金ヶ作陣屋(かねがさくじんや)

金ヶ作陣屋の基本情報

通称・別名

金ケ作陣屋、金ヶ作役所

所在地

千葉県松戸市常盤平陣屋前

旧国名

下総国

分類・構造

陣屋

天守構造

なし

築城主

徳川幕府

築城年

享保8年(1723)頃

主な改修者

主な城主

小宮山氏(幕府代官)

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

相模台城(千葉県松戸市)[3.5km]
松戸城(千葉県松戸市)[4.1km]
根木内城(千葉県松戸市)[4.2km]
小金城(千葉県松戸市)[4.5km]
大野城(千葉県市川市)[4.8km]
佐津間城(千葉県鎌ケ谷市)[5.7km]
中沢城(千葉県鎌ケ谷市)[5.9km]
前ケ崎城(千葉県流山市)[6.2km]
国府台城(千葉県市川市)[6.4km]
増尾城(千葉県柏市)[6.5km]

金ヶ作陣屋の解説文



金ヶ作陣屋(かねがさくじんや)とは、下総国葛飾郡金ヶ作(現在の千葉県松戸市常盤平陣屋前)に設置された江戸幕府の陣屋。主に小金牧などを管轄するために設けられた。

概要 

正確な設置年代は不明であるが、現地を治めていた野方代官が小金牧方面に用事がある時には、従来は江戸から現地に向かっていたのに対して、小宮山昌世(杢之助)が野方代官であった享保8年(1723年)8月を境として陣屋を活動の拠点としていること、小金牧の牧士の末裔とみられる三橋氏に伝えられる「従野馬始之野方万控」(鎌ケ谷市教育委員会所蔵)には享保8年に新しい陣屋が取り立てられたことをその詳しい間取りとともに記している(ただし、別の頁には陣屋設置を享保6年(1721年)とも記しているため、正確な設置年代を示す証拠にはしがたい)ことから、享保8年頃の設置とみられている。なお、陣屋は葛飾郡日暮村の新田内(「日暮新田」)に置かれていたが、享保15年(1729年)の検地によって新田とその周りの(幕府)御林を分村することになり、当該地の字名から「金ヶ作村」と命名され、陣屋も金ヶ作陣屋と称されることになった。

陣屋の建設は幕府によって行われたが、修繕費用は周辺の御林から伐採した材木の代金を充て、人夫は規模に応じて周辺の天領住民を充てた。また、代官不在時には手代が駐在して職務の代行を行った。

その背景には、将軍徳川吉宗の下で馬の育成が重視されたこと、同じく吉宗が推進した新田開発に小金牧の一部が充てられたことがあったとみられている。代官はここで野馬奉行らを指揮して小金牧の管理にあたった他、当該代官支配下の村々(小金牧の外側の地域含む)における訴訟業務も取り扱っており、陣屋内には白洲も設けられていた。また、江戸の公事宿2軒が金ヶ作に招かれて訴訟業務に参画した。

ところが、享保17年(1732年)に小宮山が部下の不正を理由に支配地の削減を命じられて小金牧一帯が管轄を外されたことから、代わって伊奈忠逵の支配下に入り、その代官が必要に応じて派遣される出張陣屋となった。江戸幕府は陣屋を廃止する命令を出したものの、翌享保18年(1733年)に正式な野方代官として派遣された疋田泰永(庄九郎)は、地元民の意見を聴いた上で存続を幕府に求めて認められた。

寛政5年(1793年)、小金牧・佐倉牧・峯岡牧の支配は突如小納戸頭取の支配下に移されることになり、金ヶ作陣屋も小納戸頭取が派遣した手代らが常駐することになった。当時の小納戸頭取岩本正倫(石見守)は将軍生母お富の方の異母弟であり、甥である将軍徳川家斉の信任が厚かったことが関係していると言われている[1]。小納戸頭取による金ヶ作陣屋支配は幕末の元治元年(1864年)まで続き、その後騎馬奉行など管轄者を転々としながら、明治維新による廃止を迎えた。

参考文献 

  • 大谷貞夫『江戸幕府の直営牧』(岩田書院、2009年) ISBN 978-4-87294-590-4
    • 「金ヶ作陣屋考」(初出:『鎌ケ谷市史研究』創刊号(1988年))
    • 「小金牧」(初出:『鎌ケ谷市史』中巻第3編第1章(1997年))
  • 佐々木克哉「金ヶ作陣屋」(『江戸幕府大事典』(吉川弘文館、2009年) ISBN 978-4-642-01452-6)

