小金城(こがねじょう)
小金城の基本情報
通称・別名
- 大谷口城、開花城、大谷口小金城
所在地
- 千葉県松戸市大谷口字本城、中城、馬屋敷、番場
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 高城胤吉
築城年
- 天文6年(1537)
主な改修者
- 高城胤辰
主な城主
- 高城氏、武田信吉
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
根木内城(千葉県松戸市)[1.8km]
前ケ崎城(千葉県流山市)[2.3km]
花輪城(千葉県流山市)[4.3km]
金ヶ作陣屋(千葉県松戸市)[4.5km]
相模台城(千葉県松戸市)[5.7km]
増尾城(千葉県柏市)[5.9km]
松戸城(千葉県松戸市)[6.3km]
戸張城(千葉県柏市)[7.0km]
和井田氏屋敷(埼玉県八潮市)[7.6km]
松ヶ崎城(千葉県柏市)[7.7km]
小金城の解説文
[引用元:Wikipedia「小金城」の項目]
小金城(こがねじょう)は、千葉県松戸市大谷口付近(下総国葛飾郡)にあった日本の城。
概要
標高20mほどの丘陵地帯にあり、古利根川、中川、荒川流域の低地帯を一望できる場所である。城域は東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城である。大谷口城、開花城とも呼ばれる。
要害の城であったが、太日川(現在の江戸川)の要でもあったため、水運により城下は市が立ち並んで金宿(後の小金宿)が形成され、周辺の本土寺や東漸寺が領主高城氏の保護を受けて栄えるなど、軍事的にも経済的にも栄えた場所であった[1]。
城の歴史
千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏の居城である。原氏が室町時代の享徳の乱で上杉氏と対立関係に入った時期に、上杉勢力の下総侵攻を防ぐ拠点とするために重臣の高城氏を小金に配置したものと考えられている[2](金領(こがねりょう))。
小金城(大谷口城)は、享禄3年(1530年)に阿彦丹後入道浄意が縄張りをし、天文6年(1537年)9月に高城胤吉によって築かれた。高城氏は根木内城より居城を移して、胤吉、胤辰、胤則と3代53年の居城となった。胤吉は城建設以前には近郊の栗ケ沢城、根木内城を根拠地として構えていたが、小弓公方足利義明の進出に対抗するために大谷口に新城を築城して移った。
北に金杉口、東に大手口、丑寅に達磨口、西に横須賀口、南に大谷口を設け、横須賀口には家臣を住まわせ、その規模・内容は稀にみる大がかりなもので、完成の祝宴も盛大であったという。以来、天正十八年の豊臣秀吉の小田原攻めで落城するまで、三代に亘って栄えた。
永禄年間(1560年代)、古河御所を追われた古河公方足利義氏の仮御所[3]の役目と、義氏に敵対する関東管領上杉憲政を擁立して関東へ侵攻した上杉謙信に備えて拡張が行われたものと考えられている。実際、永禄4年(1561年)7月から12月[4]にかけて足利義氏は小金城に在城している[5]。また、永禄9年(1566年)2月には上杉方に小金城を包囲されたが、籠城して乗り切ることに成功している(黒田基樹は小金城が一時的とはいえ古河公方の御座所となったことで、古河公方の正統性を巡る争いにおいて特殊な意味を持つようになった可能性を指摘している)[6]。
天正18年(1590年)の小田原征伐の際、後北条氏方の高城氏は小田原城に篭城し、豊臣氏方の浅野長政らに攻められ落城し、火をかけられた。発掘調査の際には本城と中城の表土が赤色化していたのはそのためであると考えられている。
その後、徳川家康の関東移封に伴い、家康の五男・武田信吉が入城する。信吉は文禄元年(1592年)に下総国佐倉城主として転封となり、小金城は文禄2年(1593年)に廃城となった[7]。
高城・小金城落城後、元禄11年(1699年)4月、下総国葛飾郡栗ヶ沢村の知行所に代わり、下総国葛飾郡大谷口村236石が徳川幕府方直参旗本の土屋正克の領地となり、圧政ではなく大熊家や八木原家などの有力者と相携えて村人と融和し両者対立することなく村の統治を行った。その後幕末まで土屋家が領主であり続ける。
現代
昭和40年代頃までは森林の中に遺構がほぼ完存していたが、宅地開発により、多くが消失している。残存した城跡の一部が大谷口歴史公園として整備されており、後北条氏関連の城跡で多く見られる畝堀や障子堀、土塁などの遺構が残る。また達磨口にはかつて引き橋が架かっていたと言われている土塁と堀切の様な場所が残り、馬場と呼ばれる付近にも土塁や空堀のの名残らしき物が有る。なお、昭和37年(1962年)および平成3年(1991年)に宅地造成に際して松戸市によって発掘調査が行われており、多くの建物跡、櫓跡、また鉄砲の弾や陶磁器などが発見されている。
1960年代ごろまでは本城への土橋と空堀が完全に存在していて、その写真は日本城郭大系に掲載されているが、現在残るのは金杉口、達磨口付近の遺構だけである。最も戦闘的な主要建造物を有した「本城」「中城」などは昭和39年の宅地開発により消失している。
