龍ケ崎城(りゅうがさきじょう)
龍ケ崎城の基本情報
通称・別名
- 龍ヶ崎城、龍ヶ峰城
所在地
- 茨城県龍ケ崎市古城(龍ケ崎第二高校)
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 土岐氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 土岐氏、芦名氏、伊達氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)、横堀(水堀)、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
馴馬城(茨城県龍ケ崎市)[1.9km]
小坂城(茨城県牛久市)[6.4km]
牛久城(茨城県牛久市)[7.1km]
布川城(茨城県北相馬郡)[7.5km]
大台城(千葉県印旛郡)[8.0km]
東林寺城(茨城県牛久市)[8.5km]
中峠城(千葉県我孫子市)[11.4km]
江戸崎城(茨城県稲敷市)[12.4km]
塙城(茨城県稲敷郡)[12.6km]
長沼城(千葉県成田市)[13.1km]
龍ケ崎城の口コミ情報
2024年05月07日 RED副将軍
龍ケ崎城
グラウンド脇に遺構が残る常陸土岐氏の支城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。白旗城を本拠とした龍ヶ崎氏の属城であったとされます。
1568年に江戸崎城の土岐治英が龍ヶ崎氏を滅ぼし、支配の拠点として龍ケ崎城を改修し次男の土岐胤倫の居城としました。
1583年に佐竹氏の侵攻により攻め落とされるも、その後すぐに土岐氏が奪還したとされます。
しかし、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐において、土岐氏は北条氏に与したため、戦後に改易となり没落。龍ケ崎城は廃城となりました。
見所
現在は、竜ケ崎第二高等学校の敷地になっており遺構はほぼ消失。グラウンドの北側脇に空堀と土塁が残っています。
往時は丘上に複数の曲輪を備え、川から水を引き入れて外濠を形成していた名城であった様です。
2024年03月01日 昌幸近江守更に吉
富士浅間神社[龍ケ崎城 寺社・史跡]
地元では「せんげんさま」と呼ばれる富士浅間神社。常陸国と下総国の人々が五穀豊饒 と子育ての為、鎌倉時代の正治2年(1200)駿河国の富士山本宮浅間大社より勧請しました。
荒廃してしまった社殿でしたが元亀2年(1571) 城主・土岐治英(はるふさ)により再建され再興します。
建安元年(1648)には、徳川家の役人、久世三四郎とその部下が田3反を寄進。近郷3,000人余りが出役して寄付地を埋め立て社地を造営しました。(本殿は西暦1734年再々建)
ご神体を駿河国から迎えた日が、旧暦の6月1日。この日は子どもの健やかな成長を祈願する「初山参り(通称はつやま)」が行われます。本殿の裏には高さ約30㍍の富士山を模した山に登り、頂上の「お鉢」と呼ばれる部分にほこらが建ち、成長した子を神様に見てもらう習わしがあります。
【写真の説明】
①一の鳥居。すぐ後ろに二の鳥居。
②太鼓橋。明和7年(1770)建立。
③赤門。宝暦6年(1756)建立。
④本殿。享保19年(1734)に再々建。
⑤本殿と背後の富士山。
⑥本殿の装飾物。
⑦富士山火口を模した山頂。
⑧火口には奥宮が建つ。
2024年02月07日 昌幸近江守更に吉
上町八坂神社[龍ケ崎城 寺社・史跡]
鎌倉時代の龍ケ崎は台地と沼地でした。
源頼朝から地頭職を任された下河辺政義が、氏族の居城だった白旗城(龍ケ崎城の周辺城郭)付近の沼地開拓にあたり、貝原塚町高井から農民を移しました。
その際、農民の心の拠り所だった貝原塚八坂神社の分社を、開拓地の根町(ねまち)に建立したのが、上町八坂神社の始まりです。
やがて常陸土岐氏の時代になり、天正5年(1577年)、龍ケ崎城主・土岐胤倫は八坂神社を町割りの中央である現在の上町(かみまち)に移しました。
