女影原古戦場跡
女影原古戦場跡([城山砦 碑・説明板])
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女影原古戦場跡の口コミ情報
2022年08月23日 国府左京大夫城介
女影原(おなかげがはら)の戦いは中先代の乱における戦いの一つです。
建武2年(1335)に、信濃に潜伏していた北条高時の遺児北条時行は、諏訪頼重らに擁立されて挙兵します。信濃の守護小笠原貞宗や、国司清原真人某を撃破し、関東へ進撃します。
そして、同年7月20日に、女影ヶ原にて、足利直義が派遣した関東廂番(鎌倉将軍府の近衛部隊)である渋川義季・岩松経家の軍と激突します。勢いにのる北条時行方により、戦は敗北し、7月22日に渋川義季・岩松経家は自刃します。その後、小手指ヶ原、井手の沢において、鎌倉将軍府の軍勢を続けて破り、北条時行は7月25日に鎌倉を奪還します。しかし、足利尊氏によって20日程度で鎌倉を奪い返されてしまい、中先代の乱は終結します。
霞野神社あたりが、女影原古戦場と言われています。
周囲の地形は往時と多少の違いはあると思いますが、小畔川の支流を挟んで、両軍は対峙したと思われます。地形的には、渋川・岩松軍が陣取ったと思われる南側がやや高くなっています。
因みに、渋川義季の娘・渋川幸子は、二代将軍足利義詮の正室となります。ただし、彼女は足利義満の側室の子でありますが、養母として義満を育て、義詮の死後、若年で義満が継ぐと、その後見を務め、「大方禅尼」「大御所渋川殿」と呼ばれています。
丁度、今週(2022/8/22の週)のジャ〇プの「逃げ上〇の若君」で、この女影原の戦いが始まり、どのような展開になるのか楽しみにしています。
【アクセス】
武蔵高萩駅から徒歩10分程。
【写真】
①石碑
②説明版
③霞野神社
④小畔川の支流(右側の林の部分が霞野神社)
⑤霞野神社入口から北側を望む