宮城氏館(みやぎしやかた)

宮城氏館の基本情報

通称・別名

伝宮城氏館

所在地

東京都足立区宮城1(宮城氷川神社)

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

宮城氏

築城年

鎌倉時代後期

主な改修者

主な城主

宮城氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

豊島氏館(東京都北区)[1.5km]
平塚城(東京都北区)[2.1km]
中曽根城(東京都足立区)[2.5km]
滝野川城(東京都北区)[2.8km]
道灌山(東京都荒川区)[3.3km]
駒込名主屋敷(東京都文京区)[3.5km]
稲付城(東京都北区)[3.9km]
平柳蔵人館(埼玉県川口市)[4.4km]
小菅御殿(東京都葛飾区)[5.2km]
切支丹屋敷(東京都文京区)[5.7km]

宮城氏館の解説文

宮城氏館は、鎌倉時代に武蔵国豊島郡を領有した豊島氏の庶流であった宮城氏の居館である。

江戸時代には既に畑となっており遺構は無かったとされており、現在も館跡とされる氷川神社に石碑が立つのみとなっている。

宮城氏館の口コミ情報

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮城氏館

武蔵千葉氏と宮城氏
 万治2年(1659)、伊興村横沼の千葉氏屋敷に千葉次郎勝胤の菩提を弔う目的で長勝寺が建てられた。建てたのは宮城清左衛門吉重という人物である。境内にある「千葉次郎勝胤公墓」の碑には「宮城三右衛門」という人物の名も彫られており、この二人は宮城氏の一族とみられる。
 武蔵千葉氏は享徳の乱より石濱・赤塚・淵江郷に所領を持っており、所領の近い宮城氏にとっては岩槻太田氏に次ぐ付き合いの古い領主である。宮城氏の一族の中に武蔵千葉氏の郎党となった者がいたのだろう。武蔵千葉氏も岩槻太田氏と同じく後北条氏より婿養子を迎えており、後北条氏と共に没落した。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮城氏館

謎の沼田氏
 元亀3年(1572)に宮城氏宛てに発給された北条家印判状には宮城氏の所領として「沼田之屋敷分」という地名が記載されている。「宮城」の記載がなく「沼田之屋敷分」が記載されている事から、「沼田」とは沼田村(現在の江北1~5丁目付近。信号、保育園、公園の名前や上沼田神社に名残が見える)から宮城村も含めた広域地名であったと考えられている。
 吾妻鏡「嘉祿二年(1226)四月大廿日甲辰」に、御所内での刃傷沙汰についての記載が為されている。沼田四郎親子と白井太郎親子が怨恨による殺し合いを起こしており、これらは武蔵国の御家人であるという。この「沼田四郎親子」が上記の沼田を領した沼田氏であったとみられ、宮城氏より前に一帯を領していたと思われる領主の存在が確認できる。
 吾妻鏡には沼田氏に関する記載がいくつかあるが、相模の藤原秀郷流波多野一族とみられる沼田氏(静岡県御殿場市沼田)や上野の沼田氏(群馬県沼田市)などもおり、記載された沼田氏が何処の沼田氏であるのか、それぞれの沼田氏に何らかの関係があるのかどうかも分からない。武蔵国の沼田氏が刃傷沙汰の後どうなったのかも、宮城氏や豊島氏との関係も不明である。小豪族にはよくある事ではあるが、沼田氏もまた存在のみが分かっている「謎の氏族」なのである。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮城氏館

