神宮寺城(じんぐうじじょう)
神宮寺城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県稲敷市神宮寺830他
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 東条氏
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- -
主な城主
- 北畠氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(神宮寺城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
阿波崎城(茨城県稲敷市)[4.3km]
江戸崎城(茨城県稲敷市)[4.5km]
木原城(茨城県稲敷郡)[10.2km]
塙城(茨城県稲敷郡)[11.3km]
小高城(茨城県行方市)[13.2km]
大崎城(千葉県香取市)[14.2km]
長沼城(千葉県成田市)[14.3km]
島崎城(茨城県潮来市)[15.0km]
小坂城(茨城県牛久市)[15.4km]
龍ケ崎城(茨城県龍ケ崎市)[16.7km]
神宮寺城の口コミ情報
2025年01月28日 武蔵野弾正少弼蘭丸
神宮寺城
木が生い茂っていますが、城郭遺構ははっきり残っています。特に東側の堀が深く、見ごたえあります。何より、ここで北畠親房公が戦ったんだな…と、感傷に浸れます。
2024年12月01日 マグロ常陸介祐平
須賀神社[神宮寺城 寺社・史跡]
応永9年(1402年)に創建されたとされる神社で、元々は牛頭天王社だったようです。江戸時代初期には、古渡藩主丹羽氏に崇敬されていたようです。祇園祭では、霞ヶ浦に神輿渡御が行われているようです。
古渡東城から南西に約100m程に位置し、周りより一段高くなっており、社殿の左側から背後にかけて土塁が見られます。土塁の外周は舗装路になっているため、堀の有無はわかりません。
神社の創建時期とは矛盾してしまいますが、位置的に近く山城風で、居住スペースに乏しい(消滅部分はわかりませんが)古渡東城の根古屋のようにも思えてしまいます。
2024年12月01日 マグロ常陸介祐平
古渡東城[神宮寺城 周辺城郭]
古渡城から東に約300m、熊野神社が鎮座する独立した丘が城址となります。鳥居の左側には断片的な土盛りが見られ、二段の郭の上段に社殿、その上の南北に細い郭があり、石柱が見られます。お城の東側は、土取りにより消滅しています。
茨城県の中世城館には、古渡は霞ヶ浦の経済拠点および、土岐水軍の出撃点でもある要衝の地で、小野川河口監視の為に築かれたのではないかとし、また、慶長8年に古渡に入封した丹羽長重が元和5年に江戸崎城へ移るまでの間に近世城郭へと改修・整備したのはこの城だった可能性も考えられるとしています。東側が消滅しているので、全容はわかりませんが、今残る遺構からは、近世城郭的な要素は感じられず、戦国期以前のもののように思えます。
鳥居横の石碑によると、熊野神社は文治年間(1185~1190年)に熊野別当湛増が創建、永禄2年(1559年、棟札の写しは永禄11年)に江戸崎城主土岐治英が内殿、天正15年(1587年)に嫡子治綱が外殿を修復、寛政8年(1796年)治英十世嫡孫従五位下土岐信濃守朝利(旗本で一橋家の家老)が戸張を奉納しており、土岐家が近世まで信奉していた事がわかります。
2024年11月29日 マグロ常陸介祐平
古渡城[神宮寺城 周辺城郭]
Wikipediaに『古渡城(別名として古谷城・小谷城・蔵前城)は80m四方の曲輪を有する小規模な城で、稲敷市教育委員会が設置する現地掲示板では「山岡景久」が築城したと記す。茨城県教育委員会発行の『茨城県の中世城館』(2003年)は「丹羽長重が築城に関わった近世城郭」としつつ、「その趣は乏しいと感じざるを得ない」としている。『茨城県の中世城館』では、丹羽長重が近世城郭として改修したのは古渡城跡の東側450mほどの地点(峯熊野権現およびその後背台地)にあった「古渡東城跡」の可能性を推測している。古渡の城は、丹羽長重が江戸崎に移った際に廃城となったと見られる。』としているように、近世城郭としては非常にわかりにくいお城です。
寛政重修諸家譜の山岡一族の項目に古渡に関する記述はなく、古渡に1万石を与えられたとされる山岡景友の命日が慶長8年12月20日,丹羽長重の古渡入封が慶長8年11月なので、辻褄が合いません。
説明板の背後に堀状の溝が見られますが、遺構でしょうか。見つけられませんでしたが、周辺には断片的に土塁が見られるようですので、城郭があったことは間違いありません。
