豊島氏館(としましやかた)

豊島氏館の基本情報

通称・別名

豊島清光館

所在地

東京都北区豊島7(清光寺)

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

豊島清光

築城年

鎌倉時代

主な改修者

主な城主

豊島氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

宮城氏館(東京都足立区)[1.5km]
滝野川城(東京都北区)[2.0km]
平塚城(東京都北区)[2.3km]
稲付城(東京都北区)[2.4km]
平柳蔵人館(埼玉県川口市)[3.4km]
中曽根城(東京都足立区)[3.8km]
駒込名主屋敷(東京都文京区)[4.2km]
道灌山(東京都荒川区)[4.3km]
板橋城(東京都板橋区)[5.2km]
志村城(東京都板橋区)[5.3km]

豊島氏館の解説文

豊島氏館は、豊島氏4代目と言われる豊島清光の居館である。

豊島氏は、秩父氏(平氏)の庶流で、武蔵国豊島郡を領有していた。

葛飾区にある葛西清重館の葛西清重は、この豊島清光の息子である。

現在は清光寺がある場所が館跡とされ、説明板もあるが、遺構などは発見されていない。

豊島氏館の口コミ情報

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
豊島氏館

豊島氏館と鎌倉街道
 豊嶋馬場遺跡の存在から、豊島には古墳時代初期から居住者がいた事が考えられる。『千葉大系図』によれば、豊島清元の高祖父平将恒は治安3年(1023)4月に藤原眞枝を破った功で、駿河国益頭郡・武蔵国豊島郡・上総国埴生郡・下総国葛西郡を賜ったとされる。これが事実かは不明だが、『桓武平氏諸流系図』『入来院家所蔵平氏系図』『山内首藤氏系図』『源平闘諍録』、王子神社、そして葛西清重の存在から、清元の代には少なくとも豊島・平塚・滝野川・王子・志村・葛西猿股周辺が豊島氏の領地であったと考えられる。

 豊島氏館は東側を隅田川が回り込む様に蛇行しており、自然堤防を利用した館であったと考えられる。医王山清光寺の周辺90坪(297.5平方m)程が館であったいい、寺の縁起には「保元2年(1157)、豊島康家の開基で七堂伽藍が建立された」とある。豊島氏館は持仏堂としても機能していたのであろう。

 文化年間(1804~1814)の『埋木の花(江都古墳志)』には、清光寺周辺が絵図で紹介されている。それによると、清光寺の南側、門の辺りまでを「御殿跡」と呼び、清光寺の西側、紀州神社との間に「坪の間(弁天社があった)」「寝間」「馬場」と呼ばれた土地があった様だ。『TOKYO北区のKITAみち~目で見る北区の歴史~』によると西福寺の辺りは「築地」という地名であったといい、清光寺から南東にかけて屋敷地が広がっていた事が考えられる。

 『吾妻鏡』の建長8年(1256)6月2日の項に「奥大道」の夜討強盜警戒についての記述があり、沿道の地頭等が記載されている。「奥大道」は頼朝が奥州征伐の際に利用した「中路」と同一とされる、所謂「鎌倉街道中道」である。沿道の地頭から推定するに、鎌倉を出て平間(川崎市中原区上平間)、宮城?(足立区宮城、宮城県仙台市の可能性あり)、伊古宇(足立区伊興)、矢古宇(川口市・草加市)、鳩ヶ谷(川口市)、澁江(さいたま市岩槻区)、淸久(久喜市)を通って小山・宇都宮方面へと続いていたと考えられる。また陸上自衛隊十条駐屯地で見つかった「十条久保遺跡」から当該地に街道が通っていた事が分かっており、「奥大道」は十條から宮城・伊興へと繋がっていたとみられる。豊島氏館はこの十條~伊興の街道沿いにあった事が考えられ、陸路の拠点としても機能していた可能性がある。

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
豊島氏館

豊島氏の系図
 豊島氏は関東に下向した桓武平氏の一族である。戦国中期に滅亡している為、その系図は宮城氏によって作られた『豊島宮城系図』と江戸時代前期の旗本豊島泰盈が作成した『泰盈本豊島家系図』『金輪寺本豊島家系図』に頼る所が大きかった。しかし宮城氏についてはそもそも豊島一族の出自では無い可能性が指摘されており、残された書状や寺伝を基に豊島泰盈が作成した系図についても信憑性に難があると言わざるを得ないという。