足立庄司宮城宰相と六阿弥陀伝説
 江戸時代、寺社の巡礼を名目とした旅行が庶民の間で流行した。伊勢参りが有名であるが、江戸近辺を廻る小旅行も流行し、中でも女性に人気となったのが「江戸六阿弥陀巡り」である。現在の東京都足立区西部と北区を中心とした寺社巡りで、奈良時代の「六阿弥陀伝説」を基としている。
 「神亀2年(725)、足立庄司宮城宰相の娘足立姫が、嫁ぎ先での生活を苦にして下女12人と入水自殺した。一人娘を失った宮城宰相は悲しみのあまり諸国廻行の旅に出て、熊野権現にて霊木を授かった。海に投げ入れると、霊木は宮城宰相の故郷に流れ着き、諸国行脚中の行基がこの霊木から6つの阿弥陀仏を彫り、近隣の村に安置し、13人の女性の菩提を弔った。」以上が「六阿弥陀伝説」である。この伝説から江戸時代に女人往生の御利益があるとされ、また江戸庶民にとっては近場である事も助けたのか、「江戸六阿弥陀巡り」は人気を博し、昭和初期まで遠方からの参拝者も多く訪れたという。
 この宮城宰相はもしかしたら宮城氏の祖先ではないかと考えたことがあったが、六阿弥陀伝説自体、話の大筋は同じでも寺の伝承ごとに登場人物が微妙に違っており、入水した姫の父が沼田庄司になったり、藤原正成という人物になったり、挙句は鎌倉時代初期の人物である豊島清光になったりする。伝説はあくまで伝説であり、奈良時代の伝説上の人物「宮城宰相」を以て宮城氏の祖先とするのは想像が過ぎる。むしろ、後世この地に根付いた宮城氏が「宮城宰相」のモデルとなったと考えた方が自然に思える。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮城氏館

旗本宮城氏
 徳川への仕官の経緯、江戸前期から中期にかけての宮城氏の動向などについては詳しくは分からなかった。しかし江戸後期の旗本に武蔵国を本国とする宮城兵三郎用章、宮城靱負朝雄、宮城鐸五郎政矩がいた事が確認できた。兵三郎用章については仔細不明であるが、靱負朝雄、鐸五郎政矩は親子であると見られ、鐸五郎については屋敷地・禄高・経歴まで分かった。禄高は400石で、小日向竹島町・中之橋に500坪の屋敷を持っていた。嘉永年間成立の尾張屋板江戸切絵図の「小日向絵図」にて、現在の神田川小桜橋付近にあたる場所に「宮城鐸五郎」の名が見え、ここが屋敷であったと考えられる。
 鐸五郎は文政13年(1830)12月11日、 小普請より小納戸に任命された。小納戸は将軍周辺の様々な雑務を担当し、幕末頃には100名前後が任命されていた。将軍近くに仕える役職であった為、才覚次第では昇進しやすい花形職であったという。そのような職に就いた鐸五郎であったが、天保4年(1833)8月2日に免職されて寄合となっている。3年後の天保7年(1836)12月4日に再び小納戸に就いている為、恐らくは体調不良等の理由で一時休職を命じられていたのであろう。小納戸に復帰した後は天保8年(1837)4月2日に西丸小納戸に就任。12代将軍家慶に将軍職を譲り、大御所となった11代将軍家斉が西之丸に移ったのと時期を同じくしており、西丸小納戸就任は、この事に関係しているものと思われる。家斉没後の天保12年(1841)3月23日には本丸小納戸に就任し、嘉永6年(1853)9月22日に将軍就任直前であった家定の小納戸に就任した。20年近くに渡り小納戸職を勤めあげた鐸五郎は安政4年(1857)にこの世を去ったという。翌年、家定もこの世を去り、幕末の動乱が激しさを増していく。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮城氏館

