葛西城(かさいじょう)

葛西城の基本情報

通称・別名

(青戸御殿)

所在地

東京都葛飾区青戸6、7

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

上杉氏

築城年

室町時代

主な改修者

主な城主

上杉氏、後北条氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

都史跡(葛西城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

葛西清重館(東京都葛飾区)[3.0km]
小菅御殿(東京都葛飾区)[3.6km]
国府台城(千葉県市川市)[3.9km]
松戸城(千葉県松戸市)[4.7km]
石浜城(東京都荒川区)[5.1km]

葛西城の解説文

葛西城(かさいじょう)は、現在の東京都葛飾区青戸にあった日本の城である。

歴史・沿革
築城者、築城年代は不明だが、桓武平氏の流れをくむ葛西氏が鎌倉期に城館として築いたとされる。中川の蛇行部を天然の堀として背後に持つ平城で、戦国期には下総国への重要な進出拠点として、扇谷上杉氏や後北条氏の支配下に置かれた。

特に国府台合戦時には後北条氏側の最前線として重用され、中川・太日川を挟んで国府台城に陣取る小弓公方足利義明や里見氏らと激戦を繰り広げた。2度の国府台の戦いで先鋒を務め、2度目の戦いで戦死した遠山綱景は葛西城の城主であった。また、後北条氏によって擁立された古河公方・足利義氏の元服式が行われたのも葛西城であった。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に戸田忠次らによって攻められ落城。廃城となるが、徳川家康が江戸に入府後は城跡に「青戸御殿(葛西御殿とも)」と呼ばれる陣屋が建てられ、3代家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明暦3年(1657年)頃、明暦の大火で焼失した江戸城再建の資材のために破却されたという。

発掘調査と現在の景観
中心部を南北に環七通りが横切っており、わずかに東西に分断されて残った城郭跡がそれぞれ「御殿山公園」、「葛西城址公園」となっているが目にする事の出来る遺構は無い。昭和47年(1972年)に道路建設に伴う発掘調査が行われ、戦国期の陶磁器、漆器、人骨など様々な遺物が発掘された。また、中世末期から近世初頭の多数のスッポン遺体が出土しており、近世に西日本から新たにもたらされた食文化と考えられている。

城跡の保存よりも開発を優先させた為、道路建設のため城跡は一部は破壊され、道路下に埋め戻された。

葛西城の口コミ情報

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年04月17日]
千葉実胤の失意
享徳の乱において当初千葉氏は上杉氏に付くことを決めていたが、一族の馬加康胤は古河公方方に付くことを決め、最終的に千葉宗家を滅ぼした。この時、千葉介胤直の甥である千葉実胤・自胤兄弟は千田荘を逃れ、大石石見守の招きで葛西城に赴いている。その後兄弟は扇谷上杉家に仕え、古河公方方との戦に参戦した。しかし、経済的圧迫のせいか、兄の実胤は一時隠遁してしまう。後に帰参したが、既に武蔵千葉氏の実権は弟の自胤が握っていた。実胤は扇谷上杉家の下を離れ、大石石見守の招きで再び葛西城に赴いている。実胤は山内上杉氏を通して、古河公方足利成氏と連絡を取り、自らが「千葉介」を継ぐ運びとなるよう内々に進めていた。しかし、馬加康胤の死後、千葉氏の実権を握った岩橋輔胤の嫡子、千葉孝胤がこれを知り、成氏に抗議したため、話は立ち消えとなった。実胤の千葉介就任の夢はこの葛西城で潰えた。失意の実胤は武蔵に戻ることなく、美濃へと落ちていった。千葉六党で美濃に所領を持ち、ともに馬加康胤と戦った東氏を頼ったとも言われている。その後の実胤の消息は不明である。

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年04月17日]
後北条時代の葛西
天文6年(1537)に後北条氏の手に落ちた葛西城は、以後20年間の記録が無く、空白期間であったが、天文21年(1552)から永禄元年(1558)まで古河公方の御所として利用されていたことが近年分かっている。永禄2年(1559)、江戸城代であった遠山綱景が城主となるが、太田資正によって落城。その後、後北条氏は葛西城奪還を画策し、本田正勝が忍を用いて奪還している。世に言う風魔忍者だろうか?葛西城はそのまま本田氏に与えられた。
葛西城から中川を挟んだ対岸北側、寺院が密集している地域がある。後北条氏時代に街道沿いに整備された葛西新宿である。第2次国府台合戦の後、葛西の支配が安定した後北条氏は領国経営に乗り出した。葛西新宿は交通網の確保と共に経済活動の拠点として重要な役割を担った。宿は、中川橋のから上宿・中宿・下宿、金阿弥町に分かれていた。町並みは有事の際に見通しがきかないよう3カ所で直角に折れ曲がる枡形で、各角には寺社が配された。葛西城は小田原合戦の折、戸田忠次によって落城するが、葛西新宿は江戸時代も宿場町として栄えた。

