越ヶ谷御殿(こしがやごてん)

越ヶ谷御殿の基本情報

通称・別名

(会田出羽屋敷)

所在地

埼玉県越谷市御殿町3(地図は石碑の場所を示す)

旧国名

武蔵国

分類・構造

御殿

天守構造

なし

築城主

伊奈忠次

築城年

慶長9年(1604)

主な改修者

主な城主

徳川氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

市史跡(越ヶ谷御殿跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

宇田家屋敷(埼玉県越谷市)[3.3km]
赤山城(埼玉県川口市)[6.3km]
代山城(埼玉県さいたま市)[7.1km]
和井田氏屋敷(埼玉県八潮市)[7.1km]
西袋陣屋(埼玉県八潮市)[9.0km]
岩槻城(埼玉県さいたま市)[9.2km]
山崎城(千葉県野田市)[9.6km]
春日部氏館(埼玉県春日部市)[10.2km]
領ヶ谷城(埼玉県さいたま市)[10.8km]
金野井城(千葉県野田市)[10.8km]

越ヶ谷御殿の解説文



越ヶ谷宿(こしがやじゅく)は、江戸時代に整備された奥州街道および日光街道の宿場町(宿駅)の一つである。

概要 

越ヶ谷宿は、江戸・日本橋から数えて3番目[1]の日光街道および奥州街道の宿場町であり、江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。前宿・草加宿から1里28町、次宿・粕壁宿へ2里30町あり、奥州街道(後の日光街道)の整備に伴い成立した。元荒川右岸の越ヶ谷(武蔵国)と左岸の大沢(武蔵国)の二つの町を合わせた範囲の宿場町であった。その規模は千住宿に次いだ。越ヶ谷側には久伊豆神社があり、大沢側には下総国の一之宮香取神社が鎮座していた。治水工事により元荒川の流路が変更されたため、久伊豆神社は元荒川の越ヶ谷宿の対岸となっている。

慶長7年(1602年)に奥州街道・日光街道が整備され始め、元和3年(1617年)の日光東照宮建立以降、領主通行の増大に伴い、道路や宿駅・助郷の整備が進められた。 越ヶ谷宿は江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の正式な宿場となった。 元荒川の対岸には越ヶ谷の伝馬上の助郷村として、既に慶長17年(1612年)以前に武蔵国埼西郡(埼玉郡)に編入されていた新方庄に含まれる大沢に大沢宿が成立した。越ヶ谷宿の開発は、参勤交代制の制定、日光東照宮の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の両者により完成した。

近隣に河岸場があり、蒲生村(越谷市)に藤助河岸があった。江戸時代以後、明治・大正期にも大量の出荷や取引が行われていた。

越ヶ谷宿では火災や地震の被害の記録があり、都市的で濃密な集住であるために大火、また、安政大地震の被害の記録が残されている。

沿革 

File:Hiroshige - Koshigaya.jpg|thumb|250px|歌川広重『富士三十六景 武蔵越かや在』

背景

安政六年(1858年)刊行。 古代より近世初期まで、越ヶ谷地域は利根川の本流であった現・元荒川を境に、左岸は下総国葛飾郡、右岸は武蔵国埼玉郡(埼(崎)西郡)に区画されていた。現・元荒川、古隅田川、大落古利根川で囲まれた地域は、下総国葛飾郡下河辺荘のうち新方庄に属した。南北朝時代までは藤原秀郷の子孫である下野国小山氏の一門、下河辺氏によって開発された八条院領の寄進系荘園であった。元荒川以南の地域は、古来より武蔵国埼玉郡に属する。平安時代の長久・寛徳年間(1040年〜)、野与党の一族、古志賀谷為基や大相模能高が定住し、野与党の氏神久伊豆神社を祀ったと伝えられる[2]久伊豆神社は 、中世武士団・武蔵七党のうち、野与党や私市党の崇敬を受け、後に越ヶ谷の領主的土豪会田家の氏神となる[3]

中世になると、越ヶ谷側は武蔵国埼(崎)西郡、大沢側は下総国葛飾郡下河辺荘(新方庄)となり、現・元荒川は国境であった。そのため、越ヶ谷側は武蔵国の久伊豆神社があり、大沢側には下総国の一の宮香取神社が鎮座していた。 また、既に鎌倉時代頃には六斎市の立つ町として栄えていた記述があり、猿島街道、赤山街道が東西南北に貫通する交通の要衝でもあった。このように、越ヶ谷宿は、中世末期から、政治的、経済的、信仰的に中心集落として賑わっていたことから、慶長7年(1584年)頃から奥州往還宿指定へとつながっていった。

