長島高城(ながしまたかじょう)

長島高城の基本情報

通称・別名

長島屋敷

所在地

東京都江戸川区東葛西3

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

長島氏?

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

説明板(長島之碑)

周辺の城

一之江名主屋敷(東京都江戸川区)[3.4km]
城ノ台城(千葉県船橋市)[8.0km]
越中島砲台(東京都江東区)[8.2km]
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葛西清重館(東京都葛飾区)[8.5km]
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馬込勘解由屋敷(東京都中央区)[9.7km]

長島高城の解説文

長島高城は、長島氏と呼ばれる豪族の城であるとされている。

東京メトロ東西線・葛西駅近くの清光寺から香取神社の付近が城跡であったとされるが特に遺構などは残っておらず、香取神社境内に碑があるのみで詳しいことは分かっていない。

長島高城の口コミ情報

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
長島高城

 長島は現在も多くの寺が存在する寺町で、寺伝の残る中で最古の寺である梵音寺の創建は承和14年(847)と云われる。長島一帯の地質は自然堤防堆積物であり、船で移動できるほどの湿地帯であった江戸川区域の中でも古来より人の居住が可能な地域であった事が考えられる。江戸川の河口付近に位置する事から古くより湊町として栄えていたとみられるが、北小岩の様な弥生遺跡などは見つかっておらず、先史時代から長島の集落が存在していたのかは分からない。
 平安末期から鎌倉初期は葛飾区・江戸川区一帯が葛西清重の所領であり、葛西御厨として伊勢神宮に寄進されている。14世紀に葛西御厨の公田について書かれた書状には、長島の田畑三十一町七反の内、四町七反が公田とされており、三十一町七反(313830平方メートル)という広さは明治期の長島・桑川の集落の範囲とほぼ一致している。
 葛西氏の主勢力が奥州に移ると下総守護の千葉氏の影響を色濃く受けた様で、妙見島には貞治元年(1362)に妙見堂が建てられている。丁度千葉介氏胤が上総守護の座を巡って室町幕府と揉めていた時期と重なり、自らの立場に危機感を覚えた氏胤が下総守護としての地位を誇示しようとしていたのかも知れない。
 武蔵国に後北条氏の支配が及ぶようになると、江戸川区一帯はその配下の領する所となった。遠山丹波守にいくつかの村落がまとめて与えられている他は、村ごとに家臣に細かく割り当てられていた。長島は江戸太田氏の太田新六郎康資に与えられている事が所領役帳から分かる。太田氏が扇谷上杉氏の執事であった事、父の太田資高が扇谷上杉氏から離反して後北条に味方した事が影響しているのか、康資には後北条家臣の中でも高い貫高が与えられていた。それでも康資には後北条氏に仕える事に不満があったのか、永禄5年(1562)に同族岩槻太田氏の太田資正を通じて上杉謙信の下へと寝返りを図る。これが一つの要因となって第2次国府台合戦へと繋がる。
 江戸時代、寛延2年(1749)から寶暦5年(1755)にかけて青山某なる人物によって書かれた「葛飾記」には、長島がかつて長島殿という城主の城下の湊であった旨が書かれている。また長島村の北の桑川村には出戸という字があり、城門の事を指している可能性がある。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
長島高城

