前ヶ崎城(まえがさきじょう)
前ヶ崎城の基本情報
通称・別名
- 前ケ崎城
所在地
- 千葉県流山市前ヶ崎字奥の台409
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 高城氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、犬走り
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
根木内城(千葉県松戸市)[2.0km]
小金城(千葉県松戸市)[2.3km]
花輪城(千葉県流山市)[3.3km]
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箕輪城(千葉県柏市)[7.7km]
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前ヶ崎城の解説文
前ヶ崎城の口コミ情報
2024年12月28日 里のシロクマ右衛門佐
前ヶ崎城
9/16訪城 ラーメン屋の横に3台分の駐車場に駐車。城の説明版がある処から進入。階段を登る、すると高さ2m程の土塁に囲まれた主郭だ、南の方向に櫓台と思われる土盛がある。櫓台の横から下へ、主郭とニ郭を分ける堀(堀の中には工場が!)主郭と堀の間に犬走りと思われる造りが見える。堀横の道路を南に歩く、道路の右側は舌状大地の端となっている、左手はニ郭の2m程高さの切岸となっている。また、その先には、ニ郭(民家)と三郭(民家)を分ける堀がある。この城が造られた当時は、湖沼の中の舌状大地を利用して造られた城との事、今では道路と住宅に囲まれて公園として良くも残っていてくれる土の城でした。
2024年05月19日 千葉相模守早雲
前ヶ崎城
下総国人の高城氏の支城のようです。前ヶ崎城址公園として整備されていますが、1郭と周囲の空堀を残して、開発により残念ながら消失。
1郭の周囲には土塁が残り、また、虎口と思われる土塁の切れ目の脇には櫓台と思しき一段高い土塁があります。
1.1郭切岸。
2.1郭土塁。
3.明らかになっていないそうですが、虎口と櫓台跡としか思えない。
4.空堀。
2023年10月25日 和泉石狩守
前ヶ崎城
私有地を借りて小さな公園として保存されていますがなんとも雰囲気の良い城址です。是非ご覧あれ。
2023年10月25日 皆川志摩守
前ヶ崎城
流山免許センター入口横が城跡になります。
2023年10月25日 加納下総守
前ヶ崎城
西に川を堀と見立てた免許センター前の平山城です。主郭?意外は住宅地や畑、資材置場になっていますが、一部残る深い堀割りが味のある良い感じです。
2023年09月09日 まさの上
前ヶ崎城
車の停める場所が分からなくて困りました。小高い山を登り着いたら城の面影はありませんでした。ただ城跡に立ち入れない場所も多くここは入れるので良いと思いました。
2023年03月21日 ʀᴇᴅ副将軍
前ヶ崎城
首都圏に残存する土塁囲みの高城氏の支城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不明。小金城の高城氏の支城と考えられています。城主についても定かではなく、付近の小字に刑部郭の名が残ることから高城氏の家臣である花野井氏、または田島刑部少輔が城主であったとも云われています。
1478年、長尾景春の乱において太田道灌と長尾景春・千葉孝胤の争いに巻き込まれ、前ケ崎城は落城。太田六郎、戸張彦次郎が討ち死にしたと伝わり、太田道灌の軍勢が陣を布いていたと考えられています。1590年の豊臣秀吉による小田原征伐により小金城は落城したため、前ケ崎城も同じ様に落城し廃城となったと思われます。
見所
現在は前ヶ崎城址公園として整備されています。元々は南北に三つの郭が連なる連郭構造であり、北側先端部の郭が公園化し残存しています。一辺が50mほどの三角形の郭で高さ2m程度の土塁が巡り、南西隅部は櫓台の様になっています。南背後は空堀でその先は宅地化により消失していますが二郭、三郭と続いていました。
2022年12月09日 餅月右京亮慎吾
前ヶ崎城
柏駅西口からバスで免許センター行に乗り免許センター前まで、すぐ側にあります。基本的な形がのこっていて公園になっています。
2022年11月01日 マタローちゃん中務大輔
前ヶ崎城
現在は前ヶ崎城趾公園となっており、土塁や曲輪が本丸の形を残している。規模は小さいが近くに車三台程の駐車スペースがあるので、探訪しやすいと思う。
2022年08月01日 マグロ常陸介祐平
