宮城氏館(みやぎしやかた)

宮城氏館の基本情報

通称・別名

伝宮城氏館

所在地

東京都足立区宮城1(宮城氷川神社)

旧国名

武蔵国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

宮城氏

築城年

鎌倉時代後期

主な改修者

主な城主

宮城氏

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

豊島氏館(東京都北区)[1.5km]
平塚城(東京都北区)[2.1km]
中曽根城(東京都足立区)[2.5km]
滝野川城(東京都北区)[2.8km]
道灌山(東京都荒川区)[3.3km]
駒込名主屋敷(東京都文京区)[3.5km]
稲付城(東京都北区)[3.9km]
平柳蔵人館(埼玉県川口市)[4.4km]
小菅御殿(東京都葛飾区)[5.2km]
切支丹屋敷(東京都文京区)[5.7km]

宮城氏館の解説文

宮城氏館は、鎌倉時代に武蔵国豊島郡を領有した豊島氏の庶流であった宮城氏の居館である。

江戸時代には既に畑となっており遺構は無かったとされており、現在も館跡とされる氷川神社に石碑が立つのみとなっている。

宮城氏館の口コミ情報

2024年10月24日 マグロ常陸介祐平
舎人氏館(推定地)[宮城氏館  周辺城郭]



先人様が位置登録された舎人氏館の推定地です。舎人氏は、江戸時代に尾張藩の重臣となっており、尾張藩士の系図を纏めた「士林泝回」によると、舎人三河守重経が永禄6年(1563年)北条氏政に攻められ自害、子の重秀は同年に舎人城に住み北条氏に仕え、その子重良が尾張藩祖義直に仕えたとあります。重秀の弟の経長(熊之助?)は、それよりも早く家康の四男忠吉の忍藩時代に仕え、そのまま尾張藩士になっています。忍といえば成田氏の旧領ですが、成田分限帳には「舎人内蔵(100貫)、舎人茂左衛門(15貫)」があり、関係があるのかもしれません。気になる点は、永禄8年に太田氏が宮城氏に舎人郷をあてがっていることです。風土記稿では舎人城主の舎人氏として土佐守と孫四郎を載せ、舎人城跡に住む(江戸時代後期)舎人氏は土佐守の子孫といわれるが、詳しいことは伝わらないとしており、舎人氏の一族がその後も舎人村に住んでいたことがわかります。孫四郎は太田資正(三楽斎)の家臣で、国府台合戦に参戦し、小田原の役では小田原城に籠城したと伝わるようです。

また、織田信長の傅役の平手政秀の母または妻は舎人氏との説があり、平手政秀の養女を妻とする埴原常安(織田家の家臣、小田原の役では清洲城の留守居)の娘は舎人氏(八衛門)に嫁いでいます。早い段階で一族又は別流が尾張近辺にいたのかもしれません。

舎人熊之助が忍で忠吉に仕えたことは、間違いなさそうですが、戦国期まで居住したとされる舎人地区周辺の寺社仏閣の由来などにも舎人氏に関する情報がなく、謎の多い一族です。

舎人氏館の所在地は、風土記稿の書かれた江戸時代後期には、遺構も残っていたようですが、今ではどこにあったのかわからなくなっています。
氷川神社(写真)の他、西門寺付近や舎人ライナー沿いのオリックスレンタカー付近も推定地となっているようです。

舎人氏に関しては、先人様が詳しく口コミを書かれています。

2024年10月23日 マグロ常陸介祐平
宮城氏館



氷川神社境内に建つ石碑によると、豊島氏の支流の宮城氏の居館とされています。遺構は見られません。

宮城氏は、豊島氏が衰退いた後も生き残り、岩槻太田氏に仕えています。豊島一族の名門ということででしょうか、山角盛繁や松田康長など、北条氏の重臣クラスと姻戚となっています。子孫は秀忠の頃に400石の旗本となっています。

新編武蔵風土記稿に屋敷蹟として「村の西、荒川の岸にあり、或は城跡とも呼ぶ。宮城宰相が居住の所なりと云う。三丁五段の地にて、今は畠となれり。村内性翁寺も古はここにありしと云。又此地の續に馬場跡と唱ふる地あり。これも調馬場の跡なりと云。今は、萱野となれり。」とあり、館は戦国期の宮城氏のものではなく、平安時代末期から鎌倉時代初期の豊島清光(清元)の妻の父親の足立庄司宮城宰相の館としています。北条氏の家臣時代の知行地は、大間木(浦和)、舎人郷(足立区)、菅生郷(川崎市)などで(豊島宮城文書)、ここ宮城は吉原氏(所領役帳では匝瑳氏)の知行地のようですので、風土記稿の通り、戦国期の宮城氏の居館ではなさそうな感じです。

