牛久城(うしくじょう)
牛久城の基本情報
通称・別名
- 岡見城、(牛久陣屋)
所在地
- 茨城県牛久市城中町
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 岡見氏
築城年
- 天文後期(1550年頃)
主な改修者
- 山口弘隆(陣屋)
主な城主
- 岡見氏、由良氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(牛久城大手門跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
東林寺城(茨城県牛久市)[1.4km]
馴馬城(茨城県龍ケ崎市)[5.3km]
小坂城(茨城県牛久市)[6.0km]
龍ケ崎城(茨城県龍ケ崎市)[7.1km]
高井城(茨城県取手市)[8.8km]
中峠城(千葉県我孫子市)[10.1km]
布川城(茨城県北相馬郡)[10.6km]
谷田部城(茨城県つくば市)[10.6km]
守谷城(茨城県守谷市)[11.7km]
塙城(茨城県稲敷郡)[13.0km]
牛久城の解説文
[引用元:Wikipedia「牛久城」の項目]
牛久城(うしくじょう)は、茨城県牛久市城中にあった日本の城。
概要
牛久城は、城主の岡見氏によって天文後半(1550年頃)に築造された。この城は、戦国期に築かれた東国の城の特徴を持ち、本丸がある城山には石垣や天守を持たない典型的な遺構を残している。ここは、後北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られている。
天正年間、多賀谷氏と岡見氏の係争の舞台となり、多賀谷氏を支持する佐竹氏と、岡見氏を支持する北条氏の間での対立の地ともなり、堅城として知られた。 天正14年(1586年)から翌年にかけて、下妻の多賀谷氏によって、岡見氏の有力支城である谷田部城と足高城は落城させられたが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高城氏などの援軍を得て守りきった。その後防衛のため城主岡見治広は北条軍の駐留を許す事になる。しかしながら、牛久城は天正18年(1590年)に豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城に至った。
豊臣秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原の戦い後に由良氏は減封となり、元和9年(1623年)に牛久城は廃城になった。
その後、江戸時代に入り寛永5年(1628年)に山口重政が1万5千石で牛久に封じられ、牛久藩が成立する。そして、2代藩主山口弘隆によって寛文9年(1669年)に旧牛久城外郭内の西端、牛久沼に接する標高約20mの台地の端に新たに牛久陣屋が築かれ、以降幕末に至る。
現在は、外郭部は開発の手が入り保存状態はよくないが、一部に空堀および土塁が残る。また大手門跡は市の史跡に指定されている[1]。
沿革
- 牛久城は、天文後半(1550年前後)の佐竹氏の南進を契機に岡見氏によって築かれた。
- 永禄末から元亀(1570年前後)になると、佐竹氏と結んだ多賀谷氏からの攻撃が激しくなった。
- 元亀元年(1570年)谷田部城が破られ、城主の岡見主殿は牛久城へ逃れた。
- 天正5年(1577年)以降、北条氏が牛久城の防御と多賀谷氏との戦いに備え、井田氏、豊島氏、高城氏などの在番衆が牛久城に派遣された。
- 天正15年(1587年)多賀谷氏が牛久城と東林寺城の西隣に八崎城を築城し、程なく足高城が落城し、牛久城と東林寺城が侵攻された。
- 天正18年(1590年)豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城した。
- その後、豊臣秀吉によって由良国繁の母に牛久城が与えられ、由良国繁が城主になったが、元和9年(1623年)牛久城は、廃城になった。
- 寛永5年(1628年)に山口重政が一万五千石で牛久に封じられる。
- 寛文9年(1669年)に山口弘隆によって牛久陣屋が築かれる。
構造
牛久城は東西約800m、南北約1kmにおよぶ城中全体を取り囲んだ惣構えをもっている。三方を牛久沼に囲まれた台地の上にあり、主郭を中心として中城と外郭の外郭部を取り囲む防禦ラインが築かれている。城のある台地は浸食谷によっていくつかの舌状台地になっており、城の東と西に牛久沼の水が入り込んでいて防御に適している。更に外部と連絡するのは北側の台地上を行くしかないのであるが、その台地がかなり細くなっているため、ここを切断すると台地全体が独立し、さらに防御が楽であったことが分かっている。