正円寺裏の梨園
 迅速測図を見ると、正円寺の裏手、下今井香取神社そばの駐車場にあたる場所に「梨」と書いてある。明治中期にはここは梨園だったのである。通常果樹は台地や扇状地の扇央といった水はけの良い土地で栽培される。船で往来できる程の湿地帯であったという江戸川区で梨が栽培できたという事は、この地に水はけが良い、標高が高い土地(自然堤防)があった可能性を示している。実際、梨園跡の駐車場だけ周囲より数十㎝ほど土地が高い。所領役帳では長島を「長島高城」と記載している。「高城」というのが土地の特徴を示していたとすれば、長島高城は梨園があった場所にあったのではなかろうか?
 この地に長島高城があったとすると、戦国期の長島は正円寺を中心とした門前町であったと考えられる。町の北端の高地に城と香取神社が置かれ、城の南には長島川を挟んで正円寺が位置している。正円寺から南に向かって参道が伸び、参道沿いには清光寺が置かれている。
 正円寺・下今井香取神社については創建不詳である。正円寺は自性院と共に良範法印という僧に中興されている。良範が死去した文亀元年(1501)の翌年には徳誉法印という僧が清光寺を創建しており、戦国期の長島が形作られたのはこの時期であると言える。町の中心となる正円寺の中興、清光寺の創建を行っている事から、良範・徳誉の両名は長島の領主の一族、恐らくは出家した領主本人ではないかと考えられる。
 清光寺の「清光」は葛西氏初代葛西清重の父、豊島清光と同じである(近年では清光ではなく清元であったとされる)。平安後期に豊島氏の館があった北区豊島にも、宗派は違うが「清光寺」がある。又「清」の字は葛西氏において通字の様に多用されており、長島が葛西御厨に属していた事や香取神社の存在を考慮しても、良範・徳誉の一族は葛西氏であった可能性が高い。
 後北条氏の支配が江戸周辺に及んだのは、大永4年(1524)に太田康資の父資高が扇谷上杉を離反して江戸城を攻めた以降の事と考えられる。資高が死去して康資が江戸城代を継いだのが天文16年(1547)頃とされ、康資が後北条氏を離反したのは永禄5年(1562)の事とされる。康資が長島を所領としていたのは少なくとも天文16年~永禄5年の15年程だと思われる。康資時代以降の長島に於いて良範・徳誉の一族がどのような立場にあったかは不明である。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
下今井香取神社[長島高城  寺社・史跡]

 創建不詳。桑川集落と長島集落の境に位置している事から「境の宮」と称する。本殿下には昔から石棺が埋っていると伝えられている。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
長島川跡[長島高城  その他]

 正円寺と下今井香取神社の間には小川が流れていた。この川を境に北が桑川集落、南が長島集落となっている。正円寺北の梨園は東を太日川(江戸川)、南を長島川が流れており、北側と西側は直角に区切られて土地が高くなっている。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
海寶山地蔵院正円寺[長島高城  寺社・史跡]

 創建不詳。良範法印が中興。南に参道が伸びており、参道沿いに館跡と伝えられる清光寺が創建されている事から、戦国期の長島は正円寺が中心となっていた事が考えられる。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
海潮山梵音寺[長島高城  寺社・史跡]

 承和14年(847)創建。慈覚大師が唐から帰国する際に大時化に遭って長島に漂着し、観世音菩薩を祀ったのが始まりとされる。創建年代が伝わっている中では長島最古の寺院。
慈覚大師円仁は最澄の弟子の中でも代講を任される程の秀才であった。承和5年(838)、2度の失敗を経て遣唐使と共に唐に上陸すると、短期留学の為に許可されていなかった天台山への入山を強行しようとするといった問題を起こしながらも、最澄や空海が持ち帰らなかった経典を持ち帰るなどといった功績を残した。承和9年(842)、会昌の廃仏によって帰国の途につくことになり、承和14年に山東半島から博多津に到着する。
 梵音寺の創建はこの帰国途中の事とされているが、どう考えても唐から関東を経由して博多に着くという事は考え難い。帰国後、円仁は関東で209もの寺を創建・中興したと伝えられている。浅草寺もその一つで天安元年(857)中興という。梵音寺の創建もこの頃と考えるのが妥当か?(天安元年には円仁は64歳となっており、自ら関東に向かったのかどうかも疑わしいが。)
 文保元年(1317)の板碑が御堂に収められており、葛西氏との関係も窺われる。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
一向山無量院称専寺[長島高城  寺社・史跡]

 永禄5年(1562)、誠蓮社法誉上人清教大和尚によって創建。永禄5年というと、太田康資が後北条氏を離反した年である。
 清光寺と同じ浄土宗寺院であり、良範法印が中興した正円寺の北隣にある。清教は良範・徳誉の関係者だろうか?
 葛西氏の祖葛西清重は晩年に親鸞が邸宅に滞在した際、その考えに感銘して親鸞に帰依している。親鸞は浄土真宗の祖とされているが生前に開宗したわけではなく、生涯に渡り師である法然の教えを伝承していた。法然は後に浄土宗の開祖とされており、葛西清重が感銘を受けたのは親鸞を通した法然の教えであったと考えられる。浄土宗自体が寺院数の多い宗派である為、浄土宗寺院であるから葛西清重と関わりがあるとも言えないが、長島と葛西氏の関わりを考えると何かしら関係があるのではないかと考えてしまう。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
覚王山自性院神宮寺[長島高城  寺社・史跡]