以降代々の領主と住民の厚い信仰によって現在に至っています。
東日本大震災では拝殿が被災しましたが、大修繕及び幣殿改築工事を終え、令和の時代も龍ケ崎の鎮守として住民を見守ってくださっています。
2024年01月28日 RED副将軍
貝原塚城[龍ケ崎城 周辺城郭]
迷路の様に巨大空堀を張り巡らせた激ヤブ城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代、築城主等の詳細不詳。
城主として小田氏直、小田氏家臣である貝原塚氏胤、龍ヶ崎城土岐氏の家臣である諸岡長門の名が伝わります。
元々は小田氏の属城でしたが、戦国末期に土岐氏がこの地を治めると土岐氏重臣の諸岡氏が入城した様です。
見所
金剛院の北西背後の二つの舌状台地に築かれています。
見所のひとつは金剛院北側の弓塚にある大土塁。土塁に向けて騎射の訓練を行なったとの伝承があります。写真⑦⑧
最大の見所が北西台地に残る深い空堀と土塁。折れが伴う横矢が至るところに掛けられ、堀内障壁などの仕掛けが迷路の様な堀底道に続きます。
写真は比較的ヤブが少ないものをチョイスしています。実際は弓塚、空堀のいずれも激ヤブなことから★4としました。冬期の訪城に限られます。
行き方は、金剛院を目標に設定。駐車場をお借りし、北西へと農道を進んで行きます。途中にやや木々が生い茂る箇所もありますが気にせず直進。右手に注意して進めば堀底道が見つかります。
弓塚の大土塁は、金剛院墓地から北の竹林の中にあります。
2023年10月18日 ムサコ駿河守
龍ケ崎城
城の中心点は住宅街の道路上に設定されており、ここから城跡を見上げると周辺との高低差がよく分かります。
丘の上は高校になっており高校生の出入りもあったので、入城は躊躇われました。
2023年07月16日 龍獅子
龍ケ崎城
現在は本丸跡と思われる地に龍ヶ崎第二高等学校が建っています。その影響もあり遺構はほとんど見られませんが、わずかに堀の跡などは確認できます。ただしそれが現代整備されたものなのか、築城当時から遺された物なのかは不明です。
江戸崎土岐氏縁の地なので、土岐氏や明智氏が好きな方は一度訪問することをオススメします。
2023年04月22日 おかっぴき
龍ケ崎城
高校の敷地になっていて一部神社の脇に遺構が残されているような感じである。下にある小学校は仙台藩の陣屋跡であるが説明板があるのみであった。
2023年03月14日 昌幸近江守更に吉
貝原塚城[龍ケ崎城 周辺城郭]
東の舌状台地は開墾により大部分が改変されましたが、そんな中でも「弓塚」と呼ばれる巨大土塁が残っています。ここは流鏑馬の的として兵馬調練をしていた場所と言われています。
さらにこの台地の東側は旧県道が通り、根古屋であったとされます。ここも舌状台地で、広義でとらえると実に3つの舌状台地が城域となり、本当に大きな城だったのだなと感じています。
【写真の説明】
①②弓塚
③根古屋
④根古屋から凹地を挟み、東の舌状台地を見る。金剛院は900年代に建立された天台宗の古刹。
2023年03月06日 昌幸近江守更に吉
貝原塚城[龍ケ崎城 周辺城郭]
貝原塚城は湿地に突き出た2本の舌状台地に築かれ、土岐原(常陸土岐氏)の本城である江戸崎城への街道沿いにありました。龍ケ崎城主土岐胤倫の家臣・諸岡長門が治めていました。諸岡長門は北条氏滅亡後に流浪の身となった胤倫にお供した忠義の士です。
遺構は西の舌状台地に集中しています。そして1990年代まで台地の半分が畑として使用されていたため縄張りの全容は分かりません。ですがそのマイナス面を補って余りある堀底道が素晴らしいです。堀がぶつかった所は非常に技巧的で
・段差を設ける。
・堀の入り口を狭め、行軍を鈍らせる。
・櫓台あるいは武者隠しを設置。
それはまるで横山光輝三国志で諸葛孔明が魏軍を谷に追い込み殲滅していく、そんなシーンを読んでいるかの感じでした。
文章や写真で魅せるのは非常に難しく、訪城してもらいたいのですが、ご覧の通り薮城(泣)。行く方をかなり選びます。強い気持ちを持った方は是非訪れてみてください!
