春日部氏館(かすがべしやかた)
春日部氏館の基本情報
通称・別名
- 春日部時賢館
所在地
- 埼玉県春日部市粕壁
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平城
天守構造
- なし
築城主
- 春日部氏
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 春日部氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
岩槻城(埼玉県さいたま市)[4.4km]
江ヶ崎城(埼玉県蓮田市)[5.3km]
金野井城(千葉県野田市)[7.5km]
代山城(埼玉県さいたま市)[9.2km]
越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市)[10.2km]
伊奈城(埼玉県北足立郡)[10.3km]
幸手城(埼玉県幸手市)[10.7km]
大和田陣屋(埼玉県さいたま市)[10.8km]
松野氏館(埼玉県さいたま市)[11.0km]
土呂陣屋(埼玉県さいたま市)[11.2km]
春日部氏館の口コミ情報
2026年09月27日 マグロ常陸介祐平
次郎兵衛屋敷[春日部氏館 周辺城郭]
関根氏の館、4つ目の口コミとなります。こちらは広沢氏系ではなく、多田満仲の後胤とされる粕壁宿の関根氏の館となります。ちなみに関根の姓は新井・金子同様、埼玉県に集中する代表的な苗字で、春日部付近にも沢山の関根さんがお住いです。
風土記稿には粕壁宿の条に旧家者次郎兵衛として、関根氏の先祖や戦功、関根と名乗る由来が記されています。少々長くなりますが、「世々名主を勤む、氏を関根と称す。其先祖を尋るに、多田満仲の末葉にて、始めは多田と称せりと云。系図を失ひたれば、其詳なることをしらざれど、家記を閲するに、天文年中多田新十郎なる者あり。甲斐の武田に仕え諫言主の意に違へたるを持て退身し、岩槻城主太田美濃守資正に従ひ、夫より十郎、氏房の代に至り、永禄十二年薩埵山に於て北条武田合戦の砌、氏房より北條へ援兵を差向けるとき、新十郎其内に加へられしに、戦功衆に抽たれば、氏政より感状を賜ふ。其後何れの合戦のことにや太田氏の将士抜群の功ありしかば、上杉謙信より三楽へ感状を送らる。其文に関東根元の武士と記せり、三楽面目に思ひ喜悦斜ならず、今より予が旗下の士、関東根元の四字を摘て関根と名乗べしとて、戦功の者数人を撰出して関根の氏を与ふ。新十郎も其一人にて、此時より多田を改めしと云。されど是より前、関根氏のもの、ままあればうけがたきことなり。又云、岩槻落城の後、当所へ引篭りて村人となり、男子三人を儲く。(中略) 氏政よりの文書左の如し。」とし、続けて氏政からの感状の移しを載せています。関根姓の起源が地名ではないことが、他の関根氏とは異なり、こちらの関根氏以外にも複数の者が関根を名乗ることになっている点も「うけがたきこと」ではありますが地域に関根姓が多い説明となっていて、面白く感じます。
館は、古利根川沿いに鎮座する碇神社の南側とされています。碇神社は次郎兵衛家の屋敷稲荷で、境内には県の天然記念物に指定されている樹齢600年のイヌグス(タブノキ)の巨木が見られます。付近は下喜蔵河岸という水運の積卸し場所となっていた場所で、関根(多田)氏は戦国期に水運を握っていたのかもしれません。
屋敷地の現状は商工会議所や駐車場、民家となっており、遺構らしきは見当たりません。関根次郎兵衛家は、明治時代になると姓を多田に復姓しており、春日橋のたもとには多田時計店(シャッターは閉まっている)、商工会議所の向かいにも多田さんがお住いです。郷土資料館の学芸員さんにお伺いしたところ、文書は本家というわけではない時計店の多田家に伝わり、次郎兵衛屋敷は旧日光街道の中町郵便局辺りとの事でした(写真7枚目)。そちらは街道に面しており、次郎兵衛家の営む問屋があった場所でしょうか。
2026年09月26日 マグロ常陸介祐平
九左衛門屋敷(関根氏館)[春日部氏館 周辺城郭]
