佐津間城(さつまじょう)
佐津間城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 千葉県鎌ケ谷市佐津間屋敷裏113他
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 相馬氏
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 相馬氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口
指定文化財
- 市史跡(佐津間城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
中沢城(千葉県鎌ケ谷市)[4.3km]
増尾城(千葉県柏市)[5.0km]
金ヶ作陣屋(千葉県松戸市)[5.7km]
戸張城(千葉県柏市)[6.2km]
大野城(千葉県市川市)[6.5km]
箕輪城(千葉県柏市)[6.6km]
小森城(千葉県白井市)[6.8km]
根木内城(千葉県松戸市)[6.9km]
小野田城(千葉県船橋市)[7.6km]
金杉城(千葉県船橋市)[7.6km]
佐津間城の口コミ情報
2024年08月27日 マグロ常陸介祐平
藤ヶ谷城[佐津間城 周辺城郭]
国道16号線藤ヶ谷交差点付近が城址となります。交差点の北側、香取神社(写真5,6,7枚目)はやや高台になっており、標柱(写真4枚目)には「中世藤ヶ谷城の一部」と書かれています。西側には、土塁状の土盛りが2箇所(写真2,8枚目)、南側には相馬氏の墓(江戸時代~現代)と裏の林には薄めの土塁状の土盛り(写真1枚目)が見られます。香取神社の高台と残欠状態のそれぞれの土盛りの方向はバラバラで、どれが遺構でどのような縄張りなのかは、不明です。
高城氏の家臣に藤ヶ谷氏があり、記録として明応年間に藤谷修理介、永正3年に藤ヶ谷主馬介、永禄7年に国府台合戦の侍大将藤谷修理、天正18年に小田原籠城藤谷修理、江戸時代に入り慶安期に旗本高城胤重より藤谷修理と(この間100年以上)、修理の官途を数代にわたり世襲した藤ヶ谷氏が城主と思われます。また、守谷市大木の大円寺は、藤ヶ谷城主の相馬源三郎胤吉が天正年間に堂宇を修理し刀を奉納したと伝わることから、相馬氏が在地名の藤ヶ谷を名乗ったように思えます。
お城から400m程北にある持法院は、千葉常胤が運慶に彫らせたと伝わる如意輪観音像(柏市文化財)が安置される相馬氏と関係の深いお寺(館跡とも伝わる)で、観音堂裏には江戸時代以降の相馬氏の墓石群、本堂の北側には新しい平将門の供養塔(写真3枚目)が建ちます。
2024年05月16日 あんどー主計頭
佐津間城
主郭は私有地ということで、説明板のある場所から方向眺めるだけでしたが、しっかりとした遺構が残ってる感。虎口はどうなってんのかなー?もう少し奥まで覗いてみたいよねー笑
裏側に回ると、すごい深い空堀が!写真では残念ながらわかりにくいですが、大きい堀です!
鎌ケ谷市のホームページ見ると、私有地の一部を譲ってもらったので整備計画を作るとのこと。期待してます♪
2024年01月06日 伊東内蔵頭胤康
佐津間城
佐津間城は現在私有地となっていますが案内板が建てられています。私有地には曲輪や虎口、空堀、 土塁が残っているらしいです。
2023年09月28日 武蔵守のむげん
佐津間城
城跡南東側の路地からアプローチが可能。入口付近はぞうきばやしに囲まれ、いかにも昔の城跡の様な雰囲気があります。すぐの所に説明板があり、正面から右手に続く土塁は目を引きます。しかし私有地が隣接しており、奥までは入れません。また、ヤブ蚊の巣窟なので、覚悟が必要です。
2021年03月15日 篠沼大膳大夫義久
佐津間城
佐津間城は、私有地にて主要部分は入れませんが、看板あたりは雰囲気が味わえます。また、北部に東西に天然の堀切があります。住宅地になってますが。東は河川状の低地。南部は神社までが外曲輪だろうか、、
西には防禦を考えてない、逆に言えば、東と北東に警戒を感じる感じでしょうか。
相馬、後に高城氏の支配地であれば納得はする感じ。城自体が物見的役割?