※金剛院の駐車場に車を停めることができます。
【写真の説明】
①〜⑥堀底道
⑦櫓台
⑧奥にも土の盛り上がりがあるのが分かりますか?そこも櫓台。「ツイン櫓台」と命名しました(笑)。
2023年01月14日 昌幸近江守更に吉
羽原城[龍ケ崎城 周辺城郭]
江戸崎城と龍ケ崎城とを繋ぐ街道、土岐原(常陸土岐)氏にとってはとても重要な道沿いに羽原(はばら)城は築かれました。南1キロには龍ケ崎城があり、万一攻め込まれた際は最終防衛線となる位置です。
縄張は見張り台のようなI郭と居住区のII郭(城ノ内)・Ⅲ郭(新地)に分かれていてかなり広大です。面白いのは土塁は集落のあちらこちらで見られるのに堀切がないことです。村全体を取り込み城とする“城砦都市”のような一面があったのかも知れません。
実際、羽原村には増塩源太左衛門、森田市左衛門、木村次郎左衛門の3名もの家臣が住んでいたとの記述があります(他の城はほどんと1名)。
車はI郭下あたりに広くなったスペースがあり駐車可能です。農作業車優先になる農繁期の訪問はやめましょう。
【写真の説明】
①I郭虎口。桝形虎口でした。
②I郭土塁。
③枯竹に埋もれたII郭土塁。
④II郭虎口。こちらは坂虎口。
⑤民家の庭に見えるII郭土塁。
⑥II郭と馬出しらしき遺構とを区切る土塁。
⑦II郭と馬出しとを繋ぐ虎口。薮はご愛嬌。
⑧羽原城遠景。
2023年01月11日 昌幸近江守更に吉
大統寺[龍ケ崎城 寺社・史跡]
曹洞宗龍峰山大統寺は、1585年(天正13)創建で、龍ケ崎城主・土岐胤倫が叔父の天岩梵宿和尚(下総国香取郡の寺の住職)を招いて開山しました。そのときに根町台にあった大運寺を現在の場所に移し、さらに当時あった大聖院・天真院の2つの寺を合併して、寺名を大統寺としました。このときに宗派も臨済宗から曹洞宗にあらためられています。
境内には土岐氏の墓地があります。龍ケ崎城主の胤倫は1590年(天正18)龍ケ崎落城後に朗客となりましたが、のちにまた家臣・諸岡筑後守と龍ケ崎に戻り、1599年(慶長4)龍ケ崎で一生を終えました。ここには胤倫の墓もあり、「大統寺殿統厳正公庵主」の法名で眠っています。
ちなみに胤倫の子頼房は1611年(慶長16)徳川家康に拝謁し駿河で知行を与えられました。そして名字を土岐から母方の豊島に改め、紀州藩主の徳川頼宣に仕える事となり、大坂の陣にも出陣しました。その後、朝治の代に土岐に復し、その子朝澄は徳川吉宗に従って幕臣となりました。
【龍ケ崎市HPより一部抜粋】
2023年01月01日 昌幸近江守更に吉
外屋代城[龍ケ崎城 周辺城郭]
外屋代(外八代)城は、屋代(八代)城の西、台地のへりに築かれた出城で、屋代氏が土岐原(常陸土岐)氏の侵攻を意識しつくりました。現在は小学校となり遺構は消滅しています。主郭とされる所は凹型の堀で囲まれていたそうです。遠景から当時をご想像ください。
2023年01月01日 昌幸近江守更に吉
屋代城[龍ケ崎城 周辺城郭]
龍ケ崎市の屋代(八代)城。鎌倉末期に東条氏一族がこの地に住み着き、社(やしろ)氏を名乗りました。南北朝争乱で南朝側についた東条社氏は次第に没落し、室町幕府奉公衆の屋代氏が治めます。(偶然にもまた“やしろ”です)戦国の世が見え隠れしてきた16世紀前半、この地域は常陸の名門小田氏と新興勢力の土岐原(常陸土岐)氏との領土争いが表面化し、土岐原氏は小田氏側の屋代氏を降伏させ、続いて小田氏本隊の援軍を撃退し勝利を治めます。(1523年・屋代合戦)これ以降は土岐原氏の城となったようです。
昭和の世、この辺りは畑で土塁や堀が断片的に残っていましたが、ニュータウンの造成にあたり大規模な発掘調査が行われました。もとは居館跡だったのが、土岐原氏との緊張が続く中で改修され、大掛かりかつ複雑な堀と土塁を持った城になったようです。おそらく小田氏の援助もあったことでしょう。地形的条件が似ていた小田城のミニチュア版といったところでしょうか。ニュータウンに取り込まれてしまった現在、中学校の敷地内に折れた土塁が残っています。完全消滅が免れて本当に良かった。
2022年12月28日 昌幸近江守更に吉
別所城[龍ケ崎城 周辺城郭]