近年(2010年代半ば)まで本城と言われる部分の所々に土塁が残っていたが、徐々に減りつつある。
参考文献
- 千葉城郭研究会 編『図説房総の城郭』(国書刊行会、2002年)ISBN 4-336-04433-3
- 千野原靖方『東葛の中世城郭 千葉県北西部の城・館・城跡』(崙書房出版、2004年)ISBN 4-8455-1101-0
- 『日本城郭大系 千葉県/神奈川県』
- 「八木原家文書」
- 「旧大谷口村名主大熊家文書(松戸市史史料編1)」
- 『大倉邦夫自伝 : 希望に向かいて』(大倉邦夫自伝刊行会)
- 【書籍】「千葉県の中世城館」
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小金城の口コミ情報
2024年08月16日 vol012修理大夫
幸谷城[小金城 周辺城郭]
小金城主高城氏の家臣、斎藤氏が城主を務めていたと言われる城です。
柏市にある増尾城近くの同名の城とは別物です。
赤城神社付近が城域だったようです。
武蔵野線開通時の土取り等で遺構は破壊されたようですが、赤城神社の入り口付近に土塁の残欠のようなものが存在します。
新松戸駅から徒歩5分くらいです。
2024年01月27日 千葉相模守早雲【権六】
小金城
高城氏の本拠地だったが、北条氏に味方したため、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、浅野長政に攻められて落城。
下総では有数の規模を誇る平山城だったようです。大半が市街地化で失われていますが、一部が大谷口歴史公園として残っています。
1.金杉口虎口。
2.金杉口側の障子堀。埋められている為、見た目は単なる空堀。
3.土塁。
4.畝堀。こちらも埋められている。
2023年11月01日 あんどー主計頭
小金城
大谷口城と呼ばれてるのですね。流山鉄道の小金城址駅から徒歩で10分くらいでした。御城印も駅でGETです。ほとんどが住宅地で一部が公園として残っています。10月でしたが蚊にあちこちやられました笑。
公園ではなく、住宅地の角に城址の碑が建っています。土塁かな~と思われる箇所は住宅の裏手になっており、見ることはできませんでした。
2023年06月17日 マグロ常陸介祐平
小金城
千葉氏の家老原氏の重臣高城氏の居城で、家康の関東移封時には家康五男武田信吉が三万石で入城したお城です。
城域はかなりの広さがあったようですが市街地化が進み、一部が大谷口歴史公園として残されています。公園内には郭を囲む土塁や虎口跡の他、発掘された畝堀と障子堀(空堀状態で凸凹は見えない)を見ることができます。
近くにある広徳寺(中金杉城跡、遺構は残っていません)には高城氏の墓、紫陽花で有名な本土寺には小金でなくなった武田信吉の母の秋山夫人の墓(水戸黄門建立)があります。
2023年01月20日 皆川志摩守
小金城
大半が住宅地になっていて、城跡は一部のみ残っている状態なようです
2023年01月07日 との下総守
幸田城[小金城 周辺城郭]
小金城の支城と思われる城です。昭和30年の発掘調査の際空堀と土塁の痕跡が見つかったそうです。
2021年10月10日 Rice
小金城
本城跡の住宅地の崖際に大きな土塁がありました。
住宅の影になって道路からは見えないようです。
更地のところがあり、たまたま見えました。
2021年01月19日 ほぺむ
小金城
お城の記号があるところは宅地になっていました。斜面が怪しかった‥近くに大谷口歴史公園というのがあるらしいが、チェックしてなくて行きそびれました。
2019年06月01日 JA1Z安房守
土塁・物見台跡[小金城 遺構・復元物]
意外とはっきりと、物見台跡と土塁の形が残っています。
2019年06月01日 JA1Z安房守
達磨口跡[小金城 碑・説明板]
小金城の全体像についてのわかりやすい地図があります。
本城の方は埋め立てられ宅地化されており、遺構はここと大谷口歴史公園付近しか残っていません。
大手門跡付近の裏道になんとなく当時の雰囲気が残ります。
2019年06月01日 JA1Z安房守
大勝院[小金城 寺社・史跡]
小金城に関連した説明板があります。
2019年06月01日 JA1Z安房守
土塁[小金城 遺構・復元物]
郭の内側から見た土塁です。けっこう明瞭に残っています。この外側に障子堀と腰郭、門の跡があります。
2019年04月28日 椿下総守昌家
東漸寺[小金城 寺社・史跡]
小金城主 高城胤吉の三男 了学(俗名:胤知)が少年期から修行を積み、七世住持を務めた浄土宗 佛法山 東漸寺。春の桜と秋の紅葉が見事ですが、新緑もなかなかのものです(写真は総門の外から山門に向かって撮ったもの)。
なお、了学には、徳川家康・秀忠、本多忠勝、土井利勝らが帰依したそうです。特に本多家とは忠勝亡き後も交流が深く、忠朝・忠刻・千姫までも帰依したとのこと。大多喜城下の良玄寺(本多家菩提寺)を創建したのも了学です。本多忠勝ファンの皆さん、東漸寺にも足を運んでみませんか?