荒川を渡った先に、足立庄司宮城宰相(いかにも伝説っぼい名前)ゆかりの性翁寺があり、訪れてみましたが、自由参拝ではなく、受付するかたちでしたので、外からの参拝となりました。

宮城氏に関しては、先人様が詳細に口コミされています。

2023年06月19日 あきくん
宮城氏館



足立区宮城にある公園の隣にある氷川神社が宮城氏の館跡とのことです。

2022年08月25日 HAL2000壱岐守
宮城氏館



今は氷川神社となっています。脇に石碑があり「宮城氏居館之跡」と記されており、唯一それだけでわかりました。荒川と隅田川にはさまれた地域にありました。

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氏館

宮城氏館の場所
マップ上では宮城氷川神社を館跡地としており、神社にも碑が置かれている。宮城氷川神社は荒川放水路開削の際に遷座しており、元の神社は江北橋下の河川敷付近にあったと見られる。仮に宮城氷川神社が館跡だったとしてもその痕跡を見つける事は不可能であろう。

『新編武蔵風土記稿』の宮城村の記事に「屋敷蹟」に関する記載がある。「村ノ西荒川ノ岸」に「宮城宰相ガ居住ノ所」と伝承される場所があったという。近くには「馬場蹟」と呼ばれる場所もあり、風土記稿筆者が訪れた当時は「屋敷蹟」は畑に「馬場蹟」は萱地になっていた。「性翁寺」も古くはここにあったという。

『戦国足立の三国志』によれば、この「屋敷蹟」は現在のみやぎ水再生センター付近にあったと見られ、これこそが宮城氏館であった可能性が高いという。迅速測図をみると当該地は畑地であり、更には茶畑も存在していた。東には田んぼと萱地が存在し、北東に宮城の集落が位置している。「屋敷蹟」が「村ノ西荒川ノ岸」にあったという風土記稿の記載と合致している。

小台処理場(みやぎ水再生センター)は昭和37年(1962)4月に運転を開始している。戦後間もない頃から建設工事が始まった様で、『地理院地図(電子国土Web)』にある1936年頃の航空写真に工事以前の姿が写されている。不鮮明ながらも一帯が農地であったことは確認でき、茶畑と思われる場所も確認できた。周囲の農地に比べて土地の形が不自然であり、何らかの跡地をそのまま茶畑として利用したと見える。

宮城の北西には堀之内という地名がある。元は現在の椿や新田を含めた一帯を堀之内村と呼んでいたそうだ。「堀之内」という地名はその名の通り「堀の内側」を指し、環濠集落や寺院の他に城を指す事が多い。つまりここに何らかの城館があった可能性がある。しかし、『所領役帳』には「七貫文 足立内宮城 堀内 吉原新兵衛」と記載されており、堀之内は宮城氏ではなく吉原新兵衛の屋敷が置かれていた可能性が高い。

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氏館

宮城氏の出自
宮城氏は豊島氏の出自とされる。『泰盈本豊島家系図』によれば、葛西清重の玄孫「豊島太郎重信」の子「宮城八郎重中」が宮城氏初代とみられる。しかし上記系図は信憑性が疑問視されている。

『吾妻鏡』には宮城(宮木)姓の人物が3人おり、その内の1人、建長8年(1256)6月2日の記述に登場する「宮城右衛門尉」が豊島一族とされている。しかし近年、この人物は陸奥国宮城郡の宮城氏であるという説が出て、宮城氏は豊島一族ではないとする見方が有力になって来ているという(『戦国足立の三国志』)。

というのも、先の建長8年(1256)6月2日の記述は奥大道の夜討強盜警戒の沙汰についてであり、記載された人名はその沿道の地頭等であるのだが、武州宮城に近い「伊古宇」や「矢古宇」を在名とする者の名もあれば、奥州の人物の名もあり、件の宮城右衛門尉は奥州の者達と並んで記述されているのである。

