小森城(こもりじょう)
小森城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 千葉県白井市平塚字三夜台
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 原氏?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、土橋
指定文化財
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再建造物
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周辺の城
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小野田城(千葉県船橋市)[4.9km]
中峠城(千葉県我孫子市)[5.6km]
箕輪城(千葉県柏市)[5.9km]
佐津間城(千葉県鎌ケ谷市)[6.8km]
布川城(茨城県北相馬郡)[7.2km]
我孫子城(千葉県我孫子市)[7.3km]
戸張城(千葉県柏市)[7.7km]
増尾城(千葉県柏市)[8.0km]
金堀城(千葉県船橋市)[8.3km]
米本城(千葉県八千代市)[9.7km]
小森城の解説文
小森城の口コミ情報
2024年08月27日 マグロ常陸介祐平
龍崖城[小森城 周辺城郭]
千葉氏の一族、大菅氏のお城です。千葉一族のお城らしく本丸の北側には妙見宮(写真4枚目)が祀られています。
妙見宮を参拝し、すぐ側の藪から攻城しました。薮に入ると一段高い所に腰曲輪(写真6枚目)があり、切岸(写真5,7枚目)を登ると畑になっている本丸(写真8枚目)にでます。本丸の東側はすぼまっていますが、堀切などは見られません。その先は広い畑となっており、どこまでが城域なのかよく分からない状況です。
東側のお城(畑)の入口には、大菅豊後守正氏のうぶ湯行水の井と伝わる、日本三井の一つ「月影の井」(写真1,3枚目)があります。正氏は武将には稀な風流人であったので、月影の井の名声が当時一段と高まったようです。
2024年08月26日 マグロ常陸介祐平
高野砦[小森城 周辺城郭]
別名を「布瀬高野城」もしくは平将門の別墅(別荘の意味)ということで「高野御殿」というようです。城主や来歴は不明のようです。
お城は、鉄製の細く低い杭が道路沿いに立てられており、城域に入れる雰囲気ではありませんが、道路のすぐ脇に薄めではありますが土塁を伴う空堀があり、その奥にも土塁と思われる土盛りが見られます。
名称は砦・御殿・城ですが、イメージとしては館です。
2024年08月15日 マグロ常陸介祐平
金山寺山城[小森城 周辺城郭]
日本城郭大系では「金山寺砦」の名称で記載されているお城です。相馬一族(岡田氏)の砦(居館)とされているようです(お寺の石碑では千葉一族の砦)。
円林寺と金山鳥見神社の二つの曲輪が残ります。
東側の円林寺には南・東・北の三方に土塁が見られ、西側は現在は道路となっている堀切を挟んで鳥見神社の曲輪があり、西側には土塁状の土盛りが見られます。
城と言うよりは砦のように感じましたが、神社境内にある公園の名称が「金山根古子供の遊び場」なので、砦ではなく居館なのかもしれません。
2024年03月08日 武田弾正少弼信靖
小森城
工場地帯の行き止まりに丘に上がるはしごみたいな階段があります。それを上ると、謎の小屋の後ろに出ます。小屋周りは少し広場になっていますが、資材が置いてあるので地権者の土地のようです。
2024年02月18日 マグロ常陸介祐平
柳戸砦[小森城 周辺城郭]
城の詳細は不明ですが、城の西隣にある六所神社(写真1枚目)の由緒に、下柳戸地区に手賀城の出城があり、手賀城の落城を機として、出城の十名が当地に土着したとあります。
遺構は空堀を伴う土塁が段差になっている南側を除き、コの字型に残っており、北側の一部は二重土塁(写真2,8枚目)となっています。曲輪は東西に長く、南北に短い長方形ですが、南側の段差の下は住宅となっており、削られたものと思われます。東側の空堀の先は谷になっていますが、自然地形のような感じで、切岸加工されているような感じではありません。雰囲気として、出城というよりは方形の館のような印象です。
