和井田氏屋敷(わいだしやしき)

和井田氏屋敷の基本情報

通称・別名

和井田家住宅

所在地

埼玉県八潮市八條

旧国名

武蔵国

分類・構造

屋敷

天守構造

なし

築城主

和井田氏

築城年

17世紀後期

主な改修者

主な城主

和井田氏

廃城年

遺構

曲輪、横堀(水堀)、主屋、長屋門、書院、庭園

指定文化財

国重要文化財(和井田家住宅)、市史跡(和井田家構堀遺構)

再建造物

説明板(和井田家住宅)

周辺の城

西袋陣屋(埼玉県八潮市)[3.7km]
宇田家屋敷(埼玉県越谷市)[4.5km]
花輪城(千葉県流山市)[6.3km]
越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市)[7.1km]
小金城(千葉県松戸市)[7.6km]
赤山城(埼玉県川口市)[8.2km]
前ケ崎城(千葉県流山市)[8.5km]
根木内城(千葉県松戸市)[9.3km]
相模台城(千葉県松戸市)[9.5km]
山崎城(千葉県野田市)[9.6km]

和井田氏屋敷の口コミ情報

2023年06月17日 マグロ常陸介祐平
和井田氏屋敷



和井田家は、江戸中期から世襲名主や近隣35か村の名主の総代を勤めた家で、母屋と長屋門は国指定の重要文化財、周囲を囲む水堀は構堀遺構として市の文化財に指定されています。

母屋は、名主の家らしく式台のある格式を感じさせる建物です。構堀は、中世の館を思わせる作りとなっています。また、長屋門脇には水害対策の水塚を見ることができます。実際の水害時に周辺農家の家畜を避難させたこともあったそうです。

1・8・12月を除く毎月第3土曜日の10時から14時までが公開日となっており、ご当主から丁寧な説明を受けることが出来ました。

2022年12月25日 tower428太政大臣
和井田氏屋敷

電車だけではたどりつけない場所でした。バスが通っていましたが、どこからどこまで行くバスが「獨協大学」だけ見えました。周辺が何もないので日が暮れないうちに訪問する事をオススメします。

2022年04月14日 長森原
柿木女體神社[和井田氏屋敷  寺社・史跡]



下妻街道沿いにある柿木女體神社には、天正3年(1575)に常陸石下の豊田城が落城した際、城主豊田治親の夫人と子どもがこの地に落ちのび、草加に土着したとの伝承が残されています。

常陸石下の豊田氏は、平安時代後期の前九年の役(1051〜1062)の功労により豊田郡を与えられその地を治めていましたが、下妻の多賀谷氏の謀略により城主・豊田治親が家臣に毒殺され天正3年に豊田城は落城しています。

柿木女體神社のすぐ東を通る下妻街道は、源頼義・義家らが前九年の役の際に奥州に向かうのに使ったとされる古道で、その道筋は千住〜草加〜野田〜坂東〜水海道〜石下〜下妻〜益子〜喜連川を通り喜連川で奥州街道に接続するものでした。

果たして豊田治親の奥方とその子が落城後、(下妻街道を伝って?)草加に落ちのびたのが事実かどうかは今ではわかりませんが、そのような伝承が生まれる背景として石下と草加の2つの地が、下妻街道という古道で結ばれ古来から人の往来や交流が盛んであった事は確かなようです。
(ちなみにGoogle mapで下妻街道の道筋設定して検索してみたら、豊田城跡から柿木女體神社まで徒歩だと約10時間でした)

写真3枚目は、常総市地域交流センター内に展示されている豊田治親公暗殺シーン。多賀谷氏に通じた家臣・飯見大膳に毒殺されたとされています。

2022年01月21日 もりしん2229
和井田氏屋敷

第3土曜日の10時から14時までが公開されています

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
和井田氏屋敷

渋江氏と八條
『八潮市史 通史編Ⅰ』によれば、現在の越谷市・草加市東部・八潮市にかけて八條条里の遺構が確認されており、八條は条里制開拓の時代(奈良中期~平安中期)から存在していたとみられている。