確実に武州の宮城氏であると断言できるのは、『豊嶋・宮城文書』に収められた鎌倉後期の石神井郷相伝図群に登場する「宮城六郎政業」「宮城四郎右衛門為業」「宮城泰業」であろう。石神井郷の領主「宇多左衛門大夫重廣」が娘の「筥伊豆」に所領を相続させ、筥伊豆は宮城六郎政業と婚姻、四郎右衛門為業を儲けている。為業の子「小三郎宗朝」は筥伊豆の姉妹である「土用熊」の子「豊島孫四郎朝泰」の養子となり豊島氏を継いでいる(為業の姉妹である「箱楠」と朝泰の子という見方もある)。泰業は為業の子である。

婚姻関係を繋いで豊島氏が石神井の支配権を手に入れた過程を示す貴重な史料であるが、宗朝が宮城氏から豊島氏に養子に入っている点が気に掛かる。宮城氏は従来言われている様に豊島一族の出自であるからして養子に迎えたのか?それとも宇多氏を通して姻戚関係にある為に養子に迎えたのか?

そもそも、どういう経緯で宮城氏は「宮城」と名乗ったのであろうか?地名の宮城は『所領役帳』が初出で宮城氏に由来すると考えられており、在名である可能性は低い。となるとやはり気になるのは「陸奥国宮城郡の宮城氏」である。この宮城氏は陸奥留守職を務めた伊沢家景の弟「宮城四郎家業」の家である。兄の家景は奥州の差配を通じて豊島一族の葛西清重と繋がりがあり、この繋がりから宮城氏の一族が豊島氏の所領近くに移った可能性も考えられる。

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氏館

戦国時代の宮城氏1
石神井郷の宮城氏三代以降、宮城氏に関する史料は見つかっていない様で、石神井の豊島氏が滅亡した「江古田原合戦」に関する史料にも宮城氏の存在は確認できない。次に宮城氏の名を史料で確認できるのは『豊島宮城文書』などに纏められた書状で、後北条氏がその勢力を武蔵に浸透させていた時代の物である。

この頃には宮城氏は岩槻太田氏に仕えていた様で、天文16年(1547)の物と見られる太田全鑑資顕の判物で「宮城中務丞」が「大まき(さいたま市緑区大間木と思われる)」「市谷分(恐らくは現在の新宿区の市ヶ谷と思われる。『所領役帳』では江戸太田氏の太田新六郎の所領に「市谷」とある)」を安堵されている。

この後、兄資顕に代わり岩槻を継承した太田資正が後北条氏を離反。帰属を巡って父資正と対立していた嫡子太田氏資が父を追放した。この間の宮城氏の動向については史料が無いが、資正追放後の永禄8年(1565)5月15日、氏資より「宮城四郎兵衛尉」に舎人郷を与える書状が出されている事から、宮城氏は氏資に味方したのであろう。

同年6月13日には北条氏政より直々に「宮城美作守」に高麗郡笠幡郷の替地として橘樹郡菅生郷を与える旨の判物が出されており、宮城氏は岩槻家中でも高い地位にいたと考えられる。

氏資は永禄10年(1567)の三船山合戦で討死。氏資死後に後北条より太田源五郎が婿養子に出された。その為か岩槻衆の差配は北条本家が行っていた様で、元亀3年(1572)正月9日、宮城氏の代替わりに際し後北条氏より着到(所領・軍装)を改める旨の印判状が四郎兵衛尉に出されている。

また同年6月21日に評定衆石巻康保より出された「北条家裁許印判状」によれば、四郎兵衛尉は討死した尾崎大膳(宮城に隣接する小台の領主とされる)の跡目を巡って尾崎常陸守と裁判を起こしており、その評定を北条本家が行っている。

天正5年(1577)7月13日、結城晴朝攻略に当たり岩槻衆に対して奉行職任命の印判状が出されており、他の岩槻重臣と共に四郎兵衛がいくつかの奉行職に任命されている。

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氏館

戦国時代の宮城氏2
天正12年(1584)3月11日、太田源五郎の死去により岩槻を継いだ弟の太田氏房が美作守に印判状を出している。内容は豊田和泉という者が借金の返済要求に訪れた使いの者を殺害したという物である。氏房は「前代未聞之仕合ニ候」と憤慨しており、美作守に豊田和泉が領国内を徘徊しているのを見つけるような事があれば討ち殺す様にと厳命している。