了学は後に増上寺十七世貫主に任じられました。
2019年04月28日 椿下総守昌家
広徳寺[小金城 寺社・史跡]
小金城主 高城氏の菩提寺、曹洞宗 金龍山 広徳寺。開基は小金城を築いた高城胤吉。高城氏が居城を根木内城から小金城に移すとともに、この寺も現在の場所に移ったと伝わっています。境内の南西、小金城跡を望む高台に高城氏三代の墓所があります。
観光寺ではないので、拝観料はかかりません。
境内には花をつける樹木が多く、四季折々の花を楽しめます。
2018年07月18日 GINTOKI
小金城
小金城の復元模型と発掘された物は市立松戸博物館に展示されています!
2016年07月03日 平 左近衛大将 泰次郎 將門
小金城
小さいながらも障子堀や畝堀の遺構が残る見応えある公園です
トイレは東側の下にありますが、駐車場はありません
現在の入口は北側の虎口からとなり、本来は南側にある大勝院側が正門だったようです
2012年10月05日 野舘宮内少輔サラマンダー
小金城
2012年9月29日13時40分(90分)
流鉄流山線小金城趾駅の東側へ降り、右手南下して、突き当たりの道を左手東に向かうと、先ずは大谷口馬屋敷緑地に辿り着きます
そのまま馬屋敷を進んだ信号を渡った所が、大谷口歴史公園です(大きな茶色の石碑があります)
その石碑の先に進むとトイレと案内板があります
駐車場はありません
大谷口歴史公園は城跡の一角を公園としているので、規模はかなり小さく、遺溝も埋め戻しているので(障子掘、畝掘の発掘写真有り)、余り良く分かりません…
本丸があったという場所へ向かいましたが、北小金住宅がある入口付近に、大きな石碑と案内板があるだけで、遺溝等はありません…
坂道を下って流山線の踏切、消防団の裏手に小さな平戸井天という社(?)がありました
歩いて分かったのですがかなり規模が大きく、遺溝も少ないので、探すのがとても大変でした
行かれる際は水分補給と体力にお気を付けください
2010年06月10日 徳川内大臣源朝臣康武
小金城
完全宅地化した主郭跡に説明板がある。僅かな遺構は大谷口歴史公園でみることができるが、公園に近い、台地下の小金城趾駅より、城と同じ台地上にある北小金駅から歩いた方が、城の様相は理解しやすい。
小金城の周辺スポット情報
障子堀(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
畝堀(遺構・復元物)
金杉口跡(門)(遺構・復元物)
土塁・物見台跡(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
小金城(遺構・復元物)
小金城(遺構・復元物)
腰郭の空堀跡(発掘調査)(遺構・復元物)
大谷口歴史公園石碑(碑・説明板)
大谷口歴史公園入口(碑・説明板)
地図・石碑(碑・説明板)
達磨口跡(碑・説明板)
小金大谷口城跡碑(碑・説明板)
中金杉城(周辺城郭)
幸田城(周辺城郭)
幸谷城(周辺城郭)
広徳寺(寺社・史跡)
東漸寺(寺社・史跡)
慶林寺(寺社・史跡)
大勝院(寺社・史跡)
本土寺(寺社・史跡)
大谷口神明神社(寺社・史跡)
松戸観光案内所(御城印)
流山鉄道 小金城趾駅(御城印)