平安時代、八條を含む大河戸地域が伊勢神宮に寄進され、大河戸御厨が成立する。御厨の管理をしていたのは大河戸重行(行方)であったが、重行は源平合戦に際し平家方につき伊豆に流された。『吾妻鏡』によると、大河戸御厨は壽永3年(1184)1月3日に源頼朝により改めて寄進されている。

また建暦3年(1213)5月17日の記述によると、和田合戦に関わった山内先次郎左衛門尉政宣の所領「大河戸御厨内八條郷」が式部大夫重清に与えられている。この際、地頭である「澁江五郎光衡」が地頭職を続投する旨も記述されている。

光衡は『武蔵七党系図』にある野與党「八条五郎光平」と同一人物とされる。野與党は元荒川流域に勢力を広げた桓武平氏の一族とされているが、系図の信憑性は低く、実際には別々の豪族の寄合であったと見られている。

光衡の属する渋江氏は野與党の中でも「澁江(さいたま市岩槻区)」を中心に勢力を張っていた一族で、八條はその下流に位置している。系図によれば、八條渋江氏は光衡以降も続いたらしく、『六ケ村栄広山由緒著聞書』には永正元年(1504)~永正18年 (1521)の八条氏と新方氏の抗争が記されている。

永正元年正月、八条惟茂が新方頼希の居城である向畑城を攻めようと挙兵、小林にて合戦に及んだ。合戦は新方勢が勝利したが、敗走する八条勢を深追いした頼希が討死して向畑城は八条勢に明け渡された。

永正17年(1520)10月、頼希の兄である清浄院の高賢上人が向畑城を夜討し、八条方の別府三郎左衛門が討死した。惟茂は報復の為に翌年正月に向畑城へ向かったが、6日に夜討をかけられ総崩れとなった。

『六ケ村栄広山由緒著聞書』には青柳外記・小作田隼人・柿木大膳・大相模飛騨守・大曽根上野介といった八條周辺地名を在名とした武将が登場するが、残念ながら講談・物語の類とされている。その為、八条惟茂が実在の人物なのか定かでなく、八条氏の実態も不詳である。『埼玉苗字辞典』によると、忍藩分限帳に藩士八条氏が記載されており、光衡以降も脈々と続いていた可能性は考えられる。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
和井田氏屋敷

江戸時代の八條村
『新編武蔵風土記稿』によれば、八條村は東西六町半(約708.5m)南北二十町(約2180m)の広さに家屋182棟が置かれ、家康入国以来の天領で且つ下妻街道沿いの村であった。村は幸ノ宮・新田・宿・中島・和ノ村・高木・入谷の小字で構成され、東側を流れる古利根川(中川)には八條の渡しが置かれた。

『八潮市史 通史編Ⅰ』によれば、室町時代、八條には「八十市」という市場が置かれており、交易場として賑わっていた事が考えられる。江戸時代にもその賑わいは続いていた様で、風土記稿と同時期に執筆された十方庵敬順の著書『遊歴雑記』にて文政6年(1823)当時の八條村の様子が書き残されている。

文政6年4月15日、敬順は加藤氏の内室と妙榮の2人を引き連れ、天明8年(1788)以来36年ぶりに二合半領木売村西光院へ向かった。駒込・谷中・根岸・みのわ・榎戸を経て、舟で木売村へ向かう為に八條村へ辿り着いた。

八條村は家数百件余り。街角には太田屋という料理屋があって、此処で休息をとらぬ者は居なかったという。他にも銭湯・髪結処などが軒を連ね、近隣村人が所用を済ませに来る為、八條村は片田舎の一都会というべき賑やかさであった。

天候悪化により渋江村西光寺法要などに出掛けられなかった事もあってか、快晴が続いた4月15日頃は、江戸の住民が大挙して西光院の法要へと出掛けていた。舟場司役の者が言うには近年覚えのない程の人だかりで、14日に900人余り、15日に2000人余りが渡しを利用し、舟3艘で渡しても船頭には休息する暇もなかった。また巷の者が言うには辰の刻(7時~9時)より渡し始めて未の下刻(14時~15時)にやっと往来が減るという。

そんな状態の為、普段は5銭であった舟賃も15日には鐚13貫あまりに値上がりしたとの噂であった。しかし敬順達は運良く渡し舟以外の小舟に出会い、木売村まで送って貰える事になった。敬順曰く「わたりに舟」である。