天正13年(1585)7月10日、太田氏房が祝言を挙げる事になり、北条氏政が岩槻に向かう行列を記した印判状を岩槻衆に出している。この中で美作守は福島出羽守と共に惣奉行に任じられている。

同年11月11日、徳川家康の上田攻めに際し、後北条氏から出される援軍に「田口新左衛門」という人物を出す様に氏房から美作守に印判状が出されている。この2日後に徳川家臣の石川数正が出奔し徳川は兵を引き上げている為、この援軍は中止になったと考えられる。11月15日には氏房より美作守に岩槻城内車橋内の戸張番掟書を出している。

天正16年(1588)5月6日、氏房が美作守に判物を出している。内容は美作守の遺領を「四郎兵衛」に継がせる事を本人に確認する物である。氏房は「無申迄候得共(言うまでも無い事だが)」と書かせており、四郎兵衛の相続は当然の事と認識されていた事が分かる(この四郎兵衛は永禄8年から天正5年の書状に見える四郎兵衛とは別人と見られている{『戦国足立の三国志』}。恐らくは「中務丞─永禄から天正の四郎兵衛─美作守─四郎兵衛」と相続されていたのであろう)。

同年5月13日には氏房の岩槻浄国寺への朱印状の奏者に四郎兵衛が任命されている。四郎兵衛は翌年8月7日にも岩槻から鷲宮までの兵糧輸送に関する氏房印判状の奏者を務めている。

天正18年(1590)、小田原征伐が起こる。『鎌倉九代後記』によると、氏房は小田原に籠城した為、岩槻城は太田備中守、伊達与兵衛、「宮城美作守」が守る事となった。豊臣方は浅野弾正少弼長政、木村常陸介が大将を務め、5月2日に落城したという。『鎌倉九代後記』は江戸中期頃の成立とされるので、どの程度正確なものかは不明である。しかし宮城氏の立場からして岩槻城に籠ったのは本当だろう。「美作守」とは四郎兵衛が父と同じ百官名を名乗ったという事だろうか?

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氏館

旗本宮城氏
小田原征伐後の宮城氏については『寛政重修諸家譜』に詳しく記載されている。寛政譜では宮城中務、美作守、四郎兵衛をそれぞれ政業、為業、泰業としており、これは石神井郷の系譜に出て来る3名と同名である。鎌倉後期と戦国期の人物の実名が被る事はあろうが、3代続けてというのは流石に怪しく、寛政譜における宮城氏系図の信憑性にも疑問符が付く。しかし江戸時代に入ってからの記述は信憑性が高いとみられる為、寛政譜に基づき小田原以降の宮城氏の足跡を辿る事にする。

寛政譜によると、小田原征伐後、四郎兵衛泰業は天正18年(1590)7月13日に36歳でこの世を去る。泰業未亡人は同じ北条旧臣である山角次郎右衛門盛繁と再婚し、幼かった泰業の子供達も盛繁の養子となる。

次男權兵衛吉次は山角姓のまま旗本となり(長男は「某」とされており、足跡は書かれていない)、3男平右衛門正重(正業)が宮城に復姓して慶長19年(1614)に秀忠に仕官、常陸鹿島に400石を賜る。後に忠長附属の書院番組頭となるが、忠長改易に連座して池田輝興預かりとなり、寛永11年(1634)に輝興領国の赤穂で逝去したとされる(天正19年(1591)又は20年(1592)に作られたとされる『地蔵菩薩坐像台座銘』には「宮城美作守平朝臣正重」とあり、正重は天正19年頃には既に元服していた可能性もある)。

正重の子五郎右衛門(平右衛門)正次は寛永13年(1636)に赦免され、父の遺領を受け継ぎ寛永16年(1639)に御小姓組番士となる。正次の2人の男児である孫三郎(五郎右衛門)政興、三郎右衛門政幸もそれぞれ旗本に取り立てられ、以降この2家が旗本宮城氏として続いた。

寛政譜は寛政10年(1798)まで家譜の提出が求められたというので、掲載された系譜は江戸後期にまで至る。『寛政譜以降旗本家百科事典』には寛政譜以降の旗本が記載されおり、その第5巻に「宮城鐸五郎政矩」の名が見える。

政矩は文政13(1830)に小納戸に就任し、西丸小納戸、本丸小納戸、家定公小納戸を歴任した後安政4年(1857)に逝去した。小日向竹島町に屋敷があったらしく、嘉永年間(1848~1855)成立の『尾張屋板江戸切絵図「小日向絵図」』を確認すると、現在の神田川小桜橋北岸西側にあたる場所に「宮城鐸五郎」の名が見える。

