中曽根城(なかそねじょう)

中曽根城の基本情報

通称・別名

渕江城、千葉城

所在地

東京都足立区本木2

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

千葉勝胤

築城年

寛正年間(1460〜1466)

主な改修者

主な城主

武蔵千葉氏

廃城年

遺構

(発掘調査:空堀)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

宮城氏館(東京都足立区)[2.5km]
小菅御殿(東京都葛飾区)[2.9km]
豊島氏館(東京都北区)[3.8km]
道灌山(東京都荒川区)[4.1km]
平塚城(東京都北区)[4.2km]

中曽根城の解説文

中曽根城は、戦国時代に下総を治めた下総千葉氏の千葉勝胤が築いた城であったとされる。

現在の中曽根神社付近が城跡とされ、神社の境内に城跡の碑がある。

建物は残っていないが、江戸末期までは遺構が残っていたという記録があり、平成に入ってからの発掘調査では濠跡も確認されている。

中曽根城の口コミ情報

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年07月16日]
淵江郷に残った千葉氏郎党
後北条氏滅亡後、佐野新蔵胤信の他にも淵江郷に土着した千葉氏の郎党は数多くいる。千葉勝胤家臣の宮城三右衛門・市原四郎兵衛・常田次左衛門の内、宮城三右衛門、常田次左衛門については伊興村の名主林蔵次左衛門という子孫が居り、勝胤家臣の多くは主家滅亡後、この地で帰農したものと考えられる。また、弥五郎新田(現在の足立区足立・日ノ出町周辺)を開拓した京極弥五郎も武蔵千葉氏の家臣とされる。下総千葉氏の郎党も同族の縁を頼ってか、土着している。甲府代官職を務めた旗本河内知親は元々千葉介重胤に仕えていた千葉一族で、嫡男胤盛の家系が旗本として続き、次男知棟の家系が竹塚村の名主となったという。千住掃部宿(現・仲町)の開発者石出掃部介吉胤は小田原落城後、弟の吉祥院住職、覚源法印を頼って本木村に身を寄せた。これがきっかけで千住掃部宿の開発を始め、子孫は掃部宿の名主を務めた。この様に、武蔵・下総両千葉氏が滅びた後も、その一族郎党は淵江郷に土着し、名主としてこの地を収めた。言うなれば、足立区は千葉一族の土地なのである(※千葉氏族以外の名主も当然います)。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年07月16日]
勝胤の子
勝胤には新蔵胤信という息子がいた。勝胤の死後、守胤の孫胤宗は天正2年(1574)正月に討死し、家督は娘婿である直胤(北条氏繁4男)が継いだ。しかし、家臣の諍いの為に石浜領が没収され、以降の直胤の動向は不明となっている。武蔵千葉氏はこうして後北条氏滅亡前にあっけなく姿を消した。胤信がその間に何をしていたかは不明であるが、どういう訳か佐野氏の養子となり佐野新蔵胤信と名乗っている。佐野氏は千葉一族で、原常宗の曾孫・胤清が香取郡千田郷佐野村(千葉県香取郡多古町喜多周辺)を領して、佐野を称したのが始まりとされる。恐らくは勝胤の家臣に佐野氏の一族が居たのだろう。胤信は主家家臣間の諍いに何らかの形で巻き込まれ、千葉の姓を捨てざるを得ない状況になったのだろうか?
小田原征伐の後、胤信は伊奈忠次に召し出され、文禄2年(1593)、中川沿いに佐野新田(現在の足立区佐野)を開発した。佐野には、佐野家の屋敷跡が「佐野いこいの森」として残り、胤信の墓が現存する。主家の滅亡後も、胤信は新たに開拓した土地の名主として淵江郷に住み続けた。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年07月16日]
中曽根城はいつからあった?
中曽根城はいつ築城されたのか?正確なことは分からなかった。城内の出戸八幡神社、本木御嶽神社の創建はそれぞれ永禄2年(1559)、永禄4年(1561)である為、それ以前には城が存在したことはほぼ確定である。「千葉氏の一族」の千葉守胤の項にて、「大永3(1523)年9月、武蔵国淵江から「東下総守胤?」なる人物が三条西実隆のもとへ和歌が遣わされている。同時代、東氏の系譜上で見える「下総守」で「胤」のつく人物は「東下総守尚胤」がいる。」とある。つまり、この頃には東尚胤とみられる人物が滞在できるような施設が淵江にあったと思われる。また、中曽根城南西にある武蔵千葉氏の菩提寺、瑞応寺は明応7年(1498)創建とある。仮に中曽根城の築城主が勝胤であったとすれば、寛正年間の築城というのは少々無理があるが、菩提寺が戦火に見舞われるのは避けたいであろうから、瑞応寺が創建される明応7年までには築城されたのではないかと考えられる。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年07月16日]
千葉勝胤とは何者か?3
「千葉」の姓を名乗っていることから、勝胤は主家に非常に近い人物であることが推測される。恐らくは千葉家当主いずれかの兄弟であろう。ここで勝胤の仮名に着目する。勝胤の仮名“次郎(二郎)”は自胤よりの武蔵千葉氏当主の仮名であるが、当主の中で一人だけ次郎と名乗っていない人物がいる。自胤の子、守胤である。守胤には弟に顕胤、祐胤があったと言われ、佑胤が二郎を名乗っていたという。ただ、これらの弟の詳細は不明である。この佑胤こそが勝胤の事なのではないか?守胤は弘治2年(1556)に天寿を全うしたとみられ、勝胤はその8年後に死去している。勝胤もまた天寿を全うしたのであれば、二人が兄弟であってもおかしくはない。
以上の事から、「千葉勝胤とは千葉自胤の子であり、兄守胤の下で本拠石浜の北、淵江の中曽根城を任された。長きに渡り北の守りとして主家を支え、兄の死の8年後、永禄7年(1564)正月8日にこの世を去った。」と考えられる。(・・・あくまで仮説である。勝胤が出家していたという記録もない為、もっと若い人物で、本当に国府台合戦正月8日の北条方夜襲の折に戦死した可能性もある。)