 創建不詳。正円寺と同じく良範法印が中興している。文久年間(1861-1864)に火災に遭ったため、古記録が焼失してしまっている。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
普照山智光院閻魔寺[長島高城  寺社・史跡]

 見蓮社見誉光雲が天正元年(1573)に創建。清光寺と同じ浄土宗寺院。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
茂呂香取神社[長島高城  寺社・史跡]

 創建不詳。別当寺が自性院である事から戦国期の創建であると推定されている。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
大当稲荷神社[長島高城  寺社・史跡]

創建不詳。茂呂香取神社の境外摂社。かつて馬場稲荷と称していたとされ、長島城との関連が疑われる。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
長嶋山善徳寺[長島高城  寺社・史跡]

 日延上人が開山。日延上人は寛永17年(1640)に死去したとされるので、善徳寺の創建は江戸時代に入ってからの事と考えられる。長島唯一の日蓮宗寺院であり、戦国後期から見られる、中山法華寺から行徳方面への日蓮宗寺院の広がりの一端として創建されたのであろう。

2020年12月06日 山内侍従伊右衛門俊胤
妙見島[長島高城  その他]

 長島の東を流れる江戸川には23区唯一の自然島である妙見島が浮かんでいる。自然島といってもその姿から自然を感じる事は無い。島のほぼ全域を工場が占めており、島の周囲はコンクリートの防潮堤でしっかりと囲められていて、人工島と言われても違和感を覚えない。見るものと言ってもかつての妙見堂の名残と言える妙見社が申し訳程度にあるぐらいで、そもそもの妙見堂自体が一之江の妙覚寺に移されてしまっている。歴史を知らねば気にも留めない場所だろう。
 貞治元年(1362)に妙見堂が建立された事が妙見島に関する最古の記録とされている。関東で妙見と言えばまず思い浮かぶのが千葉氏の存在であり、妙見島は千葉氏による葛西地区進出の足掛かりであると言われている。
 常胤より代々下総守護を務める千葉氏が下総国に属する葛西地区への影響力を強める事は何ら不思議ではなく、また江戸川上流には下総国府が置かれていたとされ、千葉氏にとっても長島の湊が重要であった事は想像に難くない。
 妙見島に妙見堂が建立された貞治年間は千葉氏にとって微妙な時期であった。文和元年(1352)に起きた武蔵野合戦の戦功によって千葉介氏胤は上総守護に任命された。しかし文和4年(1355)に上総守護の座が佐々木導誉に替えられ、氏胤はこれに強く反発した。佐々木導誉の代官の入国を妨害し、入国した後も上総の御家人達が下知に従わないという状態で、導誉はこれを足利尊氏に訴えた。尊氏は導誉の言い分を全面的に認めて導誉に従わない者を罰する事を許可した。それでも事態は好転しなかった様で、貞治元年(1362)には氏胤を上総守護に再任させる事となった。しかし氏胤が上総国の浄光明寺領を押領したことが訴えられ、貞治3年(1364)に再び守護を解任される。氏胤は鎌倉にて尊氏の子で初代鎌倉公方である足利基氏から叱責を受けた様で、鶴岡八幡宮下宮に立て籠もるという事件まで起こした。
 妙見堂の建立はこうした上総国を巡る氏胤と室町幕府の対立関係がある中で行われている。自らの置かれた立場に危機感を覚えた氏胤が、下総守護としての地位を誇示するために行った事なのかも知れない。氏胤の母が八幡庄曽谷の曽谷氏の出自であるので、それも関係しているのだろうか?翌貞治4年(1365)、氏胤は千葉六党の東氏の所領がある美濃国にて29歳の若さでその生涯を閉じる。

2018年09月05日 橘若狭守次郎吉
長島高城

清光寺付近が城跡とされ、城館にちなむ小字が伝えられています。清光寺の門横に説明板があります。また、長島香取神社の境内にある「長島之碑」にも長島高城についての記載があります。長島香取神社も城域に含まれるとされています。
長島高城跡の東を流れる旧江戸川からは東京スカイツリーを望むことができます。特に浦安橋からはキレイに見えます。

2011年09月13日 ピカドラ
長島高城

東西線葛西駅より一之江駅行きバスで東葛西三丁目下車すると比定地の清光寺に着く。残念ながら遺構は見当たらぬ。江戸時代中頃の寛延二年1749青山某氏の覚書に由ると既に城館と湊、津は跡形も無いとのことだ。逝くものは云々と太日川(江戸川)の畔で思う。


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