別所城は龍ケ崎城の北北西2㌔の台地にあった城です。土岐原(常陸土岐)氏勢力下の屋代城の家来がこの地に住んでいました。城というよりかは居館跡、あるいは薬師堂の存在や字で寺ノ内・寺前・堂ノ下・門などの名が残ることから寺院跡の可能性もあります。
現在は地区の墓地と個人宅となっています。ちょっとした高まりが往時の雰囲気を醸し出してくれます。
【写真の説明】
①城の西側に建つ薬師堂
②城の南側の高まり
③城の北側の高まり1
④城の北側の高まり2
⑤城の前の風景。突き出た台地の奥にある。
2022年12月23日 昌幸近江守更に吉
登城山城[龍ケ崎城 周辺城郭]
龍ケ崎市は県道5号(通称:潮来街道)沿いに城が密集しており、登城山城もまた然りです。谷向かいに長峰城、背後に要害山城、別尾根に大日山城があります。
城主は不明ですが、半田村に半田九郎左衛門・北沢大倉など土岐原(常陸土岐)氏家臣が住んでいたとの記述があり、その関係者と考えるのが妥当かと思います。
縄張りは舌状台地を生かした連郭式です。
郭Ⅲには現在満願寺が建ち、手入れをしてくださっているので見学しやすいです。特に郭Iまわりの遺構がおすすめです。
車は墓地の駐車場に停めました。
駐車場はあまり広くありません。(小型車2台分くらい)道中も小型車でないと厳しい道幅のところがあります。
あと郭Iへ行くにはお寺の前を通るので、あいさつを忘れずに。
【写真の説明】
①満願寺入り口。郭Ⅲの堀跡と考えられている。
②郭Ⅲに残る土塁
③郭Ⅱ-郭Ⅲ間の堀跡
④郭Iに架かる土橋
⑤郭I-郭Ⅱ間の堀跡。奥には土橋が。
⑥郭Iの土塁
⑦郭Iと末尾根とを断ち切る堀
⑧帯郭に繋がる郭Iもう一つの虎口
2022年12月22日 昌幸近江守更に吉
要害山城[龍ケ崎城 周辺城郭]
要害山城は、街道(現県道5号潮来街道)沿いにあった長峰城や登城山城の後方の台地に築かれた城です。変事に救援ができる位置にあります。現在遺構は個人宅にわずかな土塁を残すばかりで見ることはできません。
【写真の説明】
①城域の切岸
②台地を下りたところで城の全景
③低地越しに長峰城が見える
④陸続きの台地の先端が登城山城
⑤車を停めた八幡神社も城域に関係があるかも。
2022年12月20日 昌幸近江守更に吉
大日山城[龍ケ崎城 周辺城郭]
龍ケ崎市の大日山城。
史料が残っておらず城主等不明ですが、土岐原(常陸土岐)氏の勢力下だったため、関連する者が治めていたと考えます。南側に走る街道(現県道5号潮来街道)を守備警備する役目を担っていたことでしょう。
単郭で比高20mほどですが、東南北3方はかなりの急斜面になっていて(帯郭あり)、台地と繋がる西は豪快な堀切があります。堀切は自然地形を利用して幅が変わっていて(折れているように見えるかも)、堀切両端に櫓台を設けており、単郭の城とは思えない土木工事を施した縄張りとなっています。
未整備ですので写真で様子が伝わるか心配ですが、近くに来た際は是非訪れてもらいたい城ですね。
車は塗高池という溜池があり、路肩に駐車できそうです(ただし小型車でないと厳しい)。未舗装の道を入り左側に堀切が見えてきたらそこを目指して登ります。うっすらと歩いた跡が残っているので大丈夫かと。登り切ったら北櫓台の下にでます。
*先人のパジェロ様が掲げた写真が未舗装の道の入り口です。
【写真の説明】
①塗高池から見る大日山城
②堀切
③左へ弧を描く導線の先は南虎口へ
④南櫓台前に祀られた大日如来様
⑤南側の帯郭
⑥主郭東側の土塁
⑦北虎口。右の土塁は北櫓台へと伸びる
⑧堀切もう一枚。薮が酷くて本当の深さをお見せできないのが残念。
2022年12月20日 昌幸近江守更に吉
七曜城[龍ケ崎城 周辺城郭]
龍ケ崎市の七曜城。小野川南岸の段丘に築かれました。土岐原(常陸土岐)氏もしくは岡見氏に付き従った者の城とされています。写真の真福寺と隣の個人宅が城跡とされ、個人宅には土塁と堀跡が残っているようです。(未確認)道中道幅はかなり狭くコンパクトな車でないと辿り着けません。
2022年09月28日 昌幸近江守更に吉
白旗城[龍ケ崎城 周辺城郭]
龍ケ崎市にある白旗(しらはた)城。
源頼朝より常陸国南部の惣地頭職を任された下河辺政義の子孫が土着し龍崎氏を名乗りました。(りゅうざき・りゅうがさき・たつさき・読み方は諸説あり)
