江戸崎城(えどさきじょう)
江戸崎城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県稲敷市江戸崎
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 土岐原氏
築城年
- 室町時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 土岐原氏、蘆名盛重
廃城年
- 慶長7年(1602)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
神宮寺城(茨城県稲敷市)[4.5km]
木原城(茨城県稲敷郡)[7.9km]
塙城(茨城県稲敷郡)[7.9km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[8.8km]
小坂城(茨城県牛久市)[11.0km]
龍ケ崎城(茨城県龍ケ崎市)[12.4km]
長沼城(千葉県成田市)[13.1km]
馴馬城(茨城県龍ケ崎市)[13.7km]
大台城(千葉県印旛郡)[14.0km]
牛久城(茨城県牛久市)[16.6km]






































江戸崎城の口コミ情報
2024年12月02日 マグロ常陸介祐平
江戸崎城
美濃土岐氏の一族土岐原氏により築城され、小田原の役後に蘆名盛重、青山忠成、丹羽長重と短期間に城主が入れ替わり長重が元和8年(1622年)に棚倉に移ると廃城になったようです。土のお城ですが、近世城郭の雰囲気を感じます。
本丸は、高校があった場所でかなり改変されていますが、それでも土塁は部分的に残されています(写真1~4枚目)。二の丸にあたる鹿島神社の北側には虎口が開口する大規模な土塁が見られ(写真5,6枚目)、その北の瑞祥院も城域で金毘羅神社から五百羅漢にかけて土橋風の尾根道や竪堀は美しく感じます(写真7,8枚目)。
五百羅漢は江戸時代のもので、493の羅漢像が並ぶ光景は見事です。
土岐氏のお墓は、1km程北にある管天寺にあります。
2024年11月27日 マグロ常陸介祐平
東條城南出城[江戸崎城 周辺城郭]
東條太田城から南西に約200m、細長い独立した丘が城址となります。名前の通り、東條太田城の出城と思われます。
北側の低い位置に帯郭状の狭い段差があり、上部の尾根に狭く削平のあまい郭が南北に見られます。土塁は無く、尾根を利用していますが堀切も見られません。簡易的な砦か物見台という感じです。
現在は木が生い茂り、展望は良くないですが、本城が良く見える標高があり、攻めてきた敵には取られたくない場所に位置していることは間違いありません。
2024年11月27日 マグロ常陸介祐平
東條太田城(東條城)[江戸崎城 周辺城郭]
大掾氏の支流東条氏が長く城主を務めたようですが、戦国期には、江戸崎城主土岐治綱の嫡男頼英が城主となっていたようです。麓にある智心院には、茨城県の文化財に指定されている頼綱の妻虎姫の肖像画が伝わっています。
主郭付近はソーラー発電所となり立ち入れませんでしたが、お城の西側の墓地となっている郭の外周には、土塁が確認出来ました。
お城の東側にも遺構が残るようですが、民家の裏側で入口を見つけられず断念しました。
2024年11月25日 マグロ常陸介祐平
市崎三峰神社囲郭遺構[江戸崎城 周辺城郭]
余呉さんのサイトで「城郭遺構のようなもの」として紹介されていいます。気になったので行ってみました。東町史(稲敷市に合併前の旧町)に載っているとのことでした。東大沼城から東に500m程に位置しています。
台地の下にある小さな祠の裏が入口となります。正面は竪堀状の参道で、かなり垂直になっており、登れる感じではありません。右側はまわりこむような女坂で、登ると虎口に見えなくもないところが郭の入口となります。郭はやや広い削平地で、三峰神社と天満宮のやや朽ち始めた小さな赤い祠と2つの塚があります。外周にはかなり薄めの土盛りが見られますが、ハッキリと「土塁」という感じではありません。
砦のようにも感じられますが、どうでしょうか。考えて見るのも楽しい史跡です。包蔵地にもなっていないため、真相は解明されることもなさそうです。
2024年11月24日 マグロ常陸介祐平
円福寺[江戸崎城 寺社・史跡]
円福寺は、伊佐津(二条)城から西に約500mに位置するお寺です。永正元年(1504年)に伊佐津城主金剛寺甲斐守近衛光壽が創建したと伝わり、山門は伊佐津城の後門を移築したものです(写真2枚目)。稲敷市のサイトでは、戦国期に金剛寺甲斐守光壽が愛宕神社の創建時に移築したとありますが、門の墨書きには正長元年(1428年)に城の後門として建造され、元文二年(1737年)にこの地に移すと書かれているようです。いずれにしても、山門は新利根地区では最古の木造建築物となります。
