江ヶ崎城(えがさきじょう)
江ヶ崎城の基本情報
通称・別名
- 江ケ崎館、掘之内城
所在地
- 埼玉県蓮田市江ヶ崎1964
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 鬼窪氏?
築城年
- 鎌倉時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 源氏、鬼窪氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県旧跡(江ヶ崎城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
春日部氏館(埼玉県春日部市)[5.3km]
岩槻城(埼玉県さいたま市)[5.4km]
伊奈城(埼玉県北足立郡)[5.8km]
井沼館(埼玉県蓮田市)[6.2km]
久喜陣屋(埼玉県久喜市)[8.3km]
大和田陣屋(埼玉県さいたま市)[8.7km]
足利政氏館(埼玉県久喜市)[8.8km]
土呂陣屋(埼玉県さいたま市)[8.9km]
幸手城(埼玉県幸手市)[9.2km]
寿能城(埼玉県さいたま市)[9.3km]
江ヶ崎城の解説文
江ヶ崎城の口コミ情報
2025年06月22日 マグロ常陸介祐平
城(丸城)[江ヶ崎城 周辺城郭]
新編武蔵風土記稿に「小名 丸城 一に城と云 四方沼田なり 古は城ありし處なるべし されど何人の居し事を伝えず 此辺に広さ八反程の所水殊に深き沼あり」と記載されています。日本城郭大系によると、「島状の台地を小名丸城といい、城観太夫磯部忠広の居所という」としています。城観太夫磯部忠広に関しては、埼玉苗字辞典に磯部姓城氏と記載されているものの、出典や年代など、ネットでは出てきませんでした。
西城沼公園内には、中央部に土塁状の土盛りや(写真6枚目)、北側に水堀状の地形が見られますが(写真7枚目)、公園としての構造のような感じです。県道さいたま栗橋線沿いの派出所の北側は、半島状の台地となっており、土塁状の構造や元禄期(1668年頃)に建てられた斎藤家の長屋門があります(写真1~3枚目)。おそらく、この台地が城址と思われます。代々名主を勤めた斎藤氏は、戦国期に修験者として各地を遍歴の後、この地に居住し、開拓を行ったようです。
2025年06月22日 マグロ常陸介祐平
野口氏館(新井堀の内遺跡)[江ヶ崎城 周辺城郭]
岩槻城主太田氏の家臣、野口氏の館と伝わります。太田資正が子の氏資に岩槻城を追われると、野口多門は帰農したとされています。
2017年12月(発表は翌年3月)に県道建設の為の発掘で、館跡から大量の古銭の詰まった甕が出土して話題になりました(写真2枚目が発掘地点)。元々は4つの甕が埋められたようですが、そのうちの1つが15世紀に埋められた状態で発見され、古銭の上に置かれていた木簡には「いのとし二百六十」の文字が書かれており、26万枚の古銭が入っていたと考えられています。また、遺構としては幅6m、深さ2mの堀が2条並行して検出され(写真3枚目,ユンボの辺)、掘立柱建物跡や井戸、地下式坑も確認されています。
お城について近所の方に尋ねたところ、たまたま今も城域に住まわれている野口氏のご子孫の方で、二重堀や古銭の甕の発掘場所や、お城の話を聞くことが出来ました。家伝によると太田三楽斎(資正)と御先祖は懇意にされていたと伝わることから、古銭は太田氏のものではないかと考察されていました。屋敷も菩提寺も火災にあい、以前あった甲冑や過去帳などは残っていないとのことでした。
二重堀は埋め戻されて見ることはできませんが、建設中の県道(発掘場所)の北側にある「蓮田市堀の内ふるさとの緑の景観地」の森の中に、一見堀跡のように見える(写真4枚目,遺構かもしれません)遊歩道があり、その北側にも水堀状の小川が流れています(写真5枚目)。
蓮田市役所そばにある蓮田市文化財展示館は、隣接する国指定史跡の黒浜貝塚の出土品がメインですが、野口氏館(新井堀の内遺跡)から出土した古銭の甕のレプリカや解説を見ることができます(写真6,7枚目)。
2024年12月26日 マグロ常陸介祐平
百間陣屋[江ヶ崎城 周辺城郭]
旗本の服部政光(政季)が、家康の関東入国に際して、天正19年(1591円)に太田領3000石を賜り、陣屋を築いたようです。政光は、小田原の役では本多忠勝の配下として御使番を勤めています。元和5年に子の政信が遠江今切の関所番として移封となり、陣屋は廃されたようです。
青林寺の東側が該当地となりますが、遺構は残っていません。発掘調査では、戦国期の堀や建物、井戸などが検出、板碑や天目茶碗などの陶器類、鏡なども出土しており、戦国期の城郭を利用したようです。発掘調査のレボートでは、東西に細長い方形の城館で、横矢掛の喰い違いの虎口があったと推定しています。
すぐ近くには岩槻太田氏の家臣の鈴木氏がおり、鈴木氏は8貫250文の所領を持ち軍役は馬上一騎と槍持一人なので、それ以上の所領を持つ記録に残らない武士がいたのかもしれません。
青林寺には、この地の名主の松永氏のかなりの立派な墓石群がありますが、松永氏は江戸時代初期にこの地に入っており、この城郭の主ではないようですが、お寺の200m程北の源太山(平地です)に城郭的な屋敷を構えていたようです。
2023年07月16日 timber 右近衛中将
江ヶ崎城
城跡はなく、住宅地です。碑はセブンイレブンの隣にあります。
2021年06月13日 マグロ常陸介祐平
江ヶ崎城
セブンイレブンの駐車場に面して左手に江ケ崎城の石碑と正面に螺不動尊堂の看板があり、看板に本丸は200m北方にあり築城は鎌倉後期と推定されると記載されています。
螺不動尊には公開されていませんが文化財指定の円空佛があるようです。参道には子孫繁栄の石棒がありました。本丸跡の不動尊裏の団地(区画された宅地)に行ってみましたが遺構は見当たりませんでした。
2017年05月19日 扇谷上杉 太田武蔵守資正
江ヶ崎城
県道154号線セブンイレブン隣の民家の入り口に「江ヶ崎城跡」という石碑が建っています。
遺構などは見当たりませんでした。
2016年01月28日 ごんだわら
江ヶ崎城
隣のセブン、たまに行きます!
リニューアルしたし、今度ちゃんと見てみますo(^▽^)o
2014年05月06日 土塁ルイ
江ヶ崎城
数回散策していますが遺構らしきものは見当たりません。
2010年11月14日 ぐっ
江ヶ崎城
本丸跡には、団地が建っちゃってます
2010年06月10日 ぎっちゃん
江ヶ崎城
セブンイレブンの駐車場に石碑がある珍しいパターンです
歴史
文化・文政期(1804年から1829年)に編まれた武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』に「土居及堀の蹟のこれり 城蹟なりと伝へり」と、堀や土塁を持つ城館が存在したとの記述があるが、城主などは文献もなく不明。伝承では、新羅三郎義光本人かその子孫や家臣、また鬼窪小四郎行観が城主であるとも言われている。
遺構
現在は団地になり遺構を見ることができないが、残された記録によれば、一辺75~80メートルの方形で内郭には土塁と堀があったようだ。1957・58年に学習院大学が行った発掘調査により、西辺と東辺の土塁に並行した溝が見つかっている。