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氏館

沼田氏と宮城氏
元亀3年(1572)の北条家印判状には、宮城氏所領として「沼田之屋敷分」とあり、「沼田」は宮城も含めた広域地名であったと考えられている(『戦国足立の三国志』)。

『吾妻鏡』によると、嘉祿2年(1226)4月20日に御所内で沼田四郎父子と白井太郎父子が怨恨による殺し合いを起こしている。これらは武蔵国の御家人であるといい、『新編武蔵風土記稿』によれば、この「沼田四郎父子」が上記の沼田を領した沼田氏であったとされる。

『鶴岡事書日記』には鶴岡八幡宮領佐々目郷の公文職の安堵料に関する記述があり、その中に「沼田入道」の名が見える。佐々目郷は現在のさいたま市・戸田市の辺りにあったとされる事から、沼田入道は武蔵の沼田氏であったと考えられる。

中世の鶴岡八幡宮は別当を頂点としてその下に二十五坊の供僧を置いていた。二十五坊には「内方供僧」と「外方供僧」が居り、前者は別当が、後者は恐らく鎌倉公方が補任権を持っていた。こうした組織構造は各地の鶴岡領にも反映され、一つの領地を25に区分する「分田支配」が取られていた。また神領支配などの業務は供僧が補任した代官が行っていた(『多摩市史 通史編1』)。

事書日記の記述によれば、沼田入道は佐々目郷の外方8人の代官を務めていたと見られる。沼田入道の安堵料に関する記述は応永7年(1400)8月27日の豊嶋左近蔵人入道道頭の佐々目郷公文職補任に関する記述の直後に書かれており、同日もしくは近い時期の記述とみられる。

文化5年(1808)、大田南畝が多摩川巡視の際に『家伝史料』を纏めた。その中に太田資正追放前の岩槻太田氏家臣等を列記したとみられる『きやくいの次第』『しゆいの次第』『次第不同』がある。「きやくい」「しゆい」とは「客位」「主位」の事とみられ、それぞれ食客、家老級の重臣を指していると考えられる。

この内『しゆいの次第』の中に「沼田殿」の記載が見られる。次第の中には「宮城」の記載が無い事、他の書状などから宮城氏が岩槻重臣であったとみられる事を鑑みると、「沼田殿」は宮城氏の事ではないかと考えられる。『戦国足立の三国志』によれば、沼田氏と宮城氏が同族という説もあるという。

同族であったのかどうかも含めて、宮城氏について一つの大きな謎を投じる氏族である。

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氏館

武蔵千葉氏と宮城氏
万治2年(1659)(元和8年(1622)とも)、伊興村横沼の千葉氏屋敷に千葉次郎勝胤の菩提を弔う目的で長勝寺が建てられた。建てたのは宮城清左衛門吉重(寛永14年(1637)正月13日病没)という人物である。境内にあった「千葉次郎勝胤公墓」の碑には「宮城三右衛門」という人物の名も彫られており、三右衛門は千葉氏郎党の宮城氏とみられる。

武蔵千葉氏は享徳の乱で下総を追われた千葉実胤・自胤が扇谷上杉氏に与した事により始まる一族で、石濱・赤塚・淵江郷などに所領を持っていた。所領の近い宮城氏にとっては岩槻太田氏と同様付き合いの古い領主であり、宮城氏が豊島一族であったとすれば千葉氏との関わりは平安時代まで遡る。

こうした関わりや武蔵千葉氏が沼田村に所領を持っていた事から(『所領役帳』)、宮城氏の一族の中に武蔵千葉氏の郎党となった者がいたのだろう。武蔵千葉氏も岩槻太田氏と同じく後北条氏より婿養子を迎えており、後北条氏と共に没落した。

元亀3年(1572)正月9日に宮城四郎兵衛に出された北条家印判状には当時の宮城氏の所領が記載されている。宮城に当たる「沼田之内屋敷分」は15貫文であるのに対し、「大間木」は65貫360文、「舎人本村」は60貫文、「(橘樹郡)小机之内菅生」は90貫文と、根拠地とみられる沼田より他の所領の方が遥かに高禄となっている。この頃には美作守などの本家筋とみられる勢力は岩槻周辺に居を移していたと考えられ、宮城三右衛門は恐らく「沼田之内屋敷分」に置かれていた一族なのであろう。