お寺の背後(西側)から南側にかけて、何故か土塁が見られます(写真4,5,6枚目)。出城の役割を担ったのかもしれません。
土塁上には、天文11年に江戸崎城の土岐治頼に敗れ、伊佐津城を追放され、翌年亡くなったとされる金剛寺甲斐守光壽のものと思われる板碑状の墓石が見られます(写真7枚目)。
伊佐津城(写真8枚目,遠景)も攻略しようと頑張ってみましたが、先人様同様に激しい薮の為、断念しました。
2024年06月03日 ʀᴇᴅ副将軍
江戸崎城
200年間に渡り江戸崎を統治した土岐原氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。土岐原氏により築かれたと云われます。
土岐原氏は美濃国守護職である土岐氏の一族とされ、1387年に関東管領の山内上杉氏の求めにより信太庄惣政所として江戸崎に入部。江戸崎城を築き代々の居城としました。
土岐原氏は、稲敷地方一帯を約200年間にわたり統治し、戦国時代には小田氏や佐竹氏、龍ケ崎氏などと争っていました。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐において、土岐原氏は北条氏に属していたため豊臣方の佐竹義宣の弟である蘆名義広が攻め寄せて落城。土岐原氏は滅亡しました。
その後、佐竹義重の次男で蘆名氏の家督を継いだ蘆名盛重が江戸崎城に入城。
1603年に佐竹氏の秋田転封に伴い廃城となりました。
見所
霞ケ浦へ注ぐ小野川の入江に面し、小野川支流の沼里川に突き出た丘陵上に築かれています。
現在は、主郭は耕作地となり改変を受けていますが城山稲荷の北側に土塁、南側に虎口が残ります。
二の郭と三の郭の一部が江戸崎小学校となり、三の郭は鹿島神社と瑞祥院の境内となっています。
鹿島神社の北側には大土塁が残り、三の郭南端となる瑞祥院本堂裏の羅漢山には竪堀と土橋地形が残ります。また、鹿島神社と瑞祥院の間には堀跡とされる池もあります。
かなり改変を受けていますが、周辺を回れば遺構が点在しており見応えがらありました。
城山稲荷と鹿島神社に駐車させて頂き周辺を散策しました。
2024年03月25日 千葉相模守早雲
江戸崎城
案内板によれば、美濃土岐氏の一族の土岐原氏が室町時代初期に築城。豊臣秀吉の小田原攻め以降は蘆名盛重が入城し、秋田に転封となるまで居城としたそうです。
城山にある本丸から五百羅漢、瑞祥寺のある三の丸まで南北に並ぶ連郭式城郭。間に小学校があり遺構は消滅するも、鹿島神社などに遺構は点在しています。本丸の土塁はかなり削られて、虎口や竪堀と思われるところが数ヶ所あるが、明確ではありません。
1.鹿島神社に残る虎口と土塁。
2.土塁。両脇は竪堀と思われる。
3.右の竪堀?
4.左の竪堀?
5.腰郭。草木に覆われている部分。
6.腰郭への動線と思われるが、かなり曖昧に。
2023年01月30日 オコジョ中務少輔
二条城[江戸崎城 周辺城郭]
最近、発見され調査された城です。遺構は土塁と堀が残っています。私有地なので、整備もされていないので相当藪いです。本曲輪は現在も住人の方が住んでおられます。行った時にたまたま出て来られて、理由を話したら案内して下さいました。全体私有地ので、遺構を見たい場合は必ず許可を取って入ってください。
2022年03月19日 大膳大夫しろし
江戸崎城
城跡あるある学校編のその後高校になってましたが高校も跡になってました。確かにこの丘では学校にはちょっと狭い。
2022年01月14日 昌幸近江守更に吉
羽賀城[江戸崎城 周辺城郭]
小野川流域の沖積低地を眼下に臨む、半島状台地に築かれた羽賀城。
いつ誰によって築かれたかは定かでないが、最後は常陸土岐氏の重臣であった臼田氏の居城となり、七代目の臼田左衛門尉の時、天正18年 (1590)の小田原合戦を迎え廃城となった。戦後、臼田氏は、主家が没落するなか、土着・帰農の道を歩んだ。(ちなみに臼田氏は信濃の豪族滋野氏の流れを汲んでいる。真田氏と同族)
城は、比高差約12~19mの台地上を要害とし、麓を居住空間(根古屋の地名が残る)とする二元構造となっている。
各郭に祠があり、外郭にあたる部分にもニ寺一社があります。当時から現在に至るまで羽賀に住む方々の拠り所になっているのだとひしひしと感じました。こうゆうお城はいいですね。
※車は羽賀公民館に停めました。そこから徒歩で5分で城跡に着きます。
【写真の説明】
①羽賀城全景。麓は根古屋。
②Ⅲ郭-Ⅳ郭間の堀跡。
③腰郭よりⅢ郭を見る。
④II郭とⅢ郭に挟まれた低地より見上げる。ここで攻め手を殲滅か?
