西袋陣屋(にしぶくろじんや)
西袋陣屋の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 埼玉県八潮市西袋
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 興津良次
築城年
- 戦国時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 興津氏(伊奈氏家臣)、小澤氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
和井田氏屋敷(埼玉県八潮市)[3.7km]
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西袋陣屋の口コミ情報
2023年08月07日 マグロ常陸介祐平
西袋陣屋
関東郡代伊奈氏の家臣興津氏(後に直参旗本)の陣屋に名主一族の小沢氏が移り住んだ屋敷跡で、西袋陣屋公園となっています。説明板によると中世の館跡だった可能性があり、江戸時代後期の絵図で二重の堀が見られるとあります。
近くにある八潮市立資料館の方に遺構について尋ねたところ、周囲を囲む水路と公園入口の柵で囲まれた窪みが構堀(水堀)の跡、南側の祠のある土盛りが水塚(工事で写真が写せない)と県の報告書に記載されており、北側の堀にそった土塁状の土盛りと東北部の台状の土盛り(写真4枚目)は記載がないとの事でした。個人的な感想ですが、土塁状のものは土塁、台状の土盛りは蔵の乗った水塚、水塚とされる土盛りは信仰的なもののように感じました。
資料館も構堀に囲まれた(遺構なし)名主の館跡に建てられていて、明治9年の建築ですが式台のある名主の住居を見ることができます。無料です。
2021年06月01日 S&K弾正大弼
西袋陣屋
西袋陣屋-伊奈忠次の家臣、興津良次の陣屋です。かつては二重堀が有ったが市街地化が進み現在はその一部が西袋陣屋公園となっています。辺りは工場が多く陣屋の周りは住宅地になっており、残念ながら遺構は残っていません。現在僅かな遊具とかなりの雑草が生い茂っている状態でした。避難場所になっています ※駐車場無し
アクセスー歩行は厳しいです。車は工場と住宅地が多くナビをご利用下さい。
2020年10月05日 陸奥権中納言景衡
西袋陣屋
住宅と工場の中にある公園に案内板があります。入口がわかりにくいのでナビのご利用がおすすめです❗
2018年05月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
西袋陣屋
綾瀬川開発史
現在の綾瀬川は柳之宮・西袋を分断するように流れているが、元々は両村の西側に大きく蛇行していた。江戸期より前の綾瀬川は雨が降る度にすぐに流れが変わってしまうほど、河道の定まらない川であり、「あやしの川」と呼ばれていた。その為、綾瀬川沿いの開発は戦国末期~江戸初期まで待たれた。慶長年間、伊奈忠次は備前堤を築き、元荒川と綾瀬川を分離した。寛永年間には伊奈忠治等によって蒲生地区から西袋にかけての曲流路が直流にされ、流量調整のために、内匠新田(現在の花畑川との合流点付近)から小菅まで開削された。永宝8年(1680)、小菅から隅田川に繋がる流路が開削され、江戸との水運が盛んになった。西袋周辺の流路が直線にされたのは享保12年(1727)と大分後になってからで、元の流路跡は栗原平次右衛門によって新田開発され、宝暦2年(1752)に西袋村新田平次右衛門組として、西袋村から村切りされた。
開発された綾瀬川は舟運が盛んとなり、河岸が置かれた草加、越谷、粕壁(春日部)などが発展した。更に将軍家が江戸城から小菅御殿に向かう際に「小菅丸」という舟で移動するのに用いたという。
2018年05月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
西袋陣屋
教育者、小澤豊功
