一之江名主屋敷(いちのえなぬしやしき)

一之江名主屋敷の基本情報

通称・別名

田島家屋敷

所在地

東京都江戸川区春江町2121-6他

旧国名

武蔵国

分類・構造

屋敷

天守構造

なし

築城主

田島(堀田)英丈

築城年

江戸時代前期

主な改修者

主な城主

田島氏

廃城年

遺構

主屋、長屋門、横堀(空堀)

指定文化財

都史跡(一之江名主屋敷)、区登録史跡(一之江名主屋敷)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

長島高城(東京都江戸川区)[3.4km]
国府台城(千葉県市川市)[5.6km]
城ノ台城(千葉県船橋市)[5.7km]
葛西清重館(東京都葛飾区)[6.4km]
葛西城(東京都葛飾区)[7.1km]
石浜城(東京都荒川区)[8.1km]
吉良上野介邸(東京都墨田区)[8.6km]
大野城(千葉県市川市)[8.7km]
松戸城(千葉県松戸市)[8.9km]
浅草見附(東京都台東区)[9.4km]

一之江名主屋敷の解説文



一之江名主屋敷(いちのえなぬしやしき)は、東京都江戸川区春江町にある歴史的建造物。東京都指定史跡。江戸川区登録史跡[1]

概要 

当住宅は、江戸時代に当地に移り住み、一之江新田と呼ばれていた当地の開拓の主導的役割を果たした田島図書(ずしょ)英丈を祖とする田島家の旧居である。敷地面積は約2000坪[2]

田島図書はもともとは堀田姓を名乗っていた武士出身の家系で、関ヶ原の戦いに参戦後関東地方へ入り、田島姓に改姓して当地の開拓に携わったと言われている。その後、江戸時代は田島家が代々当地の名主を務めていた。

現存する主屋は安永年間(1770年代)頃の建立とされ、当時の造りが良好に保存されている。主屋は寄棟造、茅葺、平屋建で、歴史的に見ても東京23区内でも貴重な建造物となっている。

また屋敷地には屋敷林や庭園などが備わったかつての農家の屋敷構えを良好に残している。1999年の整備の際に、かつての屋敷の姿により近いものにして、江戸時代の農家の屋敷の雰囲気を感じるものになった。

また当屋敷は1954年11月に東京都指定史跡に[3]、1981年1月に江戸川区登録史跡になった。

その後、建物の老朽化が激しくなってきたため、1989年から1993年にかけて建物の復元修理を行い、一般公開も始めた。

さらに1999年には、庭園や屋敷林の整備、2006年には屋根の茅葺の葺き替えを行った。

2011年からは江戸川区の所有になっている。

主な施設 

  • 主屋
  • 屋敷林
  • 屋敷畑
  • 庭園
  • 長屋門
  • 屋敷神(稲荷神社)

所在地 

  • 東京都江戸川区春江町 2-21-20

関連文献 

  • 【書籍】「椿物語 」

一之江名主屋敷の口コミ情報

2024年09月10日 マグロ常陸介祐平
一之江名主屋敷



江戸時代初頭から一之江新田の名主を務めた田島氏の屋敷です。主屋は安永3年、長屋門も同時期に建立されており、都内では貴重な建物です。復元部分もあるようですが、長屋門の右側には水堀、屋敷の北側から西側にかけて空堀が見られ、中世の館のような雰囲気があります。

先人様が、口コミされていますが、初代田島図書は、旧名を堀田図書盛重と伝わります。堀田図書は、豊臣家の家臣で黄母衣衆の1人として1万石を与えられ、秀頼の時代には大阪七手組の一人として大阪城に在番し、大阪夏の陣で野々村雅春と共に二の丸と本丸の間の石垣で自害したとされます。田島図書は、慶長11年に一之江の開拓を企て、寛永20年に亡くなっていますので辻褄が合いませんが、平成26年に建てられた田島家の墓碑には佐倉藩堀田家とは先祖を同じくする一族と記されています。田島図書の前妻のお墓は慶長17年のものですが、この時代の墓石としては上級武士の作りのもので、盛重本人ではないにしても、堀田氏と関連する人物の可能性は十分あるように思えます。

屋敷の近くにある城立寺の田島図書の墓石と田島家墓域内にある石造釈迦如来像はそれぞれ江戸川区の史跡、文化財に指定されています(写真7,8枚目,背後の一番右側の墓石が図書のもの)。

2023年06月30日 武蔵守のむげん
一之江名主屋敷



入館料は100円、中学生以下は無料。都内でも貴重な江戸時代後期の名主屋敷。茅葺屋根は虫や鳥の影響で葺き替えられていますが、主屋内部は、囲炉裏や窯戸など当時の雰囲気が感じ取れます。武家並待遇で立派な門や空堀を設けていたのが確認できます。資料館も併設されて、当日は小学生の社会科見学も行われていました。この時期、車は目の前のいなげやで水分を購入して、見学するのがいいでしょう。