金ヶ作陣屋の口コミ情報

2023年02月28日 真田左衛門佐幸村
金ヶ作陣屋



木製の棒に跡地と書いてあるだけで面影はないのでリア攻めが趣味の方以外は行かなくて良いかも。。。

2022年04月11日 鈴木治部大輔
金ヶ作陣屋

日本の道100選の桜通りに案内碑が立っています。昔の陣屋跡も、現在では住宅地。桜の時期は、常盤平駅、五香駅付近へと桜のアーチが続きます。

2020年12月29日 長森原
松ヶ丘野馬土手遺構[金ヶ作陣屋  遺構・復元物]



松ヶ丘 野馬土手遺構。
金ヶ作陣屋が管轄した野馬の放牧地は広大なものでしたが、野馬の逃亡や耕作地への侵入を防ぐため、牧の周囲には野馬土手という長大な土塁が築かれていました。 二重土塁の間に箱薬研の堀の構造で、牧側の土塁は将軍への献上馬の脚を傷めないよう、低くなだらかに造られていました。

明治以降、開発の波に飲まれ野馬土手は殆どが消滅してしまいましたが、ここ松ヶ丘は緑地として非常に良好な状態で保存され往時を偲ぶ事ができます。 南柏駅から徒歩8分の住宅地の中にあるにもかかわらず、雨の降りしきる野馬土手の内部は静寂で別世界のようでした。 (2019.6)

2020年12月29日 長森原
下総小金中野牧跡(捕込)[金ヶ作陣屋  遺構・復元物]



下総小金中野牧跡「捕込(とっこめ)」。
金ヶ作陣屋管轄の小金牧で「野馬捕り」を行っていた施設です。半野生状態で牧に放たれていた野馬を年一回ここに追い込み、捕獲・選別して江戸幕府に軍馬として供給していました。現存土塁は最高4mでぐるりと区画を取り巻いています。 遺構は「払込」全体と「溜込」の一部で、中に入って見学することができます。国史跡指定。新京成線北初富駅から徒歩4分。

模型は鎌ケ谷市郷土資料館所蔵の「捕込全体復原模型」です。写真右上の木戸から野馬の群れを追込み選別し、軍馬として献上する馬は左の区画「溜込」へ。まだ若い馬等は下の区画「払込」から再び野に放つ構造でした。(2019.6)

2017年01月13日 蓬左の武将尾張守⚡️晋作
金ヶ作陣屋

慶長年間に綿貫十右衛門政家が家康より野馬奉行を拝命し世襲していることから、江戸初期に小金牧の原型が存在したことは明らかである。
江戸にほど近い地域における馬の生産地として、幕府が直轄してきた歴史がある。

往年の時代劇「暴れん坊将軍」のオープニングで、吉宗が波打ち際で馬を駆るシーンが印象的だが、まさにその吉宗が名馬育成のために小金牧を整備したのは興味深い。
そこで、幕府代官に任命された小宮山昌世は、辻守誠の四男で小宮山昌言の養子となった人物である。
小宮山氏といえば、戦国期に小金高城氏の家臣に小宮山土佐守という人物がいたことから地元出身とも考えられるが、小宮山昌○の名乗りであること、また昌世がその後、甲斐石和代官を歴任した事実を総合すると、武田遺臣の末裔の可能性は高い。

一方、享保の改革の一環として、現在の松戸市周辺の新田開発が推進された。今に残る高塚新田、田中新田、松戸新田、串崎新田という地名が如実に表している。

以上の重要拠点となったのが、金ヶ作陣屋こと常盤平陣屋である。

2016年11月14日 まー刑部卿
金ヶ作陣屋

先人も云われてますが【LAZFITH SHINYABASHIRA】というマンション前にありますが目印は【クリスタルスポーツクラブ八柱】で。その向かい側にあります。朝早い時間なら路駐しても大丈夫かと。

2013年01月05日 ぎっちゃん
金ヶ作陣屋

新八柱駅前のさくら通りにあるマンション前に標柱があります。遺構はなく常盤平陣屋前の地名に往時を偲ぶのみ。

金ヶ作陣屋の周辺スポット情報

 下総小金中野牧跡(捕込)(遺構・復元物)

 松ヶ丘野馬土手遺構(遺構・復元物)

 野馬除土手の木戸(遺構・復元物)

 野馬除土手(遺構・復元物)

 豊四季の野馬土手(遺構・復元物)

 野々下の野馬土手(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 金ヶ作御陣屋太鼓(碑・説明板)

 金ケ作陣屋(碑・説明板)

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