葛西城(かさいじょう)
葛西城の基本情報
通称・別名
- (青戸御殿)
所在地
- 東京都葛飾区青戸6、7
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 上杉氏
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 上杉氏、後北条氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- 都史跡(葛西城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
葛西清重館(東京都葛飾区)[3.0km]
小菅御殿(東京都葛飾区)[3.5km]
国府台城(千葉県市川市)[4.0km]
松戸城(千葉県松戸市)[4.7km]
石浜城(東京都荒川区)[5.1km]
相模台城(千葉県松戸市)[5.4km]
中曽根城(東京都足立区)[6.4km]
一之江名主屋敷(東京都江戸川区)[7.1km]
西袋陣屋(埼玉県八潮市)[7.9km]
道灌山(東京都荒川区)[8.5km]
葛西城の解説文
[引用元:Wikipedia「葛西城」の項目]
葛西城(かさいじょう)は、東京都葛飾区青戸にあった中世の日本の城(平山城)。「葛西城跡」として1998年(平成10年)3月13日に東京都指定史跡に指定されている。
歴史・沿革
鎌倉時代に桓武平氏の流れをくむ葛西氏が城館として築いたという伝承もあるが、その詳細は不明である。確実なところでは、関東地方における享徳の乱において旧利根川筋をはさんで西側に上杉・幕府方、東側に古河公方の勢力が対峙する情勢のなか、15世紀中葉に関東管領家の上杉方の城として築城されたと考えられている[1]。青戸は当時にあっては上杉方の最前線で、最初の葛西城主は武蔵国守護代大石氏の一族大石石見守であり、江戸城を居城とする扇谷上杉家の家宰、太田道灌と連携して古河公方足利成氏の動きを牽制していた。寛正2年(1461年)に足利成氏が葛西城を攻撃したという記録が残っている。寛正3年(1462年)から文明10年(1485年)にかけての一時期、上杉方の武将千葉実胤が入城したといわれるが、その後、再び大石氏が葛西城に入った。
葛西城は、中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城で、戦国期には下総国への重要な進出拠点として、扇谷上杉氏や後北条氏の支配下に置かれた。
特に国府台合戦時には後北条氏側の最前線として重用され、中川・太日川を挟んで国府台城に陣取る小弓公方足利義明や里見氏らと激戦を繰り広げた。2度の国府台の戦いで先鋒を務め、2度目の戦いで戦死した遠山綱景は葛西城の城主であった。
また、後北条氏によって擁立された古河公方足利義氏の元服式が行われたのも葛西城であった。なお、近年の研究では足利晴氏の公方末期であった天文20年(1551年)12月以降に古河にあった公方府が葛西に移され、弘治4年(1558年)の新しく公方に就任した義氏の鶴岡八幡宮参詣直後に北条氏康の提案で公方府が関宿に移されるまで、古河公方の本拠地となっていたことが明らかになっている[2]。この時期の晴氏・義氏については、古河公方ではなく「葛西公方」と称される存在であったとする研究者もいる[3]。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に戸田忠次らによって攻められ落城。廃城となるが、徳川家康が江戸に入府後は城跡に「青戸御殿(葛西御殿とも)」と呼ばれる陣屋が建てられ、3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明暦3年(1657年)頃、明暦の大火で焼失した江戸城再建の資材のために破却されたという。