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年07月16日]
千葉勝胤とは何者か?2
更に新編武蔵風土記によると、「林蔵(勝胤家臣の子孫)が家に古き私録の過去帳あり、其内に千葉次郎勝胤公永禄七甲子正月八日と載たり、又本郡佐野新田名主勘蔵は、勝胤の子新蔵胤信が子孫なり、彼家傳によれば、勝胤は里見義弘と北條氏康鴻ノ臺合戦の時、永禄七年正月八日打死せしと云、按に小田原記及び其時の戦を記せしものに、勝胤が打れしことは見えず」とある。この記載によれば勝胤が死去したのは永禄7年(1564)正月8日の事である。佐野家家傳では、第二次国府台合戦での討死としているが、国府台合戦について記したものに勝胤が討たれたという記載はない。小田原衆所領役帳にて「千葉殿」と記される程、後北条氏から別格の扱いを受けていた武蔵千葉氏で、「千葉」を名乗る者の死が一切記録に残らないというのは不自然に思える。勝胤は討死ではなく、偶々国府台合戦の時期に死去したのではないか?考えられるのは、勝胤は参陣できない程に病弱であったか、既に高齢で隠居していたかである。勝胤が病弱であったとするならば、対岩槻太田の最前線の城に置くとは考え難く、後者が妥当ではないかと思える。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年07月16日]
千葉勝胤とは何者か?
中曽根城は寛正年間(1460~1466)に千葉勝胤によって築城されたと言われる。勝胤という名は下総千葉氏19代当主の千葉介勝胤と一致するが、この勝胤は文明3年(1470)の生まれである為、年代が合わない。そもそも武蔵千葉氏の所領に、敵対する下総千葉氏が城を築けるはずがない。また、寛正年間に築城されたという話自体も論拠は不明である。それでは、中曽根城はいつ築かれたのか?築城主の千葉勝胤とは何者なのか?調べてみる事にした。
元和8年(1622)、宮城清左衛門吉重という人物によって伊興村横沼の千葉氏屋敷に長勝寺が創建された(ここでの千葉氏が誰を指しているのかは不明。佐野胤信以外の勝胤子息か、直胤の事だろうか?)。創建の目的は旧主家千葉次郎勝胤の菩提を弔う事である。新編武蔵風土記によれば、「碑面に千葉次郎勝胤公墓と記し、下の方に宮城三右衛門・市原四郎兵衛・常田次左衛門等四人の姓名を彫たり」とある。宮城清左衛門吉重はここに記されている宮城三右衛門の子孫であろう。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年07月16日]
足立区域は古くは淵江郷と呼ばれており、北部の毛長川流域は古墳もある古い土地である。南部に中曽根神社があり、周囲六町四方(36ha)が中曽根城であったと言われる(おおよそ、南北は中央環状線から区立第七中学校、東西は遍照院・梅田稲荷神社から区立本木小学校まで)。周辺より一段高い土地であり、江戸末期までは堀等が残っていたというが、現在ではその面影を残すものはない。城が置かれた場所には現在も出戸八幡神社や本木御嶽神社といった城の痕跡を残す神社があり、淵江郷には長勝寺、保木間氷川神社、宝積院、国土安穏寺、宝寿院、瑞応寺、西光院、千住本氷川神社といった千葉氏所縁の寺社が多数現存している。中曽根城は後世の調査により、堀が複雑に張り巡らされた平城であった事が分かっており、複雑な堀は荒川(現・墨田川)の水運を利用する為ではないかという見解もある。しかし、川の水運を利用する事が目的であったならば、武蔵千葉氏の本拠石浜城の方が適している様に見える。北に領地を接する山内上杉方の岩槻太田氏を警戒する為の前線基地が主目的だと見た方が妥当だろう。複雑な堀は敵の侵入を妨げる為のものであったと見える。

箱根学生韋駄天応援様[2011年03月02日]
都道補助100号線から少し入ったところです。大変わかりづらい所ですが、中曽根神社の石柱があります。パールを目標にすると良いですね

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