宮城氏の動向
 弘安5年(1282)、石神井郷に所領を持つ宇多重広なる人物が、娘の筥伊豆に所領を譲渡した。この筥伊豆という娘は宮城六郎政業と婚姻し、石神井郷は息子為業に相続された。為業の妹である箱楠は豊島朝泰と婚姻、石神井郷は豊島氏に相続されていった。この様に武蔵国に屋敷を建てた宮城氏は周囲の御家人達と関係を持ちながら、地盤を固めていったとみられる。
 以降宮城氏に関わる史料は戦国中期まで見られないが、太田資正の兄資顕より所領を賜る旨の文書が残されている事から、長尾景春の乱にて一帯に勢力を誇っていた豊島氏が滅亡した後、太田道灌に臣従し、そのまま岩槻太田氏の配下となったものと見られる。天文17年(1548)に両上杉氏を滅ぼした後北条氏に太田資正が臣従すると、家臣である宮城氏も後北条氏の支配下に入った。
 永禄3年(1560)に上杉謙信が関東に兵を進めると、太田資正は後北条を離反する。宮城氏はこれに従い共に後北条氏を離れたが、反北条の色が強い資正の裁量に不満があったのか、それとも先祖伝来の地の確保を優先していたのか、永禄7年(1564)の第2次国府台合戦に敗北し、資正が息子氏資に追放されると、宮城氏は氏資と共に後北条支配下に戻る。氏資は宮城氏を重用していたらしく、資正と共に追放された舎人氏の所領を与えている。
 永禄10年(1567)、三船山の戦いで氏資が殿を勤め討死すると、武蔵・下総両千葉氏と同様に岩槻太田氏にも後北条氏から婿養子が送られる。この様な状況の中で宮城氏は後北条氏と良い関係を築いていた様である。この頃から後北条氏から宮城氏に宛てられた書状が見受けられ、宮城氏は後北条氏と陪臣という立場を越えた主従関係を結んでいたとみえる。或いは、岩槻太田氏自体が事実上の解体状態にあり、岩槻太田家臣が直臣と同等の扱いを受けていたのかも知れない。この頃の宮城氏当主は宮城美作守、天正16年(1588)5月6日より宮城四郎兵衛となっている。
 宮城美作守は天正18年(1590)の小田原合戦において小田原城に赴いた城主に代わり岩槻城本丸の守りに充てられ、浅野長政や本田忠勝と戦うが、岩槻城は3日で落城、宮城氏は没落した。その後宮城氏は徳川秀忠に取り立てられ、秀忠二男の徳川忠長配下となったというが、忠長が改易されると、旗本になった。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮城氏館

宮城氏の出自
 宮城氏は豊島氏の一族とされ、吾妻鏡に見える宮城右衛門尉が歴史上における武蔵国の宮城氏の初見であると言われている。しかし、近年では宮城右衛門尉は陸奥国宮城に起こった宮城氏であるとされ、宮城氏自体が豊島一族では無いという説が有力になってきているという。宮城右衛門尉について記述されている吾妻鏡「建長八年六月小二日辛酉」によると、旧陸羽街道沿いの地頭に宛てて、夜盗や強盗に対する警戒強化の命令が出されており、命令を受けた地頭の一人に宮城右衛門尉がみえる。地頭の中には渋江・伊古宇・平間郷地頭といった武蔵国の者もみえ、この事が、宮城右衛門尉が武蔵国の宮城氏だと判断させた要因となっている。しかし、宮城右衛門尉の前後には葛西・中条・井沢・和賀・葦野の地頭・福原といった奥州の地頭達が記載されており、名前の記載位置から判断するに、陸奥国の宮城氏と見た方が自然かもしれない。
 吾妻鏡には宮城四郎なる人物についても記載がある。諱を家業といい、陸奥国留守職を務めた留守氏の祖、伊沢家景の弟である。正治二年(1200)、謀反人芝田次郎を討つために政所別当大江広元の命令を受けた宮城四郎は奥州に下向、工藤行光の協力を得て芝田次郎を敗走させた。宮城右衛門尉はこの宮城四郎家業の縁者だろうか?
 仮に宮城右衛門尉が宮城四郎と同族の陸奥国宮城氏としても、武蔵国の宮城氏が豊島一族では無いというのには、疑問が残る。宮城氏が豊島一族でなく留守一族としたら、なぜ宮城氏は縁もゆかりも無い様な豊島氏影響下の土地に定住したのか?
 豊島・留守両氏の繋がりはやはり奥州にあった様に思える。豊島一族の葛西清重は奥州征伐の後、戦後の陸奥国御家人の取りまとめ役となった。その翌年、宮城四郎家業の兄伊沢家景が、陸奥国における最高職の陸奥国留守職に任じられている。共に奥州におけるまとめ役を担った両氏の間には、強い繋がりが出来たとしても不思議ではない。兄の任地近くの陸奥国宮城郡宮城郷を苗字としている家業が葛西氏、そしてその縁者たる豊島氏と関係を築き、一族の者が豊島氏の根拠地近くに領地を得た事は十分に考えられる。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮城氏館