⑤II郭虎口前、馬出しと思われる削平地。
⑥I郭-II郭間の土橋。
2021年12月24日 昌幸近江守更に吉
伊佐津城[江戸崎城 周辺城郭]
稲敷市にある伊佐津(いさつ)城。別名:二条城・竹内城。
明応年間(1500年頃)から小田氏に江戸崎城を奪われていた常陸土岐氏は、治頼の代になると竜ヶ崎城より奪還を試み、天文11年(1542年)この城に進攻し、金剛寺光寿を攻め滅ぼしたとされる。後に江戸崎城を取り戻した常陸土岐氏の支城として機能したと思われる。
結果から言うと、城域内部を見ることはできませんでした。マップ上での登城路は樹々で完全に封鎖されていて、廃屋とされたアパート辺りから取りついて行こうと思ったら、なんと人が住んでました。
城は田んぼ(当時は湿地)の中の高さ20mの小山に造られた茨城あるあるの城です。空堀で割った二面の郭を持つ城のようです。遠景を紹介させていただきます。
※車は県道5号竜ヶ崎潮来線沿いの愛宕神社の駐車場に停めました。そこから5〜10分です。
2021年09月14日 つか征夷大将軍ぽ
土塁[江戸崎城 遺構・復元物]
城跡から小学校挟んだ北側の鹿島神社に土塁が残ってます。
2021年06月14日 kazuyou大蔵大輔
江戸崎城
土岐氏の居城です☝️本丸は城山と呼ばれ、虎口のところに土塁や櫓台のような高みも残されています。本丸へ登る坂道の左手に、曲輪跡があり、城址の説明板があります。此処に車を停めて見学できます。地主さんの話では、本丸は個人所有ですが、曲輪跡の平坦地は町の所有だそうです。また、鹿島神社付近に大土塁や、虎口が残っているので、是非見学してください。
2021年06月12日 篠沼大膳大夫義久
江戸崎城
最南の本丸跡には北側と東側に土塁あり。二の丸は小学校から一段高いグラウンド。半世紀前までは2段にこんもりしていたが、削平したそうな。さらに北の鹿島神社には高土塁や土壇あり。高土塁から北の切り通し道路に降りれば蓮の池。外堀の遺構。このあたりで人骨がしこたま出てます。戦後。瑞祥院の北部から西部の高台の土橋は痺れます。五百羅漢のところ。ここまでを城域とするとデカイ。土岐の桔梗がありました。
2020年01月20日 独眼竜常陸介
江戸崎城
ナビにつれてこられた場所です。小さい稲荷神社と城に登る為にあったと思われる階段です。
2019年03月06日 土塁ルイ
江戸崎城
斎藤道三に追放された土岐頼芸が、弟治頼を頼って寄寓し土岐氏宗家を譲ったり、奥州仕置により蘆名義広(佐竹義宣弟)が入城したりの城です。佐竹氏の秋田移封により廃城となりました。
車の場合、城山、鹿島神社、瑞祥院にそれぞれ駐車スペースがありますが、城山に置いて瑞祥院までぐるっと歩くのをオススメします。
住宅や小学校があり、遺構はかなり消滅していると思いますが、縄張図を持って歩いたら、あちこちに城跡が感じられ、予想以上に楽しく歩けました。
美濃→近江→常陸、そして上総万喜城へと渡り歩く頼芸を想うと、鹿島神社の土岐桔梗紋にはちょこっと感動すると思いますよ。
2015年09月18日 武蔵守道灌?!
江戸崎城
鹿島神社と江戸崎小学校を挟んだ反対側の台地が城跡のようです。
坂を上がって直ぐの郭に案内板、その上の主郭らしき場所には、お稲荷さんが祭ってありました♪(^^)