『新編武蔵風土記稿』によれば、宮城清左衛門吉重の家の由緒は不詳である。しかし子孫に名主である林蔵という人物が居て、私録の過去帳や領家村實相寺の過去帳には「宮城加賀守藤原吉次(法名日妙)」の記載がある。家伝によればこの人物は清左衛門の先祖にして、千葉氏の家人であったという。

吉次は寛政譜にある岩槻太田の重臣宮城四郎兵衛の息子と同名である。吉次が武蔵千葉氏の家人であったという事や同時代の人物である清左衛門吉重の先祖とされている事、下総千葉氏の千葉勝胤が武蔵千葉氏の人物とされている事など、伝承に混乱がある様だ。恐らくは沼田にいた三右衛門の一族が武蔵千葉氏の菩提を弔った事に後世様々な尾ひれがついたのではなかろうか?

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
舎人氏館(推定地)[宮城氏館  周辺城郭]

舎人氏と宮城氏
「舎人」とは律令時代に隆盛した皇族・公家の警備雑用を務める役職である。地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた事から地名としてその名を遺した地域も散見される。

足立区舎人の由来は諸説ありはっきりしないが、この地に「舎人」を称した豪族がいた事は分かっている。子孫が尾張藩士となっており、江戸中期の『士林泝洄』によれば、舎人氏は天武天皇の第5皇子である舎人親王を家祖とするという。恐らく「舎人」という名から連想されたものであろう。

舎人氏は舎人城を築き代々舎人郷を領していた様で、江戸後期の『藩士名寄』によるとその64代当主が駿河守重貞であったという。舎人氏は宮城氏と同じく岩槻太田氏に仕えており、第二次国府台合戦の際には太田資正に従った。永禄5年(1562)5月14日の太田資正の書状には野本右近と共に「舎人孫四郎」が取次として記載されている。『関東古戦録』では孫四郎が野本与次郎と共に清水又太郎を引き倒して資正に首を捕らせており、舎人氏と野本氏は資正の側近であったとみられる。

『藩士名寄』には重貞の子に隠岐守重長と三河守重経がいたとされており、先の孫四郎は重長の事を指しているという。『士林泝洄』によれば、次男の重経は国府台合戦より前の永禄6年(1563)8月14日に北条氏政に舎人城を落とされ自害したとある。重経の長男右衛門兵衛重秀は父の死後に北条に仕え、次男の源太左衛門経長もまた北条に仕えた。経長は小田原征伐後に松平忠吉に仕え、そのまま尾張藩士となったという。

舎人城陥落後、舎人は葛西城を攻略した本田氏が所望していたものの(『永禄5年8月26日北条家印判状』)、岩槻太田旧臣の所領であった為か、太田氏資が宮城四郎兵衛に与えている。宮城氏所領の中では3番目に貫高の多い土地であり、豊かな土地であった事が窺える。

『新編武蔵風土記稿』には「屋敷跡」の記述があり、「舎人土佐守」という人物の住居跡があったとされている。土佐守は孫四郎の父とされ、系譜上の重貞に当たる人物と考えられる。また尾張藩士とは別家の子孫である百姓が舎人に住んでいたとされる。『戦国足立の三国志』によれば、この「屋敷跡」は舎人氷川神社から毛長川にかけて、もしくは近世の舎人宿(西門寺から日暮里・舎人ライナー沿いにかけて)にあったと考えられている。

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
性翁寺[宮城氏館  寺社・史跡]

神亀3年(726)、行基が開いた庵に始まるとされる。六阿弥陀の足立姫伝説に登場する足立姫の父足立庄司宮城宰相の屋敷傍に創建されたという。
江戸時代に後北条氏旧臣である阿出川対馬守貞次によって再興され、慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光から朱印地10石を与えられた。

江戸時代、寺社の巡礼を名目とした旅行が庶民の間で流行した。伊勢参りが有名であるが、江戸近辺を廻る小旅行も流行し、中でも女性に人気となったのが「江戸六阿弥陀巡り」である。現在の東京都足立区西部と北区を中心とした寺社巡りで、奈良時代の「六阿弥陀伝説」を基としている。