今回は、立ち寄りませんでしたが、周辺には狼煙台なども存在するようですので、戦国期からの館が存在したのかもしれません。古渡城から南に800mの国道125号線の南側には包蔵地「堀之内リュウガイ城跡」、南東に1km程の地名は「堀之内」となっています。
2024年11月28日 マグロ常陸介祐平
神宮寺城
南朝方の地頭東条氏のお城で、延元元年(1336年)に陸奥に向かう北畠親房が伊豆沖で暴風に遭い、近くの湖岸に漂着、東条氏に迎えられこのお城に拠るも、常陸守護の佐竹義篤らに攻められ落城、親房は阿波崎城に逃れています。災難なのは地元の名主で、親房に味方したということで、義篤勢に13人が斬首されています。
お城は、昭和10年には茨城県の文化財に指定されていますが、皇国史観によるものと思われます。土橋や横矢の見られる土塁や空堀など、遺構は良好で文化財に相応しいものです。
南北朝期のお城ですが、戦国期のお城といわれても違和感のない造りに感じられます。
2024年10月06日 ʀᴇᴅ副将軍
神宮寺城
南朝の指導者であり常陸国で奮戦した北畠親房の拠点⚔
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。南北朝時代に東条氏により築かれたと云われます。
1338年に北朝方の軍勢と各地で奮戦した北畠顕家が堺浦の石津の戦いで討死すると、南朝方の後醍醐天皇は挽回を図るために弟の北畠顕信を鎮守府将軍に任じ、義良親王・宗良親王を奉じて奥州に下向を命じます。北畠顕信の父である北畠親房も同行しましたが、海路で伊勢国大湊から陸奥に向かう途中で暴風により漂流。北畠顕信と義良親王は伊勢に引き戻されましたが、北畠親房は常陸国東条浦に漂着。北畠親房が南朝方の東条氏に迎えられたのが神宮寺城です。
因みに宗良親王は遠江国に漂着し、井伊谷の豪族である井伊行直に身を寄せています。
北畠親房は、神宮寺城を拠点として南朝方勢力の地盤を築こうとしますが、北朝方の佐竹氏や大掾氏などに攻められ神宮寺城は落城。
その後も北畠親房は追われ、阿波崎城、小田城、関城、大宝城へと次々と拠点を移して行きました。
北畠親房は、常陸国で奮戦するも1343年に大宝城が落城すると吉野へ帰還。後醍醐天皇は既に没していたため、若年の後村上天皇を擁して南朝の中心人物となりました。
その後、神宮寺城の動勢は分かっておらず、戦国時代に利用されたかは不明です。
見所
周囲を谷戸に囲まれた舌状台地上に築かれた平城であり、土塁と空堀によって区画された三つの郭で構成されています。
一郭は東側にコの字状に土塁と空堀が巡り、南側に張り出しが認められます。
南側には二郭が隣接し、土塁の上には「北畠准后唱義之處」の碑が建ちます。
一郭の東側には南北に細長い三郭がありますが、空堀は途中で埋め立てられており、かなり広い城域であったと思われます。
2024年06月19日 (*¯ ³¯)っ旦
神宮寺城
平城ですが馬鹿にできません。高い土塁、深い空堀、土橋だけですが、めっちゃ楽しいです。ただし、蜘蛛の巣には注意⚠️マダニは未確認です。
2024年03月24日 千葉相模守早雲
神宮寺城
南北朝時代に北畠氏により築城。北畠親房はここを拠点として東国の南朝勢力回復に努め、落城すると近隣の阿波崎城へと拠点を移したそうです。
郭に高低差は殆ど無く、土塁と空堀で郭を区切り、虎口と土橋で繋いだ作りがハッキリと見て取れます。規模は小さいですが、名残を留めています。
1.虎口脇の土塁からの眺め。左は郭内。右は空堀。
2.空堀の折れ。
3.郭内からの眺め。土塁の凹んだ箇所が虎口。
4.土塁。
5.奥の郭へと繋がる虎口。
6.郭の隅部を取り巻く空堀。
7.堀底。正面に土橋。奥にも空堀が続く。
8.空堀。
2022年09月14日 昌幸近江守更に吉
古渡城[神宮寺城 周辺城郭]
稲敷市の古渡(ふっと)城。
霞ヶ浦の水運の拠点だったこの地は、江戸時代に1万石の藩としてデビューします。
最初の藩主は徳川家康家臣の山岡景久でしたがほどなく無嗣断絶し、次の藩主は丹羽長重(丹羽長秀の子)で、関ヶ原の戦いでの改易から見事な大名復帰となりました。
集落の一部と化した現在は、わずかに堀と土塁が残るのみで、館があったと思われる場所には弁財天さまが祀られています。
ちなみに丹羽長重はこの後、江戸崎→棚倉→白河→二本松と加増転封され大大名の仲間入りをします。リスタートがここ古渡城かと思うと、なんだか不思議な気持ちになりますね。人生再スタートとなる時にここに来るとパワーを貰えるのかなとか。あ、自分は今決してそんな状況ではないので悪しからず(笑)