発掘調査と現在の景観
1972年(昭和47年)に環七通りの建設工事に伴って発掘調査が行われたことで当城の遺構が確認された。この調査では遺構のほか、戦国期の陶磁器・漆器・人骨など様々な遺物も検出された。また、中世末期から近世初頭の多数のスッポン遺体が出土しており、近世に西日本から新たにもたらされた食文化と考えられている[4]。
環七通りは中心部の本曲輪跡を南北に横切っており、東西に分断された曲輪がそれぞれ「」と「」になっている[5]。城跡は現在埋没しており地表面で目にすることのできる遺構はないが、地中レーダー探査などにより南北400メートル×東西300メートルの範囲で堀が確認されている。またこれまでの発掘調査では、堀跡や井戸のほか、青戸御殿に関する遺構も見つかっている[6]。
参考文献
- 【書籍】「東京下町に眠る戦国の城・葛西城」
- 【書籍】「人と動物の日本史1 動物の考古学」
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葛西城の口コミ情報
2023年05月07日 あきくん
葛西城
環七通りの両脇に公園は分かれて存在します。近くにコインパーキングがあります。
2023年04月07日 マタローちゃん修理大夫
葛西城
電車だと京成青砥駅から直線で1㎞少々。城跡を環七が貫いているので車だと環七からアプローチする事になる。内回りだと国道6号に架かる陸橋のたもと左側に御殿山公園としてあるが、駐車場は無い。加えてここは常に渋滞しているので、出来れば少し離れたところでコインパーキングを探した方が良い。遺構は無いが看板があり、月極め駐車場の奥にも別な公園と看板がある。
2023年02月25日 yama清正
葛西城
葛西城の説明板と発掘調査の説明板がありますが遺構はありません。駐車場もありませんが近隣に迷惑ならないように車を停めさして頂きました。隣接の公園内にトイレがあります。
2022年10月12日 マークⅡ左京大夫政宗
葛西城
京成本線青砥駅から、徒歩15分ほどで城跡に到着するが、環状七号線と平行して北上する道を通ると、静かで人にも会わず気持ち良く城跡である御殿山公園に行けます。
2022年02月04日 うっちー外記幸村
葛西城
【葛西城周辺の立地と現状】
・西に荒川があり武蔵につながる。
・東に矢切の渡し
・周辺に水戸街道、古代東海道が通る交通の
要衝
・ここ周辺は6000年前頃から河川の土砂運
搬作用で形成された沖積平野で肥沃。
・弥生時代後期には集落が集まっていた。
・中川沿い 西岸約250m
・本来は高地だったが12000年前頃から地球が温暖期になると海面が上昇。その後6000年前頃から海退。そして土砂が蓄積され、関東平野の先端部となった。現在、地盤沈下で海抜0.5から1mと低地。本丸付近はやや高地。
・環状7号線が本丸を貫くように建設された。
・遺構皆無
・葛西城の名残が地名に残る。「大手町」等。
2022年02月04日 うっちー外記幸村
葛西城
【葛西城下】
江戸時代、葛西の農民が鉦、太鼓、笛の囃子で江戸の大路を踊り回る葛西踊り(葛西念仏)や、東京都やその周辺の祭り囃子の祖とされる葛西囃子が葛西で誕生。
葛西城下は栄えていたよう。
2022年02月04日 うっちー外記幸村
葛西城
【青戸?青砥?】
葛西城のある“青戸”の地名の由来は、本来この地は港に近く、港津だったことからきている。他にも青戸の周辺では「亀戸」等、“戸”がつく地名がある。
しかし、この地には“青砥”という地名もある。これは、新編武蔵風土記稿に葛西城の築城前期に青砥藤綱の館があったこという記録があることに由来している。
ここ周辺では“青砥”と“青戸”が混在している。因みに青砥駅の所在地は青戸と表記するらしい。
