久喜陣屋(くきじんや)
久喜陣屋の基本情報
通称・別名
- 米津氏陣屋、(御陣山遺跡)
所在地
- 埼玉県久喜市久喜中央4(御陣山児童遊園)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 米津政武
築城年
- 貞享元年(1684)
主な改修者
- -
主な城主
- 米津(よねきつ)氏
廃城年
- 寛政10年(1798)
遺構
- (発掘調査:横堀、井戸跡)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
足利政氏館(埼玉県久喜市)[0.6km]
幸手城(埼玉県幸手市)[3.9km]
花崎城(埼玉県加須市)[6.2km]
井沼館(埼玉県蓮田市)[6.4km]
栗橋城(茨城県猿島郡)[6.8km]
菖蒲城(埼玉県久喜市)[7.1km]
江ヶ崎城(埼玉県蓮田市)[8.3km]
騎西城(埼玉県加須市)[8.9km]
関宿城(千葉県野田市)[10.1km]
種垂城(埼玉県加須市)[10.4km]
久喜陣屋の解説文
久喜陣屋の口コミ情報
2024年06月24日 マグロ常陸介祐平
久喜陣屋
御陣山児童遊園が陣屋跡となります。1684年に米津政武が分知により立藩し、1798年に通政が領地替えにより陣屋は廃されています。風土記稿には「本町の内東にあり元の領主米津氏世々住せしが寛政十年出羽國村山郡長瀞へ所替ありしより廢せり廣七千坪許四方にから堀の跡あり今御林となりて松杉繁茂す」と書かれており、廃止後20~30年で堀跡のみの林になってしまったようです(植林?)。発掘調査では、堀跡と井戸跡が多数見つかったとのことです。
公園内には、古墳のような塚があります。御陣山の由来とも思えるので、古くからあるものでしょうが、櫓台かなにかでしょうか。
昭和37年に建てられた石碑には、霊覚者の法眼により発見された首塚跡とありますが、陣屋内に首塚は違和感があります。久喜市の埋蔵文化財包蔵地一覧にも、御陣山遺跡に首塚とは載っていません。
2024年02月11日 DAI.右馬助
久喜陣屋
小さな墳丘のようなものが、公園の脇に残っていただけでした。他には目ぼしい遺構なし。
2022年05月26日 RED副将軍
久喜陣屋
久喜藩が藩庁とした陣屋🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1684年、徳川家譜代の米津政武が築いた陣屋。代々米津氏がこの地を治めるが、1798年に米津通政が出羽国へ転封となり、久喜陣屋は廃止。
見所
現在は御陣山児童公園となり遺構はほぼ消失。公園内に櫓台がありましたが、かつては首塚とのこと。知らんと登りましたわ。
2021年06月04日 梨栗桃
久喜陣屋
JR久喜駅から徒歩10分程、現状は児童公園です。
ちょっと小高くなった箇所にお社がありますが、由来等は見当たりませんでした。
2021年03月31日 S&K弾正大弼
久喜陣屋
久喜駅を出て直進、久喜市中央公民館の信号を右折すると公民館の駐車場の側に有る児童公園の一角が久喜陣屋です。石碑と祠堂が有りました。
2021年02月07日 伊勢弾正少弼新九郎宗瑞
久喜陣屋
公民館の隣にある御陣山児童遊園の中にありました。石碑などがありました。
2020年11月14日 戸沢夜叉九郎正樹
久喜陣屋
JR久喜駅西口を出て、真っ直ぐ進み、しばらくすると右に公民館があるので、そこを右折すると公園があり、そこが陣屋跡のようです。公園内に小山があり、その上に小さな祠が建っていて、そこだけが唯一陣屋跡の雰囲気が残っています。
2020年06月25日 まー刑部卿
久喜陣屋
2日間の講習でたまたま宿泊先から徒歩圏内のため訪れましたが【御陣山児童遊園】という名の公園で土塁?の上に大樹と社が建っていました。裏手にこの一帯が首塚の跡という説明と供養像がありました。あと公園の注意事項の看板があるだけで説明板もなし。
車のお越しの際は久喜市商工会の駐車場も利用出来るかと。ただ周辺の道は狭いし自転車が多かったりするため注意が必要です。
2017年05月07日 Nabeppu左馬頭
久喜陣屋
久喜駅西口を背にして、右側のバス通りを直進し2つ目の信号右側にある中央公民館の辺りが陣屋跡になります。最寄のバス停は西口から出ている菖蒲仲橋行の中央4丁目を下車します。駅から歩いても10分程です。車の場合は公民館裏の駐車場に停められます。
特に説明版もハッキリとした遺構も残っていませんが、公民館裏にある御陣山児童遊園内に地元では御陣山と呼ばれる小山があり、頂きに祠、下部に誰の物とも分からない武将の供養塔があります。
また公民館入口右側には、縄文期の御陣山遺跡から発掘された土器や鏃、土偶が展示されています。今でも公園内を掘ると土器の欠片位は見つけられます。
2015年09月05日 土塁ルイ
久喜陣屋
米津氏久喜藩の立藩は1684年ですが、この一帯は1601年伊達政宗が家康より許可された鷹場であり、米津氏陣屋が建つ以前に伊達鷹場御殿があったと考えられています。
伊達家の記録では政宗は26回ほど久喜を訪れ、そのうち10回以上鷹狩りを行っているそうです。
久喜藩は武蔵国や下総国、河内国、摂津国などに1万2,000石を領した米津家が治めていた。その中でも久喜にこの陣屋を設け、藩庁としていた。
だが5代藩主・米津通政の時代に久喜を含む武蔵国の領地を出羽国に移されたため、久喜陣屋は廃止となった。
現在、陣屋跡に遺構は残されていない。