- 牛久城惣構え
牛久城の主郭部は、地名が城山とされている部分にある。南端の一部が土採りにより失われているが、主郭部に空堀、土塁が残っている。主郭はさらに郭で分けられている。一番北の郭は北と南に堀を入れ、東西に長くなっている。また、左右には土塁が残っていて、虎口の機能を持っていたことがうかがえる。
- 主郭の構造
参考文献
- 【書籍】「牛久市史」。 全国書誌番号:20147680 。|ref=harv}}
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牛久城の口コミ情報
2024年06月06日 マグロ常陸介祐平
足高城[牛久城 周辺城郭]
お城の歴史については先人様が口コミされています。岡見氏に関しては、足高城・牛久城のどちらが本宗か意見が分かれているようです。
城域は相当広い範囲だったようで、城の東端から北西に1km程離れた千手院付近まであったようです。主郭の西側平野部の根小屋地区には戦前まで巨大な土塁が存在しており、平時の居館があったと思われます。
郭の名称が資料によりまちまちなので、表現が難しいのですが、遺構は主郭と足高八幡神社の建つ出郭周辺には土橋・堀切・土壇(写真1,2,3,4枚目)など、「城中」の看板のある主郭の北の郭周辺にも郭を仕切る堀切(写真6,7枚目)や台地の西側端部の横堀(写真5枚目)が確認できます。民家の庭にあるため写真は撮れませんが、「城中」の看板のあるブロック塀の内側には折れ部分を含む堀切を見ることができます。
岡見氏は、足高系・牛久系ともに北条氏改易後も幕臣、紀州藩士、水戸藩士、彦根藩士として存続したようです。
2024年06月05日 マグロ常陸介祐平
泊崎城[牛久城 周辺城郭]
先人様の口コミ通り、お城は宅地化の為、消滅しています。茨城県の中世城館の解説では、城はわざわざ舌状台地の先端部ではなく600m程北西側にあるとしていますが、先端部の泊崎太子堂の建つ物見郭は、牛久城や牛久沼全体を見渡せる立地で、お城を感じとることが出来ます。
牛久沼は、茨城百景に選ばれた景勝地で、弘法大師が座護摩を修めた場所に太子堂(1744年再建)が建てられたと伝わります。当地には、弘法大師にまつわる「弘法の七不思議」が伝わり、「逆松」や弘法の硯水(写真1枚目,枯れています)を見ることができます。
2024年04月17日 マグロ常陸介祐平
牛久城
Ⅰ郭・Ⅱ郭・Ⅲ郭(写真1~6枚目)は、土塁・空堀・虎口・土橋などの遺構の状態が良く、散歩コースにもなっていて大変見やすいお城です。城の入り口を示す看板があるのみで、説明板などは見当たりません。
牛久沼沿いの城址入り口から北に1km程の交差点に大手門跡の石碑と説明板があります。大手門跡のそばにある得月院(墓地裏に堀が残る)は、秀吉より牛久五千石を与えられた由良国繁の母、妙印尼(知る人ぞ知る女傑です)の開基で墓(写真8枚目)があります。牛久城では、大手門跡と妙印尼の墓が市の文化財に指定されていますが、遺構の状態の良いⅠ郭・Ⅱ郭・Ⅲ郭部分は指定外のようです。
また、南に1km程のところにある金龍寺は由良氏の菩提寺で、国繁らの墓があります。(先人様が詳しく口コミ,写真7枚目)
2023年05月11日 RED副将軍
牛久陣屋[牛久城 周辺城郭]
山口氏代々の陣屋跡🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。前身は牛久城で1628年に山口氏が牛久藩主に復職してから築かれたとされます。
牛久藩初代の山口重政は、織田信雄に仕えていましたが、1590年に織田信雄が下野国烏山へ配流となると徳川家康に仕えました。1600年の関ヶ原合戦では徳川秀忠に従い戦功を挙げた戦功により牛久藩の藩主となりました。
しかし、1613年に嫡男の山口重信が大久保忠隣の養女と無断で縁組みしたことを咎められ、山口重政は改易の上に蟄居となりました。1615年の大坂の夏の陣において、山口重政と山口重信の親子は井伊直孝に従って活躍。しかし、山口重信は豊臣勢の木村重成によって討死。
1628年、山口重政はようやく赦され、牛久藩の藩主に復帰しました。1635年、四男の山口弘隆が家督を継ぐと弟の重恒に五千石を分知し一万石の大名として明治まで存続しました。
見所
牛久沼の東側の台地上に築かれています。現在は、宅地、耕作地、原野となり遺構はほぼ消失。河童の碑のある辺りが陣屋跡とされます。土塁や空堀が残っているらしいですがよく分かりませんでした。
2023年05月06日 武蔵守のむげん
牛久城
