大串次郎館
大串次郎館([大堀山城 周辺城郭])
大堀山城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「大串次郎館」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
大串次郎館の口コミ情報
2026年09月03日 マグロ常陸介祐平
大串次郎重親の館と伝わります。大串氏は武蔵七党のひとつ横山党の出身で、由木保経の次男の孝保が初代となり、重親は孝保の子となります。烏帽子親は畠山重忠で、重親の「重」は偏諱を受けたものです。宇治川の戦いでは、渡河中に溺れてしまい、畠山重忠に投げ飛ばされて助けられ、敵陣前に落ちたことから徒立ちの先陣となり、敵味方から笑いが起こるエピソードがあります。お城近くの市野川に架かる橋の名は「徒歩橋」で、このエピソードから名付けられたのかもしれません。重親は奥州合戦でも重忠に従い参陣し、藤原国衡を討ち取ることに貢献しています。その後の大串氏や館に関しては、ほとんどわかっていないようですが、文明12年(1480年)の太田道灌状に大串ノ弥七郎の名が見られ、長尾景春の乱において秩父高佐須城の情報を知らせ、貢献する活躍が見られます。また、水谷家譜等には天文8年間に水谷蟠龍斎らが古河公方足利晴氏に背いた吉見城主大串氏を討ったと記されているようで、お城は戦国期まで使用されていた可能性もあります。
徒歩橋から土手上の細い舗装道を東に進むと、すれ違いの為に車の頭を退避させる構造が2ヶ所あり、2つ目の場所に背丈以上の草の中に30cm程の獣道が見られます。獣道を抜け土手下に降りると、かなり密集した竹藪となります。覗き込むと土塁らしきが見えるので、強引に突入しました。はっきりした土塁があり、東側に延びています。西側はやや広く角形の構造(櫓台?)で、その先は細くしぼんでいきます。はっきりとした造りの為、後世に別の目的で造られた可能性もあるように思われます。先陣様は、近世の陣屋跡の可能性を口コミされています。
風土記稿には大串次郎重親陣屋跡として「村の東にあり。少し高き所にして、今は農民の居家となり、その界限詳ならず。」としていますが、現地は市野川の河川敷で、高台ではなく民家が建てられる場所でもなく、本当にこの場所に館があったのか疑問です。集落は土手の反対側になります。埋蔵文化財包蔵地としては毘沙門堂付近の広い範囲となっていますが、村の東ではありません。
400m程北西にある金蔵院(毘沙門堂)は大串次郎重親の創建とされ、山門近くと西側の畑に応安6年(1373年)と永和2年(1376年)の銘のある宝篋印塔が見られます(県指定史跡)。畑にある永和2年のものは重親の墓と伝わっており、風土記稿にも取り上げられていますが、重親の死亡時期と150年程度の開きがあります。地下からは骨壷も見つかっており、供養塔ではなく墓であることがわかっています。子孫のものでしょうか。
2020年12月28日 拓之助弾正少弼
武蔵七党の横山党に属した平安時代後期の武士、大串次郎重親の館跡です。吉見町史」によると「大串陣屋」と称された約1ヘクタールの台地が所在し、江戸時代からは下氏が居住したと記されています。
現在は堤防内に竹藪かあり堀跡状の地形、高さ1mほどの「土塁」が確認されますが、これは近世の大串陣屋の構掘の一部かもしれませんが不明です。