久喜青柳村や岩槻裏慈恩寺村の関根氏同様に、広沢氏の系統とされる春日部の関根氏の館です。風土記稿の粕壁宿の旧家者九左衛門として「関根を称す。先祖某、郡中関根村を領し、即ち居住し、在名をもて関根と称すと云ふ。其の後真蔵宗氏なる者、時の兵乱を避け、当所に来りて隠棲す。宗氏卒後、其の子・父が菩提の為めかれが墓所へ庵室を結び、真蔵庵と名付け、其の後願ひ上げて一寺とすと云ふ、今の真蔵院是れなり。真蔵より数代を経、天正年中、図書と称せし者、北条氏に従ひ、戦功によりて氏繁より感状を賜ひ、且つ鱗の紋を許さる。外に深井・佐枝へ円阿弥が奉りて出せし文書、及び御入国の後、岩槻城主高力より与へし書あり、図書が卒年詳ならず。夫より十四代をへて今の九左衛門に及ぶ。」と記され、感状の写しが後に続きます。郡中関根村は、現在の行田市関根を指すようです。また、文中にある感状は、元亀4年(1573年)関宿に勤番していたところ粕壁での戦闘に駆けつけて敵を討ち取った功績に対する北条氏繁からのものです。春日部市郷土資料館では、関根氏の文書に関する展示が見られます。
関根氏の系図によると、関根図書は新田義貞の後胤広沢尾張守重信の孫となっており、岩槻裏慈恩寺の関根氏とは若干異なっています。また、文政期までは本姓藤原を称していたようで、埼玉苗字辞典では広沢氏後胤は後世の附会としています。
ネットの情報では、館の場所を関根図書の墓がある真蔵院(写真4~6枚目,元々は武里よりにあったとされる、図書の墓あり)や、関根図書が強弓を放ちその矢が落ちたところに勧請したとされる元新宿八幡神社(写真3枚目)を「九左衛門屋敷」の場所としていますが、「山と渓谷オンライン」の目黒駅は品川区さん(かなりのマニアと見ました)のマークした場所(写真1,2枚目)に位置登録させて頂きました。企業の敷地となっており、西側と南側に水路が見られます。資料館の学芸員さんのお話では、その近辺だとは思うが、場所は特定できていないとのことでした。
2026年09月25日 マグロ常陸介祐平
関根氏館[春日部氏館 周辺城郭]
太田氏房の家臣、関根織部勝直の子の大炊助満親の館でしょうか。新編武蔵風土記稿の裏慈恩寺村の旧家者関根所左衛門として、「当村の名主なり。先祖関根織部勝直は、広沢尾張守重信の二男にして、太田氏房に従ひ、後高野山に入りて死す。勝直の子大炊助満親は幼年より隣村上野村宝性寺に入り、成長の後民間に下り、慈恩寺村に移り、慶長の頃表慈恩寺、及び当村、且、花積村等三村の内にて数十石の地を開発し、元和八年二月十二日死す。夫れより数代を経て今の所左衛門に至れり。彼れが祖父所左衛門、奇特の聞へありて、寛政三年時の領主松平大和守より苗字帯刀を許し、且つ其の行の奇特なるを褒賞ありし由、孝義録にも見ゆ。又青柳村に関根氏の旧家ありて、広沢氏より出でしと云。同家なりや、されどその伝ふる所の名はたがひに異なり。」と記されています。また、新編相模風土記稿に「天正十八年七月十二日豊臣秀吉は、北条氏直を紀州高野山に送る。太田十郎氏房、広沢尾張守重信・弟関根織部勝直等長臣三十人、従て共に高野山に行く」と記されており、関根勝直は、広沢重信の子ではなく弟としています。また、実際には勝直は高野山で亡くなっておらず、広沢重信と共に福井藩に仕官して400石の上級武士となっています。
関根勝直は、川越の老袋出身とされており、本当にこの地の名主となった大炊助満親の父親なのか疑問ですが、近くの阿弥陀堂は関根所左衛門が寛永5年に先祖を勧請したもので、勝直と満親の墓があるとの事です。墓地を一回りしましたが、それらしい墓石は確認できませんでした(写真2,3枚目,ネットでは墓石に刻まれた内容が確認できます)。
館とされる場所は、北側が民家の裏側で、南側は畑となっており遠目から見るのみとなってしまいました(写真1枚目)。館に隣接する畑で作業されていた方に尋ねたところ、館のことはご存知なく、そこには関根さんがお住いだが、昭和の時代に他所から越されて来たとの事でした。
2026年05月04日 太閤北王子胡散人
春日部市郷土資料館[春日部氏館 関連施設]
春日部市郷土資料館の場所には、昭和63年まで粕壁小学校の木造校舎が建っていました。
2025年08月30日 多羅尾式部大輔伴内
春日部氏館
みなさんおっしゃっている通り、今は春日部八幡神社になっています。トイレ、駐車場あり。遺構らしきものはパッと見、見当たりません。山がそれらしい雰囲気はありますが、自然にできた砂丘であるそうで、館の跡ではないのかもしれません。神社は雰囲気がありおススメです。
2024年05月01日 マグロ常陸介祐平
春日部氏館
