石浜城(いしはまじょう)

石浜城の基本情報

通称・別名

所在地

東京都荒川区南千住3(石浜神社)

旧国名

武蔵国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

千葉実胤

築城年

康正元年(1455)

主な改修者

主な城主

千葉氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

葛西清重館(東京都葛飾区)[2.4km]
小菅御殿(東京都葛飾区)[3.4km]
道灌山(東京都荒川区)[3.9km]
吉良上野介邸(東京都墨田区)[4.2km]
浅草見附(東京都台東区)[4.3km]
中曽根城(東京都足立区)[4.6km]
本郷城(東京都文京区)[4.7km]
駒込名主屋敷(東京都文京区)[4.9km]
葛西城(東京都葛飾区)[5.1km]
馬込勘解由屋敷(東京都中央区)[5.3km]

石浜城の解説文



石浜城(いしはまじょう)は、中世の武蔵国に存在した日本の城。正確な所在地については意見が別れているが、現在の東京都台東区浅草七丁目付近、あるいは荒川区南千住三丁目付近[1]が候補地となっている。

歴史 

石浜(石濱)は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、この付近に武蔵国と下総国(千葉県)の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされている。築城年代は不明であるが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、南北朝時代の1352年(文和元年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている(武蔵野合戦)。

室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて扇谷上杉氏の庇護下に入り、石浜城を拠点とした(武蔵千葉氏)。この際、弟の自胤も赤塚城に逃れている。だが、下総回復は達成できず、扇谷上杉氏の没落後は後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎え、豊臣秀吉による1590年(天正18年)の小田原征伐によって没落、石浜城も廃城となった。

曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に登場する。

所在地 

城跡の所在地については、関東大震災以前に台東区橋場にあった総泉寺が武蔵千葉氏の菩提寺であるため石浜城もその側にあったとされているが、江戸時代以後の古利根川→隅田川の流路の変化や、都市化の進展によって付近の地形も大きく変わっており、遺構は見つかっていない。中世を通じて同一の場所に石浜城があったのか、また城そのものの規模についても不明のままである。

現状では、台東区浅草七丁目の本龍院(待乳山聖天)付近にあったとする説と、荒川区南千住三丁目の石浜神社付近にあったとする説の2説に分かれている。

江戸時代後期の叢書『燕石十種』所収の「望海毎談」は「石浜城の跡、今の金龍山にて、聖天の宮所なり」として前者の本龍院説をとり[2]、『大日本地名辞書』や『東京市史稿』も同説を載せている。

1955年(昭和30年)刊の『新修荒川区史』では、石浜神社の神官が千葉氏の一族である鏑木氏によって世襲されていることから、後者の石浜神社付近説を採用している。

なお、東京都が策定する行政上の遺跡(埋蔵文化財包蔵地)地図では、石浜神社のやや北側が同城跡となっており、神社の南側には「石浜城址公園(南千住三丁目公園)」が造られている[3]

