小菅御殿(こすげごてん)

小菅御殿の基本情報

通称・別名

所在地

東京都葛飾区小菅1(東京拘置所)

旧国名

武蔵国

分類・構造

御殿

天守構造

なし

築城主

徳川吉宗

築城年

元文元年(1736)

主な改修者

主な城主

徳川幕府

廃城年

遺構

灯籠

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

中曽根城(東京都足立区)[2.9km]
葛西清重館(東京都葛飾区)[3.2km]
石浜城(東京都荒川区)[3.4km]
葛西城(東京都葛飾区)[3.6km]
宮城氏館(東京都足立区)[5.2km]

小菅御殿の解説文

小菅御殿は、徳川将軍が鷹狩りの際の休息所として設けた屋敷。

江戸初期は関東郡代であった伊奈氏の屋敷があったが、鷹狩りを好んだ8代将軍・徳川吉宗によって鷹狩りの際の休息所が設けられた。

その後、屋敷は焼失し籾蔵として利用された。

明治初期に小菅監獄となり、現在では東京拘置所が置かれている。

小菅御殿の口コミ情報

佐野兵部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年05月10日]
小菅の地名と小菅氏
葛飾区によれば、「小菅という地名は江戸時代の資料に見られ、「菅」とは、「かや」や「ヨシ」のことであり、小菅の辺りは古隅田川に面していて、「かや」や「ヨシ」が多く生えていたことから地名につけられたと考えられている」という。一方で、別の記述がされている物もあった。「小菅は元々、千葉袋と呼ばれる地域の一部であり、千葉氏の大須賀一族が移り住み、小菅氏が治めた事がいわれとされる」というものである。少し気になったので、調べてみた。小菅氏は千葉六党の一つ、大須賀氏の支流で2代大須賀胤氏の四男為信の曾孫、為也が香取郡小菅(成田市に小菅という地名がある)に住んで小菅を称したという。大須賀氏は享徳の乱の折、大須賀左馬憲康が幕府の命令で来た東常縁に従い、千葉宗家を滅ぼした馬加康胤と戦っている。このことから、大須賀一族の小菅氏が宗家側の千葉実胤・自胤兄弟に付き従い、武蔵千葉氏の配下となった可能性も考えられないことはない。千葉氏の一族の中には現在の佐野新田(足立区佐野)を開発した佐野新蔵胤信や千住掃部宿(仲町)を開発した石出掃部介吉胤などがいる。

佐野兵部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年05月10日]
近藤勇、最後の一つ前の地
小菅御殿の北東、現在綾瀬駅のある場所周辺は、元々、五兵衛新田という土地であった。江戸時代初頭、金子五兵衛によって開拓されて以降、金子家が名主を勤めてきた。時を経て慶応4年(1868)3月13日、この地に幕末を象徴するある集団が訪れる。甲州勝沼の戦いに破れ、江戸に戻ってきた新撰組である。前日に永倉新八、原田左之助らが靖兵隊を結成して離隊しており、この地に屯所を構えた時には、隊士が48名しかいなかった。しかし、土方が到着した15日には、100名を越え、4月1日には227名に達した。当時の金子家当主は名主見習の22歳、金子健十郎で、屯所には食材、用材、雑貨、燃料と様々な物資が供給され、村総出で新撰組を支援した。新撰組に対する支援を幕府への奉仕活動と見ていたようだ。新政府軍が千住宿まで進出した為、新選組は4月1日の夜には移動を始め、流山へと向かって行った。この後、近藤勇は捕縛され、板橋にて処刑される。過ごした時間はわずか19日間であったが、綾瀬の地に彼らが居たという痕跡は今も街に残っている。

