稲付城(いねつけじょう)

稲付城の基本情報

通称・別名

所在地

東京都北区赤羽西1

旧国名

武蔵国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

太田道灌

築城年

文明年間(1469〜1487)

主な改修者

主な城主

太田氏

廃城年

遺構

(発掘調査:空堀、堀切)

指定文化財

都旧跡(稲付城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

豊島氏館(東京都北区)[2.4km]
平柳蔵人館(埼玉県川口市)[2.7km]
滝野川城(東京都北区)[2.8km]
志村城(東京都板橋区)[3.0km]
板橋城(東京都板橋区)[3.7km]
宮城氏館(東京都足立区)[3.9km]
平塚城(東京都北区)[4.1km]
駒込名主屋敷(東京都文京区)[6.0km]
中曽根城(東京都足立区)[6.1km]
道灌山(東京都荒川区)[6.4km]

稲付城の解説文

東京都北区赤羽西1丁目に所在する静勝寺を含め、元々当地一帯は稲付城(いねつけじょう)と呼ばれていた城があったところと言われている。一説によると戦国時代に太田道灌が築城したと伝わっている。(扇谷上杉氏によるとの説もある。ただ、太田道灌は扇谷上杉氏の家臣だったので、彼も少なからず関わっていたと言われている。)

その後、道灌の孫である太田資高及びその子太田康資が二代にわたり当地に館を築いていた。

その後、稲付城は後北条氏のものになり、後北条氏滅亡後は、江戸に入った徳川家康の命により廃城になったとされる。

本解説文(基本情報を除く)は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「稲付城」を素材として二次利用しています。

稲付城の口コミ情報

2024年09月29日 マグロ常陸介祐平
稲付城



太田道灌が築城したとされるお城で、孫の資高が居住したとされています。現在は太田道灌の子孫が明暦元年(1655年)が建立した静勝寺となっています。舌状台地の先端に位置し、お寺の南側の発掘調査では永禄年間末頃から天正10年頃に普請されたとみられる空堀が確認されたようです。

空堀が普請された頃の当主康資(資高の子)は、北条氏の家臣のなかではかなりの大身で、家中6位の1943貫を知行し、98箇所に分散された所領の中でもここ岩渕5ヶ村は185貫ともっとも大きな所領となります。とはいえ、二千貫の大身が居城するには、手狭すぎる感じを受けます。

市街地化されており、はっきりした遺構は見られませんが、写真のように三方を崖に囲まれ、要害の地であることは実感出来ます。

2024年09月23日 HAL2000壱岐守
稲付城



太田道灌が築城されたとされる武蔵国のお城。道灌が生きた時代的に言って、城というより館に近かったのではなかろうか。赤羽駅東口を出て少しいくと、小高くなっている箇所に木が生えていて、すぐに稲付城の場所はわかりました。現在城跡に存在している静勝寺は道灌の孫が建てたものだそう。リア攻めするのに、駅からのアクセスがとてもいいのでお勧めです。

2023年07月27日 高田山吹守道灌
稲付城



赤羽駅南口改札口西側を出て線路沿いを南にデイリーヤマザキで右に曲ってすぐ階段下に出ます!登れば道灌公木像を御祀りされた道灌堂!今日、7月26日は道灌公の命日!静勝寺というお寺!岩付城、川越城への繋ぎの城です!

2022年05月04日 號号権中納言虎右衞門
稲付城



赤羽駅から5分程度、赤羽台の高台にあります。今は眺望はありませんが、昔は荒川を望む好立地の様相です。

2022年03月05日 長森原
岩渕の渡し[稲付城  その他]



稲付城の北1.5キロの地点にある岩渕の渡し。ここは鎌倉街道中ノ道が入間川(現・荒川)を渡っていた渡河点であり、鎌倉時代からこの渡しの両岸の川口と岩渕は街道の「宿」として栄えていました。

稲付城側の岩渕宿には鎌倉時代から遊女も居たらしく、「とはずがたり」の作者・後深草院二条が正応二年(1289年)12月に対岸の川口に逗留した際、
「前には入間川(現・荒川)とかや流れたる。向へには、岩渕の宿といひて、遊女どものすみかあり。山といふものはこの国内にはみえず。はるばるとある武蔵野の萱が下折れ、霜枯れはててあり。」
と書き記しています。

稲付城跡の説明板には、稲付城が江戸城と岩槻城を結ぶ街道沿いに造られた繋ぎの城であり、城下の街道には関所が設けられていた事が記されていますが、その街道とは鎌倉〜江戸〜岩槻〜奥州を結んでいた鎌倉街道中ノ道の事であり、高台にある稲付城からは中ノ道とその渡河点である岩渕の渡しがよく見渡せたと思われます。

後にこの鎌倉街道中ノ道は、徳川将軍が日光東照宮参詣の際使用する「日光御成道」として整備され、将軍の御成りの際には岩渕の渡しには将軍専用の船橋が架けられました。
鎌倉街道中ノ道が将軍専用の日光参詣道となった理由は、徳川家康が慶長5年に上杉景勝攻めのため鎌倉街道中ノ道を北上し小山に至った時、石田三成挙兵の報を聞きすぐさま引き返し関ヶ原で勝利した故事に拠るそうです。

2022年01月22日 ファン掃部助トム治郎
稲付城



鳩ケ谷から赤羽まで2時間くらいの散歩。稲付城は荒川をのぞむ台地にあり岩槻城への中継地だったのがわかります。

2021年11月30日 ひ〜ふ〜
稲付城

赤羽駅から程近くの高台にあるお寺でした。木々が色づく境内で気持ちも穏やかになれますね。

2021年03月16日 明石家船上
稲付城

荒川の河岸段丘に作られた砦・城
荒川から利根川まで見渡せる位置にある

2018年08月01日 ぐ~る兵衛大蔵卿
稲付城

赤羽駅西口から徒歩数分。現在は静勝寺です。
少し高台に立地し、階段を登らねばなりませんが、手すりがあります。
階段を上がった右手側に、昭和62年の発掘調査の際に発見された遺跡が置かれています(説明文などは無し)
築城主の太田道灌像を祀ったお堂は、道灌の命日である7月26日にちなんで、26日に開帳される。

2017年12月17日 水瀬筑後守名雪
稲付城

赤羽西口の高台にある、静勝寺のある場所が、稲付城のあった場所となる。遺構等は特に残っていない。お寺の裏口にある祠に太田道灌像が奉られてあるとのことだが、中を見ることは出来ない。

2015年03月21日 まー刑部卿
稲付城

赤羽駅前にある。木造の太田道灌像は普段見れないようだが今日は見れた。

稲付城の周辺スポット情報

 木造太田道灌坐像(碑・説明板)

 稲付城跡案内板(碑・説明板)

 稲付城跡石碑(碑・説明板)

 稲付城跡案内板(北区)(碑・説明板)

 宝幢院(寺社・史跡)

 亀ヶ池弁財天(寺社・史跡)

 岩渕の渡し(その他)

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