参考文献 

  • 平井聖ほか 1979『日本城郭大系』第5巻

関連文献 

  • 【書籍】「江戸名所図会」}}

石浜城の口コミ情報

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
石浜城

―総泉寺刃傷事件―
武蔵千葉氏の最後の当主である直胤は、北条氏繁の子で婿養子であった。家督相続時、若年であったため、事実上の石浜城主は千葉氏家臣木内上野、上野討死後は子の木内宮内少輔が務めた。木内宮内少輔は石浜四千貫を知行する大身侍で、主家を凌ぐ力を持ったと伝えられる。この為、直胤が成長した後、石濱の返還を度々要求されるようになると、木内の家老宇月内蔵助が「木内上野・木内宮内少輔の功労を考えれば、木内から石浜を取り上げるのは難がある。」と訴え、石濱の引き渡しを延引するようになった。実胤・自胤の代よりの武蔵千葉氏家臣と北条より来た直胤の一派に対立があったことも考えられる。こうした状況を憂慮するものがいた。須藤という直胤の家臣である。須藤は木内より直胤に石濱が返還される望みが無い事を無念に思い、ある日、忍んで石浜に向かった。須藤は総泉寺に宇月内蔵助を呼び出すと、境内にて宇月と刺し違え死亡した。事の次第は小田原の北条氏政にも聞こえた。直胤の責任が問われたためか、終に直胤に石濱が返されることはなかった。これが「異本小田原記」に記載された石浜没収事件の概要である。このような事件が実際にあったのかは不明であるが、天正9年(1581)には、武蔵千葉氏の所領である淵江や太田窪に北条氏政から直接朱印状が公布されるようになっており、武蔵千葉氏に対する後北条氏の支配が強まっていた事が窺える。石浜領を没収された後の直胤の動向は不明であるが、淵江一帯には武蔵千葉氏に所縁のある家が江戸時代以降も多くある事から、直胤は中曽根城を本拠とし、小田原征伐後、武蔵千葉氏の多くは淵江に住んだものと思われる。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
石浜城

―石浜の支配者は誰か?―
解説にもあるように、石浜周辺は江戸一族石浜氏の本拠であったと言われる。石浜氏については詳細不明であったが、武蔵野合戦において石浜の足利尊氏のもとに馳せ参じた諸将の中に「石浜上野介」なる人物が見える。江戸氏と石浜の関係を探ってみる事とした。新編武蔵風土記稿によると、「義経記」「源平盛衰記」に治承四年九月十一日頃において、石浜が江戸太郎(重長)の知行所と記されている。又、武蔵野合戦において、石浜を拠点にした足利尊氏の陣営に江戸長門がいる。後に武蔵平一揆の乱で江戸氏は衰退した。
以上の事から、石浜と江戸氏は深い関わりがある事がわかるが、気になる点が一つある。総泉寺の存在である。総泉寺は開基千葉介により浅草橋場に建仁元年(1201)2月創建したとも言われる。中曽根城を調べていた頃から気になってはいたのだが、武蔵千葉氏の所領であった石浜から淵江にかけて、総泉寺、国土安穏寺といった武蔵千葉氏誕生以前の千葉氏関係の寺が存在している。これらの寺の縁起は武蔵千葉氏が所領支配の正当性を主張するために作り上げた後付けであるとも考えられる。しかし、常胤より5代後の千葉介頼胤は拠点を下総と武蔵の国境に近い小金に移していたと考えられており、又、下総で勢力を誇り、千葉氏からも帰依を受けた下総国中山法華寺の勢力が、室町時代初期には石浜に及んでいた事も窺われる。この事から、石浜・淵江は武蔵千葉氏以前より千葉氏の影響を多分に受けていた事が考えられる。こうした経緯を考えると、武蔵千葉氏に石浜が与えられたのは単純に最前線であった事以上の意味があった様に思えてならない。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
石浜城

