高井城(たかいじょう)
高井城の基本情報
通称・別名
- 下高井城
所在地
- 茨城県取手市下高井(高井城址公園)
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 信太(高井)重国
築城年
- 長治年間(1104〜1106)
主な改修者
- -
主な城主
- 高井氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
守谷城(茨城県守谷市)[3.8km]
布施城(千葉県柏市)[6.0km]
我孫子城(千葉県我孫子市)[6.2km]
中峠城(千葉県我孫子市)[6.8km]
松ヶ崎城(千葉県柏市)[7.7km]
東林寺城(茨城県牛久市)[8.0km]
箕輪城(千葉県柏市)[8.5km]
牛久城(茨城県牛久市)[8.8km]
戸張城(千葉県柏市)[9.5km]
増尾城(千葉県柏市)[11.2km]
高井城の解説文
[引用元:Wikipedia「高井城」の項目]
高井城(たかいじょう)は、茨城県取手市下高井にあった日本の城。
概要
本城は、下総国高井(現在の茨城県取手市)の小貝川の南の台地に立地した平山城である[1]。
城域全体の規模は約200メートル四方で、主郭と付随の2つの曲輪、外郭からなる。主郭は南北約65メートル・東西45メートルほどで土塁がめぐらされていた。
築城時期は不明。1590年(天正18年)に豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡。北条氏配下で当地を治めていた下総相馬氏は所領を没収され[2]、当城も廃城となった。
1983年及び1993年に取手市により発掘調査が行われ、城郭跡は高井城址公園として整備された[3]。
アクセス
- 関東鉄道常総線・ゆめみ野駅より徒歩約19分。
- 取手市コミュニティバス西部ルート・高井城址入口バス停より徒歩約4分。
- 駐車場 10台程度[4]。
関連文献
- 茨城県城郭研究会 編著『改訂版 図説 茨城の城郭』、国書刊行会、2017年。
- 『取手市内における重要遺跡発掘調査報告書1983』、取手市教育委員会、1983年。
- 山武考古学研究所 編『発掘調査報告書下高井城跡』、取手市教育委員会、1993年。
[続きを見る]
高井城の口コミ情報
2025年08月04日 マグロ常陸介祐平
小文間城[高井城 周辺城郭]
「おもんまじょう」と読みます。幸手一色氏の一族とされる、一色政良(政義)のお城です。政良は、永禄4年(1561年)大鹿城を攻め手中にしますが、稲城主高井氏や柴崎城主荒木氏に敗れ落ち延びたとされます。政良は、永禄4年に亡くなったとされ、お墓はお城の西側にあります(写真7枚目、8枚目は一色氏関連とされる首欠け地蔵)。
Wikipediaによると、政良は幸手一色氏の一色直朝の子で義直の弟にあたり、天正18年(1590年)の北条氏滅亡により、小文間城から上川崎村(久喜市)に隠棲し、渡辺と改姓して土着したとしています。新編武蔵風土記稿の上川崎村の条には、旧家者伝左衛門として、一色義直の弟の政義が当村に住し、渡辺を以て氏とし元和2年3月(1616年)に亡くなったとしています。小文間城については触れておらず、大鹿城を攻めた政良とは、年代も合っていません。
また、弓田城主染谷氏の系図によると、染谷政朝の姉が政良に嫁ぎ、子の正康は政良の攻め取った大鹿城を預かり、正康の子の政義は、政良の娘を妻としたとしていることから、系図の作成時期(ネットでは分からなかった)が、大鹿城の初出とされる安政2年(1855年)の「利根川図志」よりも古いものであれば、大鹿城攻防戦も真実味があるように思われます。
お城は、政良が小文間城築城の際鬼門除けとして建立したとされる東谷寺の南側の台地の先端に位置しています。遺構は土塁の僅かな残欠が残る程度で縄張りや規模などはよく分かりませんでした(写真1~4枚目)。崖下の歩道を進むと、要害性は感じられました(写真5,6枚目)。
2025年08月04日 マグロ常陸介祐平
取手城[高井城 周辺城郭]
大鹿城の北側、谷津の対岸にあるお城です。現在の競輪場の台地(写真5枚目)からは30m程に位置しています。日本城郭体系には、「戦国時代、長策民部の居城」とのみ書かれています。戦国時代のお城であれば、大鹿城と隣接していることもあり、登場人物の多い東国戦記実録などに、なにかしら記述があってもよさそうですが、取手城も長策民部も出てこないようです。
現在、城跡は金刀比羅神社が鎮座しています。神社は二段になっており、神社の裏側には土塁状の土盛りが見られます。拝殿下段にある光音堂の東側は、薮になっており見えにくいですが、すぐ先は切岸状の段差となっています。城郭的な雰囲気は感じられる空間ではあります。