ここに青砥藤綱の館が本当にあったかどうかは不明なことが多い。
2022年02月03日 うっちー外記幸村
葛西城
【銭】
発掘調査では4771枚の古銭が発掘された。
発見時は、植物質の紐に通されていた。湧水が激しい青灰色砂の上にあり、取り出すのは困難だったそうだ。
出土古銭は全て渡来銭で、58の銭名が認められた。
郷土と天文の博物館で一部展示されている。
2022年02月03日 うっちー外記幸村
葛西城
【謎の小穴】
葛西城の発掘調査では多数(600以上)の小穴が検出された。しかし畑の深耕等により保存状態は不良。
規則性が無く、2基は掘立柱式建物の痕跡だということが分かったが、他の小穴は不明点が多い。平面形態は楕円、不整形、方形、円形のものが認められる。穴の深さは30から50のものが多い。
2022年02月03日 うっちー外記幸村
葛西城
【忍びをもって】
上杉氏の関東進攻等で軍事的に不安定だった。
1560年、小田原後北条氏が領していた葛西城が、突如上杉方の何者かに略奪される。岩付太田氏一族とみられる。その軍の中に大石石見守の名前がある。面白い。
当時の後北条氏にとっては、交通、軍事の要衝で上杉氏との合戦を優位に進める足掛かりとなるであろう葛西城は極めて重要で、葛西城の奪回を重要課題と考えていた。
そこで当時の当主・北条氏康は、葛西城付近の武士、本田兵衛太郎正勝を誘い、永禄5年3月、北条に味方し、正勝の下につく同心らも含めて味方したら江戸やその周辺等、どこでも望みの地を与えることを確約した。
そして同年3月22日、正勝に忍びをもって葛西城を陥落させるよう命じた。忍びを駆使して落とせば現代の葛飾区、江戸川区の一部と五百貫文を与えることも約束。4月には江戸の飯倉も加増するとの判物を与えていて、それほどの重要任務だったことが分かる。
そして‥‥4月24日、小勢で葛西城を陥落させた。軍の中に大石石見守の名前があるのも面白い。そのときの忍びとは風磨衆か?
※ちゃんと本田正勝には知行が与えられたそうです。
この一件は忍びが実在していたことを実感させる面白い事件だ。
2021年12月26日 うっちー外記幸村
本丸[葛西城 遺構・復元物]
道路で本丸を分断されている。遺構の保存より都市開発を優先させた為である。
2021年07月20日 うっちー外記幸村
葛西城址公園[葛西城 その他]
遊具が充実しており、小学生等の遊び場になっている。あと駐車場が無い。少し離れたコインパーキングを利用する必要がある。
2021年03月27日 うっちー外記幸村
トイレ[葛西城 トイレ]
公園内にあるトイレだ。前には遊具があり、こどもたちが遊んでいた。ございましたさほどキレイでないので注意入。
2021年03月21日 うっちー外記幸村
葛西城
江戸川(矢切の渡し)を渡れば下総方面へ繋がり、享徳の乱時はそれぞれの勢力の境に位置し、中川沿い(西岸約250m)に築かれた重点地域。又、東京東部の湿地帯を利用した占地である。現在地盤沈下の為現地表面は海抜0.5~1mと、低地だが、本来は中川によって形成された微高地にあったと推定されている。因みに創建年代は定かでなく、謎めいている点もあるが、15世紀になって大石氏が勢力を増大したと考えられ、この頃この城郭も基礎が作られたと考えられる。天文7年1538年に北条氏綱に落とされ、小田原後北条氏の支城となる。しかし遠山弥九郎の在番中には太田氏一族と見られる何者かに略奪される。だが北条氏康状によると1562年には本田正勝が忍びを使い葛西城を落とし、再び後北条氏に返したという。このときの“忍び”は風魔衆か?本田正勝はこの功により葛西城在番に命ぜられた。後北条氏、扇谷上杉氏等が支城として使用した。古河公方・足利義氏の元服式が行われた城でもあります!