―武蔵千葉氏―
市川城脱出後の千葉実胤・自胤兄弟は扇谷上杉家の重臣として堀越公方政知の配下となった。実胤・自胤兄弟には対古河公方の最前線の一つ、石浜城が与えられた。しかし、自前の手勢が少ない実胤・自胤にとって、最前線の維持は経済的圧迫が大きかった。そこで政知の執事である渋川義鏡が上申し、もともと渋川氏の知行地であった武州赤塚郷を兵糧料所として実胤・自胤に与えた。しかし寛正3年(1462)、実胤は隠遁する。経済的圧迫に耐え切れなかった事もあるが、同時期に三浦氏・大森氏と言った他の扇谷上杉家の重臣達も隠遁していることから、背景には渋川義鏡と扇谷上杉家の対立があったものと見られている。
元々古河公方への対抗策として、新たな鎌倉公方になるべく創設された堀越公方には、関東における独自の勢力基盤がなく、関東管領である山内上杉家と扇谷上杉家が堀越公方側の主柱となっていた。したがって、堀越公方自身の手による武蔵千葉氏の様な新興勢力の援助、諸大名の支援などが上手く行かず、政知と渋川義鏡は独自の勢力基盤の確立を図るようになった。しかしそれは上杉家の勢力を奪う事と同義であり、堀越公方の執事である渋川義鏡と関東管領上杉家は対立するようになってしまった。こうした中で義鏡は上杉家の排斥を図るようになり、実胤らの隠遁はこれを防ぐためのものであったと見られている。隠遁を知った京都の幕府は自胤を急遽千葉介とし、政知に援助を命令、実胤に対しても帰参を命令している。幕府が上杉氏の味方をした為、義鏡は失脚、表舞台から姿を消し、堀越公方側の勢力は再び上杉家が中心となる。命令を受けた実胤は帰参したものの、政知により赤塚郷の召し上げが命令される。山内房顕の関東管領辞職の上表が為されるなど、上杉氏やその筆頭家臣長尾氏によって赤塚郷召し上げの命令はうやむやにされたが、この後、実胤は山内上杉氏を通じて下総への帰還を図る。計画は失敗に終わり、実胤は美濃へと落ちていった。以後、赤塚郷・石浜は自胤の領地となった。
自胤の子(実胤の子ともされる)、守胤は総泉寺の中興開基となり、以後武蔵千葉氏の菩提寺とした、又、真崎稲荷を創建した。
守胤の後、胤利、胤宗と続くが、胤宗は関宿合戦で菊間図書と取っ組み合いの末、討死した。胤宗には娘しかおらず、玉縄北条家から婿養子として直胤を迎える事となる。この後、総泉寺である事件が起きる。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
石浜城

―足利尊氏の石浜城―
「将軍は『石浜』を打渡る前、已に腹を切ろうと、鎧の上帯を切って投げ捨て、今しも高紐を放そうとしたが、近習の侍二十騎ばかりが、引返し戦って討死したので、其間に将軍は急を遁れて対岸へ駆け上る事が出来た。日が既に暮方になったので、武蔵守(新田義宗)は歯噛みして本陣へ引返した。・・・(中略)・・・鎌倉勢は散々に打ち敗られたが、討ち洩らされた左馬頭(足利基氏)は南遠江守(南部宗継)に護られて『石浜』へ逃げた。・・・(中略)・・・新田武蔵守(新田義宗)は『石浜』で将軍を討ち損ねて、笛吹峠に陣を取った。これを聞いて、上杉民部大輔(上杉憲顕)らは、先帝の第二の宮上野親王(宗良親王)を大将として、総勢二万余騎で馳せつけた。又将軍尊氏が『石浜』にいる事を聞いて、そこに馳せ参った者は、千葉介(千葉介氏胤)以下八万余騎で、二月二十五日『石浜』を立って、二十八日笛吹峠に押寄せた。其日は一日戦い暮らし、明くる日又戦ったが、新田、上杉は打負けて、笛吹峠に退き上った。」

太平記における武蔵野合戦の一幕である。金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)で起きた「人見ヶ原の合戦」で、足利尊氏・新田義興双方とも相当の損害を出し、尊氏は武蔵国石浜に撤退した。気になるのは尊氏が「対岸へ駆け上った」事である。太平記の記述によれば尊氏は「川」を渡ったことになるが、この「川」とはどの川を指すのだろうか?尊氏は人見ヶ原から石浜、つまり西から東へと撤退している。尊氏が渡った「川」が隅田川を指しているのであれば、尊氏の石浜の拠点は隅田川左岸にあり、右岸にあったとされる石浜城ではない事になる。石浜の拠点がどの程度の規模の物であったかは不明であり、また、当時の石浜の地形も詳しくは不明である上に、そもそも太平記自体が制作当時から脚色が過ぎるとの批判を受ける等、少々信憑性に難がある為、記述自体が間違いである可能性も否定できない。しかし、石浜城が築かれた場所とは別の場所に尊氏の石浜の拠点があった事も考えられるのである。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
源頼朝歌碑[石浜城  碑・説明板]

