中峠城(なかびょうじょう)
中峠城の基本情報
通称・別名
- 芝原城、柴原城
所在地
- 千葉県我孫子市中峠字外野津台3825
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 柴原氏
築城年
- 永正年間(1504〜1521)
主な改修者
- -
主な城主
- 柴原氏、河村氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、土橋、腰曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
我孫子城(千葉県我孫子市)[4.8km]
箕輪城(千葉県柏市)[5.5km]
小森城(千葉県白井市)[5.6km]
布川城(茨城県北相馬郡)[6.3km]
高井城(茨城県取手市)[6.8km]
戸張城(千葉県柏市)[7.6km]
布施城(千葉県柏市)[7.9km]
松ヶ崎城(千葉県柏市)[8.3km]
増尾城(千葉県柏市)[9.0km]
牛久城(茨城県牛久市)[10.1km]
中峠城の解説文
[引用元:Wikipedia「中峠城」の項目]
中峠城(なかびょうじょう)は、千葉県我孫子市中峠(下総国相馬郡)にあった日本の城。芝原城(しばはらじょう)ともいう。
概要
北側に古利根沼を望む形で立地し、古河公方家臣から後北条氏の被官になった河村氏の居城であった。いつ、誰が築城したかについては未だに不明である。
歴史
『湖北村誌』によると、天文10年(1541年)に初代・河村出羽守勝融が中峠城に入り、天文15年(1546年)には第2代・河村修理之亮が城主になる。
永禄7年(1564年)には修理之亮が国府台で後北条氏に敗れて戦死し、河村氏は後北条氏の配下となる。第3代当主は河村山城守、第4代は出羽守で、天正18年(1590年)の小田原城征伐の際には小田原城中に詰めていたが、留守中に中峠城が陥落した。
その後、同年12月には小金城主の武田信吉が治め、文禄元年(1592年)には徳川家康の料地となり、名前が中峠村(又は芝原村)となった。
構造
南北380メートルを底辺とし、東西420メートルの不当辺三角形の範囲に建てられた。南北と西方に崖があり、東方は台地続きになっている。戦国時代当時は常陸川を挟んで柴崎城と対峙していて、その立地から見て軍事・経済の両方で関連していたことが明らかになっている。
特に中峠城は北と西が直接常陸川の水域に面していて、さらには南に谷津が入り、軍船が停留するのにはうってつけの場所であったと考えられている。さらには、土師器片や陶器片などが出土していて、南にも中世の物を多数出土している遺跡(鹿島前遺跡)があり、重要な地であったことが分かっている。
名称
中峠村が成立したのは江戸時代で、この城はそれ以前から「中峠の城」と呼ばれていたことがわかっている。
中峠という名前は一説には牓示(ぼうじ、荘園などの土地にたてる標識のこと)が由来しているといわれている。牓示は、「バウジ」、「ハウジ」と読まれていて、下総国では「ベウジ」、「ビャウジ」と転訛したといわれている。また、境界線の意味から、峠という字があてられていた地域もあったという。中世、所領の境界線、特に荘園の境界線を巡って訴訟が起きた際には、幕府にはそれを裁定する義務があり、そのさいの境界を設定するときに東西南北の中間に新たな牓示が打たれたり、改めて大きな牓示が打たれたりすることが多い。中峠とは、「中」(真ん中の、という意味)と「峠」(牓示のことを指していると考えられる)を組み合わせて真ん中の牓示を指していると考えられている。
参考文献
- 【書籍】「湖北村誌」 全国書誌番号:43033341 |ncid=BA38685991|ref=harv}}
- 【書籍】「千葉県我孫子市中峠城跡調査報告書」
- 【書籍】「東葛の中世城郭」 全国書誌番号:20593730 |ref=harv}}
- 【書籍】「手賀沼をめぐる中世 : 城と水運」。 全国書誌番号:22459224 。|ref=harv}}