道路建設見直しの為の発掘調査では頭蓋骨や茶器などが発掘された。堀の形状は箱堀型で深さ1.8メートルであったことが解明された。土塁は無い。幾度も改修が繰り返された痕跡もあった。その際、後頭部に3箇所の切り跡がある成人前の女性の頭蓋骨が堀からみつかった。おそらく斬首され堀に捨てられたとみられる。他にも出土物多数。国府台城の戦いでは後北条氏の補給前線基地となり、城主の遠山綱景は先鋒を努め、2次合戦では討死した。豊臣秀吉の小田原征伐では、後北条氏の数々の支城が豊臣の勧告のより軍門に降る中、この城は徹底抗戦し、奮発したが、豊臣方の徳川の大軍によって落とされたのである。織豊期から過ぎた後は御殿山城と呼ばれ、徳川将軍家の休憩所となった。その頃、葛西離館、葛西御殿、等と修改築を加えられた。実際に徳川家康が鷹狩りの際に休憩所として使用した。ちなみにこの城は(2021年現在)およそ40年前に見つかった城跡だ。現在、大通り(環状七号線道路 間違ってたらごめんm(_ _)m)が本丸を貫くようにつくられ、遺構も埋められた。つまり、今は車の波によって落城したのである。城主の遠山綱景は甲斐守、丹波守である。江戸城代・遠山直景の長男。江戸衆の筆頭で相模国西郡松田惣領分を始め963貫300文を領した。墓所は神田吉祥寺。後に駒込に移転。
2018年04月17日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
葛西城
千葉実胤の失意
享徳の乱において当初千葉氏は上杉氏に付くことを決めていたが、一族の馬加康胤は古河公方方に付くことを決め、最終的に千葉宗家を滅ぼした。この時、千葉介胤直の甥である千葉実胤・自胤兄弟は千田荘を逃れ、大石石見守の招きで葛西城に赴いている。その後兄弟は扇谷上杉家に仕え、古河公方方との戦に参戦した。しかし、経済的圧迫のせいか、兄の実胤は一時隠遁してしまう。後に帰参したが、既に武蔵千葉氏の実権は弟の自胤が握っていた。実胤は扇谷上杉家の下を離れ、大石石見守の招きで再び葛西城に赴いている。実胤は山内上杉氏を通して、古河公方足利成氏と連絡を取り、自らが「千葉介」を継ぐ運びとなるよう内々に進めていた。しかし、馬加康胤の死後、千葉氏の実権を握った岩橋輔胤の嫡子、千葉孝胤がこれを知り、成氏に抗議したため、話は立ち消えとなった。実胤の千葉介就任の夢はこの葛西城で潰えた。失意の実胤は武蔵に戻ることなく、美濃へと落ちていった。千葉六党で美濃に所領を持ち、ともに馬加康胤と戦った東氏を頼ったとも言われている。その後の実胤の消息は不明である。
2018年04月17日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
葛西城
後北条時代の葛西
天文6年(1537)に後北条氏の手に落ちた葛西城は、以後20年間の記録が無く、空白期間であったが、天文21年(1552)から永禄元年(1558)まで古河公方の御所として利用されていたことが近年分かっている。永禄2年(1559)、江戸城代であった遠山綱景が城主となるが、太田資正によって落城。その後、後北条氏は葛西城奪還を画策し、本田正勝が忍を用いて奪還している。世に言う風魔忍者だろうか?葛西城はそのまま本田氏に与えられた。
葛西城から中川を挟んだ対岸北側、寺院が密集している地域がある。後北条氏時代に街道沿いに整備された葛西新宿である。第2次国府台合戦の後、葛西の支配が安定した後北条氏は領国経営に乗り出した。葛西新宿は交通網の確保と共に経済活動の拠点として重要な役割を担った。宿は、現在中川橋がある場所から南に上宿・中宿・下宿、金阿弥町に分かれていた。町並みは有事の際に見通しがきかないよう3カ所で直角に折れ曲がる枡形で、各角には寺社が配された。葛西城は小田原合戦の折、戸田忠次によって落城するが、葛西新宿は江戸時代も宿場町として栄えた。
2018年04月17日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
葛西城
大石石見守
葛西城の存在が伝説でなく、史実となったのは、室町期、山内上杉氏の時代である。享徳の乱前後、古河公方方と管領上杉氏方が古利根川を挟んで対峙している中、上杉方の最前線の城として江戸城と共に築かれた。葛西城主は大石石見守であった。大石氏は上杉氏の四宿老の一人に数えられ、代々武蔵国の守護代を務めた家であった。時代と共に大石氏が分派していった中で隼人佑を名乗っていた系統が後に石見守を名乗った。石見守の家は葛西城を主君上杉氏から任されたが、5代目石見守の時代に後北条氏の侵攻を受け、攻略された。大石本家は後北条氏に従属し、石見守は義弟である太田資正の家臣となった。太田資正は後北条氏に降った後、家柄もあって、古河公方足利義氏の配下となっていた。その頃、義氏は葛西城を御所としているため、石見守は葛西御所時代も葛西城にいたものと考えられる。恐らく、資正が後北条を離反する際に、資正についていったのであろう。永禄3年(1560)の長尾景虎の関東出兵の際、太田資正の筆頭家臣として記録されている。小田原城の戦いの折には資正が葛西城を落城させている。以降、石見守についての記録は無い。
2018年04月17日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
葛西城
青砥藤綱の館?