曽根氏(興津氏)が江戸に移った後、西袋陣屋跡には西袋村の名主小澤家が分家した。小澤氏については出自が明らかでない。調べると、豊臣秀吉配下であった初代作右衛門重録が、関ヶ原に西軍として参戦した後、各地を流浪する内に慶長8年(1603)頃西袋に訪れ、開発名主として定住する事になったという。また、小沢家文書によれば、小沢和泉なるものが文録の役の折、徳川家康に従い槍一筋を持参し戦ったという。家康は文録・慶長共に肥前名古屋城に在城している為、文書の記述は疑わしい。恐らくは名家であることを強調するために書かれたのであろう。ただ、地元の名家である事は確かで、小澤家は八条領三六か村の名主総代を務める顔役であった。天明6年(1786)にこの小澤家に生まれたのが、小澤豊功である。寛政8年(1796)に江戸遊学に出て、3年程学んだ後、帰郷し15歳で寺子屋「尚古堂」を開いた。豊功は約260冊にも及ぶ書物等を書写し、これを綾瀬館文庫と名付けた。尚古堂には西袋村のみでなく、周辺の村々からも人々が訪れた。豊功は名主と寺子屋の師範の二足の草鞋を履き、安政2年(1855)に70歳でこの世を去った。
2018年05月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
西袋陣屋
興津氏
西袋陣屋の場所に初めて館を構えたのは、後北条家臣の興津良次である。興津氏は元々駿河の国人、気賀氏であったと言われる。気賀維道が守護の今川氏に仕えた事で、興津の城主に取り立てられ、興津維道と改めた事から興津氏を名乗った。戦国後期には興津加賀守が今川義元、氏真の二代に仕えたものの、今川氏は滅亡したため、後北条氏に仕官した。加賀守の子良信は相模中原郷に領地が与えられ、その次男良次が西袋に館を構えた。小田原合戦の後、良次は徳川氏に仕え、代官伊奈忠次の手代となった。良次の後は弟の庄蔵が継いだが、早世した上、下の弟の七郎左衛門が刀傷事件を起こして死んだ為、興津氏は断絶した。良次には吉重という子があり、曽根氏の娘と結婚していた為、曽根に改姓し、徳川家の御家人となった。なぜ吉重が直に家督を継がなかったかは不明だが、家督相続時には幼かった、そもそも良次自身が庶子であったなどと考えられる。興津の名を継がなかったのは、刀傷事件が関係しているのだろう。曽根氏は延宝3年(1675)、曽根友広まで西袋陣屋に住み続けたが、その後は江戸へと移っていった。
2018年05月02日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
西袋陣屋
旧西袋村は八潮市の西側、綾瀬川沿いの地区である。古綾瀬川左岸の自然堤防上に造られた村で、元々は北隣の柳之宮村と一つの村であったが、寛永4年(1627)に村切りされた。分村前から存在する西袋・柳之宮氷川神社はそのまま両村の鎮守とされ、西袋村は蓮華寺を、柳之宮は鶴ケ曾根村宝勝寺を別当としている。氷川神社からは弥生末期~古墳初期の土器や石器が発掘されており、徳川時代の開発より前から周辺に人が居住していたことがわかる。西袋村が属する八條郷の東側、旧利根川(太日川)沿いの自然堤防上は、早くから開発が進んでいたが、西側の綾瀬川周辺は、自然堤防が島状になっていたため河川氾濫が多く、本格的に開発されたのは戦国末期~江戸初期であったそうだ。ただ、柳之宮村名主の狩野家、西袋村の東隣の上馬場村名主の濱野家などは、古くからその地を治めてきた豪族であったとも見られる。西袋村には、後北条家臣の興津氏が初めて館を構えた。旧家としては小沢家、栗原家がある。
2012年01月31日 ぎっちゃん
西袋陣屋
西袋陣屋公園が跡地です。公園内に東西を区切る掘が柵に囲まれて保存されていますがほとんど埋もれて溝にしか見えません…
鬼門に位置する氷川神社鳥居の前の道が外堀跡にあたります。
西袋陣屋の周辺スポット情報
土塁跡?(遺構・復元物)
堀跡?(遺構・復元物)
西袋陣屋公園(碑・説明板)
草加市立歴史民俗資料館(関連施設)