中曽根城(なかそねじょう)

中曽根城の基本情報

通称・別名

渕江城、千葉城

所在地

東京都足立区本木2

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

千葉勝胤

築城年

寛正年間(1460〜1466)

主な改修者

主な城主

武蔵千葉氏

廃城年

遺構

(発掘調査:空堀)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

宮城氏館(東京都足立区)[2.5km]
小菅御殿(東京都葛飾区)[2.9km]
豊島氏館(東京都北区)[3.8km]
道灌山(東京都荒川区)[4.1km]
平塚城(東京都北区)[4.2km]
石浜城(東京都荒川区)[4.6km]
駒込名主屋敷(東京都文京区)[4.9km]
滝野川城(東京都北区)[5.3km]
葛西清重館(東京都葛飾区)[5.6km]
平柳蔵人館(埼玉県川口市)[5.7km]

中曽根城の解説文

中曽根城は、戦国時代に下総を治めた下総千葉氏の千葉勝胤が築いた城であったとされる。

現在の中曽根神社付近が城跡とされ、神社の境内に城跡の碑がある。

建物は残っていないが、江戸末期までは遺構が残っていたという記録があり、平成に入ってからの発掘調査では濠跡も確認されている。

中曽根城の口コミ情報

2023年09月19日 四神の朱雀
中曽根城

今は神社です!でも石碑があります!是非みんなも行ってください。

2022年11月08日 マークⅡ弾正大弼政宗
中曽根城



舎人ライナーの扇大橋駅から歩いて、30分かかりました。住宅街の真ん中にあり、神社と城跡碑がありましたが、尾竹橋通りに出た所に、立派な「中曽根神社入口」碑がありました。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
中曽根城

淵江郷の千葉氏郎党と新田開発
 後北条氏に代わり、徳川氏が江戸に入ると、淵江郷では20か村に及ぶ新田村が開発された。開発者の中には武蔵千葉氏の旧臣も含まれ、先の佐野新蔵胤信の佐野新田(足立区佐野)や、京極弥五郎の弥五郎新田(現在の足立区足立・日ノ出町周辺)がそれである。他にも先の伊興村には宮城清左衛門吉重や名主林蔵次左衛門が住み、竹塚村には下総千葉介重胤に仕えていた旗本河内知親の次男知棟の家系が名主として続いた。千住掃部宿(現・仲町)の開発者石出掃部介吉胤とその弟で吉祥院住職を務めた覚源法印も千葉氏の一族とされ、武蔵千葉氏が没落した後もその郎党や縁者が多く淵江郷に住んだ事が分かる。
 勿論、淵江郷の新田開発は千葉氏旧臣のみの手によって行われたものではなく、織田信勝旧臣とされる天野周防守国忠が六木新田(足立区六木)、福島正則旧臣とされる星野又太郎が久左衛門新田(足立区神明)・辰沼新田(足立区辰沼)、甲斐武田氏旧臣とされる芦川内匠が内匠新田(足立区神明1丁目)、小笠原旧臣とみられる浅野久右衛門が久右衛門新田(足立区谷中3丁目)、武蔵国稲毛の伊藤嘉兵衛が嘉兵衛新田(足立区加平)、武蔵国入間郡金子村出身で武蔵七党の村山党の支族金子氏とみられる金子五兵衛が五兵衛新田(足立区綾瀬4丁目)、鎌倉の鶴飼治郎左衛門が次郎左衛門新田(足立区青井2丁目)、岩槻太田氏旧臣の渡辺小右衛門と郷士の日比谷小左衛門が小右衛門新田(足立区中央本町5丁目)、武蔵国吉見の庄左衛門・三郎兵衛らが鹿浜新田(足立区新田)を開いたとされる。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
中曽根城