城跡南側、牛久沼に近いあたりに10台程度のスペースの無料駐車場があります。そこから徒歩で登城口まで2分程度。登ってすぐに竹林のお出迎えがあります。堀の両脇の竹林がそびえ立ち、まるで異世界への入り口のような風景に圧倒されます。堀切、土橋などの遺構もよく残っておりますが、竹林が多すぎて縄張りが把握しにくいのがちょっとだけ残念です。しかし、いかにも戦国時代後期と思われる土作りの城には感動を覚えました。
2023年01月22日 昌幸近江守晩秋リア旅
新田義貞の墓(金龍寺)[牛久城 寺社・史跡]
旧水戸街道・若柴宿の金龍寺に新田義貞の墓があります。なぜ縁もゆかりもない茨城県南の地にあるのか疑問に思っていました。それは子孫の由良国繁が牛久城の城主になったことがきっかけでした。
金龍寺は1321年(元享1) 新田義貞の創建、天真禅師の開基と伝えられています。義貞死後は新田氏歴代の菩提寺として、はじめ上州新田郡(群馬県太田市)にありました。その後本拠の移転とともに上州桐生城内へ、小田原征伐の際に豊臣方に味方した功績から、牛久に国替えになったときに、寺も一緒に移ってきました。しかし由良氏は二代・貞繁に嫡子なく、減俸処分を受け牛久城主の座を明け渡す事になりました。その後の由良氏は高家となり牛久の東猪穴(JR常磐線ひたち野牛久駅あたり)に領地を賜りました。金竜寺と義貞の墓は、幕府の庇護を受けて、ちょうど牛久沼の対岸、龍ケ崎若柴宿の古寺を改修してここに移されたのです。
四基並んだ五輪塔、向かって左から
●新田義貞
●横瀬貞氏(新田義貞の孫)
●由良国繁(新田金山城主になった際に改称)
●由良忠繁(由良家3代目・国繁の次男)
の順に並んでいます。
2023年01月13日 昌幸近江守晩秋リア旅
若柴城[牛久城 周辺城郭]
牛久沼に向かって伸びる台地に築かれた若柴城。土岐原(常陸土岐)氏から岡見氏に養子に入った頼勝が隠居後に住んだ城とされています。
縄張りは堀で区切られただけの二つの郭と中城・外城と呼ばれる外郭群とで構成されます。前述の通り、隠居後の城だったこと、牛久沼からは内陸にあること、背後は味方の土岐原氏の城だったことなどの理由から非常にシンプルな縄張りになっています。
ちなみに外城下には旧水戸街道が通り、若柴宿がありました。水戸街道は江戸時代に整備されましたが、その下地は岡見頼勝がつくったのかな?と妄想してしまいます。
【写真の説明】
①II郭空堀
②I郭空堀
③I郭腰郭。右の盛り上がりがI郭。幼稚園裏になるためこれ以上侵入せず。
④外城下にある若柴宿
⑤若柴城遠景
2023年01月11日 昌幸近江守晩秋リア旅
屏風ヶ崎城[牛久城 周辺城郭]
龍ケ崎市の屏風ヶ崎城。向かいが牛久城というロケーションです。岡見氏関連の城で間違いないでしょう。縄張りは単郭で台地の先端を堀で区切った砦に近いものだったようですが、建設会社所有地となり遺構は消滅、城の切岸も砂利で埋もれてしまいました。嗚呼残念無念…
2023年01月11日 昌幸近江守晩秋リア旅
八幡台城[牛久城 周辺城郭]
龍ケ崎市の八幡台城。牛久沼東岸には3つの城があったとされていますが、その内のひとつです。(他には屏風ケ崎城・遠山城)詳細は不明ですが、岡見氏の城と考えられます。
もともとは日立照明の工場があり、その時点で遺構が残っているか疑問符がつくところでしたが、現在はソーラーパネルが敷き詰められ、更に東側は現在進行形で道の拡幅工事が進められており非常に悲しい状況になっています。西側(JR常磐線沿い)に富士神社があり、付近には矢の攻撃を受けてしまうような空間があります。当時の面影を残している遺構ではないでしょうか。
2022年07月28日 千葉相模守早雲【権六】
牛久城
リア攻めマップを頼りに北側の駐車場を目指しました。整地されておらず、時期的に雑草が伸び放題のため、一瞬躊躇するも駐車😅ここが三ノ郭のようです。
案内板は見当たりません。取り敢えず森に向かう小道を入って行くと、直ぐに目の前に空堀が広がります。藪は凄いですが、堀の向こうの土塁の高さも相まって、堀の深さがよく分かります😁
堀沿いに進むと土橋が腰郭に向かって掛かり、虎口になっています。更に虎口脇の土塁が張り出して横矢が掛かります。虎口を抜けた先にも左手に虎口があってニノ郭、真っ直ぐ腰郭を進むと一ノ郭へ繋がります。一・ニノ郭間にも大きな空堀を設けいて、ここも見どころ。一ノ郭にも土橋が掛かり坂虎口となり、周囲には土塁が残っています。
遺構はとても良く残っているので、道路標識や案内板・駐車場の整備をすれば、観光資源としてもっと人を呼べるポテンシャルを秘めているなぁと感じました😁
1.ニノ郭。手前と奥の土塁の間には深い空堀。右端に土橋が見えるかな?