越ヶ谷宿の開発

奥州・日光街道の開発

慶長7年(1602年)から奥州街道・日光街道が整備され始め、元和3年(1617年)日光東照宮建立以降、領主通行の増大に伴い、道路や宿駅・助郷の整備が進められた[4]。寛永2年(1625年)、三野宮・大道・大竹・恩間が岩槻藩領になり、寛文2年(1662年)以降、見田方・南百・千疋・四条・麦塚・柿ノ木が東方忍藩領になる[5]。あとの地域はいわゆる「天領」であり、関東郡代の支配地域であった。

奥州道の経路は、「はじめ千住(現・東京都足立区)から淵江(同上)から利根川(現・中川)と荒川(現・元荒川)の自然堤防上を八条(現・八潮市)・大相模・瓦曾根を経て越ヶ谷へという道筋であった」が、慶長17年頃、越ヶ谷辺りの奥州道の整備が進められた。

越ヶ谷宿の指定

越ヶ谷宿は、江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の宿場に取立てられ、正式な宿場となった。 元荒川の対岸である大沢村も町場化し、越ヶ谷の伝馬上の助郷村として大沢宿が成立しており、慶安3年(1650年)には越ヶ谷宿・大沢宿に地子免許が与えられていた [6] [7]

両町の伝馬機構は合体され、交通上は両町合わせて越ヶ谷宿とされた[8]

慶長17年(1612年)以前には、現元荒川の左岸の大沢は、既に、下総国葛飾郡から武蔵国埼西郡(埼玉郡)に編入されていた。

越ヶ谷宿の開発は、寛永12年(1635年)の参勤交代制の制定、寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)越ヶ谷宿は、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の両者により完成したという[9]。江戸時代初期、慶安3年(1650年)に越ヶ谷・大沢宿などに地子免許を与えた[10]。元禄9年(1696年)には、越ヶ谷と大沢の規模は、伝馬制に伴い、越ケ谷、大沢両町に各5,000坪の地子免がなされ、越ヶ谷9町20間、大沢9町27間とほぼ均等の町場が形成されたという。。

繁栄

越ヶ谷御殿

越ヶ谷御殿は、慶長9年(1604年)に徳川家康によって設けられた[11]。この地には、当初、越ヶ谷郷の土豪・会田出羽の陣屋があったが、家康により、増林にあった御茶屋御殿を移したといわれている。

この辺りは元荒川沿い低湿地地帯で、野鳥が多く、家康や徳川秀忠も御殿に休泊し、民情視察を兼ねて鷹狩りを重ねていた。『徳川実紀』によると、慶安2年(1649年)、徳川家綱の時、日光社参の際、休泊に利用されたという[12]

明暦3年(1657年)、明暦の大火により江戸城が焼失したため、江戸城二の丸に移された[13]

跡地は畑地として開発され、現在に至る。「御殿」の名はその地名として残り、住居表示施行の際に「御殿町」として正式な地名となっている。

越ヶ谷と大沢の宿場町

越ヶ谷と大沢では、当初、越ヶ谷町の本陣、問屋役持回りなど宿場の要職は会田一族に集中していた。安永2年(1773年)越ヶ谷町と大沢町両町惣百姓大評定の上、伝馬業務両町合体を決めた。越ヶ谷宿の宿駅機構の改革とその伝統的権威の多くの失墜のため、、安永3年(1774年)に、越ヶ谷宿の本陣は越ヶ谷町の会田八右衛門から、大沢町の福井家へ移った。そのため、越ヶ谷宿の町場構造は、越ヶ谷町に商店の集中が見られ、大沢町に旅籠機能の集中が見られるという特徴的な町構造を造った。

越ヶ谷と大沢の総戸数の記録があり、寛延3年(1750年)の記録によると、大沢町が総戸数は383軒である。百姓63軒、地借30軒、店借262軒であった[14]。 『日光道中宿村大概帳』によると、越ヶ谷町は総戸数542軒である。百姓125軒、地借、店借412軒であった[15]