前ヶ崎城
前ヶ崎城址公園として主郭部分が整備されています。土塁と櫓台がよく残っています。
2016年07月03日 平 左近衛大将 泰次郎 將門
前ヶ崎城
駐車場、トイレ共にありません
150m程北東にセブンイ○ブンあります
お買い物して少し拝借m(__)m
2014年01月14日 野舘宮内少輔サラマンダー
前ヶ崎城
2014年1月14日15時10分(30分)
流山運転免許センターの帰りに寄りました
説明文を記載致します
前ヶ崎城は16世紀中葉から1590(天正18)年頃まで、松戸市小金城を本拠とする高城氏の支城として機能したと考えられます。
西・北・東側の三方を坂川とその支谷に囲まれた、標高16mの細長い台地上に立地し、水田面とは11mの比高があります。現在地から南160mと350mの二箇所に、かつて堀切りが存在したといわれており、このことから3つの郭を直線状に配置した城と想定されます。付近には刑部郭・追手橋・馬場といった地名も伝承されていますが、城の施設と直接関連するかは不明です。
公園として整備した範囲は城の中心となる主郭の部分で、西側は過去の道路建設によって失われていますが、東・南側には高さ3m〜4mの土塁が、東側の一部と南側には深さ約3mの空堀が見られます。また、南サブエントランスは以前から土塁が途切れており、この部分を郭の出入口である虎口に、その西側の最も高い土塁を櫓跡とする考えもありますが、郭の構造や建物配置は明らかになっていません。
2012年03月29日 織田シュガー信長
前ヶ崎城
3/26から一週間程種揉みの為中には入れないみたいです
2011年12月25日 野舘宮内少輔サラマンダー
前ヶ崎城
2011年12月24日13時20分頃(30分)
城跡とラーメン屋さんの間の細い道を少し進んだ空き地に駐車しました
北側の入口には案内板が
整備された階段を登ると広い主郭部とそれを取り囲む土塁があります
その南側の階段を下ると急な斜面が二段になっており、全高低差は10m以上
その中段は1m位の幅で南側から東側へ続いています(北側迄は歩けませんでした…)
主郭南西が一段高くなっており、古いお墓(?)がありました
遺溝が良く残る小さいながらもとても満足出来る城跡です
歴史
築城主、築城年代等は不明だが、関東に戦乱が広がった享徳の乱に前後して築かれたと考えられる。享徳の乱が起き、古河公方と関東管領上杉氏が利根川を挟んで対峙すると、前ヶ崎城周辺は両勢力の最前線になったため、周辺には多くの城が築かれた。本土寺(千葉県松戸市)に伝わる『本土寺過去帳』に、「前崎落城打死」と書かれた記事があることから、詳細は不明ながらも前ヶ崎城にて戦闘行為があったことが推察される。
これは、文明10年(1478)、扇谷上杉氏の家宰太田道灌が、長尾景春に味方した千葉孝胤(のりたね)を攻めるため国府台城に陣を構え、両者が激突した境根原合戦に先立ち起きた出来事だと考えられている。さらにこの記事には、道灌の将だと思われる太田六郎と戸張彦次郎が討ち死にを遂げたと記されていることから、道灌の軍勢と千葉氏の軍勢が前ヶ崎城にて激しい戦闘行為を繰り広げたことが推察できる。
その後の前ヶ崎城についても、詳細は不明だが「刑部郭」という地名が残ることから、高城氏の家臣田島刑部少輔が前ヶ崎城の城主だった時期があったとも伝わっている。千葉氏の一族である高城氏は、下総国で勢力を拡大。千葉氏の内訌を経て北条氏に属し、根木内城、小金城と本拠地を拡大していった。高城氏による統治下で、前ヶ崎城は高城氏の本城を守る支城として機能したと考えられる。
遺構
東側に富士川谷津、西側に名都借谷津、北側に八木谷津という3つの谷津が合流する地点の台地上に築かれている。開発によって大部分が破壊されているものの、台地の先端にあたる主郭は前ヶ崎城址公園として整備され、遺構は良好に残っている。主郭東側から南側にかけては土塁が残り、西南隅には櫓台跡が残っている。また、南側の土塁外側には空堀も良好に残っている。主郭の規模は、東西がもっとも広いところで約60m、南北が約65m~70mである。西側にあった腰曲輪は、道路工事によって消滅した。
主郭南側の台地には直線上に郭が配置されていたと考えられ、現在は住宅などが建っているものの、切通し状の道路がかつての各郭を分断する堀切跡だと思われる。
交通
・流山線鰭ヶ崎駅から徒歩約35分、JR北小金駅から徒歩約30分参考文献
・『中世の流山を探る』流山市教育委員会、2009年。・『東葛の中世城郭』千野原靖方、崙書房出版、2004年。
・『図録享徳の乱』黒田基樹、戎光祥出版、2021年。