和井田氏屋敷(わいだしやしき)

和井田氏屋敷の基本情報

通称・別名

和井田家住宅

所在地

埼玉県八潮市八條

旧国名

武蔵国

分類・構造

屋敷

天守構造

なし

築城主

和井田氏

築城年

17世紀後期

主な改修者

主な城主

和井田氏

廃城年

遺構

曲輪、横堀(水堀)、主屋、長屋門、書院、庭園

指定文化財

国重要文化財(和井田家住宅)、市史跡(和井田家構堀遺構)

再建造物

説明板(和井田家住宅)

周辺の城

西袋陣屋(埼玉県八潮市)[3.7km]
宇田家屋敷(埼玉県越谷市)[4.5km]
花輪城(千葉県流山市)[6.3km]
越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市)[7.1km]
小金城(千葉県松戸市)[7.6km]

和井田氏屋敷の口コミ情報

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年06月24日]
八條氏の出自について
「徳川以前の八條」にて八條氏は野与党の渋江(箕匂)二郎経光の五男渋江光衡(八條五郎光平)に始まるとし、「渋江氏流八條氏」と記した。「れきナビ-やしお歴史事典」に則した記述であり、「吾妻鏡」の「渋江光衡」という記述をもとにしているのだが、ここに少々疑問がある。八條光平の父経光は野与党大蔵氏の大蔵経長の次男であり、箕匂(埼玉県さいたま市岩槻区箕輪)に居住して「箕匂」を称した。対して、渋江氏を初めて称したのは経長の三男経遠であり、渋江郷(岩槻城周辺)に居住し「渋江」と名乗ったのが始まりとされている(吾妻鏡によると、建久元年(1190)の源頼朝の上洛に際して、隋兵として経光・経遠兄弟が同行している)。普通であれば、経光が「渋江」を名乗るとは考え難く、経光・光平(衡)親子が「渋江」を名字としているのは不自然である。可能性があるとすれば、光平は箕匂から渋江に養子として出された、もしくは、元々光平は渋江経遠の子であったという事だ。こう言ってしまうと元も子もないが、吾妻鏡の記載が間違いであることも十分に考えられる。渋江氏と八條氏の関係については慎重に考えるべきだろう。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年06月24日]
徳川以前の八條
今でこそ八潮市の北の外れだが、八條は元々周辺地域の中心地であった。その歴史は古く、班田収受法に基づく条里開発に始まる。開墾は平安初期まで行われたが、律令制の崩壊とともに開発は止まった。その後は周辺一帯が大河土御厨となり、大河戸氏が本領としていた。大河戸氏は源平合戦の折に平家に与した為、所領は没収され、大河土御厨は鎌倉幕府直轄領となった。「吾妻鏡」によると、寿永3年(1184)正月3日に源頼朝により伊勢神宮に寄進されている。御厨内の八條郷は平安期より三浦一族の山内政宣の所領となっていたが、和田合戦で和田義盛に味方し戦死した為、建暦3年(1213)に式部大夫重清(詳細不明)に与えられた。地頭職は以前から地頭であった渋江光衡に安堵されている。渋江光衡は野与党の渋江(箕匂)二郎経光の五男であり、八條郷に住み、八條五郎光平と称したといわれる。その後も八條は渋江氏流八條氏が領地としていたが、15世紀後半から動向が不明となっている。その後は扇谷上杉氏の上杉朝顕が八條に住み、八條上杉を称したという。扇谷上杉氏の滅亡後は後北条氏の支配下に入る。岩槻太田氏の領地であったと考えられる。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年06月24日]
八條の渡しと太田家
現在、八条橋が架かる場所には、かつて八條の渡しがあった。室町前期から機能しており、奥州街道で武蔵国と下総国を結ぶ重要な渡船場であった。江戸時代に入り、奥州街道・日光街道の開発により、草加宿を通るルートが整備されると、八條は宿場から外され在方となる。しかし、その後も下妻道において周辺地域へ向かう馬継ぎとして機能し、八條の渡しも利用された。代々船頭を務めたのは太田家である。太田家は、江戸時代中期より続く河岸問屋で、 二合半領や八條領から買い集めた米を各地の米問屋などに販売していた。また、往来する人々の為の旅籠も兼ねていた。街道から外れ在方となりながらも、賑わっていたようで、江戸・小日向(現・文京区)廓然寺の住職十方庵敬順が、隠居後の旅行先での見聞を記した「遊歴雑記」にて、文政6 年(1823)頃の旅籠の様子を「太田家といえる酒楼ありて往来する人ここに憩はざるはなし(太田家という料理屋があって、往来する人にここで休憩しない人はいない)」と記している。昭和初期になると、自動車を運送できるほどの大型川船も置かれていたが、1930年に橋が架けられ、渡しは姿を消した。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年06月24日]
八條村の三名主
江戸時代の八條村には名主が三家あった。和井田家と会田家・岡田家である。天保6年(1835)8月「八条領村鑑」によれば、当時の名主は和井田周助・ 会田惣次郎・ 岡田惣兵衛の三名。会田氏に関しては八條村の他にも後谷村の会田新左衛門、柳野宮村の会田新右衛門が名主を務めており、八潮周辺に広く分家していたようだ。これらの会田氏は、後北条家臣であった会田出羽の一族ではないかとされる。信州海野氏海野重道の一族で、海野幸持が信州会田郷(長野県松本市会田新町) に居住した時に姓を会田へと変え、代々小笠原氏に仕えた。小笠原氏が没落すると、会田幸久は後北条氏に属し、越ヶ谷に移住した。岩槻城主太田資正に仕え、幸久の子は資清(出羽守)と名乗った。資清の子資久は、徳川家臣となり、慶長9年(1604)に敷地の一部を提供して、越ヶ谷御殿を造営した。もう一家の岡田家は詳細が不明であったが、信濃国筑摩郡岡田(長野県松本市岡田町・岡田下岡田周辺)を発祥とする清和源氏義光流の岡田氏があり、岡田は会田郷に近いことから、この岡田氏の一族が縁あって会田氏とともに故郷を離れ後北条氏に属した可能性が考えられる。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年06月24日]
和井田家
和井田家は延宝年間(1673~1680)以来、八條村の名主や八條領35か村の寄場組合大惣代も勤めた家である。野田文蔵(大岡忠相配下の数学者・代官の野田文蔵か?)が当地の代官であった頃(1790~1801)は、八條領35か村の名主取締役を務めた。その出自は不明で、17世紀中期に大坂より当地に移り住んだと伝承されるが、現在、和井田姓は埼玉県に多く見られることから、元々この地に根を張っていた土豪とも考えられる。仮に大坂より移住してきたとする説を取ると、和井田氏の発祥地は関西にあると考えられる。調べてみると、京都府京田辺市に興戸和井田、愛媛県新居浜市に大島和井田、奈良県奈良市南庄町・法用町に和井田という地名を見つけた。こうした土地の土豪が大坂に移った可能性が考えられる。同じ八潮市内にあった西袋村の名主である小澤家は元々豊臣家臣であったという説が有り、もしかすれば、小澤家と和井田家には大坂にいた頃より関わりがあり、延宝年間に大阪を離れた和井田家が先に西袋村に定住していた小澤家を頼って移住して来たのかも知れない。

