中島将監館
中島将監館([赤岩城 周辺城郭])
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中島将監館の口コミ情報
2024年07月18日 マグロ常陸介祐平
「藤原秀郷公誕生之地」の石碑の建つ舞木城から2kmほど北にある館です。土塁の痕跡に見えなくもない土盛りに「中島将監屋敷」の石碑が建っています。
石碑の裏面には長文となりますが「中島将監屋敷跡は、面積約一町歩(一ヘクタール)、西南は用水路で区画され(昔は溝堀)、北西には溝堀の旧跡がある平林でしたが、明治四十一年(1908)に畑地になったといわれています。ここに、宝亀年間(770~781)頃、中島三郎太郎家綱という郷士が住み、富子という美しい娘がいました。その頃、都から藤原小黒麻呂が諸国巡検のために上野国に入り、この中島館に滞在しました。その時、富子との間に知勇兼備の男子が生まれ、やがてその子孫が広く佐貫荘一円(邑楽・館林地方)を治めていたと伝えられています。」とあります。周辺には古墳が散在しており、古くから栄えた土地であることは間違いないと思いますが、武士の発生前の奈良時代の館というのは無理がありそうです。日本城郭大系の舞木館の項では、舞木城ではなく、こちらが舞木駿河守持広の館としています。
大変不思議に思えるのは、佐貫氏の先祖を秀郷ではなく「小黒麻呂」にしていることです。館林城主の赤井氏(舞木氏はその庶流)は、小黒麻呂の後裔説もあるようなので(他に文屋説・清和源氏説・秀郷流佐貫一族説)、石碑の文中の佐貫荘を治めた一族は佐貫氏(生まれた子は佐貫太郎資高とされる)ではなく赤井氏(舞木氏)を指すのかもしれません。ただし、当の赤井氏は、小黒麻呂(鳥養流)でも秀郷(魚名流)でもなく長良(真楯流)を祭神とした長良神社(地元では大蛇退治の伝説がある)を創建しており、長良神社の分布は赤井氏の勢力範囲と近いものがあります。ややこしいですね。