佐野新蔵胤信
 先の考察の様に「千葉勝胤=千葉胤宗」とすると、勝胤の子とされる佐野新田名主佐野家の祖新蔵胤信なる人物の存在が気になる。そもそも6代直胤は5代胤宗に娘しかいなかった為に、後北条氏より婿養子として送られている。新蔵が胤宗の子とすると、胤宗に娘しかいなかったというのは誤りとなる。先に書いたように直胤の武蔵千葉氏継承には、胤宗以前よりの家臣の反発があったと見られる。実胤・自胤よりの武蔵千葉氏重臣木内氏の木内宮内少輔が石浜の引き渡しを延引した為に、直胤家臣須藤某が木内の家老宇月内蔵助と刺し違えるという事件にまで発展している。
 下総千葉氏も武蔵千葉氏より10年ほど後に後北条氏から来た婿養子千葉直重を当主としているが、直重の義父である千葉介邦胤には後に重胤と名乗る幼少の息子千鶴丸がおり、直重の家督相続に反発した森山原氏の原若狭守親幹・大炊助邦房父子が内紛を起こす事態に発展している。一方同じく後北条氏より婿養子を迎えた岩槻太田氏にはそのような混乱は見られず、円滑に相続が進んでいる。
 この事から考えるに、武蔵千葉氏にも、後北条氏からの婿養子を当主とすることに、反発が起こるような要因があったのではないかと思える。もし新蔵が胤宗の子だとすれば、胤宗の実子を差し置いて、婿養子を当主とすることに家臣が反感を覚えても不思議はない。新蔵が武蔵千葉氏家臣と見られる佐野氏に養子に入った事もこの事が関係しているのかも知れない。新蔵胤信が伊興近くに住まず、わざわざ綾瀬川を越えた先、中川沿いに新田を開いて移り住んだ事も、葛西用水がある事以上の意味があるように見えてくる。
 尤も、新蔵が勝胤の子であることは佐野家の伝承に過ぎず、勝胤=胤宗というのもただの考察に過ぎない為、ただ単に、伊奈忠次、忠治に仕えた武蔵千葉氏郎党の新蔵が、その働きによって葛西用水沿いの土地の開発・所有を許され、新蔵の子孫が祖先に箔を付ける為に、勝胤の子としただけかもしれない。江戸時代の武家、名主の祖先詐称など珍しくもない事である。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
中曽根城

千葉勝胤とはなにものか?(再考)4
 「まさたね」と聞くと、これもまた下総千葉氏が想起される。下総千葉介勝胤の次代の千葉介は諱を「昌胤」という。さらに上記の「千葉大系図」や「松羅館本千葉系図」に4代当主として記載されている「良胤」は昌胤の孫である千葉介良胤と同名である。更に良胤の子に「当胤(まさたね)」なる人物がいたとされている。勝胤より玄孫の当胤までの名が、こうも武蔵千葉氏に関する史料伝承に登場するのは、何かあるのではないかと疑ってしまう。
 石浜城の南に橋場不動尊があり、その開基は「砂尾修理」という人物である。砂尾修理は武蔵千葉氏の郎党であると見られるが、「千葉大系図」では千葉介昌胤の子千葉介親胤の家臣である旨が記載されている。また、武蔵千葉氏系臼井氏の「臼井守胤」なる人物の伝承に、「臼井守胤が千葉介親胤の重臣となり、親胤が暗殺される際に命運を共にし、家臣の砂尾修理が守胤を祀る為に石濱の総見寺(総泉寺の誤記か?)に「千葉塚」を建てた」とある。この様に対立関係にあった両千葉氏の間には時代を経るに連れて交流が発生していたと見られる記録伝承がある。
 この背景には、後北条氏が居たのだろう。武蔵千葉氏は4代胤利の頃に、下総千葉氏は昌胤から利胤・親胤の代にかけて北条氏の影響下に入ったと見られる。そもそも千葉氏内紛の原因となった公方と関東管領の対立は、公方が後北条氏の支配下に置かれ、関東管領が排斥された事により事実上の終焉を見ており、共に後北条氏の影響下に入った両千葉氏が争う事も無くなった。後北条氏は武蔵千葉氏を同盟関係の下総千葉氏とは異なり、遠山綱景の配下「江戸衆」として扱いながらも、「所領役帳」で「千葉殿」と記載するなど、一定の配慮をしていた節があり、両千葉氏の関係修復にも後北条氏の意向があったのかも知れない。兎に角、後北条氏の下で、両千葉氏の間には少なくとも敵対的ではない交流があったと見られ、それが後世の武蔵千葉氏に関する混乱を生んだのだろう。
 もしかしたら、勝胤についても約100年の後世において、宮城清左衛門が武蔵千葉氏の実質的な最期の当主を探した際に、系図を読み間違えて下総千葉介勝胤を誤認したのかも知れない。むしろその可能性の方が高い気もする。武蔵千葉氏に本当に第二次国府台合戦で討死した千葉勝胤なる人物がいた可能性も否定できないが。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
中曽根城