宮城氏館
 マップ上では宮城氷川神社を館跡地としており、神社にも碑が置かれている。宮城氷川神社は、昭和に行われた荒川放水路開削の際に遷座されており、現在の場所は館跡地ではない。荒川放水路開削前の地図から、元の神社は江北橋下の河川敷付近にあったと見られ、仮に宮城氷川神社が館跡だったとしてもその痕跡を見つける事は不可能であろう。
 「新編武蔵風土記稿」の宮城村の記事に「屋敷蹟」に関する記載がある。「村ノ西荒川ノ岸」に「宮城宰相ガ居住ノ所」と伝承される場所があったという。近くには「馬場蹟」と呼ばれる場所もあり、風土記稿筆者が訪れた当時は「屋敷蹟」は畑に「馬場蹟」は萱地になっていた。「性翁寺」も古くはここにあったという。足立区立郷土博物館「戦国足立の三国志」によれば、この「屋敷蹟」は現在のみやぎ水再生センター付近にあったと見られ、これこそが宮城氏館であった可能性が高いという。迅速測図をみると当該地は畑地であり、更には茶畑も存在していた。東には田んぼと萱地が存在し、北東に宮城の集落が位置している。「屋敷蹟」が「村ノ西荒川ノ岸」にあったという風土記稿の記載と合致している。
 みやぎ水再生センターは昭和37年(1962)4月に小台処理場として運転を開始している。戦後間もない頃から建設工事が始まっているようで、小台処理場が置かれる以前の姿が分かる航空写真は1936年頃に撮られた不鮮明なものしかない。不鮮明ながらも一帯が農地であったことは確認でき、茶畑と思われる場所も確認できた。周囲の農地に比べ、土地の取り方が不自然であり、何らかの跡地をそのまま茶畑として利用したと見える。
 宮城の北西に堀之内という地名がある。元は椿や新田を含めた一帯を堀之内村と呼んでいたそうだ。「堀之内」という地名はその名の通り「堀の内側=城」を指すことが多い。つまりここに何らかの城館があった可能性がある。宮城氏との関係性も気になるが、「所領役帳」には「七貫文 足立内宮城 堀内 吉原新兵衛」と記載されており、堀之内は宮城氏ではなく後北条直臣吉原新兵衛に関係する屋敷が置かれた場所なのかもしれない。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮城氷川神社跡地[宮城氏館  その他]

 大正から昭和にかけて行われた荒川放水路開削前に、宮城氷川神社があったと見られる場所。明治期の測量図より推定。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
宮城氏館推定地[宮城氏館  その他]

新編武蔵風土記稿での記載や、迅速測図から、宮城氏館があったのではないかと推定される場所。現在はみやぎ水再生センターになっており、遺構は見つからないだろう。

2020年03月01日 山内侍従伊右衛門俊胤
性翁寺[宮城氏館  寺社・史跡]

 神亀3年(726)、行基が開いた庵に始まる。足立姫伝説に登場する足立姫の父足立庄司宮城宰相の屋敷側に創建された。
 江戸時代に後北条氏旧臣である阿出川対馬守貞次によって再興され、慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光から朱印地10石を与えられた。

2019年04月28日 迷列車大宰帥
宮城氏館



荒川サイクリングロードから攻略。土手から近く、トイレやベンチもあり、関東民で自転車が趣味の方はロングライドを兼ねて行くのがおすすめです。

2018年01月13日 
宮城氏館

都電荒川線の小台駅から歩きました。
途中、コインパーキングもいくつか見つけました。
宮城氷川神社になっています。
敷地内に宮城氏館の説明書きもありました。
帰りは、日暮里舎人ライナーの扇大橋駅まで歩きました。
土手沿い、気持ち良かったです。
なかなか攻略しにくいところですが、
鉄道好きな方は、都電や舎人ライナーに乗れるので、是非、リア攻めして見て下さいね。

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