2.ニノ郭を囲む空堀。藪が酷い😅
3.腰郭への虎口。奥に土橋が繋がります。
4.空堀に張り出し横矢を掛ける。
5.ニノ郭。
6.一ノ郭を囲む空堀。
7.一ノ郭。奥に土塁が見えます。
8.段郭を隔てる空堀かな?
2022年04月06日 昌幸近江守晩秋リア旅
泊崎城[牛久城 周辺城郭]
つくば市にある泊崎(はっさき)城。
牛久沼に飛び出した台地の先端に位置します。もともと何かあってもおかしくないのですが、文献で確認できるのは、1587年の下妻城多賀谷氏による築城です。
迂闊にも築城を許した岡見氏は、東岸の牛久城と西岸の足高(あだか)城との「牛久沼ネットワーク」を破綻させてしまい、足高城を失うことになります。
城は宅地造成で消滅しました。物見郭と思われるところに泊崎太子堂が建てられています。当時多賀谷氏は常陸では珍しく鉄砲隊を有していたそうです。眼前を往来する敵を射撃する多賀谷氏、かたや射撃に戦々恐々とする岡見氏、そんな絵が想像できます。
泊崎太子堂に駐車場があります。道中細い道が続きますので安全運転で。
※主郭が比定できませんので、泊崎太子堂をリア攻めマップに登録させてもらいました。
【写真の説明】
①泊崎太子堂
②太子堂より牛久城方面を見る
2022年04月06日 昌幸近江守晩秋リア旅
足高城[牛久城 周辺城郭]
つくばみらい市にある足高(あだか)城。
牛久沼西岸の比高15mほどの台地に築かれました。
築城時期は不明ですが、天正年間には岡見氏の持ち城として史料に現れます。
東岸の本拠地・牛久城や東林寺城と「牛久沼ネットワーク」を組み、付近一帯を治めていたと思われます。
次第に下妻城多賀谷氏の侵攻を受けることとなり、布川城豊島氏や小金城高城氏の力を借りて撃退します。
そしてとうとう多賀谷氏に楔を打たれるかのように、中間地に泊崎(はっさき)城を築かれてしまい、ネットワークは破綻。
北条氏に援軍を求めます。一進一退を繰り返すも最後は落城、牛久城へと撤退します。
現在残るのは台地の先端部である主郭(竹藪)・3郭(城中公民館)・出郭(足高八幡神社)で、他は宅地と耕地で消滅しています。
神社の境内にもあたるので、大手を振って探索できないところもありますね(笑)
ただ見られる遺構は素晴らしかったです。
3郭が公民館ですので、ここまで車で来ちゃいましょう。
【写真の説明】
①3郭。土の盛り上がりは土壇とされる。
②参道になっている主郭-出郭間の土橋。
③参道脇の主郭-3郭間の土塁。
④出郭にある足高八幡神社。
⑤主郭-出郭間の堀切。
⑥主郭-出郭間の堀切、別アングルで。
2021年12月26日 大膳大夫しろし
牛久城
見事な空堀、素晴らしい!牛久沼側の竹藪をもう少し刈ってくれたら眺めもサイコーなんだけど。
2021年03月15日 500C
空堀[牛久城 遺構・復元物]
左手に二の丸、右手に本丸。奥が暗く探究心をくすぐる。
2020年11月28日 下総守アラタさん
牛久城
大手門跡(看板のみ)を通過して車1台分の幅の細道をカーナビの案内に沿って進むと、牛久城跡の標と城域見取図の立て札あり。
空堀、土塁、曲輪跡がはっきりと残り、かつての威容を感じさせます。(各所に案内板などがないのが残念ですが、いろんな事情があるのかな)
遺構の保存状態も良く土好きな方にオススメな城かもしれません。
2020年10月20日
牛久城
前の方が投稿された御城印は完売したそうで、新しいデザインの御城印を、牛久駅前の芋千で購入しました。お店の大学芋、美味しかったです。
2020年09月06日 宇都宮下野守健太郎
牛久城
牛久駅近くのお店にて東林寺城と合わせて
御城印を手に入れました。
2020年08月24日 kazuyou大蔵大輔
牛久城
本丸、ニの丸、腰曲輪、空堀、土橋の保存状態は良好で、見応えあり。畝堀もみられる。牛久駅からは、かなり歩きます。車でも行けるのでその方が楽です。城域はかなり広いです。トイレ🚻はありません