舟で足を伸ばしながら煙草を吹かし、景色を堪能していた敬順は、川中の簗(仕掛け)を目にした。舟人が言うにはこの川は漁猟が盛んで常に鯉・鮒・カレイ・鰻・鯰が捕れるという。舟人が棹を漕ぐと時折無数の小魚が跳ね上がり、敬順をより一層楽しませた。風景を楽しむ敬順を乗せ、舟は木売村へと漕ぎ進んでいった。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
和井田氏屋敷

天保8年の駕籠訴
和井田家は八條村の名主を務めた家であるが、その出自は不明である。和井田家の動向で特に目立った物というと「天保8年の駕籠訴」であろう。以下『八潮市史研究 第9号』の平井誠二氏「八潮地方の百姓一揆」を参考に事件の概要を記載する。

天保8年(1837)、川崎村名主佐藤平次郎がある事件を記録に残した。始まりは天保4年(1833)より発生した「天保の大飢饉」である。八條村も凶作の憂き目に遭い、特に天保7年(1836)の凶作の影響は大きく、代官山本大膳に「破免検見(年貢の減少)」を願い出る事となった。

破免の嘆願に際して資金を村内から集め、代官所との交渉は名主和井田周助とその子安之助が務めた。この際、安之助の弟甚左衛門の伝手で代官所に手心を加えて貰う為に多額の資金を必要とした。八條村の破免は無事承認されたが、払い戻された残額に百姓達は疑問を覚えた。百姓達は周助・安之助に資金の用途説明を求めたが為されず、更には他村に比べ特別免除があった訳では無い事が判明、百姓達は不信感を募らせた。

八條村は名主を3人も置き、年番制で務められていた。しかし当時の名主である会田惣次郎・岡田惣兵衛の2名が病により勤めが果たせず、また周助も眼病を患い、名主の仕事は安之助が一人で行っていた。加えて当時の村役人不正の風聞もあり、不信感を高めた百姓の一部が勘定奉行矢部駿河守定謙へ駕籠訴(直訴)を敢行する事態に発展した。

駕籠訴は御法度であり、代表者2名は山本大膳の元へと引き渡された。訴えを聞いた大膳は後谷村・柳之宮村・大曾根村新田平次右衛門組の名主を扱人(仲介者)とした内済(話合い)を行わせた。内済の結果、周助・安之助の主張が認められて百姓側が詫状を提出する事となったが、村内の蟠りは解消されず、今度は年寄役である惣右衛門が使途不明金を調べる様に訴え出た。

内済によって惣右衛門の疑心も解決されたが、事態を重く見た八條村では周助・惣次郎の退役願が提出された事をきっかけに高持百姓による話合いが行われた。そこで名主を年番制から月番制に変える事や年貢納付業務を名主3名で共同して行う事などが採り決められた。佐藤平次郎と西袋村名主小澤平右衛門が議定書を作成して名主3名に手渡す事で事態は終結を見た。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
八條の渡し跡(八条橋)[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

現在八条橋が架かっている場所にはかつて八條の渡しが置かれていた。『遊歴雑記』によると、木売村の西光院法要に向かう江戸からの観光客はこの渡しを利用していた。官設の渡しであったが、遊歴雑記の著者十方庵敬順は渡し舟以外の舟で渡河している為、繁忙期には漁業を行っていた村民も副業として渡しを行っていたと思われる。

この地に橋が初めて架けられたのは昭和5年(1930)の事であり、この時渡しが廃止された。現在の橋は昭和36年(1961)に架けられたものである。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
太田家住宅・蔵[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

太田家は江戸時代中期より続く河岸問屋で、 二合半領や八條領から買い集めた米を各地の米問屋などに販売していた。また渡しの旅籠も兼ねており、江戸後期における賑わいが『遊歴雑記』に記述されている。平成19年(2007)に現在の場所に移築復元されており、『遊歴雑記』の記述からしても元々は渡し近くにあったとみられる。建物自体は年代不詳で、その特徴から明治期の建築であると見られている。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
八條八幡神社[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