 そうした状況の中、昭和47年(1972)に三浦党和田一族中条氏の子孫中条敦氏が山形大学に古文書を寄贈した。その古文書の中に北条氏や伊勢平氏といった桓武平氏の系譜をまとめた鎌倉時代末期の系図『桓武平氏諸流系図』があり、系図の中には平忠頼から葛西清重の孫時清までの系譜も記載されていた。

 葛西清重は豊島清元の子であり、葛西氏の系図はそのまま豊島氏の系図となっている。その為、系図には清元の兄弟である四郎俊経や平塚入道、俊経の子兵衛尉遠経、清重の兄弟である左衛門尉有経、笑田(箕田?)四郎有光(元?)、五郎家員の名が記載されている。

 更に平成10年(1998)、山口隼正氏の調査により入来院家(薩摩に下向した秩父平氏渋谷氏の一族)に所蔵されていた平氏の系図が発見された。この系図も鎌倉末期に作成された物らしく、有経の次代に又太郎時光、更にその次代に平六経泰の名が記載されている。

 これらの系図が発見された事で、清重の父の名が「清元」である事(『北区史 通史編 中世』の黒田基樹氏の記述によると「清光」は清元の誤記である可能性が高いが、清元の法名である可能性もあるという)、鎌倉時代の豊島氏の系譜が清元-有経-時光-経泰である事が示された。

 『吾妻鏡』には先の系図に記載される人物の他にも、豊島右馬允朝経(建仁元年(1201)7月に土佐守護を拝命し、建仁3年(1203)10月に討死した事が記されている。有経の父もしくは子とされる人物であるが、先の系図には記載が無く、どういった立ち位置の人物か不明。今野慶信氏は清元の甥である兵衛尉遠経と同一人物とみている)をはじめ、豊嶋八郎、豊島小太郎、豊島九郎小太郎、豊島十郎、豊島太郎と言った人物が登場する。

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
豊島氏館

豊島清元
 平忠常の乱を河内源氏初代の源頼信が収めた頃、一部の関東平氏が河内源氏と主従関係を結ぶようになった。豊島氏もこの頃に河内源氏の郎党になったとみられている。『神明鏡』では、「前九年の役」にて源頼義(頼信の子)が壊滅状態に陥った際、清元の祖父豊島平傔仗経家が敗走する頼義に付き従ったとされている。

 保元元年(1156)の「保元の乱」を伝える『保元物語』では、「武蔵国住人、豊島四郎も、須藤九郎に弓手の太股を射させ」とあり、清元の弟四郎俊経が源義朝に付き従って白河殿の夜襲に参加している事が分かる。

 『山内首藤氏系図』には、「号滝口次郎 家通 平治元年源平京都合戦之問、搆源氏兵 於武蔵国滝河、外嶋権守被誅畢」とあり、平治元年(1159)に「滝口次郎家通」なる山内首藤氏の者を「外嶋権守」が殺害したと記されている。この「外嶋権守」が清元であるとされ、史料に記された清元の動向の中では最も古いものとみられる。山内首藤氏は代々の河内源氏郎党であり、関係の深い一族である。しかし「搆源氏兵」という一文から家通は源氏方と敵対していたという説もあり、当時の清元の立場はよく分からない。

 文永8年(1271)の『香取社造営所役注文案』によると、清元は治承元年(1177)に香取社遷宮に正神殿雑掌として関わっている。以降、香取社社殿造営は千葉氏と葛西氏が交代で行っており、葛西氏と香取神宮、そして千葉氏との関係が窺える。

 『吾妻鏡』では治承4年(1180)9月3日の記述が清元の初出となる。安房に逃れた頼朝が4人の武将に参上を促す手紙を送ったという話で、内2人が豊島権守清元と葛西三郎清重である(この時、頼朝は在京していて不在だった右馬允朝経の妻に綿入れ{防寒用の衣類}を作って寄越すように命じている)。10月2日に頼朝の前に参上し、御家人の列に加わった。元暦元年(1184)5月1日、源義高の残党捜索の為に信濃に下向した御家人達の中に「豊島」が確認でき、清元の可能性がある。以降清元の存在が『吾妻鏡』にて確認できたのは、文治元年(1185)10月24日の勝長寿院落慶供養での警備、文治5年(1189)7月19日の鎌倉出陣のみで、翌建久元年(1190)5月29日の記述では息子の有経が豊嶋権守と記載されている。清元は文治5年7月~建久元年5月の間に死去したのだろうか?