―源頼朝の隅田宿―
「治承四年(1180)十月小二日辛巳。頼朝公は、千葉介常胤、上総介廣常等が用意した船に乗って太井川、墨田川を渡った。・・・(中略)・・・頼朝公の乳母で故八田武者宗綱の娘(寒河尼)が末子を連れて『墨田川の宿泊所』へ来た。頼朝公は直ぐに御前に呼び昔の思い出を話し合った。寒河尼は息子を頼朝公の近侍にして欲しいと望んだ。そこで、その子を呼び出し、直接烏帽子親になって加冠し元服をさせた。名を小山七郎宗朝と名付けた。宗朝は数え年十四歳である。」

吾妻鏡にて後の結城氏初代・結城朝光が源頼朝に初めて謁見した話である。この謁見した場所というのが『墨田川の宿泊所』で、石浜神社付近にあったという。
頼朝はその後、文治5年(1189)にも石浜神社を訪れ、奥州征伐の戦勝祈願を行い、征伐後に社殿を造営している。後世に造られた石浜城の場所もはっきりとしない状況で、頼朝の宿泊所が何処にあったかなどは分かり様がないが、少なくとも石浜神社とその周辺に、頼朝を迎えられるほどの施設があった事は分かる。それなりの備えもしていたであろうから、後の時代にも度々出てくる石浜の拠点の原型となったのかも知れない。
弘安4年(1281)には、元寇の調伏祈願のために朝廷より供物が奉納されたと伝えられており、そうした事もあってか、鎌倉時代には寺社仏閣が多く建造された。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
石浜城

石浜城は石浜神社付近にあったとされる。北から東に大きくカーブを描きながら隅田川が流れており、川を天然の堀とした要害であったと考えられる。石浜城の比定地はもう一ヵ所あり、浅草の本龍院(待乳山聖天)付近に石浜城があったともされる。都心川沿いという事もあり、地形や後世の土地利用の変動が激しく、遺構は見つかっていない。故に石浜城の位置の確定には至っていない。石浜城があった時代の両比定地の土地の特徴を見てみると、本龍院付近には石浜湊があったとされ、石浜神社付近には渡船場があったとされる。どちらも交易・交通の上で重要な土地であり、双方に城郭が置かれていたとしても不思議ではない。今回、諸々の考察はマップ上の石浜城の位置に従い、石浜神社説を基に考えている。石浜城が石浜神社付近にあったという前提で、明治期の地図に記された畑地から石浜城の規模を推定した方がいた。その方によれば、石浜城は現在の石浜神社から北東に広がっており、東部が隅田川によって削られているという。
石浜の歴史は古く、聖武天皇の神亀元年(724)9月11日、勅願によって石浜神社が鎮座されたという。平安時代には、後に能の演目の基となる「梅若伝説」の舞台となり、また平安末期の治承四年(1180)には、隅田川を渡った源頼朝が石浜神社付近を宿泊所としたとされる。鎌倉時代には国境の要衝として様々な宗派の寺院が建てられた。南北朝時代、文和元年(1352)の武蔵野合戦の折には、新田義興に敗れた足利尊氏が石浜に撤退している。関東の戦国時代の幕開けとされる享徳3年(1454)に始まる享徳の乱では、下総を追われた千葉実胤・自胤が武蔵に逃れた。以降、石浜は武蔵千葉氏が治めるようになる。小田原合戦を迎え北条氏が滅亡すると、石浜周辺は渡船場、銭座、門前町と様々な顔を持った。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
対鷗荘跡[石浜城  碑・説明板]