鎌ヶ谷市唯一の城跡だそうです。
2019年07月14日 野舘宮内少輔サラマンダー
佐津間城
日本城郭大系 第6巻
発行所 株式会社 新人物往来社
より引用。
鎌ヶ谷市文化スポーツ課文化係様御了承済
佐津間城316
①鎌ヶ谷市佐津間字屋敷裏 ②③④ー ⑤平山城 ⑥空堀・土塁 ⑦一〇〇m×一〇〇m ⑧ー ⑨『鎌ヶ谷市史資料集(9)』『東葛飾郡誌』
佐津間城は、北方六・五kmの手賀沼へ流入する大津川の低湿地を東に望む標高ニ五mの大地の先端部にある。
城主については『相馬文書』に、相馬胤村と薩摩の関係が記されているところから、この胤村から百年後の応永年間(一三九四ー一四ニ八)頃まで相馬一族が支配していたという。だが、それにしては規模が小さいので、疑問がある。戦国時代になると、小金の高城氏の支配下に入るが、守備を任せられた者がいたかどうかも不明である。
城址は五aほどの一郭だけに、土塁と空堀が残っている。これが果たして城であるかどうかは疑問も残るが、付近の地名に北根郷屋があるので、城があったことは間違いないと思われる。ただ、江戸時代の小金牧にすぐ隣り合っているので、野馬囲いなどに改造されたかもしれない。現に南の大宮神社から道路に沿って北に向かう土塁は、城の遺構ではなく、明らかに野馬除け土手である。
2019年07月12日 野舘宮内少輔サラマンダー
佐津間城
鎌ヶ谷市文化スポーツ課文化係様より、HPに記載の文章を、掲載頂いても大丈夫ですと、御了承頂きました~
ありがとうございますm(_ _)m
以下、コピーした文章を掲載致します。
ルビがふられていた漢字では、振り仮名がついております。
【史跡】1.佐津間城跡(さつまじょうあと) 中佐津間1-9
佐津間城跡は東側に大津川おおつがわをのぞむ標高25メートルの台地上に築かれており、台地下の集落とは約9メートルの比ひ高こうがある。土塁どるいと空堀からぼりをめぐらせて、周囲を台地から遮断しゃだんして郭くるわを形成する単たん郭かく構造こうぞうの城郭じょうかくである。守備を主体としたようで、四方に張り出した構造の櫓やぐら台だいと、その櫓台を利用した横矢よこや構造こうぞう(注釈1)が確認され、郭の入口となる虎口こぐち(注釈2)の跡も残っている。また、こうした入口が村落側にあることは、城と村落が一体の関係であったことも推定される。城の大きさは堀の外側で東西50メートル、南北76メートル、土塁の内側で東西21メートル、南北35メートルある。周囲には屋敷やしき裏うら、北根郷屋きたねごや、南木戸みなみきどなどの城に関係する小字名も残っている。
築造された時期は戦国時代(16世紀中から後半頃まで)と推定されている。
[注記]
注釈1:侵入する敵を側面から攻撃できる構造。
注釈2:敵の侵入に備えた城の入口。「小口こぐち」とも書く。
【備考】佐津間城跡は私有地であり、見学できる環境が整っていないため、立ち入りはご遠慮ください。
2019年07月12日 野舘宮内少輔サラマンダー
佐津間城
2019年7月12日(電話)
昨日松戸市さんでコピーさせて頂いた資料に、佐津間城がありましたので、鎌ヶ谷市さんへお電話致しました~
鎌ヶ谷市文化スポーツ課文化係
047-445-1528(こちら直通です。こちらにお電話頂けた方が、御手間掛からないです、との事です。)
御話御聞きしました所、砦、だったのでは…?との事です。
佐津間城、私有地の為、見学等出来ないとの事です。
後程、佐津間城の資料文章を、口コミへ投稿しようかと思います。
御電話御対応くださり、誠にありがとうございました~∠(>_<)
2015年01月28日 野舘宮内少輔サラマンダー
佐津間城
佐津間城跡は東側に大津川をのぞむ標高25mの台地上に築かれており、台地下の集落とは約9mの比高がある。土塁と空堀をめぐらせて、周囲を台地から遮断して曲輪を形成単郭構造の城跡である。守備を主体としたようで、四方に張り出した構造の櫓台と、その櫓台を利用した横矢構造が確認され、曲輪の入口となる虎口の跡も残っている。またこうした入口が村落側にあることは、城と村落が一体の関係であったことも推定される。城の大きさは堀の外側で東西50m、南北76m、土塁の内側(主郭)は東西21m、南北35mある。周囲には屋敷裏、北根郷屋、南木戸などの城に関係する小字名も残っている。
築造された時期は戦国時代(16世紀中〜後半頃)と推定されている。戦国時代に造られた城跡は東葛地方でも数多く確認されているが、市内で明らかに城跡として確認されているのはこの佐津間城だけである。
※佐津間城は私有地であり、危険箇所もあるため、無断立ち入りはご遠慮下さい。
平成22年12月 鎌ヶ谷市教育委員会
2015年01月28日 野舘宮内少輔サラマンダー
佐津間城
2015年1月28日14時45分(25分)
佐津間の信号を東に曲がり、押しボタン式の信号を100m程通り過ぎた、右側の民家と民家の間にある細い道に入って行くと、佐津間城の案内板が建っています
行き止まりで駐車場は無く、端っこに停める感じになります
大きい車だとUターンが難しそうです
トイレはありません
しかも私有地の為立ち入り禁止です
城跡も小さく、周りを住宅に取り囲まれていて、把握するのは難しそうです…
案内板の地形図を見ると、形状が良く分かるのですが…
次の口コミに案内板の文章を記載いたします