相模台城(さがみだいじょう)
相模台城の基本情報
通称・別名
- 岩瀬城
所在地
- 千葉県松戸市岩瀬字相模台、向山、塚田、離山、殿
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 北条長時
築城年
- 建長元年(1249)
主な改修者
- -
主な城主
- 北条氏、芳賀氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
松戸城(千葉県松戸市)[0.7km]
金ヶ作陣屋(千葉県松戸市)[3.5km]
国府台城(千葉県市川市)[3.9km]
葛西城(東京都葛飾区)[5.4km]
小金城(千葉県松戸市)[5.7km]
大野城(千葉県市川市)[5.7km]
根木内城(千葉県松戸市)[6.4km]
前ヶ崎城(千葉県流山市)[7.9km]
中沢城(千葉県鎌ケ谷市)[8.1km]
葛西清重館(東京都葛飾区)[8.3km]
相模台城の口コミ情報
2025年10月08日 千葉相模守早雲
相模台城
第一次国府台合戦の激戦地となりました。北条氏と対立する小弓公方・足利義明は里見氏や真里谷武田氏と結び、太日川(現在の江戸川)沿岸の国府台城に入ります。
対する北条氏綱は上流で渡河し、松戸城に入ると相模台城で両軍は激突。初めは公方勢が優勢でしたが、数に勝る北条軍が押し返し、足利義明は討ち死にしました。
遺構は残っていません。城址マークは聖徳大学敷地内にあり、隣の松戸中央公園内に案内板があります。赤色立体図で見ると相模台城も松戸城も国府台城も太日川の河岸段丘上に築かれたことが分かります。
2025年10月07日 マグロ常陸介祐平
根本城[相模台城 周辺城郭]
相模台城から北に約700m、高城氏の一族の高城播磨守のお城とされています。岩瀬こ線橋近くの岩山稲荷の棟札に、「高城下総守が建立し、天正15年に高城播磨守(胤吉又は胤辰)が再興した」とあることから、年代的に播磨守は小田原の役で小田原城に籠城した胤知とされます。
お城は、松戸市役所付近にあった台地上に築かれていたようですが、大半が崩されてしまい、常磐線と京成松戸線(新京成から今年4月に名称変更)の分岐部分にある高台が地形の名残りとして僅かに残っています。台地には、はっきりした遺構は見られませんが、金山神社が鎮座し、頂上部にある溶岩を施した江戸期の富士塚は、見応えがあります。また、古いものではありませんが、高城氏の城らしく、妙見宮の石祠も見られます。
2022年02月10日 マグロ常陸介祐平
相模台城
伝説の域を出ませんが、鎌倉幕府6代執権北条長時が築城、鎌倉時代の末期に14代執権北条高時が出家しこの地に居住したとされ、高時が相模守だったことから、この地が相模台と呼ばれるようになったと伝わります。戦国期の第一次国府台合戦では、相模台は戦場となり、小弓御所足利義明は、この地で討死しています。
松戸駅前のイトーヨーカドーの5階にある出口を出るとそこは既に城域と思われる場所となります。城の北側と西側の高低差は想像を超えるものがあります。裁判所の駐車場脇に土塁らしき土盛りが確認出来ます。松戸中央公園には旧陸軍工兵学校の門柱が残っています。
2021年12月18日 曲輪勘解由長官削平
相模台戦跡碑[相模台城 碑・説明板]
新型コロナを理由に校内へ入れませんでした。
2019年05月19日 JA1Z安房守
土塁跡[相模台城 遺構・復元物]
小学校の敷地内にある土塁跡。古墳を利用した物見台跡かもしれません。
2019年05月19日 JA1Z安房守
土塁跡[相模台城 遺構・復元物]
裁判所横にある低い土塁跡です。
2019年05月19日 JA1Z安房守
土塁、郭跡[相模台城 遺構・復元物]
ここに来るには、空堀跡の坂の下の階段から登って来なければなりません。大きな土塁が明瞭に残っています。
2019年05月19日 JA1Z安房守
相模台戦跡碑[相模台城 碑・説明板]
聖徳女子大の構内にある戦跡碑。警備員さんにお願いすると見せてもらえます。
2015年06月27日 鳳雛@SASLove
相模台城
松戸駅近くに相模台公園があり、こちらは遺構らしき跡あります。公園周りの通りが掘りにも見えない事もないです。 こちらが城跡なのでは…
2013年11月19日 野舘宮内少輔サラマンダー
相模台城
2013年11月19日14時55分(20分)
近くに駐車場がありませんので御注意ください
場所が聖徳大学内部なので、正門の警備員の方に遺構を見たいのですが、と聞いた所、「けいせいづか」と答えが返って来ました
取り敢えず見てみないと分からないので、入らせて頂きました
入って直ぐ左にそれはあり、慰霊碑でした
説明文がありましたので、掲載致します
経世塚(けいせいづか)
天文七年(一五三八)十月七日、この相模台上において千葉生実の小弓公方足利義明と小田原の北条氏綱との合戦があった。
結局戦は氏綱の勝利となり、公方義明(古河公方晴氏の叔父)と御曹司義純らはこの地に憤死する。
小金本土寺過去帳によると「千余人戦死」とある。経世塚はこれらの戦死者を葬った跡と伝えられている。
なおこの塚は事情があって昭和五十四年に現在地に移動したものである。