飯盛り旅籠

越ヶ谷宿の旅籠数は、本陣・脇本陣を含めて57軒(天保年間)あった。そのうち、飯盛旅籠は、境板橋の右手一帯(越ヶ谷)に23軒を集中し、千住宿を除いた日光街道に於いて最大の花街を形成したという。

宿駅 

越ヶ谷宿の行政単位は、越ヶ谷町が本町、中町、新町に、大沢町が上宿、中宿、新宿に分けられていた。元禄9年(1696年)、越ヶ谷、大沢両町に各5,000坪宛の地子の免許がなされた。 地子割当は、越ヶ谷町が、伝馬役百姓120軒、歩行役百姓21軒で、大沢町が、伝馬役百姓73軒、歩行役百姓 5 軒であった。

『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)『越ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒が設けられていた。宿内の家数は1,005軒、人口は4,603人であった。

物資流通・商業施設 

藤助河岸

藤助河岸は、蒲生村(越谷市)にあった河岸場であった。藤助河岸は、綾瀬川河岸とも蒲生河岸とも呼ばれていた。藤助河岸場は綾瀬川の左岸、出羽堀の合流地に置かれていた。「藤助河岸」の名称の由来は「河岸問屋高橋家の当主名が藤助であったため」といわれている。近隣の村から運ばれた年貢米の津出し(出荷)されていた。この河岸場が栄えた時期は天和・元禄時代であった。『武蔵国郡村誌』によると、河岸場の所有舟は、「似艜船10 艘、川下小舟19艘、伝馬造茶船10艘」との記述がある。

江戸時代以後、明治・大正期にも大量の出荷や取引が行われていたが、大正9年に東武鉄道に越谷駅が設立されると、次第に鉄道輸送に取って代わられ、昭和初期には廃業したという。

災害 

越ヶ谷宿の大火

越ヶ谷宿は、都市的で濃密な集住であるために大火の危険にさらされた。寛政6年(1794年)1月では、越ヶ谷町167軒焼失した。また、3月では大沢町大火・本陣ほか197軒焼失等多数の大火が起こっている。

安政大地震の被害

安政大地震は、安政2年10月2日(1855年11月11日)に、東京湾北部を震源とした直下地震があり、古文書から越谷村では震度は5程度とされる。

この地震による被害は、「江戸に近い越谷市越ヶ谷(越谷村)では「卯十一 月十二日快晴夜四ッ時近来稀成大地震、前蔵大瑕 (きず)二三ヶ所鉢巻平は少々出、頭蔵は四方鉢巻 平壁弐尺通り落、家根瓦難無、物置ひさし落」(『越谷市史』)があり、また、「私共村ゝ之儀 当月 二日夜地震ニ而 家毎ニ軒壁等震崩し 其外建具類 共殊之外破損多く 此上御鷹野御用ニ而御泊り等被 仰付候茂当分之内者差支勝与奉存候間此段御届可 申上候」(『埼玉県立図書館所蔵文書』)と、大間野村、越谷村、七左衛門村の名主から代官所へ報告されている。これらの文書から、越谷村では安政大地震による被害は大きくなかったとされている。

名所・旧跡 

名所・旧跡
  • 建長元年板碑[16]
  • 越ヶ谷御殿跡[17]
  • 越ヶ谷久伊豆神社
  • 大沢香取神社[18]
  • 木下半助商店 - 越谷市で初めて国登録有形文化財に指定された[19][20]

交通 

隣の宿

  • 日光街道、奥州街道
草加宿 - 越ヶ谷宿 - 粕壁宿

参考資料 

一次資料
  • 越谷市、『越谷市史』 第4巻 (史料 2)、越谷市、1972年、 (福井権右衛門『越ヶ谷瓜の蔓』、『大沢猫の爪』 文化末〜文政初年 (1816年 〜 1817年)を所蔵)
  • 『大沢町古馬函』
  • 『新編武蔵風土記稿』(1810年起稿~1830年完成)
    • 【書籍】「新編武蔵風土記稿」|publisher=内務省地理局|date=1884-6|ref=}}
  • 『武蔵田園簿』正保年間(1644年〜1648年)
  • 天保14年(1843)『日光道中宿村大概帳』