御殿山公園に「青砥藤綱城跡」と刻まれた石碑がある。この青砥藤綱なる人物は鎌倉時代後期の武士で、「五十文の松明」の逸話で有名である。藤綱は青戸に館を築き、晩年をそこで過ごしたと言われ、その館の位置が葛西城のあった場所であるという。これが青砥藤綱に関する伝承であるが、葛西一帯は当時葛西氏の所領であり、一族でもなければ、家臣でもない青砥藤綱が館を設けるとは到底考えられない。青戸という地名がこのような伝承を生み出したと考えられる。ただ、一つ気になることがある。京成高砂駅近くの大光明寺に藤綱が奉納したといわれる弁才天像があるのだ。少し調べてみると、清重の時代に奥州の葛西氏所領の代官に「青戸二郎重茂」なる人物がいた。つまりは葛西氏の家臣に「青戸氏」がいたのである。葛西氏が奥州に拠点を移していくのは鎌倉時代末期であるため、青砥藤綱がいた時代に葛西には「青戸氏」がいたことが考えられる。葛西城が青戸氏の居館であったとまでは言えないが、青砥藤綱に関わる伝承は、元々青戸氏についての伝承であったのではないだろうか。弁才天像は青戸氏が奉納した物かも知れない。
2018年04月17日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
葛西城
葛西城は中川右岸沿いにあった平城で、宝持院から慈恵医科大学葛西医療センター付近までが城域であったと言われる巨大な城である。西側に比べ微高地であり、東は中川、西は湿地帯と平城ながら中々の堅城であったようだ。発掘調査によって古墳時代から人が居住していたことが分かっており、元々集落等があった場所に城館を築いたものと考えられる。最初にこの地に城館を築いたのは葛西氏とされる。伝承の域は過ぎないものの、古墳時代より人がいたことから、葛西氏に関わりのある何かしらはあったものと考えられる。奥州合戦で奥州に所領を賜った葛西氏は、三代清経の代には本拠地を奥州に移していたらしく、葛西青戸はその後、山内上杉氏の所領となり、葛西城を築城、大石石見守が在城した。室町期の青戸は水陸交通の要所で政治・経済の重要拠点であったため、この地に築城されたと考えられている。戦国期に後北条氏の手に落ち、小田原合戦まで後北条家臣の居城となる。馬加康胤によって千葉を追われた千葉実胤・自胤兄弟が一時居住したり、足利義氏の御所として使われたりと、関東の歴史を語る上で非常に重要な城である。
2017年03月20日 GINTOKI
葛西城
葛西城については、葛飾の郷土と天文の博物館に発掘され出土した物や資料が展示されています!
2015年05月21日 斉藤権大納言にょふん
葛西城
城跡には、環七を走っていれば両サイドに見えてくる。資料は近くの郷土と星の博物館にいくと模型など展示されている。また、書籍なども販売している。