千葉勝胤とはなにものか?(再考)3
 武蔵千葉氏に関するいくつかの系図には、3代守胤以降の当主の名が「関八州古戦録」に記載された胤利・胤宗とは異なるものがある。「千葉大系図」の記載によれば、武蔵千葉氏の3代以降は「盛胤―良胤―雅胤」とされ、「小田原編年録」では「守胤―惟胤―正胤」とされる。ともに5代胤宗にあたる人物の名が「雅胤=正胤=まさたね」と記載されている。「勝胤」とは「まさたね」の当て字なのではなかろうか?とすれば、伊興の長勝寺で祀られている千葉勝胤とはまさに武蔵千葉氏5代千葉胤宗の事を指している事が考えられる。
 胤宗は武蔵千葉氏当主の中で唯一討死している。「異本小田原記」によると「天正元年(1573)十月下旬、関宿城主梁田中務大輔が佐竹と通じ、後北条に反逆した。小田原より氏政が自ら出陣、江戸衆・小金衆・臼井の衆・千葉家来衆が舟で関宿城に押し寄せ、黄色の陣羽織を着た武州石浜城主千葉次郎殿(胤宗)が一番に城に攻め懸るが、城方の物頭菊間図書と組み合いになり、城から落ちて討死した。」とある。佐野家に伝わる勝胤の討死より約10年の開きがあるが、武蔵千葉氏において千葉を名乗る著名な人物の討死の記録は、探した中ではこれのみであり、また長勝寺の創建はこれより100年近く後の事なので、胤宗について、佐野家や他の旧臣達の子孫に誤って伝わった可能性は十分にある。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
中曽根城

千葉勝胤とはなにものか?(再考)2
 仮に長勝寺の創建理由と佐野家の家伝が正しいものだとしたら、なぜ、宮城清左衛門吉重は千葉勝胤の子孫にあたる佐野家ではなく、伊興の千葉家に菩提寺を建てたのか?
 そもそも伊興の千葉家とは何者なのか?武蔵千葉氏は、後北条氏から婿入りした6代千葉直胤の代に、家臣が石濱総泉寺にて不祥事を起こしており、北条氏政に石濱領を没収されている。江戸太田氏太田康資と岩槻太田氏太田資正の離反以降、後北条氏は岩槻太田氏、武蔵千葉氏、下総千葉氏といった完全な従属関係に無かった諸将に対し婿養子を送る事で関係を強めようとしていた節がある。それに対して、胤宗以前よりの家臣団が反発し、直胤の家臣との間に不和が生じていたと見られる。不祥事の直接の原因は石浜城の所有に関する事で、当時、直胤は石浜城にはおらず、恐らく石浜に近い淵江を本拠地としていたと見られ、石濱没収以降も淵江に居たと考えられる。旧臣子孫が多く住む淵江にて千葉を称している事から、伊興の千葉家とは武蔵千葉氏当主の子孫である可能性が高い。「高野山高室院蔵北条家過去帳」には「氏繁公三男千葉善九郎殿 瑞林院殿岳室宗穹」という記載があり、直胤自身は北条氏直と共に高野山へと蟄居したものと見られる。しかし、直胤と胤宗の娘の間に子があったとすれば、それは実胤・自胤よりの武蔵千葉氏の血を継ぐ子であるので、旧臣達が直胤より引き取り、千葉家当主として育てた事が考えられる。
 そのような伊興の千葉家の土地をわざわざ割譲してまで長勝寺が建てられたという事は、千葉勝胤とは歴代武蔵千葉氏当主の誰かの事を指しているのではないか?