和書
  • 阿部昭、「享保の日光社参における公儀御用の編成」、『人文学会紀要』26、国士舘大学文学部人文学会 編、1993年
  • 【書籍】「比企歴史研究において重要な観音寺遺跡」
  • 越谷市、『越谷市史』 第4巻 (史料 2)、越谷市、1972年。
  • 越ヶ谷市史編纂委員会.『越ヶ谷ふるさと散歩(上)』、越ヶ谷市市史編纂室、1979年。
  • 【書籍】「中川水系 Ⅲ人文」
  • 【書籍】「わが町の歴史 越谷」
  • 中島義一. "徳川将軍家御殿の歴史地理的考察 (第 3 報): 日光社参の場合." 駒澤地理 15 、駒澤大学、1979年: 53-67頁。
  • 【書籍】「安政江戸地震の首都圏の被害」
  • 【書籍】「舟運史と環境からみた綾瀬川」
  • 【書籍】「明治大科学技術研究所紀要」
  • 山崎善司、『四丁目会田太郎兵衛家の先祖に付いて』、越谷市郷土研究会、1991年。
  • 有限会社 平凡社地方資料センター編「越ヶ谷宿」『日本歴史地名体系11巻 埼玉県の地名』初版、1993年、1033-1034頁。

WEB
  • こしがやiiネット(公開終了)

越ヶ谷御殿の口コミ情報

2024年09月23日 マグロ常陸介祐平
越ヶ谷御殿



徳川家康が、鷹狩りに使用する為に建てた御殿で、慶長9年に林泉寺(増林)近くにあった御殿を移したようです(御殿ができる前に越谷市内大聖寺に家康は宿泊、文化財の夜具が伝わる)。明暦の大火(1657年)で御殿を解体し江戸城二の丸に移し、跡地は御林(免税地)と畑地になっています。

元々この地の土豪会田出羽の屋敷を御殿にしたとされていますが、石碑から100m程南のマンション付近を発掘調査した結果は、鎌倉時代から江戸時代の複合遺跡で、会田出羽屋敷に関係すると思われるものは出たものの、御殿に関するものは検出されなかったようです。

会田氏は系図によると、信州海野氏の一族で、代々小笠原氏に仕え、小笠原氏が武田氏に敗れると関東に下り北条氏に仕えています。小田原衆所領役帳に載る葛西地区や神田に所領を持つ会田中務丞の弟の家系で、越ヶ谷初代の出羽資清は、太田三楽斎資正の偏諱を授けられたとされます。会田氏本流はその後旗本に取り立てられ、500石の中級旗本として存続しています。また、4代目資重の三男の資忠は寛政重修諸家譜に「越谷に住し子孫民間にあり」と載るように越ヶ谷宿で本陣を務めています。

御殿の元荒川の対岸には、太田道灌の伯父専阿源照が開山とされる天嶽寺(写真7枚目)がありますが、北条氏の城砦とも伝わるようで、参道付近やお隣の久伊豆神社(写真8枚目)の境目には、遺構では無いとは思われますが土塁状の土盛りや堀状の溝が見られます(写真4,5,6枚目)。天嶽寺は、会田氏の菩提寺でもあり、歴代の墓があります。

2024年09月22日 マグロ常陸介祐平
新方城[越ヶ谷御殿  周辺城郭]



「越谷における中世の城館跡」に向畑陣屋跡地として記載されています。向畑城同様に新方氏の居館のようです。古利根川の土砂堆積によってできた広い畑地に位置し、堀跡かもしれない水路が見られます。水路は古利根川に通じ舟運に使われていたようです。もっとも、耕作地になる前は、小高い丘に木が茂り山のようだったといわれているようですので、遺構に通じるものなのか微妙な感じです。北水路近くに陶器片が出土するというので昭和61年に発掘したら近年の陶器片の捨場であったようです。

近くの無量院は、新方氏と関係の深い清浄院の末寺です。お寺と隣接する香取神社の背後には、古利根川の自然堤防かもしれませんが、土盛り(写真8枚目)が見られます。また、お寺と神社の間に3m程度の幅がある溝が見られますが、舟の通る水路の名残かもしれません。

2024年09月22日 マグロ常陸介祐平
向畑城[越ヶ谷御殿  周辺城郭]