佐野式部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年06月24日]
和井田氏が名主を務めた八條村は現在の八潮市八條と一致する大きな村で、入谷・高木・和ノ村・宿・新田・幸ノ宮・中島等の村組に分かれていた。和井田氏屋敷は和ノ村にあり、和ノ村の地名は開発した和井田氏に因むとも言われている。和井田氏屋敷の主屋などの建築年代は江戸時代中期とみられているが、周囲には堀が残り、中世の館跡とも見られている。付近には小櫃民館との地名が伝わっているらしい。小櫃と言うと、後谷(八潮市南後谷)の名主小櫃氏(藤波氏)が居る。佐渡の守護代本間六郎左衛門重連の一族と伝わり、慶長年間に後谷に土着したという。後谷の小櫃氏屋敷も構え堀が巡らされていたそうで、和井田氏屋敷と何らかの関係があるのかもしれない。
八條は古くは奥州街道の宿場地で中世には八十市(八條市)という市場が栄えたが、江戸時代になり、草加宿を通るルートが整備されると、宿場から外され在方となる。しかし、その後も下妻道において周辺地域へ向かう馬継ぎ(馬の乗り換え場)として機能していたらしく、河岸問屋の太田屋が旅籠を経営するほどには人の行き来があったようだ。

神楽右衛門督丞岳様[2016年11月20日]
八条橋側から攻めてみましたが、西詰の信号を右に曲がり道なりに少し進むと屋敷北側の入口付近に着きます。民家の前になりますので駐車は出来ません。裏側ならと思い、その先、100mの精米所を左に入り建物の見える場所にたどり着きますが、道幅が狭く、駐車出来ず、退却しました。
遺構は残っているようですのでもう少し手入れしていただくと嬉しいのですが…。

風林火山❖式部卿泰次郎將門様[2016年07月03日]
南側の国道298からはかなり入りにくいです
北側を回る県道102からがおすすめですが、車を停められるスペースも道端もありません

見学には市立資料館に予約が必要との事
電話番号は投稿写真を見てくださいm(__)m

野舘宮内少輔サラマンダー様[2013年11月19日]
 和井田家は、八條村字和え村の開発名主であり、その後、名主を世襲してきた。代官野田文蔵支配(一七九○〜一八○一)のころは八條領三十五ヶ村の名主取締役を務めた格式のある家である。屋敷の周囲には構え堀をめぐらし、構え堀の西側には短冊状の水田遺構が確認できることなどから、中世の館跡と見られている。
 母屋は、十八世紀前半の創建といわれ、桁行九・五間(十七・一メートル)、梁行四・五間(八・一メートル)の直家である。室部の柱は栂材で鉋仕上げ、土間は欅材を主とし手斧蛤刃仕上げで、土間上部の桁行・梁行ともに丸木欅材二重梁とする上層民家である。
長屋門も母屋と同年代の創建で、柱は手斧蛤刃仕上げの栂材を用い、門の西側を納屋とし、東側は与力窓を設けた造りで奉公人部屋に用いている。
なお、母屋と長屋門は、埼玉県の東部地区において最古の民家に属するといわれている。

野舘宮内少輔サラマンダー様[2013年11月19日]
2013年11月19日16時35分(30分)

千葉県側から行きました
八条橋西詰信号右、道なり左に曲がり、直線になった所の左側に解説板があります
左右とも木が生い茂っているので、分かると思います
ですが、建物への入口は、解説板があるここからでは、草木が多くとても大変です
しかも駐車場やトイレもありませんし、なにより建物全てが修復中…
いつ修復完了するかも分かりませんでした…
解説板の文章を記載します

上級太閤寿限無様[2013年02月24日]
草加からバスで往復したが、松原団地からのバスのほうが新田行きなどが有り良さそうだ

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