牛久陣屋
牛久陣屋([牛久城 周辺城郭])
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牛久陣屋の口コミ情報
2026年07月25日 マグロ常陸介祐平
山口重政の子の弘隆が、父の遺領を牛久周辺に集められ、寛文9年に牛久を居所として陣屋を構えたとされます。山口氏は周防・長門の守護山内持盛の孫の任世が尾張国愛智郡星崎に住んだとされます。戦国期から江戸時代初期の当主重政は、当初佐久間盛信の子の正勝(信栄、織田信雄の家臣)に仕え、信雄が転封を拒み改易になると徳川秀忠に五千石(上総)で仕え、関ヶ原の合戦後には武蔵に五千石を加増され1万石の大名となっています。その後、伏見城の在番や秀忠への砲術指南をするなどで下野に五千石を加増されて一万五千石となりますが、嫡男の重信が無断で大久保忠隣の養女と縁組した事を咎められて改易となっています。大阪の陣では、嫡男重信が木村重成に討ち取られ、弟の重克も討死するなど一族の活躍により大名に復帰、遠江や牛久を含む常陸河内郡に一万五千石を与えられ大名に復帰しています。重政は奏者番を勤め、6年後に亡くなっており、知行地に居住することは無かったように思われます。重政が亡くなり弘隆が継ぐ際に五千石を弟の重恒に分知し、以降廃藩置県まで、山口氏が牛久藩主を継続しています。また、幕末の藩主弘封のお墓は、対岸の東林寺にあります(写真7枚目)。
陣屋は、総構えの旧牛久城の外郭の牛久沼に面した西端部に築かれています。陣屋の標柱などはなく、河童の碑の背後のスジダイの木の説明板(写真1枚目)にこの辺りが、かつて牛久藩の陣屋の一部との記載があるのみとなっています。
目立った遺構は河童の碑の北側の私有地に残っているようですが、未確認です。稲荷神社にも土塁状の構造が見られ(写真3~5枚目)、神社向かい側の台地の縁にも、土塁らしき構造が民家の裏側に延びているのが確認出来ます(写真8枚目)。
陣屋の敷地内には画家で俳人の小川芋銭の記念館(写真6枚目,雲魚亭)があり、土日・祝日の開館で無料で見学出来ます。閉館時間は3時半と早いですが、15時35分に入れてもらえました。小川家は牛久藩の大目付を勤めた家柄で、大坂夏の陣で初代藩主重政の嫡男重信を討った木村重成の子孫とされています。
2023年05月11日 ᴿᴱᴰ副将軍
山口氏代々の陣屋跡🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。前身は牛久城で1628年に山口氏が牛久藩主に復職してから築かれたとされます。
牛久藩初代の山口重政は、織田信雄に仕えていましたが、1590年に織田信雄が下野国烏山へ配流となると徳川家康に仕えました。1600年の関ヶ原合戦では徳川秀忠に従い戦功を挙げた戦功により牛久藩の藩主となりました。
しかし、1613年に嫡男の山口重信が大久保忠隣の養女と無断で縁組みしたことを咎められ、山口重政は改易の上に蟄居となりました。1615年の大坂の夏の陣において、山口重政と山口重信の親子は井伊直孝に従って活躍。しかし、山口重信は豊臣勢の木村重成によって討死。
1628年、山口重政はようやく赦され、牛久藩の藩主に復帰しました。1635年、四男の山口弘隆が家督を継ぐと弟の重恒に五千石を分知し一万石の大名として明治まで存続しました。
見所
牛久沼の東側の台地上に築かれています。現在は、宅地、耕作地、原野となり遺構はほぼ消失。河童の碑のある辺りが陣屋跡とされます。土塁や空堀が残っているらしいですがよく分かりませんでした。









