葛西清重館(かさいきよしげやかた)

葛西清重館の基本情報

通称・別名

所在地

東京都葛飾区四つ木1-25-8

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

葛西清重

築城年

鎌倉時代

主な改修者

主な城主

葛西氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

説明板(葛西三郎清重の遺跡)

周辺の城

石浜城(東京都荒川区)[2.4km]
葛西城(東京都葛飾区)[3.0km]
小菅御殿(東京都葛飾区)[3.2km]
中曽根城(東京都足立区)[5.6km]
吉良上野介邸(東京都墨田区)[5.8km]
国府台城(千葉県市川市)[6.0km]
浅草見附(東京都台東区)[6.1km]
道灌山(東京都荒川区)[6.2km]
一之江名主屋敷(東京都江戸川区)[6.4km]
本郷城(東京都文京区)[7.0km]

葛西清重館の解説文

葛西清重館は、その名の通り葛西清重の居館であったとされる。

葛西清重は、平安時代末期から鎌倉時代に掛けて武蔵国豊島郡を領有した武将である豊島清光(清元)の3男で、葛西氏を称して下総国葛西荘を本拠としていた。

後に源頼朝に従い、奥州藤原氏攻めで戦功を挙げるなど活躍した人物であった。

晩年になり出家し、居館があった場所に創設したのが今も当地に残る西光寺であると言われる。

葛西清重館の口コミ情報

2023年06月29日 武蔵守のむげん
葛西清重館



西光寺の門前に説明板を確認したのみ。鎌倉時代の豪族が、現代の土地名の由来になっているのは感慨深いです。

2023年03月31日 マタローちゃん修理大夫
葛西清重館



電車の場合、四ツ木駅から商店街を約200mほど北上し、左側にあるセブンイレブンの角を左折すると正面に見える。車でアプローチする場合、国道6号から都心に向かい四ツ木横断歩道橋のたもとを鈍角に左折。直ぐに小川が流れているのでその右岸メダカの小道を進むと一時停止がある。そこの先と斜め左に進んだ先に西光寺の駐車場がある。

2021年12月26日 うっちー外記幸村
渋江陣屋[葛西清重館  周辺城郭]

里見氏の陣屋。(山中氏の陣屋説もあり。)

2021年12月26日 うっちー外記幸村
立石堀の内[葛西清重館  周辺城郭]

新編武蔵国土記稿の立石村の小字名に“堀之内”の地名が存在する。平安時代から開発されていると推定されている。周辺の武士の居館跡の可能性あり。

“立石堀の内”
・“堀”がつく地名は城郭跡地の可能性あり!

参考 日本城郭大系第5巻 埼玉・東京

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
葛西清重館

葛西清重の参陣
 葛西清重は『吾妻鏡』に44年にも渡り登場し、その人生の大部分を把握する事が出来る。

 清重は秩父平氏豊島清元の三男とされる。葛西とは「葛飾の西」、現在の葛飾区・江戸川区・墨田区・江東区周辺の地域を指す。 
 『香取社造営次第』では治承元年(1177)に「葛西三郎清基」の名が確認できる。豊島氏は現在の北区豊島周辺を本拠としていたが、清元の代で葛西地域の開発に着手し、清重が受け継いだのであろう。建久4年(1193)の『神鳳鈔』には「葛西猿俣御厨」が記載されている。猿俣とは現在の葛飾区西水元周辺を指し、開発初期の葛西御厨中心地と考えられる。

 『平家物語「早馬」』には、治承4年(1180)8月、畠山重忠と共に衣笠城を攻めた秩父平氏の中に「笠井」の名が見える。この「笠井」とは清元を指す可能性があるが、清重は父と行動を共にしていたと考えられる。

