幸手城(さってじょう)
幸手城の基本情報
通称・別名
- 田宮城、一色館、一色氏館
所在地
- 埼玉県幸手市中1
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 一色頼氏
築城年
- 康正元年(1455)
主な改修者
- -
主な城主
- 一色氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板(一色館跡と陣屋稲荷)※南東約150m一色稲荷内
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-
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幸手城の口コミ情報
2025年09月04日 マグロ常陸介祐平
高野城(高野浅間台城)[幸手城 周辺城郭]
関東三大施餓鬼のひとつ「どじょう施餓鬼」で知られる永福寺(写真1,2枚目)に関連するお城です。
室町時代、姉小路公景の子の高野城主藤原因幡前司長福は、殺人を繰り返す極悪人で、妻は子供を比叡山に上らせて自害します。高僧日尊上人となり比叡山から戻った息子は父長福を説得し、古くからの阿弥陀寺(後の永福寺)を再建しますが、落慶法要の際に長福は落馬して苦しみぬいて落命します。悪人である長福や三界萬霊を成仏させる為に行われた施餓鬼が、今日の大施餓鬼に繋がっています。風土記稿には、境内には因幡池という小池があり、当時因幡(長福)の屋敷の内で施餓鬼を行ったような記述があります。長福の後は日尊上人の弟の藤堂左衛門尉長泰が城主となりますが、一色直氏に攻められ長泰は上方に逃れたとされています。その後、高野城には直氏の子の頼氏が入り、永福寺(長福寺)には、一色氏の子弟から住職が入ることが多くなったようです。永福寺の縁起に、古河公方と関東管領上杉氏との合戦で、岩槻城の渋江氏が一色氏の守る城に火を付けたとしているようですが、他に記録は見られないようです。
永福寺から南東に200m程のところには、全長寺というお寺があります(写真5,6枚目)。幸手城主一色宮内大輔直朝の弟の一色善十郎直春が開基となり一色氏累系の菩提を弔う為に建立したと伝わり、墓域には直春の墓(写真7枚目)があります。遺構は見られませんが、このお寺付近が一色氏の高野城があったとされ(先人様が位置登録、杉戸町誌が根拠と思われる)、全長寺の西隣の天満宮が城址とされています(写真3,4枚目)。風土記稿の記述では、永福寺付近と思われますが、少々距離は離れています。また、全国文化財総覧では、永福寺から500m程北のドラッグストアセキ下高野店の裏を高野城としており、本当はどこにあったのか、複数箇所あったのか、謎のお城です。
幸手一色氏は、江戸時代に大身旗本として存続しますが、江戸時代初期においても、こちらの直春や小文間城主の政良、関宿藩の御用船を襲撃した輝季のような系図に現れない伝説的な人物が多い一族で、調べていると楽しくなります。
2022年03月20日 マグロ常陸介祐平
幸手城
幸手駅前の案内図(古地図)では現在の駅の場所が城址となっています。城の巽にある陣屋稲荷と鬼門にある天神陣屋が城の守り神のようですが、駅前ですので遺構はまったくありません。
2016年08月16日 ぼん太
幸手城
正一位一色稲荷の敷地内。昔は小山の上だった様な?
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