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
豊島若宮八幡社[豊島氏館  寺社・史跡]



豊嶋次郎
 豊島若宮八幡社は乗馬の稽古中に誤って荒川に落ち早世した清元の子、豊島清泰の霊を祀るために創建されたという。豊島清泰の名は豊島氏に関する系図・文献には記載が無く、伝説上の人物とされている。様々探してみると、宮城県登米市登米町寺池道場にある桁淵山龍源寺の過去帳に清光の子供についての記載がある事が分かった(萬年一氏の『関東葛西氏と奥州葛西記』より)。過去帳によると清光には4男2女がおり、長男清康・次男太郎朝経・三男三郎清重・四男四郎重元・一女足立宮内少輔室(六阿弥陀伝説の清光娘)・二女不明となっている。清康は早世したとあり、若宮八幡社の伝承と重なる。

 一方、『桓武平氏諸流系図』には清元の4人の息子「豊島左衛門尉有経」「葛西三郎清重」「箕田(笑田?)四郎有光(元?)」「豊島五郎家員」が記載されているが、「次郎」にあたる人物が記載されていない。
 『源平闘諍録』には武蔵国豊島庄滝野川に到着した頼朝の元に「豊嶋次郎成重」なる人物が馳せ参じている。しかし次郎成重が登場するのはこの場面のみで、実在の人物かどうか疑問が残る。

 系図には吾妻鏡でもその存在が確認できない有光・家員まで記載されているのに、清元の次男にあたる人物が記載されないというのは不思議な話である。だが若宮八幡社の伝承が事実であり、早世した清泰が次郎成重と同一人物であったとすれば、系図に記載が無い事にも次郎成重の記述が『源平闘諍録』の一ヵ所のみである事にも納得がいく。もしくは龍源寺の過去帳にある様に長男の清泰が死去したために、次男の次郎有経(=朝経?)が「太郎」と名乗る事になった可能性もある(「次郎成重」とは有経の事を指している?)。

 神社から260mほど南には清泰を祀った駒塚という塚があるそうなのだが、調べてみても詳しい位置が分からず、そもそも現存するのかどうかも分からなかった為、捜索は断念した。

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
亀嶋山専称院地蔵寺跡地[豊島氏館  その他]



 豊島清光が行基に7つの仏像の制作を依頼したという「豊嶋七仏」。その7つの仏像の内、地蔵菩薩像が安置されていた地蔵堂である。宝永年間(1704~1711)に村民臼倉四郎右衛門の要請を受けた増上寺36世祐天上人によって中興、寺院として整備された。荒川放水路の開削時に移転した様で、現在は板橋区にある。

 『新編武蔵風土記稿』によれば、「豊嶋七仏」の内、阿弥陀如来像は西福寺、不動明王像は清光寺、釈迦如来像は清光寺内の釈迦堂、観音像は観音寺、地蔵菩薩像は地蔵堂、薬師如来像は醫王塚の薬師堂にあったとされる。薬師堂と勢至堂は『新編武蔵風土記稿』執筆当時には既に廃されていたという。観音寺と薬師堂については何処にあったのかよく分からないが、清光寺の山号が「医王山」である事から薬師堂については清光寺近くにあった可能性がある。

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
旧清至中学校(勢至堂跡地)[豊島氏館  その他]

 『北区の歴史』によると、「豊嶋七仏」の一つである「勢至堂」と「豊島清光」に因み、小字勢至の前近くに建てられた中学校を「清至中学校」と名付けたという(現在は廃校)。つまりこの近くに勢至堂があったと考えられる。『迅速測図』を見ると、清至中学校の辺りは田んぼとなっており、それより少し東側にある道沿いに建物らしき物が描写されている。この辺りに勢至堂があったのだろうか?