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年04月17日]
大石石見守
葛西城の存在が伝説でなく、史実となったのは、室町期、山内上杉氏の時代である。享徳の乱前後、古河公方方と管領上杉氏方が古利根川を挟んで対峙している中、上杉方の最前線の城として江戸城と共に築かれた。葛西城主は大石石見守であった。大石氏は上杉氏の四宿老の一人に数えられ、代々武蔵国の守護代を務めた家であった。時代と共に大石氏が分派していった中で隼人佑を名乗っていた系統が後に石見守を名乗った。石見守の家は葛西城を主君上杉氏から任されたが、5代目石見守の時代に後北条氏の侵攻を受け、攻略された。大石本家は後北条氏に従属し、石見守は義弟である太田資正の家臣となった。太田資正は後北条氏に降った後、家柄もあって、古河公方足利義氏の配下となっていた。その頃、義氏は葛西城を御所としているため、石見守は葛西御所時代も葛西城にいたものと考えられる。恐らく、資正が後北条を離反する際に、資正についていったのであろう。永禄3年(1560)の長尾景虎の関東出兵の際、太田資正の筆頭家臣として記録されている。小田原城の戦いの折には資正が葛西城を落城させている。以降、石見守についての記録は無い。

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年04月17日]
青砥藤綱の館?
御殿山公園に「青砥藤綱城跡」と刻まれた石碑がある。この青砥藤綱なる人物は鎌倉時代後期の武士で、「五十文の松明」の逸話で有名である。藤綱は青戸に館を築き、晩年をそこで過ごしたと言われ、その館の位置が葛西城のあった場所であるという。これが青砥藤綱に関する伝承であるが、葛西一帯は当時葛西氏の所領であり、一族でもなければ、家臣でもない青砥藤綱が館を設けるとは到底考えられない。青戸という地名がこのような伝承を生み出したと考えられる。ただ、一つ気になることがある。京成高砂駅近くの大光明寺に藤綱が奉納したといわれる弁才天像があるのだ。少し調べてみると、清重の時代に奥州の葛西氏所領の代官に「青戸二郎重茂」なる人物がいた。つまりは葛西氏の家臣に「青戸氏」がいたのである。葛西氏が奥州に拠点を移していくのは鎌倉時代末期であるため、青砥藤綱がいた時代に葛西には「青戸氏」がいたことが考えられる。葛西城が青戸氏の居館であったとまでは言えないが、青砥藤綱に関わる伝承は、元々青戸氏についての伝承であったのではないだろうか。弁才天像は青戸氏が奉納した物かも知れない。

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年04月17日]
葛西城は中川右岸沿いにあった平城で、宝持院から慈恵医科大学葛西医療センター付近までが城域であったと言われる巨大な城である。西側に比べ微高地であり、東は中川、西は湿地帯と平城ながら中々の堅城であったようだ。発掘調査によって古墳時代から人が居住していたことが分かっており、元々集落等があった場所に城館を築いたものと考えられる。最初にこの地に城館を築いたのは葛西氏とされる。伝承の域は過ぎないものの、古墳時代より人がいたことから、葛西氏に関わりのある何かしらはあったものと考えられる。奥州合戦で奥州に所領を賜った葛西氏は、三代清経の代には本拠地を奥州に移していたらしく、葛西青戸はその後、山内上杉氏の所領となり、葛西城を築城、大石石見守が在城した。室町期の青戸は水陸交通の要所で政治・経済の重要拠点であったため、この地に築城されたと考えられている。戦国期に後北条氏の手に落ち、小田原合戦まで後北条家臣の居城となる。馬加康胤によって千葉を追われた千葉実胤・自胤兄弟が一時居住したり、足利義氏の御所として使われたりと、関東の歴史を語る上で非常に重要な城である。

GINTOKI様[2017年03月20日]
葛西城については、葛飾の郷土と天文の博物館に発掘され出土した物や資料が展示されています!

斉藤右近衛大将にょふん様[2015年05月21日]
城跡には、環七を走っていれば両サイドに見えてくる。資料は近くの郷土と星の博物館にいくと模型など展示されている。また、書籍なども販売している。

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