金刀比羅神社は、天明元年(1781)年に讃岐から分祠された、比較的新しい神社ですが、祭神は大国主神の他、何故か伊邪那岐と伊邪那美が祀られており、白山神社との関連を感じさせます。同じく取手市内にある野々井城には、長束民部が養老2年に勧請した白山神社が鎮座しており、年代はかなり隔たりがありますが、混同して伝承されたように感じられます。
取手城は、埋蔵文化財包蔵地にもなっていないため、はっきりする日はこないかもしれません。
2025年08月02日 マグロ常陸介祐平
大鹿城[高井城 周辺城郭]
大鹿氏のお城と伝わるようです。軍記物によると、大鹿太郎左衛門の守る大鹿城は、永禄4年(1561年)に小文間城主一色宮内少輔政良に攻められ城を奪われるも、稲城主高井直徳や柴崎城主荒木三河守に助けられ、一色氏を破るも太郎左衛門は討死し、城には高井氏の家臣の寺田氏が入ったとしているようです(多くの武将が登場する軍記物をはしょりました)。お城の記録は、古いものでも幕末で、明治や大正時代に書かれたものが多いようです。戦国期当時の記録には大鹿城も大鹿氏も表れないようですが、坂東市の坂東ゴルフクラブ内にある弓田城の城主の染谷氏の系図によると、叔母が小文間城主一色宮内政良に嫁ぎ、政良の娘と結婚したとされる染谷正康が、永禄4年に大鹿城を預かるとしているようですので、戦記物も根も葉もないものではないのかもしれません。
お城は、競輪場(楽天Kドリームスバンク)となっており、残念ながら遺構は残っていませんが、台地の先端に位置しており、立地的には城郭を築くには適した場所のように感じられます。昭和47年の調査によると、三方を谷津に囲まれた舌状台地に築かれ、東西約95m、南北約27.5~24mの長円形で、周囲を土塁がめぐり東南部に虎口があったとしています。
取手の地名は、大鹿城(砦)がもとになったとの説があるようです。
2025年08月01日 マグロ常陸介祐平
岡城[高井城 周辺城郭]
高井城から南東に約1km、平将門関連のお城です。将門本人のお城ではなく、愛妾の桔梗御前が居住したとされ、朝日御殿とも呼ばれています。付近は、岡台地と呼ばれる水田地帯の限られた台地となっており(写真8枚目)、岡城の他、将門が信仰する地蔵尊のお告げにより創建された親王山延命寺があり、境内には将門が戦死した際に乗っていた馬を埋めたとされる「駒形様」と呼ばれる塚があります(写真7枚目)。朝日御殿に関しては、伝説の域をでないものと思われますが、歴史を感じさせる地域です。
お城は、台地の先端に位置しており、広さのある削平地の先端部には、岡神社が鎮座する茨城県指定文化財の「大日山古墳」があります。古墳は桔梗御前の墓とも将門の墓ともされるようですが、物見台として使用されたもののようです。北側には台地の縁に沿って、坂虎口的な坂道があり、一段下には郭かもしれない広い削平地が見られます。また、お城の南側にも帯郭的なものが確認できます(写真1~6枚目)。
高井城からも近く、取手市でも城郭として扱っているようですので、戦国期には高井城の出城としての役割を担っていたのかもしれません。
2024年08月13日 マグロ常陸介祐平
野々井城[高井城 周辺城郭]
養老二年に長束民部、兵部、刑部の三兄弟が加賀国白山より勧請したとされる白山神社が城址となります。奈良時代の創建は無理があるとして、取手城主の長策民部と名前が似ていることが気になります。
茨城県の中世城館では、別称「本能寺城」としていますが、堀ノ内の転化でしょうか。遺構の有無に〇がなく「遺構が確認された記録はない」とされており、所在地住所が間違えているのが気になります。
遺構は無いとされる野々井城ですが、神社はぐるりと土塁状の土盛りに囲まれており(写真3,4,5,7,8枚目)、西側の五輪塔のある墓地の高台との間は、堀切のようで(写真1枚目,他に堀状の溝は見られない)、いかにもお城という感じがします。
お城の現状が神社仏閣となっていて、創建が戦国期より古い場合、空堀が見られない傾向があるように思われますが、擬似遺構からの類推でお城とされたということでしょうか。
2024年08月12日 マグロ常陸介祐平
古戸城[高井城 周辺城郭]
情報量の少ないお城で、来歴や城主など伝わっていないようです。埋蔵文化財包蔵地で古戸城跡となっていますが、茨城県の中世城館では取り上げられておりません。日本城郭大系では、同じ地域にあったとされる稲村城を末尾に記載していますが、高井直将の居城といていることから、高井氏関連のお城かもしれません。
