切支丹屋敷(きりしたんやしき)

切支丹屋敷の基本情報

通称・別名

キリシタン屋敷、山屋敷、(井上筑後守政重下屋敷)

所在地

東京都文京区小日向1-24-8

旧国名

武蔵国

分類・構造

屋敷

天守構造

なし

築城主

徳川幕府

築城年

正保3年(1646)

主な改修者

主な城主

井上政重

廃城年

寛政4年(1792)

遺構

消滅

指定文化財

都旧跡(切支丹屋敷跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

御殿山城(東京都新宿区)[1.0km]
築土城(東京都新宿区)[1.1km]
牛込城(東京都新宿区)[1.4km]
牛込見附(東京都千代田区)[1.6km]
本郷城(東京都文京区)[2.1km]
駒込名主屋敷(東京都文京区)[2.3km]
尾張徳川氏屋敷(東京都新宿区)[2.4km]
市ヶ谷見附(東京都千代田区)[2.5km]
四谷見附(東京都新宿区)[3.1km]
江戸城(東京都千代田区)[3.2km]

切支丹屋敷の解説文



切支丹屋敷(きりしたんやしき)は、江戸時代に江戸小石川小日向(現在の東京都文京区小日向1-24-8)にあったキリシタンを収容する屋敷である。新井白石の『西洋紀聞』内には「きりしたむ屋敷」の表記で現れている[1]。山屋敷とも呼ばれる[2]。近年の研究では、2013年(平成25年)の宮永孝による論文に詳しい[3]

沿革 

幕末に水戸斉昭によって編まれた『息距篇』の小日向志の項に切支丹屋敷に関して比較的詳しい記述がある。それによると、小石川の切支丹屋敷というのは茗荷谷付近にあった井上筑後守政重の別業で、大目付だった井上が宗門奉行となってから中に牢獄や番所を拵えた。これが正保3年(1646年)のことである。寛永20年 (1643年) 5月にシチリアのパレルモから「シヨセイフロウロ」という者が日本宣教のため密入国したが捕まり、江戸へ回送されて伝馬町の牢獄に押込められていたところ、井上が自分の屋敷で預かると言い出し、その後、切支丹屋敷へ身柄を移した[4]。その際に、内部に牢獄を作った。『息距篇』では「シヨセイフロウロ」と書かれているが、現在では、寛永20年に捕まった人物は1人ではなく、筑前国に漂着したイタリアの宣教師ジュゼッペ・キアラ、ペトロ・マルクエズら10人であることがわかっている[5]

以後、密入国した宣教師が江戸に回送された時はここに幽閉されるようになった。ただし、切支丹専用の施設だったというわけでもなく、明暦の大火の際に伝馬町の牢獄が使えなくなった時期には、ここが罪人の牢獄・拷問場所として使われたと伝えられている[6]

切支丹屋敷に最後に幽閉されたのは、『西洋紀聞』で有名な「ヨハンハツテイスタシロウテ」(シドッチ) である。シドッチは宝永5年(1708年)に屋久島に上陸し、長崎を経て江戸に送られ、この屋敷で新井白石の尋問を受けた。

シドッチ以後、宣教師が密入国することは絶え、宣教師の牢獄としての役目を果たすことはなくなった。シドッチが正徳4年(1714年)に没した後は収容される者もいなくなり、切支丹屋敷は享保9年(1724年)か10年頃に火災で焼失、その後は再建されることもなく放置された。以後、宗門奉行の業務は転び切支丹類族帳、切支丹宗門改帳の受け取りなどに限られるようになった[7]

寛政4年(1792年)に宗門奉行の廃止と同時に正式に廃された。寛政年間には、佐橋長門守が奉行をしていた時期、畑にする計画が進んだが、刑場だったため、穢れた場所でよろしくないとの言上があり、沙汰やみになった。

2014年7-8月、切支丹屋敷跡へのマンション建設に伴い調査が行われ、3体の遺骨が発掘された。DNA解析の結果、うち1体はイタリア人のグループに属する男性であり、シドッチの遺骨であるとみられている[8]

現在 

切支丹屋敷の跡地の一部に、切支丹屋敷跡の記念碑と、拷問にあった信者の八兵衛を生き埋めにして石を置いたという「夜なき石(八兵衛石)」がある[9]。碑の向かい側一帯の跡地は2016年現在マンションになっている[10]。また、この碑の近くの坂は切支丹坂(幽霊坂)と呼ばれている。坂の位置は諸説あるが[11]、文京区教育委員会は碑から1ブロック南下した位置から東方向にある地下鉄丸ノ内線ガード下の隧道まで続く坂を切支丹坂としている[12]

近隣・近隣の坂

  • 小石川車両基地
  • 文京区立茗台中学校
  • 文京区立小日向台町小学校
  • 播磨坂
  • 小石川郵便局
  • 切支丹坂
  • 庚申坂
  • 藤坂
  • 荒木坂
  • 蛙坂
  • 釈迦坂
  • 茗荷坂

交通

  • 東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅より徒歩約6分
  • 東京メトロ有楽町線江戸川橋駅より徒歩約11分
  • 都営バス小石川4丁目停留所より徒歩約8分

切支丹屋敷の口コミ情報

2023年04月10日 あきくん
切支丹屋敷



茗荷谷駅付近の住宅街の一角に石碑があります。

2023年01月28日 朽木式部大輔元綱
切支丹屋敷

切支丹屋敷は、現在石碑と看板が立っています。徒歩でリア攻めに行く方は、坂が大変なので頑張ってください。

2023年01月27日 はる左京大夫ちゃん
切支丹屋敷



地下鉄護国寺駅を出て、鼠坂の急勾配を息途切れ途切れで登り、閑静な住居街の突き当たりに切支丹屋敷跡発見!当時のキリシタンをこの屋敷に集めた牢獄だとか。西洋文明の知識をこの屋敷から受容したとは感慨深い!帰り坂を降り江戸川橋駅より帰宅。いい運動になりました。

2022年08月26日 寺右京大夫にゃん
切支丹屋敷



案内板の傍らに特徴的な形の石碑があります。屋敷があった期間は短かったようです。

2021年02月01日 號号大宰帥虎右衞門
切支丹屋敷



都心の閑静な住宅街の坂の上にあります。江戸時代ならここから江戸城が眺められたのかしら?

2021年01月11日 さすけ武蔵守
切支丹屋敷



ちょっぴり高級風な、閑静な住宅街にあります。ここに嘗ては切支丹の屋敷があったと思い浮かべるみると…良いかと思います。

2020年08月14日 ひー石狩守
切支丹屋敷

公共交通機関での訪問をおすすめします

2020年07月20日 真田大学允幸村
切支丹屋敷

周辺には案内板以外のものが特に無く、確認できる遺構は見つけられなかった。小日向台地の東端に位置していることから、東側に急勾配の坂があり、宅地の狭い路地を歩いていると突然急な坂が現れる。このことから、市街戦での防衛に適しているとみた。

2015年01月02日 しぐ志摩守
切支丹屋敷

2014年4月より石碑の通り向かいの建築工事現場で発掘調査が行われ、弥生〜古墳時代、江戸時代の遺構が確認されました。また切支丹屋敷に収容されていたシドッティ神父(1668-1714)と思われる墓も出土したとのことです。

切支丹屋敷の周辺スポット情報

 蛙坂(碑・説明板)

 切支丹屋敷(碑・説明板)

 茗荷谷町案内図(碑・説明板)

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