舎人氏館(推定地)

舎人氏館(推定地)([宮城氏館  周辺城郭])

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舎人氏館(推定地)の口コミ情報

2022年02月23日 山内侍従伊右衛門俊胤
舎人氏と宮城氏
「舎人」とは律令時代に隆盛した皇族・公家の警備雑用を務める役職である。地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた事から地名としてその名を遺した地域も散見される。

足立区舎人の由来は諸説ありはっきりしないが、この地に「舎人」を称した豪族がいた事は分かっている。子孫が尾張藩士となっており、江戸中期の『士林泝洄』によれば、舎人氏は天武天皇の第5皇子である舎人親王を家祖とするという。恐らく「舎人」という名から連想されたものであろう。

舎人氏は舎人城を築き代々舎人郷を領していた様で、江戸後期の『藩士名寄』によるとその64代当主が駿河守重貞であったという。舎人氏は宮城氏と同じく岩槻太田氏に仕えており、第二次国府台合戦の際には太田資正に従った。永禄5年(1562)5月14日の太田資正の書状には野本右近と共に「舎人孫四郎」が取次として記載されている。『関東古戦録』では孫四郎が野本与次郎と共に清水又太郎を引き倒して資正に首を捕らせており、舎人氏と野本氏は資正の側近であったとみられる。

『藩士名寄』には重貞の子に隠岐守重長と三河守重経がいたとされており、先の孫四郎は重長の事を指しているという。『士林泝洄』によれば、次男の重経は国府台合戦より前の永禄6年(1563)8月14日に北条氏政に舎人城を落とされ自害したとある。重経の長男右衛門兵衛重秀は父の死後に北条に仕え、次男の源太左衛門経長もまた北条に仕えた。経長は小田原征伐後に松平忠吉に仕え、そのまま尾張藩士となったという。

舎人城陥落後、舎人は葛西城を攻略した本田氏が所望していたものの(『永禄5年8月26日北条家印判状』)、岩槻太田旧臣の所領であった為か、太田氏資が宮城四郎兵衛に与えている。宮城氏所領の中では3番目に貫高の多い土地であり、豊かな土地であった事が窺える。

『新編武蔵風土記稿』には「屋敷跡」の記述があり、「舎人土佐守」という人物の住居跡があったとされている。土佐守は孫四郎の父とされ、系譜上の重貞に当たる人物と考えられる。また尾張藩士とは別家の子孫である百姓が舎人に住んでいたとされる。『戦国足立の三国志』によれば、この「屋敷跡」は舎人氷川神社から毛長川にかけて、もしくは近世の舎人宿(西門寺から日暮里・舎人ライナー沿いにかけて)にあったと考えられている。

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