対鷗荘跡

対鷗荘跡([石浜城  碑・説明板])

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対鷗荘跡の口コミ情報

2019年06月30日 山内侍従伊右衛門俊胤


―江戸以降の石浜―

江戸時代になると、総泉寺は御朱印20石、境内28000坪を給され、曹洞宗系単立の江戸三箇寺の筆頭となった。総泉寺のある橋場は古くからの渡船場として風光明媚な場所とされ、酒井雅楽頭や松平伊予守といった大名や豪商の別荘が並び、有名な料亭も多く存在したという。真崎稲荷は御三卿の一人、一橋宗尹が篤く信仰して社殿を再建、一橋家の祈願所とした。江戸中期からは奥宮である招来稲荷神社に参詣する江戸市民が多くなり、宝暦7年(1757)頃には、門前にて吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋が立ち並び、繁盛した。浅草千束村の新吉原の遊客がよく訪れたという。石浜神社も神明社の名で、隅田河畔の名所として市民の間にその名を馳せ、江戸末期に七福神詣が盛んになると、浅草名所七福神の寿老神に選ばれた。明治時代にも三条実美の別邸など、別荘地として利用された。「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治6年(1873)10月、太政大臣の要職にあった実美は心労で倒れ、この別邸で静養していた。明治6年(1873)12月19日には病床の実美を気遣った明治天皇が訪れている。大正12年(1923)に関東大震災が起きると総泉寺・石浜神社共に被災し、総泉寺は北豊島郡志村大字小豆沢(現板橋区)に移設、真崎稲荷は石浜神社境内に遷座した。その後、石浜神社も幾度かの遷座を経ており、町自体も鉄道貨物の拠点・工業の町を経て再開発されたため、現在では、かつての風光明媚な門前・別荘地の姿を見ることはできない。しかし、至る所に総泉寺の名残を感じさせる遺構や、歴史の流れの中を生き残った寺社があり、かつての門前・別荘地に思いを馳せる事が出来る。

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