 石橋山合戦の後、安房に逃れた頼朝は千葉常胤・上総広常等を味方につけ、武蔵国への進出を図った。『吾妻鏡』によると、治承4年9月3日に清元・清重に参上を要請。特に清重を「於源家抽忠節者」と高く評価している。先の「衣笠城合戦」での記述を事実と考えると「抽忠節者」と評するには少々無理があるように思えるが、後の清重の栄達を加味した記述なのだろう。もしくは強固な同族意識で繋がった秩父平氏の切り崩しに、傍流豊島氏の若武者清重を利用しようとしたのかも知れない。個人的には関係の深かった千葉常胤の推挙があったのではないかと思っている。

 思惑はさておき、清重は頼朝の誘いに快諾した様だ。同月29日に江戸重長の暗殺を命じた際も、頼朝は「淸重依不存貳」と清重の忠義に疑いはないとしている。一方の清重であるが、実録性の高いとされる仏教説話集『沙石集』において、以下のような話が記述されている。「頼朝は重長の所領を召し上げ、清重に与えようと提案した。しかし清重は『御恩を賜りたいのは、一族の為である。親しき重長に過失があり召し上げるのであれば、困窮する者に与えて欲しい。』と返答した。頼朝は不快に思い、受け取らないというのであれば清重の所領も取り上げると叱った。清重はそれでも受け取る事は出来ないと返した。」清重は同族の縁も無下にはしないと表明しており、後の江戸・河越・畠山の臣従にも清重の奔走があった事を感じさせる。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
葛西清重館

葛西清重の栄達
 治承4年10月2日、清重は父と共に頼朝の元に参陣。頼朝は清重を甚く気に入っていた様で、11月10日、佐竹源氏との抗争の帰路に清重の屋敷に宿泊して武蔵国丸子庄を与えている。

 治承5年(1181)4月7日、頼朝の寝所護衛に選ばれ、以降重要な式典等に参加する様になる。元暦元年(1184)8月8日に源範頼の平家討伐に随伴。元暦2年(1185)3月11日に頼朝から感状を受け取った。これは範頼が「九州に同道した御家人達が下知に従わない。」と相談した事への対応であり、頼朝は範頼に御家人を大切に扱う様にと諭し、一方で功績のあった御家人に感状を与える事で御家人達のモチベーション維持を図ったとみられる。

 文治5年(1189)7月19日の奥州征伐では、父と共に鎌倉から出陣。8月9日の厚樫山合戦では、三浦義村等と共に先陣の畠山重忠を追い抜き戦闘を開始している。この時清重は頼朝から武蔵や上野の御家人を預けられていた。

 奥州征伐後の9月22日、奥州御家人の差配を任され、24日には数か所の所領と共に檢非違使所管領職を与えられる。清重は人事権・警察権を与えられた事で、奥州における頼朝の代理を任されたと考える事が出来る。

 建久元年(1190)11月7日、頼朝の上洛に随伴。同年に伊沢家景が陸奥国留守職に就任しており、これは清重を上洛に随伴させるための人事であったとも受け取れる。頼朝の参内にも随伴し、12月11日には右兵衛尉に任官している。
 鎌倉帰省後は、建久2年~建久5年(1194)にかけて鎌倉周辺の式典などに清重の名が見える。

 建久6年(1195)2月の頼朝上洛にも随伴、同年には平泉毛越寺の塔の修繕や藤原秀衡未亡人への配慮を伊沢家景と共に下知されている為、頼朝の傍に居ながら奥州の差配も担っていたとみられる。
 頼朝の死後は、反梶原景時同盟に参加する他、頼家の鶴岡八幡宮参詣や相模川鵜飼見物に同伴している。

 元久2年(1205)6月、畠山重忠が北条時政に排除された際には、重忠討伐の先陣を担った。後に江間義時が時政を追放する原因となった出来事として扱われる事件である。同じ秩父平氏で御家人達の信頼も厚かった重忠。その討伐の先陣を任された清重の心中は如何なるものであったのだろうか?