2022年02月06日 さすけ渡島守
一之江名主屋敷



周りには小さいながらもお堀があり、名主屋敷としての防御の面影が残ってます。
写真 
注意看板の直ぐ向こう側が、こじんまりしたお堀です。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
一之江名主屋敷

鹿骨村の五氏族
江戸時代初期に田島図書が開拓した一之江であるが、その田島図書が寄寓した田島家は開拓以前から当地に居た事になる。開拓以前は一帯が葦原の湿地帯で船が自由に往来できるような地域であり、僅かにある島状の土地や乾燥地に寺社などが建っているような状態であったという。そのような土地に田島家はいつからいたのだろうか?
鹿骨鹿島神社の由緒にこうある「鹿骨村の鎮守で、明治維新までは五社神明社とか五社神社とよばれていた。これは本村の草分けとなった石井長勝、田島、中代、牧野、別系の石井姓の5氏が本村に住み着いた時にそれぞれが奉祀していた氏神を合祀したところからそう名付けたという。」
石井長勝は鎌倉時代の人物で、三浦党佐原氏の一族とされる。吾妻鏡にて三浦義明の四男義春より始まる多々良氏の郎党に石井五郎、三浦一族の和田義盛の近親として石井次郎が見受けられる他、宝治合戦で自害した三浦員村の孫義継が石井姓を名乗っているなど、相模国三浦郡石井庄を発祥とする三浦党石井氏が居た事は確かであり、長勝もその一人であったとみられる。
長勝は鎌倉松葉ヶ谷付近の地頭職を務め、日蓮を保護して屋敷を寄進したという(後の石井山長勝寺)。三浦氏は千葉氏・上総氏・土肥氏等と共に頼朝の宿老を務めるほどの有力御家人であったが、頼朝の死後北条氏と対立し、宝治合戦にて滅亡した。長勝がその際どのような選択をしたかは不明だが、佐原氏が北条氏に与して三浦宗家を継承したにも関わらず、長勝は出家し、後に鎌倉を離れた。
出家して日隆と号した長勝は鎌倉を離れ、武蔵国にて鹿骨村を開村した。日隆と共に田島氏、中代氏、牧野氏、別系の石井氏が開村に従事した。おそらく三浦党の関係者であると思われるが、別系の石井氏は所謂「未勘源氏」であるそうで、その出自を調べるのは極めて困難であり、また、田島氏、中代氏、牧野氏についても出自が分からなかった。鎌倉時代に居住を始めた彼らは比較的広い乾燥地を見つけて開墾していったのであろう。明治期の地図では鹿骨村の中に畑地が確認できる。
鹿骨村の五氏族は開村後、周辺に広がっていったらしく、新町(現在の小松川第2小学校周辺)の石井家、北小岩の善慶寺の開基石井織部、上今井村(現在の江戸川3丁目)の名主田島浅右衛門、新小岩香取神社の本殿を建てた大工牧野八郎次といったような、子孫と思われる人物が確認できた。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
一之江名主屋敷

田島図書=堀田図書?
 田島図書に関する伝承によれば、堀田図書盛重は大坂の陣の後、一之江に郎党数名と落ち延び、西一之江村大杉の田島庄兵衛のもとに寄寓する。その後、田島図書英丈と名乗って新田開発に乗り出し、寛永20年(1643)に68歳で没する事になる。
 しかし、ここで一つ問題がある。延宝5年(1677)に紀州藩軍学者の宇佐美定祐が、大坂の陣参加者から多くの体験談を集めて完成させた軍記「大坂御陣覚書」によれば、敗北して城内に退いた盛重は、火災で本丸には辿りつけず、二の丸と本丸の間の石垣で自害したというのだ。体験談を集めた大坂御陣覚書の信憑性がどれ程のものなのかと言う疑問はあるが、それは田島図書の経歴に関しても同じことが言える。そもそも田島家の口伝では田島図書は関ケ原の後に一之江に来たとされているらしく、そうなると田島図書=堀田盛重というのは成立しない。
 田島図書=堀田盛重というのは「図書」という通称から来た誤伝、もしくは江戸時代に流行った偽家系図の影響で出来た話の可能性が高い。江戸後期になると武士だけでなく、町や村の上層階級の家々でも系図づくりが流行った。家柄に箔を付けるために、偽系図づくりを生業とした家系図屋を利用する事があったという。その為か、江戸周辺の新田村の名主の中には田島家のように家祖が豊臣旧臣であったとする家も多い。
 とはいえ、こういった話を虚偽と決めつける証拠もない以上は、にべもなく否定する事も出来ない。少々個人的な願望が混じっているところもあるが、仮に田島図書が堀田図書ではないとしても、田島家の家紋が竪木瓜である事から、堀田氏の関係者であった可能性はある。「盛重以外の豊臣家に味方した堀田氏が落ち延びた・盛重の郎党が落ち延びて田島姓を名乗ったのが、後世盛重と同一視された・盛重の子息が落ち延びた」といった事も考えられる。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
一之江名主屋敷