宝徳元年(1449)に山城国男山八幡宮・岩槻久伊豆神社・大宮氷川神社を勧請して氷川久伊豆八幡合社として創建。江戸時代には八條村の鎮守であり清蔵院持であった。明治42年(1909)に入谷の八条殿社を合祀した。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
八條殿社古墳[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

八潮市唯一の古墳。明治42年(1909)に八條八幡神社に合祀されるまで、古墳上に八條殿社があった。『新編武蔵風土記稿』によると、御神体として古磚2基を置き、1つは弘安7年(1284)、1つは應安4年(1371)5月27日宗源禪門と彫られていたという。

八條殿社は八條氏を祀っていたとされる。この八條氏については、野與党渋江氏の八條五郎光平、九条兼実三男の八條左大臣義輔、八條上杉氏の八條近江守房繁の3名が候補として挙がっている。『新編武蔵風土記稿』では八條左大臣義輔について取り上げているが、「附会(こじつけ)」だろうと一蹴している。

残る2名であるが、御神体に刻まれた年代からすると、『吾妻鏡』建暦3年(1213)5月17日の項に「澁江五郎光衡」として記述のある八條五郎光平を祭神とするのが妥当と思われるが、社家であった新井家が所蔵する『紙本着色八條殿社神像』の存在が気にかかる。

『紙本着色八條殿社神像』に描かれた祭神は白馬に乗っている。江戸後期、栗原信光が著した『先進繍像玉石雑誌続篇』に八條近江守房繁について詳しく書かれており、そこに掲載された木村長光『八條近江守藤原房繁肖像』によると、房繁は白馬に乗っていたとされる。

八條上杉氏は扇谷上杉氏の前身となる二橋上杉氏の上杉左近将監朝定が埼玉郡八条領に住んだ事を始まりとする。永正の頃の当主近江守房繁は馬の名手であり、小笠原民部少輔植盛より甲斐源氏伝来の馬術を学んだ後に八条流馬術を開基したという。多くの門弟を得て、後世には八条流の流れを汲む高麗八条流を徳川秀忠・家光が学んだという。

八條上杉氏については、京都に拠点を置いたという「八条上杉氏」の存在もあり、どうも分かり難い所がある。房繁の存在も今の所は近世の文献しか見当たらず、どの程度信用して良いものか分からない。『六ケ村栄広山由緒著聞書』に登場する八条惟茂は房繁と同時代の人物であり、惟茂のモデルが房繁であった可能性もある。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
八條殿社古墳[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

旧家阿川氏
八條殿社の周辺には八條村の旧家阿川氏の屋敷があったとされる。阿川氏については『新編武蔵風土記稿』にも「旧家の者三郎兵衞」として紹介されている。

阿川氏の祖先阿川掃部助盛康は防州大内氏の大内教弘・政弘等に仕え、長門国三隅庄周辺を所領としたという。阿川氏は盛康─三郎弘康─孫七郎康政─掃部允綱康─彌七郎康次と続き、天文3年(1534)7月20日に豊後国にて康次が討死すると、弟の彌七郎康長が跡を継いだ。

天文20年(1551)、陶尾張守晴賢が謀反を起こすと康長は石見国に退去、康長の子三郎兵衛康久は関東に移り、岩槻配下として後北条氏に仕えたという。天正18年(1590)に岩槻城が落城すると阿川氏は八條村に土着。『新編武蔵風土記稿』編纂時の三郎兵衛は5代目であったという。

後北条家臣の所謂「岩槻衆」については『小田原衆所領役帳』に記載が無く、岩槻衆に属していたと思われる「中島兵庫」や「阿川三郎兵衛康久」についても正確な所領は分からない。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
雞羅山清勝院浄楽寺[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

明治40年(1907)、難羅山西勝院淨樂寺が末寺の白幡山清蔵院と合寺し創建された。元々は八條の渡しの側、稲荷神社東側の河川敷にあったが、現在は移転している。清勝院山門が平成11年(1999)の中川改修の為に移設されているので、その頃に現在地に移転したのだろう。『地理院地図電子国土Web』の「1988年~1990年航空写真」では移転前の清勝院が確認できる。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
難羅山西勝院淨樂寺跡[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