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
葛西清重館

葛西清重の晩年
 重忠死後、50代に差し掛かっていた清重は、現場指揮官としての役割よりも鎌倉の宿老としての役割が主になった。建暦元年(1211)7月8日の政子と坊門信子の相模国日向薬師参拝、建暦2年(1212)1月19日の実朝の鶴岡八幡宮参拝、建暦3年(1213)8月20日の新御所への引越し、建保2年(1214)7月27日の大慈寺の開眼供養落成式にその名が見える。

 建保7年(1219)1月27日、実朝の鶴岡八幡宮参拝に随伴、この日実朝は頼家の子である公暁に暗殺された。承久元年(1219)7月19日、将軍として鎌倉に入った藤原頼経が北条義時の屋敷に向かう際、その行列に同行。承久3年(1221)5月、「承久の乱」における北条泰時の上洛には同行せず、義時と共に鎌倉に残っている。この時清重は「壹岐入道」と記されており、既に出家隠居の身であったと考えられる。

 西光寺の伝承では、「清重は晩年に現在の四ツ木に屋敷を構えた。嘉禄元年(1225)、清重の元に東国布教を行っていた親鸞が訪れ、雨の為に53日間屋敷に滞在する事となった。清重はこの間に親鸞から浄土信仰の教えを聞き、感銘を受けて親鸞の弟子になり出家、法名を西光坊定蓮として自らの屋敷を西光寺とした。」とされる。承久3年5月の段階で「壹岐入道」と記されている為、寺伝とは多少の時期のズレがあるが、おおよそこの時期に出家したという事は事実であろう。

 『吾妻鏡』における清重の最期の記述は貞応3年(1224)閏7月1日の事である。義時急死後に泰時と政村が執権後継を争ったとされる所謂「伊賀氏の変」が起きた際、清重は他の古参御家人と共に泰時の屋敷に呼び出された。政子は北条時房を通じて古参の団結を呼びかけており、この時63歳頃であった清重は葛西氏を含めた秩父平氏の相談役的な立場にあったと考えられる。

 『香取神宮文書』によると、「伊賀氏の変」の3年後、嘉禄3年(1227)の香取社正神殿造営の所役を「壹岐入道」が負担しているとある(『秩父平氏の盛衰-畠山重忠と葛西清重-』の谷口榮氏の記述より)。『盛岡葛西系図』によれば、清重は香取社正神殿造営の11年後、暦仁元年(1238)9月に77歳という高齢で天寿を全うしたとされる。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
渋江白髭神社[葛西清重館  寺社・史跡]

渋江と清重の弟
 渋江白髭神社の創建は不詳。旧別当寺の清宝山観正寺が延徳3年(1491)に創建されたとの事から、それ以前の創建と考えられている。
 「渋江」の地名は応永5年(1398)の『葛西御厨田数注文写』にも記載されており、当時は一帯を「渋江」と呼称していた事が考えられる。清重晩年の館もこの地に建てられており、宝町にあるもう一つの西光寺の山号も「渋江山」である。

 『千葉大系図』には、「渋江小四郎有光」という人物が記載されている。渋江四郎常光の子で、兄弟に箕勾太郎経能、八條五郎光平がいるとされている。ここにおける「渋江」とは現在のさいたま市岩槻区の辺りを指しており、渋江小四郎有光は当地を領していた人物と認識できる。

 一方、鎌倉末期に作成されたとされる『中条家文書「桓武平氏諸流系図」』『入来院家所蔵平氏系図』には葛西清重の弟として「笑田(箕田)四郎有光」の名が記されている(有光の名字は山形大学附属図書館の『中条家文書目録データベース』で見られる『桓武平氏諸流系図』では「笑田」と記載してある様に見受けられ、山口隼正氏の『入来院家所蔵平氏系図について(上)』に載せられた『入来院家所蔵平氏系図』では「箕田」と記載してある様に見受けられる)。

 渋江小四郎有光の弟の八條五郎光平は『吾妻鏡』建暦3年(1213)5月17日の記述に登場する「澁江五郎光衡」と同一人物とされる事から、渋江小四郎有光と笑田(箕田)四郎有光は同時代の人物である事も推定される。

