡後、甲斐で家康に仕官し、甲斐国小田原村の旧領を安堵され、小田原の役後に関東に移り(おそらく楯の城)甲斐金山奉行を勤めたとします。子の新兵衛守秀(惟重=平四郎)は、駿府城築城の際に材木切り出しの奉行を勤め、孫の安直(清右衛門惟良=宇太夫)は、祖父重真と青梅(楯の城)に住んでいた際に、鷹狩に来た家康に謁見し、秀忠に仕えるようになり、上総に180石を賜り、安房の代官や残物奉行、浅草御蔵奉行などを歴任したとしています。祖父と孫の名前が、混同していますが、どちらが正しいのでしょうか。風土記稿では、その後の話として、城跡は三田氏の旧臣で、北条氏照の感状など8通の文書が伝わる名主の野口氏に田辺氏から預けおかれ、宝暦11年(1761年)の伊奈氏家臣の豊嶋庄七による検地後には、畑となったとしています。

お城は、郭部分が青梅線により削られていますが、折れを伴う空堀や土塁がよく残り、土橋も確認出来ます。東西が自然地形の谷になっており、要害性を感じる立地となっています。勝手な想像ですが、江戸時代初期の旗本の陣屋で、廃城後に畑となるには、地形や立地に少々違和感も感じられ、麓に居館部があったのではないかと思えてしまいます。

地図を見るとすぐ楯の城の北側に「矢倉台(物見櫓)」があるので、歩道をそのまま登ってみました。墓地をすぎたところで道は途絶え、結局は直登することになりました(廻ればちゃんとした歩道があります)。砦という感じではなく、物見や狼煙台といった感じの狭い削平地でした(写真6,7枚目)。

また、楯の城の城門は野口氏の開基した明白院の山門として移築されています(写真8枚目)。青梅市内にある金剛寺には、田辺清右衛門惟良の画像が東京都の文化財として保存されています。寛政譜によると、重真・安直のどちらもこのお寺に埋葬されたことになっていますが、死亡時期や享年など、客観的には安直の画像のように思えます。

2025年06月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


東京都青梅市の日向和田にある【楯の城】♪城の直下には青梅街道が走り、それと並行する様に多摩川が流れます♪山からの尾根の先端部で、東西を巨大な谷で守られています♪現在、その先端部は住宅地になっていますが、高台であり、ココもまた城域でしょう♪

武蔵・杣保の地を治めた三田氏関連城郭となります。戦国時代の関東ですが、越後の上杉謙信と、小田原の後北条氏が覇権を争います♪上杉謙信が関東へ出張ると、周辺の諸大名や国衆は、上杉謙信に従い、越後に帰ると、後北条氏に従う、という事が続きます。これにより、関東における上杉謙信の勢力は、次第に切り崩されていきました。後北条氏が関東に勢力を拡大する中、三田氏もまた、当初は従属していますが、やがて山内上杉氏との旧来の関係を重んじて、独自の立場を取り始めます。この為、三田弾正忠綱秀は後北条氏と対立し、勝沼城を捨てて奥多摩の辛垣城に拠り、抗戦していくという訳であります。という事は、再三の話であります。この様な不安定な情勢の中で、杣保の地の奥地へと追いやられていく訳です。その過程の中で出来ていったのが辛垣城であり、桝形山城であり、日向和田要害山城であり、矢倉台であり、そしてこの楯の城なのでしょう。

楯の城は、永禄5年頃(1562年)に三田弾正忠綱秀が築城したと伝わります。別名を館の城、東木戸と呼ばれています。東木戸とはまさに、三田氏の詰城である辛垣城から見て、東側の要的な意味合いなのでしょう。東側の虎口、番所であり、青梅街道を監視、封鎖する役割を果たした事が想像できます。
因みに、辛垣城の付近、二保尾に西木戸と言う場所も残ります。東木戸と西木戸、それぞれ辛垣城を守ったのでしょう。三田氏領の入口を守る木戸として、重臣が守備していたと云われます。

永禄6年(1563年)辛垣城の落城により、三田弾正忠綱秀は逃亡の末に自刃し、平将門の後裔を称する三田氏の嫡流は滅んでいます。但し、三田弾正忠綱秀とは同族にあたる、三田氏の子孫で、徳川氏旗本となった三田氏や、三田三河守某の子・綱勝は、北条氏照に属して、下総国小山城を守ったりもしています。
実際、北条氏照に仕えた者の中で、三田氏旧臣の師岡山城守将景は、勝沼城を与えられています。その頃の楯の城も、その支配下にあったと思われますが、甲斐国の武田氏が滅ぼされた天正10年(1582年)には、武田氏の旧臣という田辺清右衛門惟良が北条氏照に仕え、楯の城へ移り住んだと伝わります。
田辺氏は、塩山に屋敷を構えた黒川金山衆の中にその名があり、天正18年(1590年)後北条氏が滅亡すると、田辺清右衛門惟良は、新しい関東の国主となった徳川家康に仕え、この地で没しています。

楯の城の屋敷門は、明白院の山門として移築されたと伝わります♪

東西を深い谷で守られて、南側は空堀、虎口、土塁と良好に遺構を残します♪

2025年04月10日 ᴿᴱᴰ 副将軍


クランクする空堀が見事な辛垣城の支城

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。1561年頃に三田綱秀により築かれたと云われます。
当地を支配していた三田綱秀は、1561年に北条氏の侵攻に対して居城であった勝沼城を放棄し山上にある辛垣城に移ります。楯の城は辛垣城の支城として築かれたと考えられています。
しかし1563年には盾の城は北条氏に攻略され、
辛垣城も落城。三田氏は滅亡します。
その後、北条氏家臣の田辺惟良が入城。武田氏の備えとして存続させました。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏滅亡すると楯の城も廃城となりました。

見所
南に多摩川本流、西に西ノ沢、東にタテノ沢に挟まれた要害に築かれています。
青梅線、青梅街道、宅地化により消失している部分もありますが、宮ノ平駅東の踏切から丘陵を登ると土塁と空掘が残ります。
空堀はクランクし櫓台状に張り出し横矢が掛かっています。

2020年09月30日 ️…
『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図絵』によると、田辺清右衛門やその子孫が住んだ場所と伝えられています。
それぞれの地誌の中で、移住時期や経緯について説明が若干異なっているため、詳細は明らかになっていません。
東方の勝沼城と西北の辛垣城、桝形山城の中間におる楯の城は、番所や狼煙等の合図の中継点になったと考えられています。

企画展 中世青梅の城館跡 ~静かに眠る杣保の城~ パンフレットより

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore