古河公方館(こがくぼうやかた)

古河公方館の基本情報

通称・別名

鴻巣御所、鴻ノ巣御所、古河公方足利成氏館

所在地

茨城県古河市鴻巣

旧国名

下総国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

足利成氏

築城年

享徳4年(1455)

主な改修者

主な城主

足利氏、氏姫

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(古河公方足利成氏館跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

古河城(茨城県古河市)[1.3km]
栗橋城(茨城県猿島郡)[7.8km]
小谷城(栃木県小山市)[8.3km]
花崎城(埼玉県加須市)[9.7km]
藤岡城(栃木県栃木市)[10.4km]
幸手城(埼玉県幸手市)[11.4km]
関宿城(千葉県野田市)[11.5km]
足利政氏館(埼玉県久喜市)[11.8km]
久喜陣屋(埼玉県久喜市)[12.2km]
騎西城(埼玉県加須市)[12.9km]

古河公方館の解説文



古河公方館(こがくぼうやかた)は、茨城県古河市鴻巣にあった中世の城館(日本の城)。鴻巣御所・鴻巣館とも呼ばれる。古河御所と呼ばれる場合もある。現在、古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。

概要 

享徳4年(1455年)、享徳の乱の際に、初代古河公方の足利成氏により築かれたと考えられている。古河城本丸から南東へ1km程度離れた鴻巣の地にあり、御所沼に突き出た半島状台地に築かれた連郭式の中世城館である。天正18年(1590年)には、最後の古河公方足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館となった。寛永7年(1630年)に、氏姫の孫にあたる尊信が下野国の喜連川に移ったのちは主を失い、時宗十念寺の寺域となる。現在、当時の建築物は残されていないが、城跡の大半とその周辺は古河総合公園として整備されている。

歴史・沿革 

『鎌倉大草紙』[1] 享徳四年(1455年)六月の条に「成氏は総州葛飾郡古河縣こうのすと云所に屋形を立、……」とあることから、享徳の乱において鎌倉から下総・古河に移座した初代古河公方・足利成氏により築かれたと考えられている。長禄元年十月には「下河辺古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける」とあるので、成氏は2年間程度本館を御所としたのち、立崎の古河城へ移ったことになる。[2]

その後は氏姫の時代まで史料が乏しい。当時は舟で往来可能だった古河城とあわせて、一つの広大な城域を形成していた[3]等の見方も示されている。なお、足利義氏についても、葛西城関宿城小金城佐貫城・鎌倉への移座を重ねた末の永禄12年(1569年)に古河帰座を実現し[4]、本館を御所としたとする見解もあるが、根拠となった史料[5]は異なる解釈も可能なあいまいなもので[6]、検討の余地がある。更に古河帰座後も義氏が明らかに栗橋城を居城としている時期も確認でき、その背景についても今後の研究課題となる[7]

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の「古河城破却」(立ち退きの意か)令により[8]、氏姫は古河城から本館に移ってきた[9]。父の義氏は天正10年(1582年)[10]に没していたが、古河公方の後継者が定まらず、氏姫が古河足利氏を継承していた。[11][12][13]

天正19年(1591年)3月、秀吉は氏姫に対して、足利頼純の子である国朝との縁組を指示した[14]。頼純は、かつて古河公方と対立してきた小弓公方・足利義明の子であり、天文4年(1535年)の国府台合戦で小弓公方が滅びたのちは、安房国の里見氏に庇護されていた。この婚姻の結果、鎌倉公方以来の関東公方家は再び統一され、下野・喜連川の喜連川氏として江戸時代へ継承される。文禄2年(1593年)に国朝が病死した後は、引き続き弟の頼氏と氏姫との婚姻が成立し、二人の間に義親が生まれた。氏姫はその後も古河を離れず、義親夫妻とその子の尊信とともに、元和6年(1620年)に生涯を終えるまでを本館で過ごした。

寛永4年(1627年)に義親が死去したのちは尊信が残っていたが、寛永7年(1630年)に喜連川にいた祖父の頼氏が死去すると、後を継ぐために古河を離れた。残された本館は時宗十念寺の寺域となる。[15]

構造 

御所沼に向けて、東から西に延びる半島状の台地上にある。現地調査の結果、かつての城域は東西700m に及び、先端にあたる西側から順に、1曲輪(根城)(南北幅40m、東西長135~140m)、2曲輪(中城)(南北幅70~100m、東西長180m)、外郭(宿)(南北幅100~130m)の3区画が確認されている。各区画の間には空堀があり、堀の西側には土塁も設けて、東側からの来襲に備えていた。[16][17]

1曲輪は、本丸に相当すると考えられている。現在は「公方様の森」と呼ばれる一角である[18]

2曲輪には、昭和5年まで十念寺があった。現在は民家園(旧飛田家住宅、旧中山家住宅)がある。

外郭には、城下集落である「宿」が形成されていた。現在は公園の外側である。

天然の水堀となった御所沼は、北側は虚空蔵菩薩の丘陵まで約150mの幅、南側も100~150mの幅をもち、駒ヶ崎・市立サッカー場の丘にまで延びていた。西側はさらに渡良瀬川まで湿地帯が続き、北西に1km ほど隔てられた古河城ともつながっていた[19]

考古資料 

遺構

1曲輪(根城)の東側には、現在も明瞭な堀切と土塁の跡がある。北側にも高さ約1.5mの土塁跡が15m程度、先端の西側にも若干の土塁跡がある。2曲輪(中城)の東側には、堀切と土塁の痕跡が一部に残されている。外郭(宿)の遺構は不明確だが、地形から東側が堀切られていたと考えられる。

御所沼は、第二次世界大戦後に干拓・埋立されて消滅した後、平成8年(1996年)に復現された。古河公方の時代と比較すると、大幅に縮小されているが、当時の姿を偲ぶことができる。

作品 

文学

  • 仇花: 諸田玲子の歴史小説。徳川家康側室だった主人公お六が古河足利家(足利義親)に再嫁し、本館も舞台のひとつとなる。光文社より2003年発行。2007年には文庫化。
  • 風魔: 宮本昌孝の歴史小説。主人公は忍者・風魔小太郎で、後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたのち、氏姫に仕えるようになった。本館も舞台のひとつとなっている。祥伝社より2006年発行。2009年には文庫化。

伝承 

天神松と胞衣松

古河公方館(御所)があった半島状台地の西端には、現在、天神橋と名付けられた橋があり、その両脇には赤松の木が植えられている。橋の南側が「天神松」(てんじんまつ)、北側が「胞衣松」(えなまつ)である。館の主だった氏姫が足利義親を出産した際、足利の血を継ぐ男子誕生を喜び、御所の西北に天神のほこらを建てた。またその南側には胞衣(胎盤)を埋めて、それぞれに松の木を植えたと言い伝わる。なお、子の健やかな成長を願って胎盤を埋める風習は、近年まで日本各地で見られていた。このときの松を人々は「天神松」、「胞衣松」と呼んだ。200年後に鷹見泉石が作成した鴻巣村絵図にも、天神松と胞衣松が描かれており、長い間大切にされてきたことが分かる。2本の松は公園の造成が始まった1972年には残っていなかったが、故事にちなみ1996年に新しく植えられた。[20]

参考文献 

  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史 資料中世編』 古河市、1981年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史資料第10集 古河城・鴻巣館 ─遺構調査・発掘調査報告書─』 古河市、1985年
  • 古河市史編さん委員会 編 『古河市史 通史編』 古河市、1988年
  • 佐藤博信 『古河公方足利氏の研究』 校倉書房、1989年
  • 戦国人名辞典編集委員会 編 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、2006年
  • 中村良夫・他 編 『地文学事始 日本人はどのように国土をつくったか』 学芸出版社、2005年
  • 西ヶ谷恭弘 『復元図譜 日本の城』 理工学社、1992年
  • 鑓水柏翠 『古河通史(上巻)』 柏翠会、1986年

古河公方館の口コミ情報

2024年05月06日 毛利豊前守勝永
古河公方館



古河市の古河公方公園内にあります。空堀と土塁跡は確認できます。当時の姿とはいえないかもしれないですが、渡良瀬川と利根川の合流地点で、水郷であったことを偲ばせてくれるように沼があり、公園としてはいい感じです。関東を二分した騒乱の拠点としては、遺構が少なくて残念。発掘調査を期待したいです。

2024年05月05日 千葉相模守早雲
古河公方館



鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉氏と争い、鎌倉を逃れて古河に本拠を移したのが、古河公方の始まりです。
以降、最後の古河公方足利義氏の娘の氏姫が喜連川に移るまで居館とし、御所沼に突き出た半島台地上に築かれた中世城館とのことです。

古河城から1キロ程離れた場所にあり、現在は古河総合公園として整備されています。

1.御所沼。
2.2曲輪の土塁。
3.古河公方館碑。
4.1曲輪と2曲輪間の空堀と土塁。

2024年04月08日 弾正大弼渡邊のツナ
古河公方館

桜や桃などの花も美しく咲いていました。素敵な公園の中にあり、四季折々の自然も楽しめます。

2023年10月02日 ぶらなおき
古河公方館



古民家の横にひっそりと、屋敷跡の碑があります。

2023年09月23日 武蔵守マクシミリアン
古河公方館



御所沼と呼ばれる水堀に「コ」の字形囲まれた公方館。

2023年08月29日 楠刑部大輔みけわんこ
古河公方館

公方館跡を公園に整備しただけあって、敷地は広いです。休憩するところがあっていいですね。建物を復興したら、最高だと思います。

2023年03月20日 マタローちゃん修理大夫
古河公方館



広大な城址公園となっており、駐車場も無料で広い。民家園などもあり、ゆっくり楽しめる。

2023年03月02日 武蔵守のむげん
古河公方館



池を中心としたとても整備された広い公園。遺構はほぼないものの、石碑や義氏の墓所などから、かつての古河公方足利氏の繁栄を垣間見ることができる。無料駐車場もとても広く、車利用でも安心して行ける。

2023年01月10日 ruiw0302
古河公方館

駐車場はふんだんにあり苦労しない。復元された御所沼に長方形に突き出した半島の台上に館があったとの説明がある。足利成氏公がいたのは僅かに2年だったらしいが、それなりの防御性はあったように思えた。古河総合公園として開放されているが、その広さは想像以上のものだった。富士見塚なる円形の小山があって、古墳の痕跡かと思ったら、御所沼復元の際の掘った土の産物だと知って苦笑い。鎌倉の公方様がここまでお逃げになられたのかと感慨深いものがあった。

2022年08月09日 キャワ
古河公方館



広大な公園で古民家もあり楽しめる場所です。

2022年03月20日 マグロ常陸介祐平
古河公方館



復元された御所沼に浮島のように曲輪があります。土塁や空堀も確認出来ますが、復元か遺構かはわかりません。公園内の徳源院跡には足利義氏の墳墓と娘の氏姫、氏姫の子の義親の墓があります。また、少し離れた松月院跡には義親の妻で榊原康政の娘と推定される墓があります。現在、古河桃まつりが開催中で徳源院跡の周りは満開の桃の花が最高でした。

2021年12月01日 大膳大夫しろし
古河公方館



よくもまぁ鎌倉からはるばるこんな所まで逃げて来たもんだと思いましたが、現在は散歩するのにとても気持ちの良い公園になっています。

2021年05月05日 織田上総介晃司
古河公方館

古河公方公園に駐車場がありますので、管理棟に一番近い駐車場に停めれれば最高だと思います。

2021年04月04日 
排水ポンプ[古河公方館  その他]

御所沼干拓地を水害から守った排水ポンプ
製造年:昭和24年
口径:800ミリメートル
揚水量:毎分80立方メートル
総揚程:7.5メートル

2018年04月16日 Terry左衛門尉
古河公方館

牡丹桜を見ながらふと思案している。古河の地は利根川の水運に近いし、関東には防御の構えとして有利な山城を作るようなところが、殊に旧下総国には少ないように思えるのだが、何故に成氏は古河という一面平坦な土地に居館を構えたのだろう〔城は川沿いにあったとされているが〕。群雄割拠し、諸豪が山城に立てこもった戦国時代初期とは異なるとはいえ、このような桃源郷のようなのどかな場所で居館を構えていたとすれば、やはり、公方の威光は大なるものであったのだろうし、雅である。
歴史的な該博な知識は別として、春のこの季節に訪れるとついそういう思案ごとをしてしまう。

2016年10月21日 雑賀
古河公方館

氏姫に強く興味を持ち訪ねてみたくなりました. 
公方様のお住まい、氏姫が生涯を閉じた御所、別名は鴻巣御所… 
雅な館のイメージを勝手に抱いていたが、そこはそれ『関東の爆弾男』と呼ばれる?足利成氏が築城した館、堀切や土塁も明確に残っています.
 
館の周囲に広がる現在の御所沼は復元されたものだが、当時は沼から湿地帯と渡良瀬川を経て古河城にも繋がっていたとのこと.
 
静謐な墓所や見晴らしの良い沼、広場も複数、桃林を始め様々な花々を楽しめる広大な総合公園内にあります.
 
公園から車で5分程の鮭延寺(けいえんじ)に、最上家で活躍した鮭延秀綱の墓所があることをあとから知りました.今回スズメバチの影響で立入り禁止だった本丸跡である『公方様の森』と合わせ、再訪したいです.


2016年03月27日 土塁ルイ
古河公方館

古河公方公園の桃林にある「徳源院跡」は北条氏康の孫にあたる足利氏姫の墓所になります。

氏姫は小弓・古河両公方家統合の礎となり、江戸期には5千石ながら10万石待遇の家格を持つ喜連川家として、名族足利氏の中で唯一明治維新まで大名格で存続しました。

徳源院跡は、桃林の真ん中にあるものの歩道から少しはずれているため、最近まで全く気付きませんでした。
公方館跡や桃まつりに行かれるのであれば、一緒に回ってみるといいと思います。


古河公方館の周辺観光情報

古河公方公園

25ヘクタールにおよぶ広大な自然の中に、四季折々に咲く、美しい花々が訪れる人をなごませるせてくれます。 春には、矢口、源平、菊桃など2000本の桃の花が咲き誇り、まさに桃源郷を思わせる情景が広がります。

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古河城追手門跡

当該地の北に位置する東西方面の大通りを境に、北側は武家屋敷となっており(片町)、南側は城の堀と五間(約9m)ほどの高さの土塁が構築されており、追手門に入るには堀にかかる橋を渡りました。堀の水深は二尺(約60cm)、堀幅は七間(約13m)とも一六間(約30m)ともいわれています。

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古河歴史博物館

関東地方の中央に位置し、室町時代以来の城下町として栄えた古河。 その古河城出城跡に平成2年に開館しました。周辺の景観を生かしたこの建物は、1992年の日本建築学会賞・1996年の公共建築賞を受賞しています(設計=吉田桂二)。

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杉並通り

この通りは、赤レンガと雪華をイメージして造られた道で、武家屋敷のおもかげを残す街並みと調和してなかなかの景観をかもしだしています。 テレビや雑誌、ポスター等にもしばしば登場し古河を代表する景観のひとつでもあります。

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雀神社

今から約1150年前、清和天皇の貞観元年(859年)に出雲大社から勧請したものとされ、大己貴命・少彦名命・事代主命の三柱の神が祀られています。 雀神社の名の起こりは、昔この辺りを「雀が原」といったことからその名がつけられたとも、「国鎮めの神」といったのが訛ってスズメになったともいわれています。

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情報提供:古河市産業部観光物産課

古河公方館の周辺スポット情報

 二の曲輪土塁(遺構・復元物)

 史蹟 古河公方館址(碑・説明板)

 足利義氏墓所(寺社・史跡)

 松月院御所塚(古河市指定文化財・史跡)(寺社・史跡)

 排水ポンプ(その他)

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