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
中曽根城

千葉勝胤とはなにものか?(再考)
 以前、中曽根城を築城したとされている人物、千葉勝胤についてその素性を考察し、千葉守胤の弟とされる千葉祐胤その人ではないかという結論に至ったが、以降新たな発見や、そもそもの認識の誤り等があった為、今回、改めて「武蔵千葉氏の千葉勝胤」について考察し直した。
 まず、「千葉勝胤」というと普通は下総千葉氏の千葉介勝胤が思い浮かぶ。武蔵千葉氏3代千葉守胤と同時代の人物であり、千葉介勝胤の時代は享徳の千葉氏内紛からまだ時が経っておらず、上杉派の武蔵千葉氏と公方派の下総千葉氏は対立関係にあった。そのような人物が武蔵千葉氏の領内に城を建てるはずも無い。そもそも千葉介勝胤が生まれたのは文明3年(1470)とされ、寛正年間築城の中曽根城に関われるはずがない。また千葉介勝胤は享禄5年(1532)に61歳(63歳とも)で死去しており、それより約30年後の第2次国府台合戦に参加しているはずがない。この時点で下総千葉氏の千葉介勝胤と武蔵千葉氏の千葉勝胤は全くの別人である事が分かる。
 では、武蔵千葉氏の千葉勝胤とは何者なのか?以下に千葉勝胤についての情報を記載してみる。足立区伊興にある長勝寺の縁起によれば、「万治2年(1659)(元和8年(1622)とも)、宮城清左衛門吉重が先祖の主君千葉次郎勝胤公の菩提を弔うため、伊興村の千葉家に願い出て、鎌倉時代後期に千葉氏の帰依を受けた中山法華経寺の智性院日座上人を開山に迎え、千葉家の土地を一部割譲して貰い創建した」という。又新編武蔵風土記稿によれば、勝胤家臣の子孫にあたる林蔵次左衛門という人物の家に古い私録の過去帳があり、「千葉次郎勝胤公永禄七甲子正月八日」という記載があったそうだ。更に勝胤の子とされる佐野新蔵胤信の子孫を称する佐野新田名主佐野家の家伝によれば、勝胤は永禄7年(1564)正月8日に国府台合戦で討死したという。ただ、風土記稿では小田原記や国府台合戦について書かれた書物に千葉勝胤なる人物が討たれたという記載がない事や、下総千葉氏の千葉介勝胤について触れ、永禄7年に千葉勝胤が討たれたというのは誤伝であろうと記している。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
中曽根城

中曽根城はいつからあった?(再考)
 城郭基本情報には中曽根城の築城は寛正年間(1460~1466)の事とされている。城内の出戸八幡神社、本木御嶽神社の創建はそれぞれ永禄2年(1559)、永禄4年(1561)である為、それ以前には城が存在したことはほぼ確実であろう。また大永3年(1523)9月に千葉六党の一つ、東氏の関係者とみられる「東下総守胤?」なる人物が淵江に滞在していた事が分かっており、その頃には遠方からの客人をもてなす為の施設が淵江にあった事が分かる。また、中曽根城南西にある武蔵千葉氏の菩提寺、瑞応寺は明応7年(1498)創建とある。更に、本土寺過去帳によると千葉自胤は明応2年(1493)12月6日に「武州三間田」で死去している。となると、築城が寛正年間というのは恐らく正しいのではなかろうか。
 寛正年間と言えば、享徳の乱に端を発した千葉氏の内紛によって千葉実胤・自胤兄弟が武蔵に逃れた後、石濱の地を与えられてから10年も経って居ない頃である。当時、経済的圧迫の為、実胤が隠遁するという事件が起きており、中曽根城の築城がこの頃の事であるというのならば、武蔵千葉氏が経済的困窮から脱そうと、所領の拡大・開発を図ったのかも知れない。実際、その努力は功を奏したようで淵江郷は後の「所領役帳」において武蔵千葉氏の所領の過半を占めている。
 しかし、築城が寛正年間だとすると、永禄7年(1564)に討死した「武蔵千葉氏の千葉勝胤」が築城主というのは、非常に無理がある。恐らく築城主は自胤であり、後に改築などを行った人物が築城主として混同されているのだろう。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
中曽根城