 引っ掛かるのは、同時代に場所は違えど「渋江」に関わりのある「四郎(小四郎)有光」という人物が二人いる事である。偶然である事も十分考えられるが、「葛西清重の領地である“渋江にいた四郎有光”という人物が後の時代に“渋江小四郎有光”という渋江氏の人物として纏められた。」という可能性が頭を過ってしまう。

 渋江氏については深く調査していないのでよく分からず、また笑田(箕田)四郎有光についても史料が無い様でよく分からない。そもそも「有光」の名も「豊島清光」同様に書き間違えられた名前である可能性すら考えられる。ただの与太話である。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
渋江山清重院西光寺[葛西清重館  寺社・史跡]

 元仁元年(1224)、葛西清重の草庵として創建されたという。境内には親鸞聖人袈裟かけの松があったとされる。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
摂取山蓮池院光増寺[葛西清重館  寺社・史跡]

 貞応元年(1222)、法海が結んだ草庵を起源とするという。元仁元年(1224)5月、この地に立ち寄った親鸞に法海が帰依し、貞永元年(1232)8月に再び親鸞が訪れた際に浄土宗寺院となったという。清重に出会った頃の親鸞の足跡を垣間見る事が出来る。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
晴河山法泉寺[葛西清重館  寺社・史跡]

 葛西清重が両親の供養のために建立したという。清重の父は豊島清元、母は下河辺行義の娘とも秩父重弘の娘ともされる。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
水元神社[葛西清重館  寺社・史跡]

創建不詳。水元公園建設の際周辺の浅間・熊野・吾妻・天祖の4社を合祀しているが、元々は香取社であったという。西水元は元々「猿俣」という地名であり『神鳳鈔』には「葛西猿俣御厨」とある事から、元々の葛西御厨の中心地であったことが考えられる。葛西氏は清重の父清元の代から千葉氏と共に香取神宮の造営を担っており、水元の香取社はそうした背景の下で創建されたと考えられる。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
葛西神社[葛西清重館  寺社・史跡]

 元暦2年(1185)、葛西清重が香取神宮を分霊勧請したものと云われる。葛西三十三郷の総鎮守であったという。

 かつての葛西御厨に該当する地域には、葛西御厨が伊勢神宮領であった事と葛西氏が香取神宮の社殿造営を担当していた事から天祖神社・香取神社が多く存在する。葛飾区だけでも西水元天祖神社・東水元香取神社・高砂天祖神社・亀有香取神社・上千葉香取神社・奥戸天祖神社・下小松天祖神社・上平井天祖神社等があり、江戸川区などの物も含めれば更に多くの天祖神社・香取神社がある。該当地域で天祖神社・神明宮や香取神社を見つけた際に「葛西清重に関わる神社かも?」と思えれば、神社の見方が少し変わるかも知れない。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
日照山源光院普賢寺[葛西清重館  寺社・史跡]

葛西兵衛尉入道寂昌が治承4年(1180)に創建したという。創建年と「兵衛尉」とある事から考えると、寂昌とは清重の事と思われる。建治元年(1275)、和田北条合戦で領主葛西民部少輔が討死し、寺も焼亡。3歳であった民部少輔の子六郎常則は母と共にこの地から立ち退き、後に戻って弘安6年(1283)に薬師堂を再興したという。しかし和田合戦は建暦3年(1213)に起きた出来事であり、この辺りの伝承は怪しい。

建治元年というと、前年に元寇(文永の役)が起きている。文永の役には下総守護である千葉介頼胤も出陣しており、頼胤はこの時の負傷が原因で建治元年8月に死去したとされる。

頼胤は自らの拠点を千葉から国府近くに移していたとされており、普賢寺は下総国府からもそう遠くない位置にある。上記の普賢寺に関わる伝承は頼胤の元寇に関する事柄が変容したものではないかと考えられる。もしくは、葛西御厨に残っていた葛西氏の一族であった民部少輔が、守護である頼胤の九州出陣に随行し、元軍との戦いによって討死したという事があったのかも知れない。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
王子白髭神社[葛西清重館  寺社・史跡]

清和天皇の第7皇子貞辰親王が元慶元年(938)にこの地で死去、塚を築いたのが始まりとされる。荒川放水路開削時に現在地に遷座された。貞辰親王は当社の他に向島の牛島神社でも祀られている。貞辰親王の異母兄には、後に頼朝を輩出する河内源氏を含めた清和源氏の祖たる貞純親王がいる。後の河内源氏と東国の関わりに何か関係があるのだろうか?