「神亀2年(725)、足立庄司宮城宰相の娘足立姫が、嫁ぎ先での生活を苦にして下女12人と入水した。一人娘を失った宮城宰相は悲しみのあまり諸国廻行の旅に出て、熊野権現にて霊木を授かった。海に投げ入れると霊木は宮城宰相の故郷に流れ着いた。諸国行脚中の行基がこの霊木から6つの阿弥陀仏を彫り、近隣の村に安置して13人の女性の菩提を弔った。」以上が「六阿弥陀伝説」である。この伝説から江戸時代に女人往生の御利益があるとされ、また江戸庶民にとっては近場である事も助けたのか、「江戸六阿弥陀巡り」は人気を博して昭和初期まで遠方からの参拝者も多く訪れたという。
 
さいたま市にある大戸地蔵堂所蔵の『地蔵菩薩坐像台座銘』には「宮城美作守平朝臣正重」が「性翁道活信士」夫婦の追善の為に作られた旨が記述されており、「性翁」という名が性翁寺との関連を疑わせる(『戦国足立の三国志』)。作られたのは天正19年(1591)又は20年(1592)と見られ、美作守正重は『寛政重修諸家譜』に見られる四郎兵衛泰業の3男正重と同一人物とみられる。

「寛政譜」の記述に沿うと正重は天正19年(1591)時点で7歳という事になり、元服していたとは考え難い。「寛政譜」は宮城氏の初期の系譜について疑わしい点があり、正重という人物自身も忠長改易事件に巻き込まれている事からも、この辺りの宮城氏の系譜に混乱があるのではないかと考えられる。

2022年02月23日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氏館

宮城氷川神社
南北朝時代、宮城八郎重中が宮城を開発し居館を構えた際に武蔵一ノ宮氷川神社を勧請したのが始まりとされる。小田原征伐後、宮城が近世村落として成立した時に鎮守社となり、十一面観世音菩薩を本尊としたという。

宮城八郎重中は『泰盈本豊島家系図』に記載のある人物であるが、系図は信憑性が疑われている。系図から神社の伝承が生まれたのか神社の伝承を豊島泰盈が系図に取り入れたのかは不明だが、後者であるとすると鎌倉時代の宮城氏とは別に南北朝時代より始まる宮城氏がいた可能性も考えられる。

大正2年3月、荒川放水路開削に際し現在地に遷座。戦災により焼失した後再建されたが、昭和30年に公園が置かれる事になった為に境内の一部と公園の敷地が交換され新築移転した。

2022年02月12日 淳盛甲斐守赤備❖勝政隊❖
宮城氏館



王子駅から江北橋通りを歩いて行きました。荒川の橋の手前に宮城氷川神社が公園の横にありました。碑文もあります。

2021年02月01日 まるぺこ左衛門督
宮城氏館



この文字は読むのが難しいですね 公園の真横に神社は珍しい 裏は荒川(天然の堀?) 少し距離(1km程)ありますが東京唯一の路面電車も走っており良き所です

2020年03月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氷川神社跡地[宮城氏館  その他]

 大正から昭和にかけて行われた荒川放水路開削前に、宮城氷川神社があったと見られる場所。明治期の測量図より推定。

2020年03月01日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
宮城氏館推定地[宮城氏館  その他]

新編武蔵風土記稿での記載や、迅速測図から、宮城氏館があったのではないかと推定される場所。現在はみやぎ水再生センターになっており、遺構は見つからないだろう。

2019年04月28日 迷列車越後守
宮城氏館



荒川サイクリングロードから攻略。土手から近く、トイレやベンチもあり、関東民で自転車が趣味の方はロングライドを兼ねて行くのがおすすめです。

2018年01月13日 
宮城氏館

都電荒川線の小台駅から歩きました。
途中、コインパーキングもいくつか見つけました。
宮城氷川神社になっています。
敷地内に宮城氏館の説明書きもありました。
帰りは、日暮里舎人ライナーの扇大橋駅まで歩きました。
土手沿い、気持ち良かったです。
なかなか攻略しにくいところですが、
鉄道好きな方は、都電や舎人ライナーに乗れるので、是非、リア攻めして見て下さいね。

宮城氏館の周辺スポット情報

 石碑(碑・説明板)

 舎人氏館(推定地)(周辺城郭)

 性翁寺(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 宮城氏館推定地(その他)

 宮城氷川神社跡地(その他)

 旗本・宮城鐸五郎屋敷跡(その他)

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