春日部八幡神社が城址となります。神社は元弘年間に春日部重行(治部少輔時賢)が鶴岡八幡宮から勧請したとされています。
風土記稿では、八幡神社の境内の小高い所に春日部治部少輔が居城したと伝わり、この辺には寺迹と称するところがあり、彼が居城していた頃に郭内に建立した寺の跡と伝わっていると書かれています(わかりづらい)。
今も残る神社周辺の小高い丘は説明板によると榛名山や浅間山の火山灰に由来する砂丘で、自然地形のようです。貼り付けた写真は、土塁に開口した虎口(写真2枚目)や空堀(写真4枚目)のように見えてしまいますが、それらしく写した無加工のフェイク写真で、遺構ではありません(ごめんなさい)。
神社の北側には、元は物見(見張り台)として使用されたと伝わる巨大な富士塚(写真3枚目)がありますが、江戸時代のもののように思われます(見応えがあります)。
遺構は残っていないようですが、神社及び史跡としては大変良いところです。
北東に1km程の場所にある最勝院に、重行の墳墓があります。南朝の忠臣ということで、大正7年に従四位となっていることがわかります(写真8枚目)。
2024年02月21日 だてな蔵人頭まさむね
春日部氏館
今は春日部八幡神社になっており、神社の参道のど真ん中にあるご神木を今も大事にお守りされていました。
2023年12月18日
春日部氏館
神社などになってますが、趣きがあっていいところです。
2022年11月02日 FUKU
春日部氏館
現在は八幡神社、浅草神社❔となってます❗どっちなの。
2022年04月10日 長森原
鎌倉街道(岩槻〜春日部〜奥州)[春日部氏館 その他]
春日部氏は紀氏の一族で平安末頃に関東に土着、源頼朝が旗上げするとこれに従い壇ノ浦合戦に従軍しており、鎌倉幕府創設時からの代々の御家人でした。
「吾妻鏡」にも春日部氏の名前が散見され、たとえば1219年に源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺された時にも後列に春日部実平(紀右衛門尉実平)が控えていた事が記録されています。
春日部氏の居館であった八幡神社の一ノ鳥居前にある説明板には、神社前の道がかつての鎌倉街道であり、下総国(春日部は中世では下総国でした)から武蔵国(岩槻)に向かう道であった事が記されています。
この道は鎌倉街道中ノ道の支道で、岩槻で中ノ道から分岐し春日部を経由し高野の渡し(現・杉戸町)で再び中ノ道に合流、古河・奥州方面に向かう道でした。
春日部氏嫡流は宝治合戦(1247)で三浦氏と共にいったん滅びてしまうのですが、春日部氏館の前を通過するこの鎌倉街道中ノ道支道は、その後も相模〜武蔵〜春日部〜古河〜奥州を結ぶ軍道として重要な意味を持ち続けました。
時代は下り室町時代、古河公方が巻き起こした享徳の乱真っ只中の1400年代後半、この春日部氏館前を通る支道が鎌倉街道中ノ道本道と合流・分岐する地点である岩槻に、新たに城が造られました。それが岩槻城です。
岩槻城は元荒川・古隅田川の水運の監視と共に、鎌倉街道中ノ道本道&春日部経由の中ノ道支道を南下して攻めて来る敵を、元荒川を防衛ラインとして迎撃する為に造られた城と思われます。
地形と古街道の組み合わせから考えると、近年の古河公方方の成田氏岩槻城築城説には疑問を感じざるを得ません。
最後の写真はこの街道が古隅田川を渡河する地点に架けられていた「やじま橋」。元文二巳歳(1737年)の銘があり、埼玉県内では現存する最古の橋です。
2022年02月07日 maki156
春日部氏館
春日部稲荷神社・八幡神社が祀られており見応えあるので是非立ち寄って欲しいと思います。
2021年03月23日 かずぴょん武蔵守
春日部氏館
現地は春日部八幡神社と稲荷神社となっています。とても落ち着いた良い神社です。境内にあるご神木はとても立派です。
2017年02月26日 まー兵部卿
春日部氏館
春日部八幡神社を目指していくと警備員付きの駐車場があります。本殿奥にある奥の院(桃山時代の作と云われたが平成7年11月5日夕刻 不審火により焼失し翌年10月復興)の前にある『春日部八幡神社旧本殿』の説明板に神社境内を含む一帯が春日部氏の館跡と云われている、と書かれている。なおすぐそばにある小山は狼煙台ではなく円墳。説明板には更に奈良・平安時代から中世までの複合遺跡の浜川戸遺跡と書かれている。