 足立区域は古くは淵江郷と呼ばれており、北部の毛長川流域は古墳もある古い土地である。南部に中曽根神社があり、周囲六町四方(36ha)が中曽根城であったと言われる。産業技術総合研究所の地質調査総合センターが公開している「地質navi」によると、本木一帯、関原3丁目、梅田5丁目、興野2丁目、扇1丁目という広い範囲の地質が自然堤防堆積物とされており、中曽根城周辺には微高地が広がっていたと考えられる。中曽根城があった場所は昔、周辺より一段高い土地であり、江戸末期までは堀等が残っていたというが、現在ではその面影は感じられない。城が置かれた場所には現在も出戸八幡神社や本木御嶽神社といった城の痕跡を残す神社があり、それと推定縄張図、地質分布を鑑みると、中曽根城は中曽根神社を中心として、東は関原八幡神社まで、西は宝寿院までを城域とし、南の低地帯方向に城門を構え、城の西側に家臣の居住地を置くという配置であったと考えられる。
 淵江郷には長勝寺、保木間氷川神社、宝積院、国土安穏寺、宝寿院、瑞応寺、西光院、千住本氷川神社といった千葉氏所縁の寺社が多数現存しており、更に中曽根城の北には平安より続く西新井大師がある。
 中曽根城は後世の調査により、堀が複雑に張り巡らされた平城であった事が分かっており、複雑な堀は墨田川の水運を利用する為ではないかという見解もある。
 淵江郷には大永3年(1523)9月に同じ千葉六党の「東下総守胤?」なる人物が滞在していた事を示す史料が残されており、大きく蛇行した隅田川に守られた天然の要害である武蔵千葉氏本拠の石浜城に対して、中曽根城は客人を迎える様な施設が整っていたのかも知れない。

2019年06月03日 三輪左近衛少将直虎
中曽根城



地図上で城の範囲はおぼろげにわかります。遺構がなくても石碑があると引き締まりますね。

2019年04月24日 山内侍従伊右衛門俊胤
妙尊寺宝寿院[中曽根城  寺社・史跡]



武蔵千葉氏の祈願所として応永元年(1394)に創建した。

2019年04月24日 山内侍従伊右衛門俊胤
瑞応寺[中曽根城  寺社・史跡]



武蔵千葉氏の菩提寺として明応7年(1498)に創建。「夕顔観音伝説」「鐘ヶ淵伝説」と言った武蔵千葉氏に関する伝説が伝わっている。

2019年04月24日 山内侍従伊右衛門俊胤
出戸八幡神社[中曽根城  寺社・史跡]



永禄2年(1559)武蔵千葉氏の弓矢守護として創建。中曽根城の城門であるという。

2019年04月24日 山内侍従伊右衛門俊胤
本木御嶽神社[中曽根城  寺社・史跡]



永禄4年(1561)武蔵千葉氏家臣が創建。ここは家臣団集住地であったと考えられている。

2011年03月02日 箱根学生韋駄天応援大蔵卿
中曽根城

都道補助100号線から少し入ったところです。大変わかりづらい所ですが、中曽根神社の石柱があります。パールを目標にすると良いですね

中曽根城の周辺スポット情報

 本木御嶽神社(寺社・史跡)

 出戸八幡神社(寺社・史跡)

 瑞応寺(寺社・史跡)

 妙尊寺宝寿院(寺社・史跡)

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