―江戸以降の石浜―

江戸時代になると、総泉寺は御朱印20石、境内28000坪を給され、曹洞宗系単立の江戸三箇寺の筆頭となった。総泉寺のある橋場は古くからの渡船場として風光明媚な場所とされ、酒井雅楽頭や松平伊予守といった大名や豪商の別荘が並び、有名な料亭も多く存在したという。真崎稲荷は御三卿の一人、一橋宗尹が篤く信仰して社殿を再建、一橋家の祈願所とした。江戸中期からは奥宮である招来稲荷神社に参詣する江戸市民が多くなり、宝暦7年(1757)頃には、門前にて吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋が立ち並び、繁盛した。浅草千束村の新吉原の遊客がよく訪れたという。石浜神社も神明社の名で、隅田河畔の名所として市民の間にその名を馳せ、江戸末期に七福神詣が盛んになると、浅草名所七福神の寿老神に選ばれた。明治時代にも三条実美の別邸など、別荘地として利用された。「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治6年(1873)10月、太政大臣の要職にあった実美は心労で倒れ、この別邸で静養していた。明治6年(1873)12月19日には病床の実美を気遣った明治天皇が訪れている。大正12年(1923)に関東大震災が起きると総泉寺・石浜神社共に被災し、総泉寺は北豊島郡志村大字小豆沢(現板橋区)に移設、真崎稲荷は石浜神社境内に遷座した。その後、石浜神社も幾度かの遷座を経ており、町自体も鉄道貨物の拠点・工業の町を経て再開発されたため、現在では、かつての風光明媚な門前・別荘地の姿を見ることはできない。しかし、至る所に総泉寺の名残を感じさせる遺構や、歴史の流れの中を生き残った寺社があり、かつての門前・別荘地に思いを馳せる事が出来る。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
妙亀塚[石浜城  遺構・復元物]



―梅若伝説―
「平安時代、吉田小将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めて京よりこの地まできた母は、隅田川岸で里人から一年前の梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ。貞元2年(977)のある日、妙亀尼は門前の池に梅若の亡霊をみた。妙亀尼は池に身を投げた。」室町時代に作られた能「隅田川」の基となった梅若伝説である。妙亀尼が庵をむすんだ場所こそが、後に武蔵千葉氏の菩提寺となる総泉寺となったとも言われている。総泉寺の開基は千葉介とされ、創建は建仁元(1201)年2月、千葉氏中興の祖・千葉常胤の死の直前である。当時の石浜は江戸氏の支配下に置かれていたとみられ、本当に千葉氏による創建かは不明である。石浜には梅若伝説に関連していると考えられる妙亀塚や、妙亀尼が身を投げた鏡ヶ池(現在は消滅)があった。又、対岸に渡ると梅若丸を供養するために建てられた庵を起源とする木母寺に梅若塚がある。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
出山寺[石浜城  寺社・史跡]



総泉寺11代江山厳英和尚(延宝4年1676年寂)が開山となり創建。境内には采女塚というものがある。寛文年間(1661~1673)、新吉原の雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が師から固く制され悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。采女は悲しんで浅茅ケ原の鏡が池に身を投げた。時に十七才。翌朝、草刈りの人たちが
「名をそれとしらずともしれさる沢の あとをかがみが池にしずめば」
としるした短冊を見つけ、采女とわかり、塚に葬ったものとされる。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
松吟寺[石浜城  寺社・史跡]



寛永2年に総泉寺の庵室松吟庵として創建、前永平勅特賜大智恵光禅師円月江寂が中興開山した。境内には、元々総泉寺の入口に置かれていたお化け地蔵があり、総泉寺移転時に遺されたものと推定されている。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
橋場不動尊[石浜城  寺社・史跡]



天平宝字四年(760)、寂昇上人によって開創。砂尾修理太夫が開基となった。山号を砂尾山という。石浜周辺には砂尾堤があったといい、砂尾氏は千葉氏の家臣であったされる。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
平賀源内の墓[石浜城  遺構・復元物]



安永8年(1779)、殺傷事件を起こした平賀源内は、小伝馬町の牢内で獄死、総泉寺に葬られた。

関東大震災で総泉寺が板橋区小豆沢に移転した後も墓は当地に保存された。

昭和6年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備され、
昭和18年に国指定史跡に指定された。

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤
胡録神社[石浜城  寺社・史跡]

川中島合戦の折、上杉の家臣であった高田嘉左衛門は戦に敗れ、図らずも同道する事となった12名の同志と関東に落ちのびた。
高田、竹内、杉本等数名が汐入を永住の地と定めて土着した後、永禄4年9月19日に村落生活の安寧を祈願するため、守護神として胡録神社を創建した。