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
青松山金剛院正福寺[葛西清重館  寺社・史跡]

 行基が現在照明寺が置かれている場所に創建。治承4年、頼朝がこの地に陣を張った所、葛西氏を始め多くの御家人が参陣。これを神仏の加護によるものとした頼朝から寺領50石を寄進されたと云われる。

 『吾妻鏡』によると、頼朝は10月2日に太日川・隅田川を渡り、豊島清元・葛西清重と合流、「隅田宿」に入った。頼朝は「鷺沼宿」から「隅田宿」へと移ったとみられ、鷺沼は葛飾区新宿とも習志野市鷺沼ともされる。頼朝は9月17日に下総国府で千葉常胤と合流、9月19日に隅田川の川辺で上総広常と合流した。9月28日には江戸重長へ参陣要請の使いを出す一方で、翌日には葛西清重に重長の暗殺を命じている。房総平氏との合流前後の9月中は武蔵国への工作を行っていたとみられ、その間は国境付近を転々としていた事が考えられる。その最中で正福寺にも宿泊した可能性はある。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
若宮八幡宮[葛西清重館  寺社・史跡]

文治年間(1185~1190)、頼朝が奥州征伐の道中に戦勝を祈願し、帰還後に創建したという。より正確には文治5年(1189)に創建されたのだろう。荒川放水路開削により現在地に遷座したとみられる。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
立石様(立石稲荷神社)[葛西清重館  寺社・史跡]

平安時代に設置された古代東海道に付随する道標と考えられている。葛西清重館も古代東海道(鎌倉街道下道)沿いにあったとされ、清重は鎌倉への交通の便を考えていたと思われる。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
立石熊野神社[葛西清重館  寺社・史跡]

長保年間(999~1004)、かの安倍晴明によって勧請されたという。熊野信仰は豊島氏が厚く信仰していた事が知られている。

長保年間は豊島清元の曾祖父秩父六郎大夫武恒とその父武蔵権守将恒の時代である。『千葉大系図』によれば、将恒は治安3年(1023)5月に武蔵介藤原眞枝討伐の功で下総国葛西郡を賜ったとされる。豊島氏と熊野信仰の関わりを考える上で、考慮の一端に入れるべき存在であると思う。

2021年05月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
五方山南蔵院立石寺[葛西清重館  寺社・史跡]

立石熊野神社の別当寺として長保年間に創建されたという。境内には古墳があったという。

葛西清重館の周辺スポット情報

 古代東海道・説明板(碑・説明板)

 古代東海道・道標(碑・説明板)

 古代東海道・説明板(碑・説明板)

 立石堀の内(周辺城郭)

 渋江陣屋(周辺城郭)

 五方山南蔵院立石寺(寺社・史跡)

 立石熊野神社(寺社・史跡)

 立石様(立石稲荷神社)(寺社・史跡)

 若宮八幡宮(寺社・史跡)

 青松山金剛院正福寺(寺社・史跡)

 王子白髭神社(寺社・史跡)

 日照山源光院普賢寺(寺社・史跡)

 葛西神社(寺社・史跡)

 水元神社(寺社・史跡)

 晴河山法泉寺(寺社・史跡)

 摂取山蓮池院光増寺(寺社・史跡)

 渋江山清重院西光寺(寺社・史跡)

 渋江白髭神社(寺社・史跡)

 梅若塚(寺社・史跡)

 真光院(寺社・史跡)

 葛西清重墓(寺社・史跡)

 木根川薬師(寺社・史跡)

 浄光寺(寺社・史跡)

 柴又帝釈天(寺社・史跡)

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