室町時代、鎌倉府(鎌倉公方)と関東管領山内上杉家の争いである永享の乱に龍ケ崎地方も巻き込まれることになります。
鎌倉府奉公衆であった龍崎氏は、この地方で勢力拡大を狙う山内上杉氏家臣の土岐原(常陸土岐)氏と争い敗れ、一族没落の憂き目にあってしまいます。
土岐原氏は南東1㌔の白旗城の出城に移転していきました。そこが龍ケ崎城となります。
茨城残念あるあるなんですが、主郭は県立竜ヶ崎一高、副郭は流通経済大学の敷地となっていて立ち入りはできません。
しかし白旗城、実は凄いポテンシャルを持った城だったのではないかと思っています。
地勢図を見ると、学校が建てられるくらいの広さを有した郭が二つあり、城域とは言われてませんが外郭っぽい所に某建機の工場が建っています。工場を建てられるくらいですから広さは十分です。
土岐原氏がそのまま使っても良さそうな気がしますけど、制圧のしかたがあまり良くなかったのかな、それとも現有戦力では広すぎて守れないと判断したのかな、新しい城で出直すことを選んだようです。(史料が残ってないので妄想です)
【写真の説明】
①白旗城主郭遠景
②白旗城副郭遠景
2022年08月02日 パジェロ
大日山城[龍ケ崎城 周辺城郭]
入るには冬など草が枯れてからがいいと思います。
2022年08月02日 パジェロ
登城山城[龍ケ崎城 周辺城郭]
ここまでの道は距離はないけど狭いです。下に停めて歩きましょう。土塁、掘りが残っています。
2022年06月22日 昌幸近江守更に吉
長峰城[龍ケ崎城 周辺城郭]
龍ケ崎市の長峰城。
土岐原氏(常陸土岐氏)に従っていた長峯民部という武士が長峯村に住んでいたという記述があり、長峯氏の居城だった可能性があるとのことです。
ニュータウン造成で宿(軍の駐屯地)は消滅し、中心部も長峰東公園となりましたが、発掘が行われ、城の面影を残す遺構もあります。
城の南側は県道5号(通称:潮来街道)が通り、龍ケ崎市内はこの街道に沿って城がいくつも普請されています。街道監視の役目も果たしていたのではないかと思われます。
先述のニュータウン造成&公園化で地名は白羽(しらはね)と変わりましたが、以前の地名は長峰町字竜ケ井。竜ケ井は要害が転訛したものとされます。地名からもお城があったと思わせますよね。
公園なのでもちろん駐車場あり。気軽に見学できます。
【写真の説明】
①物見から城の中心部を見る。
②東側の尾根の先端へ向かう。段をつけた郭が連なる。
③東側尾根先端の郭の土塁。
④谷向こうには登城山(とうじょうさん)城が見える。
⑤尾根に沿うように造られた腰郭。
⑥右の凸部は堀にせり出すようにある櫓台。左の3郭と繋がっていたらしい。
⑦主郭-3郭間の堀。主郭を守る堀らしく広く深い。
⑧主郭から2郭を見る。大きな堀に畝を残すという二重薬研堀のような遺構があったという。実物を見てみたかった。
2022年03月27日 マグロ常陸介祐平
龍ケ崎城
江戸時代は仙台藩の陣屋となっており、隣接する鹿島神社には仙台藩に関連する石造物が数多く残ります。近くの大統寺には城主土岐胤倫の墓があります。
2022年01月03日 昌幸近江守更に吉
仙台藩龍ケ崎陣屋跡[龍ケ崎城 碑・説明板]
伊達政宗を祖とする仙台藩。龍ケ崎市の一部は、慶長11年(1606年)徳川家康から与えられた「飛び地」でした。政宗は龍ケ崎村に陣屋を構えて代官を置きました。江戸時代中、仙台藩の統治は続き、その間龍ケ崎は大いに発展しました。
陣屋は土岐氏の治めた龍ケ崎城の麓に敷かれました。現在は龍ケ崎小学校となっていて、残念ながら当時の面影は残っていません。
2020年01月21日 独眼竜常陸介
龍ケ崎城
石碑が確認できるが、小学校、高校があり車を止める場所がなく城跡自体は確認できないが、おそらく高校の敷地が城があったトコだと思われる。
2017年12月17日 kazuyou大蔵大輔
龍ケ崎城
本丸と言うべき御城部分が削りとられ、遺構は城前と、城後のみですが、空堀と、土橋の位置はよくわかります。かつては、周囲を水堀が囲み、巨大な空堀が4ヵ所存在していた事が確認されています。
2016年08月16日 カリンコーヒー
龍ケ崎城
付近に龍ヶ峯の歩みなる石碑があるのが確認できる。
高台が高校の敷地なので登れず、確認できない。