田島図書と堀田氏
 一之江新田を開拓した田島図書は元々堀田図書盛重と名乗っていたという。堀田図書と言えば、豊臣秀吉の七手組の一人として有名であるが、その出自がはっきりとしない人物である。堀田正貞の子正高であるとも、その正高の子であるとも言われる。
 堀田氏は元々尾張国津島神社の社家であり、尾張守護斯波氏・斉藤道山・織田信長・豊臣秀吉に仕え、特に豊臣氏の下では馬廻を何人も輩出するなど重用された。関ケ原の後、一族の堀田正吉が江戸幕府の下で旗本となり、その子である正盛は老中にまで出世、堀田氏は江戸幕府の重鎮となった。一方で、最後まで豊臣に忠を尽くした一族もおり、堀田盛重はその代表と言える。
 豊臣秀吉に仕えた盛重は、1万石を領して馬廻の組頭、黄母衣衆を勤め、小田原合戦では馬廻600騎を率い、文禄の役では名護屋城三ノ丸御番衆として在陣、文禄4年(1595)正月の秀吉の草津湯治にも警護役として伴従するなど、側近の一人として重用された。秀吉死後も七手組として大坂城に在番し、秀頼に仕えた。慶長6年(1600)の関ケ原には西軍として参加したが、七手組の一人である故か、戦後も秀頼の下で1万石を領した。慶長19年(1614)の大阪冬の陣では大阪城北側の天満橋に布陣。翌年の夏の陣にも参加した。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
一之江名主屋敷

一之江名主屋敷
 一之江名主屋敷は江戸初期に一之江新田を開拓した田島図書が屋敷をおいて以来、約400年この地に在り続けてきた。
 北東には田島家墓所のある本高山城立寺が建ち、屋敷の周囲を堀と屋敷林で囲まれた所謂「中世武家屋敷風」の屋敷である。こうした造りは江戸周辺の名主屋敷に多く見られる。名主が元々武士であった名残であると言われることもあるが、種籾の保管庫や役所としての役割も担っていた屋敷に最低限の防御機能を備えるのは自然な事であり、堀を以て武士の名残とするのは少々疑問がある。
 現在残る主屋は安永年間に7代喜右衛門重則によって建てられた。L字型の「曲り家」造りで土間・台所に3つの入り口と、畳の間に玄関が置かれている。名主仕事の際には玄関が使われたという。南庭、長屋門、主屋のどれも江戸時代後期のもので、時代と共に屋敷の造りも進化していった様だ。平成元年に解体復元工事が行われるまで、田島家の御子孫が居宅として御使用なさっていた。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
一之江名主屋敷

没落武士と新田開発
 小田原合戦の後、江戸に移された徳川家康は城下の開発とともに江戸周辺の開拓に力を注いだ。人口が増加する江戸市中に供給する米を確保する必要があった為である。
 現在の江戸川区もそうした動きの中で開拓が行われた土地の一つであり、開拓のいくつかは、戦国の動乱の中で没落した武士達が中心となって行われた。
 真偽の程は分からないが、宇喜新田(現・宇喜田町)の宇田川喜兵衛定氏、伊豫新田(現・江戸川駅周辺)の篠原伊予実元、一之江新田(椿村)の田島図書英丈はいずれも武士であったという。
 主家が滅亡した者、戦地に残った者、敗北の末辿りついた者とその理由は様々であるが、武士としての栄達が叶わなかった彼らが、開拓者として後世にまで家名を残している事には、感慨深いものがある。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
一之江名主屋敷