- 【書籍】「千葉県誌」 全国書誌番号:43028372 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960652|ref=harv}}
- 【書籍】「都道府県別日本の中世城館調査報告書集成」 全国書誌番号:000002947523 |url=|ref=harv}}
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中峠城の口コミ情報
2024年08月25日 あんどー左衛門佐
中峠城
主郭は立入禁止というか、民家の敷地かもしれませんが、遠くから眺めるだけでした。不動尊側から登城口も探しましたが、どこも凄い藪だし崖っぽいし難しそうでした。公園になってる整備された道だけを辿りました。それでも蜘蛛の巣には一度引っかかりました笑あと、見張り台だったのかなという小さいお社ですが、石段が小さくてバランス崩されそうで少し怖かったです。
2024年05月13日 マグロ常陸介祐平
新木城[中峠城 周辺城郭]
相馬氏の一族、新木三河守胤重の城と伝わっているようです。葺不合神社周辺が城址とされているようですが、遺構は確認出来ません。新木氏の名字の地ですから、付近に館があったのは間違いないのではないでしょうか。
神社自体は大変素晴らしいもので、拝殿は明和2年(1765)建立の元は弁天堂だったもので、本殿は明治30年と古さはないものの彫刻が美しいものとなっています。
比定地ではありますが、寺社仏閣が好きな方にはおすすめのお城です。
2024年05月12日 マグロ常陸介祐平
中峠城
近くにある法岩院を開基し、菩提寺とする河村氏が城主とされています。河村といえば秀郷流の藤原氏のイメージですが、千葉氏の系統のようです。
城の北側にある波除不動尊入口のバス釣りの方が車を停めている広場に車を置き、不動尊に参拝。不動尊が崖の崩落を防ぐために作られただけあって、城の北側はきつい崖(写真7枚目)に守られていることがわかります。
城の西側には見張り台とも思える神社のある高い塚(写真1,3枚目)があり、そこに接続する土塁状のものが北東に続きますが、立ち入り禁止で詳しく確認出来ません。案内板には遺構とはしていないものですが、南側は堀状に掘られており、それらしさは感じます。
アプリのお城マーク付近には高い土塁(写真2枚目)と幅のある堀切があり、北側の民家の縁にも遠目に土塁が見られます。
城の西側は自然観察公園となっており、薄めの堀切(写真4枚目)や、展望台の少し西の土塁が確認できます。
シンプルな縄張りですが、規模的には広さを感じるお城です。
2023年03月20日 和泉石狩守
中峠城
本廓端の神社は狼煙台かと思うくらいの凸頂上にあります。雨の日は滑るので危険。裏手の古利根川沿いは歩けますが、崖でここからは攻め込めませんね。自刃した城代の供養碑は離れた場所にあります。
2023年03月19日 加納遠江守
中峠城
本廓は竹藪や家のある私有地で道標案がありますが、わかりづらく、そこから暫く廓沿に歩いて自然観察の森の立札から2廓に入れます。
2023年01月07日 真田上総介幸村
中峠城
アプリで案内されるより先にありました。説明板は公園内にありました。
2021年11月05日 ファン掃部助トム治郎
中峠城
古利根沼の南にあり一部が住宅地になっています。鳥がたくさんさえずっておりよい森です。
2016年01月03日 Nabeppu左馬頭
中峠城
専用の駐車場は設けられていないものの、城跡北部にある古利根沼があり、その湖畔に釣りポイントがある為10台位停められるスペースがあります。そこから徒歩で南東に回り込むと城跡です。
一見城跡と解り難いですが、南のR356から北の古利根沼に向かって、結構傾斜がある為、城跡である事が想像出来ます。ただし、郭が3つあるもののほぼ消失してるので確認は難しいでしょう。またIIの郭から北側の眺めが良く、往時を偲べるかもしれません。
2014年11月28日 征夷大将軍ひとりもん
中峠城
地図の西150mに「芝原城→」の案内板、地図の東150mの「古利根公園自然観察の森」に説明板ありました。
駐車場なし。