野与党新方氏の城と伝わります。新方氏と関係の深い清浄院に伝わる栄広山由緒著聞書によると、文亀四年(1504年)新方頼希の守る向畑城を八条(八潮市付近)の八条惟茂が攻め新方領を奪取するも、頼希の兄で清浄院の住職高賢が向畑城を守る八条氏の一族別府三郎右衛門を破り新方領を回復したと記されているようです。新方側には渋江氏、八条側には大相模氏など、野与党同士が争っているのが伝わります。

尚、どうゆう経緯なのかよく分かりませんが、栄広山由緒著聞書の著者は、藤田信吉(西方藩主)とされています。

城址は畑となり、遺構は残っていません。

また、新方氏の伝説として、江戸時代後期に越谷宿の本陣の福井氏が書いた「大沢猫の爪」に、「向畑耕地の陣屋構え場所に新方三郎と郎党の家があったが、年末の雪の日に餅ヲ搗いていたところを小田原勢に攻撃され落城、三郎は法師武者となり寺に入り、郎党は百姓になった。このため向畑では年内に餅を搗かず、正月三が日に搗く習わしがある」と書かれているようです。

確実な資料には表れない新方氏ですが、数多くの伝承・伝説が残ります。

2024年09月16日 マグロ常陸介祐平
大河戸氏館[越ヶ谷御殿  周辺城郭]



秀郷流の大河戸氏は、伊勢神宮の大河土御厨の荘官で、大河戸太郎広行は兄弟と共に三浦義澄に伴われ源頼朝に伺候し、源平合戦で活躍しています。三浦義明の娘を妻とし、有力な御家人となっています。

大川戸神明神社や光厳寺付近が館の比定地とされていますが、平安後期から鎌倉時代の館ということもあり、明確な遺構は残っていません。神明神社背後には微妙な土盛り(写真2,3枚目)、光厳寺山門脇には微妙な溝(写真5枚目)が見られますがこじつけですね。光厳寺には大河戸氏と関連のありそうな正安(鎌倉時代)に作られた埼玉県指定史跡の「帰依仏塔」が見られます。

2024年05月05日 肉肉肉野菜炒め
越ヶ谷御殿



住宅地の細い道の奥、川沿いに碑がありました。

2024年05月03日 マグロ常陸介祐平
一乗院[越ヶ谷御殿  寺社・史跡]



一乗院は、北条政子の開基とされる古刹で、旧本堂は徳川家康が神奈川宿に建てた神奈川御殿の一枚板戸や欄間などの建具が使用され、建て替え後も越谷市の文化財として保管されています。来歴も、1697年に綱吉の母の桂昌院が、岩槻の金剛院に寄進したものを一乗院が譲り受けたとわかっているようです。
神奈川御殿の廃止が1655年ですので、40年以上どこかで保管されていたことになります。

先日、永原御殿(永原城)の口コミに発掘しても遺物が出ないと書き込みされていましたが、関東では有効活用されていたようです。
ちなみに地元越谷御殿の建具は、江戸城二ノ丸に移されたようです。

お寺の裏にあるお宅には、後世のものかもしれませんが、池につながる構堀がみられ、由緒がありそうな感じでした。

2024年04月22日 マグロ常陸介祐平
杉浦陣屋[越ヶ谷御殿  周辺城郭]



杉浦陣屋は、徳川家康が上杉攻めに向かう途中石田三成の挙兵により小山から引き返す際に、伊奈忠次に命じて造らせた御殿で、実際の普請は忠次に仕える杉浦定政が行っています。結局、御殿は使用されず忠次に下賜され、後に忠次から定政に下賜されて、以降杉浦氏の居館となっています。伊奈氏の小室藩が断絶すると定政の子の定次は浪人(浪人後も陣屋に住み続け由緒をもって屋敷地は除地(免税地))しますが、七代目勝明は赤山の関東郡代伊奈氏に25俵野扶持5人扶持で仕官しています(伊奈氏改易後に帰農、改易時は入牢するなど多難)。

陣屋は平成まで残っていましたが、残念ながらホームセンター建設の為、現在遺構は残っていません。杉浦氏は現在もホームセンターの1画にお住いです。

近くの妙楽寺の門前(山門ではなく車道の入口)には家康が座ったとされる「家康の腰掛け石」(写真3,4枚目)が残っています。

定政の父親は、竹ヶ鼻城主で岐阜城主織田秀信の家老の杉浦重勝(定元)で、関ヶ原の戦いでは西軍として、池田輝政・福島正則らの攻撃を受け討死しています(竹ヶ鼻城の戦い)。重勝は、忠義の為に西軍側に留まりましたが、家康の世が来ることを見越して、家康家臣の伊奈忠次に息子を仕えさせています(忠次の妻と定政の妻は姉妹)。