佐野兵部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年05月10日]
水戸光圀と切られ地蔵
御殿の南東、綾瀬川に架かる水戸橋は水戸光圀が名付け親であるという。伝承によると、水戸光圀一行が旅の途中で、小菅村に出る妖怪を退治した。妖怪の正体は親をならず者に殺された狸で、子狸が退治されそうになったとき、近くの地蔵が身代わりとなった。それを知った光圀は自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に平穏を願って「水戸橋」と書き記したという。身代わりとなった地蔵は下流の正覚寺に安置してあるというので、その正覚寺に行ってみた。正覚寺には、地蔵に関して異なる話が書かれていた。元禄の頃、夜になるとこの地蔵の付近で、美女が旅人を悩ますという噂が立った。これを聞いた光圀は地蔵の首を一刀のもとに切り捨てたが、以降首が行方不明となり、正覚寺で新しい首をつけた。首は後に寺の近くで掘り出され、別の箱に入れて供養しているという。同じ地蔵の話でも、随分と様相が異なる。「切られ地蔵」の昔話は各地にあるようで、近場では松戸本福寺、遠方では愛知県の止々馬木で切られ地蔵の話が伝わっている。周辺で水戸光圀に関わる寺としては他にも光圀の眼の痛みを治した薬師如来が座する薬師寺がある。

佐野兵部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年05月10日]
小菅御殿の狐穴
小菅稲荷神社の本殿の地面には、空井戸を利用した抜け穴があったという。有事の際、御殿に逗留している将軍を避難させるために備えたものだ。しかし明治になり、県庁を建てる際に不要であると埋められた。すると庁舎内で事故が相次ぐようになった。ある夜、心痛の役人の夢枕に1匹の白狐が現れた。曰く「私はいにしえからこの小菅稲荷の『使い姫』として、空井戸に棲んでいた狐の一族の長老である。この程我らの住居を埋められて大変に難渋している。速やかに穴を元に戻すように。」との事で、早速言われた通りに穴を元に戻すと、以降ぱったりと事故が起こらなくなったという。神社は元々御殿の敷地内にあり、昭和に現在の地に移されたと伝わっている。現在の本殿の地面にも穴があるというのだが、それが元の狐穴を模したものなのか、それとも、抜け穴の出口であるのかは分からない。

佐野兵部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年05月10日]
小菅御囲の鎮守、八幡社
拘置所の南東、水戸橋付近に小さな石造りの社がある。ここには元々「八幡山」と呼ばれる高台があり、その上に創建年代不明の八幡社があったという。元禄12年(1699)、5代将軍綱吉のもとで老中格と侍従を兼帯していた柳沢吉保は、伊奈氏の下屋敷の敷地を与えられ、翌13年に小菅御囲の鎮守としてこの八幡社を再興した。御囲とは、生類憐れみの令にて設置された犬小屋の事である。小菅に犬小屋が置かれたという事は聞いたことがないが、側用人の屋敷を収公して犬小屋が建設された例もあるので、その中であった事なのかも知れない。当地は享保元年(1716)伊奈忠順に返還され、元文元年(1736)に小菅御殿が屋敷内に建設される。「小菅御殿古図」には「八マン」と記載されており、鳥居が描かれている。八幡社は後の水戸橋架け替えに伴い取り壊され、現在の石造りの社のみが残る。

佐野兵部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年05月10日]
小菅御殿の歴史は寛永年間、3代将軍家光が、関東郡代伊奈忠治に、下屋敷の敷地として与えたのが、始まりである。当時、忠治は武蔵国北部の土木事業を行っており、事業遂行の為にこの地が与えられたのではないかと考えられる。その後、8代将軍吉宗の命により小菅御殿が造営される。「小菅丸」という豪華な遊覧船で隅田川から綾瀬川へ上がり、水戸橋の水門付近から水戸佐倉道を経て御殿に通ったという。しかし、寛政4年(1792)、伊奈忠尊の代に家督争いが起き、伊奈氏が改易となると、御殿も寛政6年(1794)に取り壊しとなる。広大な跡地はその後40年近く放置されるが、天保3年(1832)に老中松平定信によって江戸町会所の籾倉が建てられた。江戸市街に近く、火災の心配が少なく、水運の便の良く、何よりも官有地であったことが理由とされる。明治維新後は廃藩置県まで小菅県が置かれ、県庁・仮牢(今で言う留置所、または臨時で造られた牢屋)として利用された。廃藩置県の後は民間に払い下げられ、民営初の洋式煉瓦工場が設立される。明治11年には小菅監獄となり、以降は刑務所を経て、拘置所として現在まで使われている。

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