 長享3年(1489)、秀幸上人により寂勝院として創建。江戸時代に西勝院と改称し、慶安元年(1468)に寺領15石を与えられた。本尊は不動で、葛飾郡高久村密嚴院の末寺であった。明治40年(1907)に末寺の白幡山清蔵院と合寺し清勝院となり、平成11年(1999)頃に移転したとみられる。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
稲荷神社(西勝院持?)[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

西勝院跡地近くに鎮座する稲荷神社。『新編武蔵風土記稿』には西勝院に聖天社と稻荷社があった事が記されており、この稲荷神社が西勝院持であった可能性がある。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
清勝院阿弥陀堂(旧白幡山清蔵院)[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

宝徳元年(1449)、八條村の村民会田五左衛門の屋敷にあった庵を寺院とした。本尊は大日。西勝院の末寺であったが、明治40年(1907)に清勝院に合寺され、跡地は清勝院阿弥陀堂となった。

『新編武蔵風土記稿』によると、八條には清蔵院の他にも正光院・正藏院といった西勝院の末寺があったが、この2寺は現存しておらず、場所も分からなかった。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
無量山浄光院大経寺[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

天正14年(1586)、関根兵吾を開基として暁翁上人が創建。かつては京都知恩院末寺であったが、後に下総国小金東漸寺の末寺となった。慶安元年(1648)に寺領7石を賜る。開山暁翁上人は慶長12年(1607)9月9日に入寂し、開基関根兵吾は寛永7年(1630)4月9日に死去したが、その子孫は『新編武蔵風土記稿』編纂当時も八條村に在住していたという。

風土記稿執筆者が寺僧に聞いた話によれば、江戸小石川傳通院の念佛堂の本尊は元々大経寺の本尊であったが、故あって公儀の命令で移し、その後は阿弥陀を本尊としたという。

大経寺周辺、もしくは持昌院の周辺には中島兵庫の屋敷があったとされる。中島兵庫とは大経寺開基関根兵吾と同一人物である。『埼玉苗字辞典』によると、中島兵庫は粕壁宿の関根帯刀家の分家であり、八條村中島に住み姓を関根から在名である中島に変えたが、後に家勢が衰えて姓を関根に戻したという。

関根氏は紀姓春日部氏の一族であり、美濃国の清和源氏多田氏の名跡を継いで美濃土岐氏に仕えた後、粕壁に戻り関根に復姓したという。その一族が甲斐武田氏に仕え、多田新十郎の代で太田資正・北条氏政に仕えた。小田原征伐で岩槻城が落城した後、新十郎の三人の息子帯刀・左京之助・八郎左衛門が粕壁で新田を開いたという。

大経寺の創建年からして中島兵庫は関根氏が後北条家臣であった頃から八條に住んでいたとみられる。中島を称していた事から中島兵庫は持昌院周辺に住んでいたのだろうが、大経寺の開基・大檀那であった事を鑑みると大経寺周辺に居を構えていた事も考えられる。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
前法寺稲荷神社[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

298号線高架沿いの稲荷神社。前法寺とは大経寺末寺である護國山安楽院前法寺の事である。『新編武蔵風土記稿』によれば前法寺は天正3年(1575)の草創であり、開山圓心は慶長3年(1598)5月20日に入寂。本尊は地藏を安置していたという。

前法寺稲荷は前法寺が管理していたと見られるが、どこかに移転してしまったのかそれとも廃寺となってしまったのか、前法寺は八條には現存しない。『迅速測図』には稲荷神社の少し北に四方を囲まれた大きな建物が記載されており、前法寺の建物であった可能性が考えられる。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
中嶋山持昌院[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

 足立郡安行村金剛院2世の充秀が開山となり創建。金剛院の末寺である。充秀は永禄10年(1567)正月6日に入寂し、その後旗下戸田五助の母が当寺を再興、中興開基となった。戸田五助の母は寛延3年(1750)4月12日に死去した。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
辨財天社[和井田氏屋敷  寺社・史跡]