弁財天さまの隣に、ごみ集積所を兼ねたスペースがあるので、そこに車を停めさせてもらいました。
【写真の説明】
①弁財天さま。城の案内板が設置されています。
②土塁と思われる凸部からの遠景。
③堀跡と思われる凹み。
④遠景その2。
2021年07月05日 国府左京大夫城介
高田神社[神宮寺城 寺社・史跡]
南北朝時代には南朝に属した東条庄第一の総鎮守
【歴史】
・承平年間(931~937)に、紀伊の熊野大社の分霊を勧請し、平将門の乱の平定を祈願するために創建。
・寛治年間(1087~1093)に勅願所となり、東条庄第一の総鎮守。
・文治年間(1185~1189)に、源頼朝が奥州平定を祈願し東条庄500町歩を寄進。
・延元3年(1338)、南朝方の北畠親房が神宮寺城に籠城した際に味方をするが、北朝方に神領を没収。
・慶長7年(1602)、徳川家康から社領として257石の御朱印地を寄進。
・明治4年(1871)に郷社となる。
(高田神社の説明版、稲敷市のHPより抜粋)
【遺構】
神宮寺城から西に2.1kmに位置し、比高20mほどの舌状台地にある神社です。
祭神は伊邪那岐命など八柱。
南北朝時代には北畠親房に加勢したこともあり、城郭としての遺構も残っている。周囲は天然の切岸となっている急峻な地形となっており、天然の要害となっている。また、駐車場がある所は一段窪んだ地形となっており、郭のように感じる。また、社殿の背後には高さ2m程の土塁があり、その先にも長形の土塁上の地形がある。
なお、この高田神社の東側に神主さんの家があり、そこには城の遺構が残っているという。(未確認)
【感想】
神宮寺城から江戸崎城に向かう途中で、立派な鳥居(冠木門?)があったので立ち寄ってみたら、まさか思わぬ出会いをしてしまったという感じです。南北朝時代、戦国時代といった戦乱を生き延びた神社だけあって、要害としての部分もしっかりと残っています。特に西側の切岸は高さもあり、緩やかに曲がりながら落ちていくので、攻撃側からすると攻めにくい地形となっています。
全く予定がなくリア攻めしたため、見落としている箇所はあるかもしれません。しかし、個人的には訪れて損はないかと思いますので、この方面にリア攻めするのであれば、是非訪れてみてください。
【アクセス】
神宮寺城から徒歩30分。江戸崎城から徒歩40分。
公共交通機関としては、バス(龍ヶ崎発・佐原発など)がありますが、どちらも本数が少ないので、稲敷市のHPで調べてください。
【写真】
1:高田神社の鳥居
2:社殿
3:社殿背後の土塁
4:社殿の北側にある土塁
5:東側の切岸
6:西側の虎口
7:西側の切岸
2020年11月24日 伊勢中務大輔新九郎宗瑞
神宮寺城
ナビで表示されたので行ってみました。入り口に看板がたってます。砂利駐車場で車2~3台停められます。石垣はないようですが堀や土塁が確認できます。
2020年09月21日 kazuyou大蔵大輔
神宮寺城
城跡入口に説明板と神宮寺城跡の看板が建っているので、すぐわかります。駐車スペースがあり車を停められます。ここから、土塁が見えるので分かりやすいです☝️トイレ🚻はありません。土塁の上に、北畠准后唱義の処と刻まれた碑が建っています。
2020年01月20日 独眼竜常陸介
神宮寺城
空堀と石碑、おそらく屋敷があったであろう敷地があるのみですね
2017年07月25日
神宮寺城
土塁と空堀が良く残っています。
2016年04月17日 平 左近衛大将 泰次郎 將門
神宮寺城
国道125号より、神宮寺丁字路を県道107へ入り250m程の左側に看板と説明書あり。入口に車が2~3台の駐車スペースはありますがトイレはありません。
奥の林が城郭になります。近づくと見事な空堀と土塁がお出迎え
最初の郭は2m程の土塁に囲まれた林で、更に奥に土橋、その先にも郭があり広さもあるため主郭とおもわれますが、かなりの竹林です。竹に阻まれ写真では表現出来ないですが、見る価値のある土塁と空堀が存在します。
2015年09月19日 武蔵守道灌?!
神宮寺城
正直あまり期待してなかったのですが、以外にも立派な土塁と空堀♪(^^)
もう少し良く見学したい所でしたが、日没間近で薄暗い為に断念!!(^^;
また後日に再リア攻めしたいなぁ~…と思える城跡でした♪(^^)
2013年05月19日 さがみ駿河守
神宮寺城
倒されていた石碑は直されていました。
空堀は割りと良く残ってます。
2012年01月05日 足軽越中守一歩
神宮寺城
2012/1/5
まだ、地震の影響で石碑が倒れたままでした。