杉浦家には、家康がこの陣屋を構築することを指示した自筆の坪割書や秀吉による小田原攻めの際に伊達政宗が浅野長吉に宛た書状(なんで持っているのか分からないらしい)が伝わっています。

杉浦家の菩提寺は、古利根川の対岸にある清浄寺で、歴代の墓(写真5枚目)があります。ご住職は大変気さくな方で、杉浦家の歴史や鎌倉時代からこの地を治めた新方氏のお話し(新方氏の支配地(新方領
)と檀家の分布に共通点がある等)などを聞かせて頂きました。また、阿弥陀仏(平安時代のもので市の文化財)や閻魔像、涅槃図、歴代将軍の位牌なども拝観されて頂き貴重な時間を過ごすことが出来ました。

2023年10月21日 八咫烏紀伊守鉄龍
越ヶ谷御殿



川沿いに石碑があります。地元の猫さんがひなたぼっこしてました!

2022年05月21日 ぬっぴー上総介
越ヶ谷御殿

だいぶ道が難しいです。元荒川ぞいにあります。森(?)を進み、開けたところに石碑があります。

2021年04月07日 くるみ丸
越ヶ谷御殿



越谷駅から越谷宿を通る道の拡張工事近くなのか、宿場町の面影もあと僅か元荒川の堤の上に、立派な記念碑ありそれしかありませんでした

2017年02月06日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
越ヶ谷御殿

「徳川実記 」慶長九年是年の条に記述がある。

又埼玉郡增林村の御離館を越谷驛にうつされ、濱野藤右衞門某に勤番を仰付らる。(この御殿は明暦三年の災後江戸城に移されかりやに用らる。今も御殿跡といふ地名あり)

同じく慶長十八年には家康が越ヶ谷御殿に滞在した記述が下記のように散見される。

十一月廿日 大御所には岩槻より越谷にわたらせらる。
廿一日 大御所、御鷹狩有て鶴三、鴈十六得給ふ。
廿五日 大御所、鶴、鴈、鴨あまた狩らせ給ふ。
廿六日 大御所、越谷に於て日々御放鷹あり。鶴十九得給ひ、御けしき大かたならず。明日は葛西にならせ給ふべしと仰出さる。
廿七日 越谷より葛西にならせられ、御道にて鶴六得たまふ。

2016年01月11日 まー刑部卿
越ヶ谷御殿

御殿跡の石碑のみ。
公園のようなところに車停められるがあえて300m先のコインパーキングに停めて歩いた。

2015年02月08日 野呂利左衛門督休三
越ヶ谷御殿

徳川家康・秀忠が狩猟に何度か訪れており、その際に参詣した寺もあります。
西南西約2キロの元荒川南岸にある大聖寺は西軍討伐を決意した家康が江戸に戻る際、先勝祈願をしたと言われます。家康所用と伝えられる寝具が残されています。
また北西5キロの元荒川南岸の浄山寺にはその場で鼻紙に書いた(右筆に書かせた?)朱印状が残されています。

2013年08月16日 しー武蔵守
越ヶ谷御殿

逆川(葛西用水)が元荒川左岸から伏越で潜り、右岸側の吐け口から噴き出ている珍しい光景を元荒川の右岸堤防から望まれます。堤防側に「越ヶ谷御殿」の史跡があります。

越ヶ谷御殿の周辺スポット情報

 越ヶ谷御殿跡碑(碑・説明板)

 杉浦陣屋(周辺城郭)

 向畑城(周辺城郭)

 大河戸氏館(周辺城郭)

 新方城(周辺城郭)

 天嶽寺(寺社・史跡)

 大聖寺(寺社・史跡)

 照蓮院(寺社・史跡)

 神明町会田家墓所(寺社・史跡)

 観照院(寺社・史跡)

 林泉寺(寺社・史跡)

 浄山寺(寺社・史跡)

 一乗院(寺社・史跡)

 建長元年板碑(その他)

 宮前橋(その他)

 鷹匠橋(その他)

 出羽堀(三ツ又堰)(その他)

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