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
三縁山無量寿院西福寺[豊島氏館  寺社・史跡]



 行基が制作した六阿弥陀佛の一つを本尊として創建したという。この六阿弥陀佛は荒川に身投げした娘を悼んだ豊島清光(清元)が行基に依頼したもので、所謂「六阿弥陀伝説」である。六阿弥陀伝説は大筋は同じものの関連する寺ごとに伝承が異なる。そもそも行基と豊島清元では生きていた時代が300年以上違う。西福寺が豊島氏の勢力圏にある事から主役が清元となったのであろう。

 『新編武蔵風土記稿』における専称院についての記述によれば、「豊島七仏」の阿弥陀如来像が置かれていた場所であるという。

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
紀州神社[豊島氏館  寺社・史跡]



 元亨年間(1321~1324)に紀州熊野から来た鈴木二郎左衛門重尚という人物が、豊島氏と共に紀州名草郡五十太村の五十猛神社を勧請して王子村内に創建したという。豊島氏は周辺地域に熊野信仰を広めたとされ、清元の子有経は紀伊守護に任じられている。
 天正年間(1573~1592)、豊島村と王子村の間に水争いが起き、現在地に移された。

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
豊島馬場遺跡公園[豊島氏館  その他]



 古墳時代初期の遺跡。平成3~9年の発掘調査によって土器、沓、鍬、舟のミニチュア、ガラス小玉鋳型が発見されている。「馬場」という地名は明治期の測量図にも見受けられる。江戸時代に書かれた『埋木の花(江都古墳志)』にある絵図によると、どうやら紀州神社の辺りに「馬場」と呼ばれた場所があったようだ。いつ頃から使われ出した地名なのかは不明だが、豊島氏館と関係があるかもしれない。

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
都民ゴルフ場遺跡[豊島氏館  その他]



 現在は荒川放水路によって流路が変わっているが、元々の隅田川は現在よりも更に東に大きくカーブしており、「天狗の鼻」と呼ばれていたという。豊島馬場遺跡公園の解説によるとそのカーブの先端部、現在のカーブの先端から荒川放水路の中程までの所にも遺跡があったようだ。

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
本木北野神社[豊島氏館  寺社・史跡]



 豊島清元が北野天満宮を勧請分祀した神社であるという。北野天満宮は菅原道真を祀る神社である。かつて怨霊として恐れられた菅原道真だが、平安末期頃になると怨霊としての畏怖の対象から学問や芸能の神としての崇拝の対象へと変化していった。

2021年04月14日 山内侍従伊右衛門俊胤
本木熊野神社[豊島氏館  寺社・史跡]



 豊島清元が創建したと伝わる。豊島氏は周辺地域に熊野信仰をもたらしたとされる。清元の子有経は紀伊守護に任じられており、熊野との関わりはこの頃からとも考えられる。しかし王子神社の存在から関係は相当古いものとも考えられ、有経の紀伊守護就任は豊島氏と熊野の関わりを考慮したものかも知れない。

 豊島氏と熊野の関わりが相当に古いものだとして、武蔵国の豊島氏と紀伊国の熊野はどうやって繋がったのであろうか?平安後期の院政期から鎌倉初期にかけて全国に渡り熊野信仰ブームが起こったという。「蟻の熊野詣」という言葉で例えられるほどに、老若男女貴賤を問わず多くの参拝者が列を為したといい、江戸時代における伊勢参りの様な流行を見せていたのだろう。更に葛飾区立石には長保年間(999~1004)に安倍晴明によって勧請されたという立石熊野神社がある。豊島氏と熊野の関わりはこの頃から始まっていた可能性がある。

2011年08月25日 ピカドラ
豊島氏館

メトロ南北線・王子神谷駅より10数分。炎天下行軍の故、埃汗まみれ姿となり清光公像の拝観は断念するも、一昨年に逝去された新井師の大黒さんと若住職から丁寧なる由緒を拝聴、その上[医王山清光寺いまむかし物語]読本を頂戴して心身が爽やかになりました。

2011年08月04日 Colon
豊島氏館

少々古い情報で恐縮です。
清光寺本堂には豊島清光の座像があります。
私は拝観させて頂きましたが、あまり来訪者が増えると断られるかもしれません。

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