常総ふれあい道路の北側から、利根川の土手を通る管理道路(写真1枚目)に入り、お城の脇を進みましたが、入り口が見つからず、江戸川学園の手前から薮に突入してみました。激しい薮ですが、北側に堀状の溝(写真5枚目)があり、南側は3~4m程の切岸(写真6枚目)が見られます。切岸上の曲輪を見るため、竹を掴んでよじ登ると曲輪は二段(写真4枚目)で構成されており、土塁状の土盛り(写真3枚目)も見られます。曲輪の真ん中に何故か赤い白線を引く道具が落ちており不思議な感じでした。曲輪の南端まで行くと降り口(写真2枚目)があり、管理道路の外からはよく分からなかった薮の隙間から出ることが出来ました。
お城の周りは新しい道路と学校となり、規模などは見当もつきませんが、15分で探検が楽しめるお城です。
2024年03月07日 千葉相模守早雲
高井城
1郭はほぼ正方形で周囲に土塁が残存。南と西に虎口があり、西の虎口は枡形郭に繋がり、その先は犬走りが北の2郭まで繋がっています。2郭は柵があり立ち入れず、藪も伸び放題。
南の虎口からは土橋で3郭と4郭へ繋がる作り。1郭と3郭間には大きな堀切があるのが特徴。城址公園として整備されていますが、立ち入れるのは1郭と堀切。4郭は民家、3郭は激藪且つ恐らく私有地だと思われます。
案内板によれば相馬氏の城でした。同じく相馬氏が城主だった近隣の守谷城も大きくて深い堀切があり、共通する特徴に納得。
1郭には桜が咲き誇り、隠れた花見の名所でした♪
1.2郭。
2.犬走り。
3.枡形郭。
4.手前の藪で隠れてる1郭と3郭間の堀切。奥は3郭。
5.1郭と3郭間の堀切。
6.堀切から見た1郭切岸は高い。
7.1郭の南虎口。
8.1郭。桜の名所。
2023年10月15日 和泉石狩守
高井城
公園がありますが藪蚊に注意です。堀土塁は良く残る城址です。
2023年10月15日 加納下総守
高井城
主郭部はよく保存されています。大手門推定場所は私有地の住宅の中で歩いてもわかりませんでした。
2022年10月16日 つか征夷大将軍ぽ
青柳本願寺[高井城 寺社・史跡]
徳川家康の重臣で三河三奉行の一人である本多重次の菩提寺です。
豊臣秀吉の怒りを買った為、家康によりこの辺りに3000石で蟄居させられ、この地で亡くなったそうです。
家康の重臣じゃなかったら切腹させられてたでしょうね。
子の本多成重は丸岡城城主となり丸岡藩本多家は4代続きます。
改易後は旗本として続いていったそうです。
菩提寺だけあって色々な遺品があります。
法事等が無ければ見学出来ますが、行く方は事前に連絡しましょう。
住職さんが対応してくれます。
土日祝の午前中は法事が多いみたいです。
甲冑は右から本多重次、本多重昭、本多重知です。
貴重な旗印や位牌、家康から拝領した金団扇、金扇等もあります。
2021年07月25日 マグロ常陸介祐平
高井城
高井城跡公園となっており、公園部分はよく整備されていますが城址部分は雑草が伸びています。虎口や周囲を巡る土塁、虎口前の空堀はよく残っています。近くにある高井氏の菩提寺の高源寺に墓碑は確認出来ませんでしたが、境内の県指定文化財の地蔵ケヤキは感動ものでした。
2020年12月07日 京急渡島守ドレミファ♫
簡易トイレ[高井城 トイレ]
緊急時以外は使いたくないような簡易トイレです。
2016年11月15日 まー刑部卿
高井城
高井城址公園の標柱から駐車場までは車一台分の幅しかありません。駐車場は小さいですが看板があります。簡易トイレが一基あるのみ。周辺は私有地が多いので立ち入らない方がいいかと。また駐車場から城跡へ向かう途中に地元有志の方が植えた野草もあります。土塁と空堀が幾らかわかる状態でした。
2014年11月07日 野舘宮内少輔サラマンダー
高井城
2014年10月30日15時00分(35分)
狭い道を通るので気を付けて頂きたいのと、駐車場がちょっと見逃しちゃうような所にあります
トイレは簡易な物が一つ、中は見ていませんが、余り良くはなさそうです…
規模は余り大きくなく、遺構も余りありません
案内板の説明文を記載します
高井城は、小貝川を北に望む半島状の大地に築かれており、取手市内に残る最も大きい戦国時代後期の城跡である。
高井城がいつごろ築かれたかは明らかではないが、「高井」の地名は建武3年(1336年)の相馬親胤宛ての「斯波家長奉書」に見ることから、この時点で相馬氏の領地であったことがわかる。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、後北条氏とともに下総系相馬氏が滅亡したため、高井城はその役割を終えて廃城となった。
取手市役所 水とみどりの課・高井城址公園里親グループ 緑水会
2013年02月24日 さがみ常陸介
高井城
城跡は小さな公園になっています。春先には雪割草が植えられ、ちょっとした散歩コースです。