 鶴ケ曽根との村境にある弁財天。『新編武蔵風土記稿』には持昌院に辨財天社と稻荷社があったといい、この辨財天社が持昌院持だったのではないかと思われる。風土記稿によれば、辨財天社の御神体はかつて古利根川より出現したという。神社の縁起があったそうなのだが、「採用すべき事無し」として書かれていない。

2021年06月17日 山内侍従伊右衛門俊胤
八条用水[和井田氏屋敷  その他]

八條の西側に引かれた用水。越谷の元荒川瓦曽根溜井から分水し八潮駅近くで葛西用水と合流する。慶長年間(1596~1615)の新田開拓期に開削された。『新編武蔵風土記稿』では「用水は八條用水を引用ゆ」とある。八条用水は現在も農業用水として活用されている。

2016年11月20日 神楽宮内卿丞岳
和井田氏屋敷

八条橋側から攻めてみましたが、西詰の信号を右に曲がり道なりに少し進むと屋敷北側の入口付近に着きます。民家の前になりますので駐車は出来ません。裏側ならと思い、その先、100mの精米所を左に入り建物の見える場所にたどり着きますが、道幅が狭く、駐車出来ず、退却しました。
遺構は残っているようですのでもう少し手入れしていただくと嬉しいのですが…。

2016年07月03日 平 右近衛大将 泰次郎 將門
和井田氏屋敷

南側の国道298からはかなり入りにくいです
北側を回る県道102からがおすすめですが、車を停められるスペースも道端もありません

見学には市立資料館に予約が必要との事
電話番号は投稿写真を見てくださいm(__)m

2013年11月19日 野舘宮内少輔サラマンダー
和井田氏屋敷

 和井田家は、八條村字和え村の開発名主であり、その後、名主を世襲してきた。代官野田文蔵支配(一七九○〜一八○一)のころは八條領三十五ヶ村の名主取締役を務めた格式のある家である。屋敷の周囲には構え堀をめぐらし、構え堀の西側には短冊状の水田遺構が確認できることなどから、中世の館跡と見られている。
 母屋は、十八世紀前半の創建といわれ、桁行九・五間(十七・一メートル)、梁行四・五間(八・一メートル)の直家である。室部の柱は栂材で鉋仕上げ、土間は欅材を主とし手斧蛤刃仕上げで、土間上部の桁行・梁行ともに丸木欅材二重梁とする上層民家である。
長屋門も母屋と同年代の創建で、柱は手斧蛤刃仕上げの栂材を用い、門の西側を納屋とし、東側は与力窓を設けた造りで奉公人部屋に用いている。
なお、母屋と長屋門は、埼玉県の東部地区において最古の民家に属するといわれている。


2013年11月19日 野舘宮内少輔サラマンダー
和井田氏屋敷

2013年11月19日16時35分(30分)

千葉県側から行きました
八条橋西詰信号右、道なり左に曲がり、直線になった所の左側に解説板があります
左右とも木が生い茂っているので、分かると思います
ですが、建物への入口は、解説板があるここからでは、草木が多くとても大変です
しかも駐車場やトイレもありませんし、なにより建物全てが修復中…
いつ修復完了するかも分かりませんでした…
解説板の文章を記載します

2013年02月24日 上級太閤寿限無
和井田氏屋敷

草加からバスで往復したが、松原団地からのバスのほうが新田行きなどが有り良さそうだ

和井田氏屋敷の周辺スポット情報

 音店河岸と下妻街道・碑(碑・説明板)

 彦名関跡・説明板(碑・説明板)

 辨財天社(寺社・史跡)

 中嶋山持昌院(寺社・史跡)

 前法寺稲荷神社(寺社・史跡)

 無量山浄光院大経寺(寺社・史跡)

 清勝院阿弥陀堂(旧白幡山清蔵院)(寺社・史跡)

 稲荷神社(西勝院持?)(寺社・史跡)

 難羅山西勝院淨樂寺跡(寺社・史跡)

 雞羅山清勝院浄楽寺(寺社・史跡)

 八條殿社古墳(寺社・史跡)

 八條八幡神社(寺社・史跡)

 太田家住宅・蔵(寺社・史跡)

 八條の渡し跡(八条橋)(寺社・史跡)

 柿木女體神社(寺社・史跡)

 八潮市立資料館(関連施設)

 八条用水(その他)

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