神紋が妙見信仰の七曜紋である事から、武蔵千葉氏との関係があった事が疑われる。

2019年04月24日 ️加賀守リーダー
真先稲荷神社[石浜城  寺社・史跡]



『天文年中千葉守胤石浜城主たりし時…』と記載の真先稲荷神社由緒碑あり。大正15年石浜神社に併合

2019年04月24日 ️加賀守リーダー
源頼朝歌碑[石浜城  碑・説明板]



「源頼朝 藤原泰衡征討の折当社に武運を祈り社頭に詠む」とあります

2019年04月24日 ️加賀守リーダー
富士講碑[石浜城  碑・説明板]



富士講碑について記載されております

2019年04月24日 ️加賀守リーダー
駐車場[石浜城  駐車場]



向かって左側柵内が月極ですのでご注意下さい

2019年04月23日 ️加賀守リーダー
石浜神社と橋場の渡し碑[石浜城  碑・説明板]



石浜神社と昔近くの隅田川白髭橋辺りにあった橋場の渡しについて記載されてます

2019年04月23日 ️加賀守リーダー
鹿香神社碑[石浜城  碑・説明板]



鹿香神社についての碑です大工の祖神、工匠守護の神として安永三年(1774)に鎮座。類例少なく江戸後期より建築関係者の信仰と人気を呼んでいるとの事です

2019年04月23日 ️加賀守リーダー
真先稲荷碑[石浜城  碑・説明板]



真先(まさき)稲荷と招来(おいで)稲荷についての碑です
真先稲荷は後鳥羽上皇時に千葉介兼胤が家伝を身につけ戦い数々の武功を得、子季胤が稲倉魂の神像を鋳造しこれを持って戦に臨んだという。その後天文年間に石浜城主となった子孫の守胤が一族郎党の隆昌を祈り社殿を築いた


2019年04月23日 ️加賀守リーダー
神社由来碑[石浜城  碑・説明板]



神社に残る遺構等の説明が書いてあります

2019年04月23日 ️加賀守リーダー
駐車場[石浜城  駐車場]



入り口突き当たり、鳥居に向かって左側壁際スペースです。隣接する駐車場は月極のためご注意を

2013年12月08日 野舘宮内少輔サラマンダー
石浜城

石浜城(石浜神社)
 石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(一五七三〜一五九一)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡の後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。
 石浜神社は、聖武天皇の時代・神亀元年(七二四)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・字都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の祓(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(一八三八)刊行の『東都歳事記』の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。
   荒川区教育委員会

2013年12月08日 野舘宮内少輔サラマンダー
石浜城

2013年12月8日14時35分(20分)

石浜神社が石浜城みたいです

徒歩で押上駅から40分、南千住から20分です

参拝者用の駐車場があるようですが、トイレは無いみたいです

初め、解説板が分からずウロウロしてしまいましたが、快く教えてくださいました

解説板は入口の右手の道路側にあります

最後に参拝して攻城を終えました

次の口コミに解説板の内容を記載します


石浜城の周辺スポット情報

 平賀源内の墓(遺構・復元物)

 妙亀塚(遺構・復元物)

 神社由来碑(碑・説明板)

 真先稲荷碑(碑・説明板)

 鹿香神社碑(碑・説明板)

 石浜神社と橋場の渡し碑(碑・説明板)

 富士講碑(碑・説明板)

 源頼朝歌碑(碑・説明板)

 対鷗荘跡(碑・説明板)

 隅田宿跡・説明板(碑・説明板)

 鎌倉街道下の道・説明板(碑・説明板)

 真先稲荷神社(寺社・史跡)

 石浜神社拝殿(寺社・史跡)

 胡録神社(寺社・史跡)

 橋場不動尊(寺社・史跡)

 松吟寺(寺社・史跡)

 福寿院(寺社・史跡)

 出山寺(寺社・史跡)

 木母寺(寺社・史跡)

 梅若塚・梅若堂(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 社務所(関連施設)

 舞殿(関連施設)

 力石(その他)

 古代東海道(その他)

 すみだの渡し(その他)

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