2019年05月13日 JA1Z安房守
大手門跡[牛久城 碑・説明板]
大手門の東西には、城の外郭の惣堀の跡があります。ここまで含めると非常に大規模なお城です。
2019年05月13日 JA1Z安房守
土橋[牛久城 遺構・復元物]
竹が茂っていて見えにくいですが、本丸への土橋があります。
土橋の手前は屈曲して露出していて、防御に適した構造になっています。
2019年05月13日 JA1Z安房守
腰郭[牛久城 遺構・復元物]
かなり広い腰郭です。土塁もしっかり残っています。
本丸にはこの腰郭沿いを進みます。
2019年05月13日 JA1Z安房守
堀、土橋[牛久城 遺構・復元物]
堀の深さ、土塁の高さは十数メートルはあります。圧倒される存在感です。
土橋の先には門の跡らしきものがあります。
2018年05月03日 フー甲斐守
牛久城
公共交通機関ご利用の方へ
牛久駅から徒歩で約45分、佐貫駅からも徒歩45分位です。
牛久駅からのルートなら途中にコンビニ7-11があります。
バスはかっぱ号(刈谷城中ルート)根古屋バス停が登城口側のバス停ですが、ここに停まるバスは1日4本みたいです(所要時間は牛久駅西口発根古屋迄25分程度)。事前にチェックして行かれた方が良いかと思います。
2018年05月02日 雑賀
牛久城
国道6号を東京方面からの場合、沼を越え『牛久市』の看板がある細い路地を左折。少々走ると城址への入口、その先に駐車場があります。
北条と佐竹の境い目、重要拠点である牛久城。沼に面した複雑な地形の台地上に、張り巡らされた深く幅のある空堀・細い土橋・虎口・高い土塁…
まさに中世城郭の典型的な姿。本廓、二廓、三廓、帯廓と明確な形状を残しておりますが、残念ながら看板の類いは一切ありません。ご自身で縄張図をチェックしてから登城されることをお勧めします。
余談ですが、車で15分ほどの距離に『ワープステーション江戸』という撮影スタジオがあります(入場料400円)
大河ドラマのクレジットで【協力:つくばみらい市】と見掛けていましたが、ここでした。戦国から明治まで様々なセットを見学出来ます。
砦や水堀、大手門などを撮りたくなりますが、あとから見直すとどこの城址だったかと悩んでしまいそうです。お時間に余裕があれば立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
2018年05月01日 雑賀
牛久城
南側、牛久沼ほとりに観光協会の無料駐車場があります。城址入口の看板を通り越し30メートルほどの位置です。
2017年07月25日
牛久城
深い空堀と土塁が良好に残され、見ごたえだあります。
牛久駅からバスかっぱ号、または、徒歩で35分くらい。
2016年07月03日 平 左近衛大将 泰次郎 將門
牛久城
城趾入口は北側と南側にあります。
どちらも駐車場、トイレはありません
車なら北側入口であれば整地されていないスペースはあります
北側入口は住宅地を入って行くため、Goo○leマップの牛久城趾を目指してください
リアル前に城趾北側に位置する曹洞宗得月院前の観光用駐車場とトイレをお借りできるようです。
2015年06月15日 武蔵守道灌?!
牛久城
案内板の有るところまでが、ちょいと分かりにくいかも!?(((^^;)
でもアプリの地図をたよりに行けば、たどり着けます♪
住所に城中と有るので、案内板に向かう道中もすでに牛久城跡!!…なのかも知れないですね♪(°▽°)
2011年01月03日 徳川内大臣源朝臣康武
牛久城
東京方面から国道6号を進み、牛久市境入ってすぐ左折(信号なし)。正面に見える台地が城跡。道なりに進み、途中右折(目立たない道標看板あり)すると、すぐ先に説明板があり、その一帯が三ノ丸跡。二ノ丸、帯曲輪、本丸の主郭部の土塁、空堀はよく残る。
総構大手口は、喰違いS字の道程を留め、石碑と説明板がある。