神社の西側に隣接する墓地の裏側には、T字型に溝が見られますが、城の遺構のようには見えません。
2023年10月15日 マグロ常陸介祐平
手賀城[小森城 周辺城郭]
千葉氏の一族である原氏(手賀原氏)の居城です。臼井原氏の近親の胤親が居城し、子の久胤の時に小田原落城により廃城となったようです。
広かったであろう城域は宅地や畑となっていますが、円城寺周辺には、土塁が散見されます。
原氏の子孫は、江戸町奉行所の与力となっています。
幕末から昭和初期にかけての当主胤昭はクリスチャンで、聖書の出版活動や囚人保護、児童虐待問題で活躍して名を知られています。
1.5キロ程南の県道沿いに、原氏の墓所があり、墓域には原氏の墓のほか、刑余者たちの墓が並んでいます。
2023年08月30日 武蔵守のむげん
小森城
城跡南側に2.3台の駐車スペース有り。目の前に階段状の登城口があり登ると、資材置場の様な場所。8月と言う事もあり、雑草や薮、蜘蛛の巣多数につき、奥への侵入は断念しました。それでも土塁らしき遺構はなんとなく分かりました。
2022年02月07日 マグロ常陸介祐平
小森城
写真の階段を登ると廃品が散乱しており高床式の倉庫が廃墟となっています。倉庫の裏手には空堀と土塁が確認出来ますが薮が激しく写真では分かりずらいと思います。先人様は先に進まれたようですが、ここで断念しました。残念!
2022年01月11日 ぬっぴー上総介
小森城
階段みたいなところ、落ち葉のせいでけっこう滑るので気をつけてください!
2021年09月21日 昌幸近江守更に吉
小森城
白井第2工業団地内、田んぼを見下ろす台地に築かれています。当時は手賀沼がもっと大きかったようですから、水面が直下に迫っていたのではないでしょうか。
造成により現在は主郭と、外郭の一部が残っています。
googleの検索では、マルエスメタルさんを入力すると良いと思います。
道の突き当たりが城跡入口です。
駐車場とは名を打ってないですが、広くなっており3台ぐらいは駐車できそうです。
階段を登ると、地権者のものと思われる高床式倉庫が出現。そこが外郭です。
倉庫を左に進むと、方形の土塁に囲まれた主郭の虎口があります。
田んぼに面した一段高くなっている土塁は、櫓台のようなものが建てられていたと思います。
櫓台跡には「城山稲荷大明神」が祀られています。
残念ながらかなりの廃れ具合で、朱塗の鳥居と祠は倒壊しています。
祠は昭和40年代に再建されたもので、刻まれた内容によると、「旧城山豪族畑左エ門」の氏神で、享和3年(1803)から続くもののようです。
【写真の説明】
①登城口
②櫓台跡にある石祠
③残念な状態の石祠
④刻文
遺構
白井第二工業団地の北東、標高約22mの台地突端に位置する。北西端にある主郭は約40mx60mの大きさで、高さ約2mの土塁に囲まれており、北東隅には櫓台を残す。北側は急斜面となっている。
主郭の東側には土塁と横堀を備えた二ノ郭があるが、その南西側は工業団地が造成されているため旧状を留めない。
歴史
築城年、築城主ともに不明だが、小森城のあった地はかつて平塚郷と呼ばれ、鎌倉時代には金沢氏が、室町時代前期は円覚寺が同地を治めていたという。その後、戦国時代になると千葉氏の家臣で、臼井城(佐倉市)に拠る原氏の支配下にあったと推測されている。
城郭に関する文献がほとんど残されていないことから、その歴史ついては不明な点が多いが、かつては手賀沼が間近に迫っていたことや、縄張りが比較的小規模かつ簡素であることから、手賀沼の水運を管理、監視する目的で使用された拠点であったとも考えられる。
交通
・北総鉄道北総線白井駅から車で約15分参考文献
・『日本城郭大系 第6巻』新人物往来社、1980年。・『広報しろい No.697』白井市教育委員会生涯学習課文化班、2012年。
・『週刊日本の城』デアゴスティーニ・ジャパン、2013年。