江戸川区史
 現在の江戸川区域の歴史は古く、霊亀元年(715)に郷里制が施行された際に置かれた下総国葛飾郡大嶋郷の甲和里が現在の江戸川区小岩地域に該当すると言われている。甲和里については埼玉県幸手市の甲和里とも考えられており、甲和里が小岩である確証はない。しかし、郷里制が施行された時期と同時期の遺跡とされる上小岩遺跡が存在し、この時代に既に江戸川区北部には居住者が居た事が分かる。大嶋郷は平安海進の時期に文献から姿を消す。
 鎌倉時代初期、江戸川区周辺一帯を支配していた葛西清重が葛西御厨を伊勢神宮に寄進した。「葛西御厨注文」には現在の葛飾区から江戸川区に存在する地名が見られる。
 室町・戦国期においては、永正6年(1509)に今川氏親の側近の連歌師、柴屋軒宗長が小岩の善養寺に、天文15年(1546)に北条氏康が今井(江戸川)の浄興寺に訪れている。
 江戸時代になると、新田開発や新川の開削が行われ、新川は行徳からの塩や近郊の農村の野菜や成田参詣の客などを運ぶ「行徳船」の航路となった。家康が東金で鷹狩をする際には新川を船で進み、行徳から陸路を進んだという。江戸川区域自体も鷹狩に使われ、綱差役という鷹場の管理役人、加納甚内が置かれた。幕末には小岩市川関所付近で旧幕府軍と新政府軍の戦闘が起こり、幕府軍が撤退した先で市川・船橋戦争が起きた。
 明治を迎えると、蒸気船「利根川丸」が新川で運行され、成田参拝客で賑わったが、総武線が開通すると、蒸気船は姿を消した。
 戦前、新田として開発された江戸川区域は、稲作を中心とした大田園地帯であったが、戦後の人口増加や経済成長によって宅地・工業地としての需要が高まり、農地は縮小していった。そんな中でも狭い農地と粘土質な土壌・高い地下水位・深田を利用した蓮、小松菜、里芋の栽培、漁業の中で発展した浅草海苔の養殖などが行われていたが、東京の発展と共に宅地としての需要は更に高まり、現在では殆ど姿を消している。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
鹿見塚神社[一之江名主屋敷  寺社・史跡]

鹿島大神が常陸国鹿島神宮から大和国春日大社に向かう折、鹿島大神を乗せた神鹿がこの地で亡くなり、葬った。その塚を祀った社がこの神社であるという。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
鹿骨鹿島神社[一之江名主屋敷  寺社・史跡]

創建年代不詳。元々五社神明社と称していたという。由緒によれば、石井長勝、田島、中代、牧野、別系の石井の五氏が当地に移り住み、氏神を合祀したという。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大杉天祖神社[一之江名主屋敷  寺社・史跡]

創建年代は不詳。葛西御厨の一つとされる。家康が鷹狩を行った際には参拝し、境内東方の腰掛山で休憩したという。神社由緒には鎌倉の諸民がこの地に移住したとあり、鹿骨村の五氏との関係が伺われる。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
本高山城立寺[一之江名主屋敷  寺社・史跡]

田島図書が開基となり創建。以来田島家の墓所となっている。境内には田島図書一党の武具が埋められているとされ、田島家墓所にある釈迦如来坐像は田島家3代八郎兵衛尉重信が寄進したという。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
春江天祖神社[一之江名主屋敷  寺社・史跡]

元和2年(1616)三十番神社として創建。元禄7年(1694)に田島家4代七郎左衛門重勝、安政2年(1855)に10代喜右衛門重良が再建。

2020年02月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
グリーンプラザ・江戸川区郷土資料室[一之江名主屋敷  関連施設]

江戸川区郷土資料室。グリーンプラザの中にあり、江戸川区の歴史を学べる。

2019年04月07日 真田左衛門佐 信繁
一之江名主屋敷

駐車場については ちょっと行った先にあります
いなげやを過ぎてドラッグストア過ぎたあたりに 利用者用の駐車場ありますが…


2019年04月06日 TMReds 民部卿
一之江名主屋敷

地図でもわかりやすい広い敷地です。
庭の整備も行き渡り、とても綺麗な屋敷という雰囲気です。
高速のすぐ近くではありますがうるさいことはなく、スーパーやコンビニも近くにあるので、散策に適していると感じます。
門より先は撮影が憚られた(禁止だったかは覚えていません)ので投稿なしです。

2019年04月06日 いつかやる征夷大将軍やなんちゅ
一之江名主屋敷

3/27に見学に行きました。入館料は100円。駐車場や駐輪場は無かったです。自転車くらいなら敷地内に停められそうでしたが…?
京成バス停「名主屋敷」から徒歩1分程度。スーパーいなげやの裏手にあります。隣接してる数件の家の名札が田島さんなのでご子孫の方なのかもしれません。古民家や空堀の跡なども残ってるのでお近くの方は是非ご覧になって見てください。

一之江名主屋敷の周辺スポット情報

 鹿骨鹿島神社(寺社・史跡)

 鹿見塚神社(寺社・史跡)

 大杉天祖神社(寺社・史跡)

 春江天祖神社(寺社・史跡)

 本高山城立寺(寺社・史跡)

 一之江名主屋敷利用者駐車場(駐車場)

 グリーンプラザ・江戸川区郷土資料室(関連施設)

 展示室(関連施設)

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