小高城(おだかじょう)
小高城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県行方市小高御城
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 小高為幹
築城年
- 建久3年(1192)
主な改修者
- -
主な城主
- 小高氏、北義憲、大山義則
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
津賀城(茨城県鹿嶋市)[9.5km]
中居城(茨城県鉾田市)[9.7km]
島崎城(茨城県潮来市)[10.0km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[11.0km]
芹沢城(茨城県行方市)[12.3km]
神宮寺城(茨城県稲敷市)[13.2km]
鹿島城(茨城県鹿嶋市)[15.3km]
宍倉城(茨城県かすみがうら市)[15.7km]
木原城(茨城県稲敷郡)[16.8km]
徳宿城(茨城県鉾田市)[16.8km]
小高城の口コミ情報
2025年06月13日 マグロ常陸介祐平
古屋城[小高城 周辺城郭]
小高城から北西に600m、行方城から南に約1km、曹源寺(写真1,2枚目)の東に隣接します。お城の来歴や城主などは伝わらないようですが、曹源寺が下河辺氏の創建であることから下河辺氏のお城とする説や行方氏、小高氏の城とする説もあるようです。曹源寺自体は、当初の下河辺氏のお城があった船子に創建され、永禄元年(1558年)に下河辺氏の居城である行方城(八甲城)の二の丸(曲輪Ⅱ)の外に移り、佐竹氏が常陸を去り、行方城が廃城になった後の慶長13年(1608年)に現地に移転しています。墓域には中世のものと思われる下河辺義親の供養塔(写真3枚目)がありますが、お寺と共に移転したのでしょうか。
お城は単郭です。郭の中は民家、郭の北側も畑、南側や東側も回りこめず、お寺と隣接する虎口(写真4枚目)のある西側のみ確認することが出来ました。虎口両側の土塁は巨大なもので5m程の高さがあり(写真5,6枚目)、空堀も薮がものすごい状態ですが深さがあり(写真7,8枚目)、有力な豪族の居館であることが伝わります。
2025年06月11日 マグロ常陸介祐平
行方城[小高城 周辺城郭]
平安時代末期に、吉田大掾清幹の子の忠幹が郡司としてこの地に居住し、行方氏を名乗ったのが始まりとされます。その子の景幹は源平合戦で屋島にて戦死し、論功としてその子らは行方、嶋崎、麻生、玉造を分知され、それぞれ領主となっています(東京都大田区の行方氏も一族かもしれません)。行方氏はその後、小高城を築いて移り小高氏を名乗って、行方城は一旦廃城になります。室町期になると、永享の乱に敗れ、関宿城から船子城に移った下河辺義親が行方城を改修し、八甲城と改名して代々居城するも、天正18年の小田原出陣を拒否して佐竹氏に攻められ下河辺氏は滅亡、佐竹氏の重臣荒尾尾張守の居城となるも、慶長7年の秋田移封により廃城となっています。
お城は、「農家レストラン八甲城」となる南側の曲輪Ⅱと、主郭である広さのある曲輪Ⅰの2つの曲輪で構成されています。残念ながら曲輪Ⅱのレストランは人の気配がなく、曲輪Ⅰも納屋が立つ畑で立ち入れる感じではないため、お城の西側のみの探査となりました。
2つの曲輪はそこそこの規模の堀切で分断され、遠目に土橋が確認できます。また、曲輪Ⅰの西側は外周を深い空堀、上段にも空堀が巡る二重の堀となっており、南西の角は外側の土塁が開口しています。
土木量も感じられ、二重の堀を持つなど、しっかりとした造りですが、船子城に比べると小規模です。
2025年06月11日 マグロ常陸介祐平
船子城[小高城 周辺城郭]
茨城県の中世城郭では、永享の乱(1438年)で敗れた関宿城主下河辺義親がこの地に逃れ船子城を築城し、その後、義親は行方城に移り、船子城は小高氏のものになったとされるが、出典はなく真相は不明としつつ、中世において下河辺氏がこの地域で一定の勢力を保っていたのは事実であり、可能性がないとは言えないとしています。
下河辺義親が崇敬したとされる浅間神社(写真1,2枚目)の背後が、主郭(Ⅰ郭,写真3,4枚目)となります。郭には富士山大権現が祀られていますが(写真5枚目)、富士山に見立てられたことによると思われます。北側には土塁があり(写真6枚目)、Ⅱ郭との間は大規模な堀切が見られます(写真7枚目)。堀切の底まで降りましたが、角度がきつく薮も相当な為、Ⅱ郭へ登るのは断念し、撤退しました。
お城は南北に4つの郭が並び、東と西にやや独立した郭が配置された、南北-東西400mもある大規模なものです。
2025年06月09日 マグロ常陸介祐平
諏訪館[小高城 周辺城郭]
来歴や城主など不明なお城です。立ち寄っていませんが、東に300m程には京ノ内館と藤井平館、北西に400m程には右近館が存在する、お城の密集する地域です。
お城には、北側から入城できます。
細い道を進むと耕作放棄地のような平地に出ますがここがⅣ郭となります。東側に道が付いており、進むとこの道が主郭であるⅠ郭(写真6枚目)とⅢ郭を囲む帯郭(Ⅱ郭,写真2枚目)となり、すぐにⅣ郭とⅢ郭を仕切る堀切(写真1枚目)があり、その先にはⅢ郭とⅠ郭を仕切る堀切(写真3枚目)が見られます。また、高さはそれほどでもありませんが、切岸はしっかりしています(写真4,5枚目)。全体的に薮のお城ですが、Ⅰ郭の南側には神社(写真7枚目)が建っており管理された状態になっています。神社の参道が南に降りていますが(写真8枚目)、民家のお庭に出てしまう為、もときたコースを戻ることになります。
全体的に地味な造りですが、遺構はよく残っています。
2025年06月08日 マグロ常陸介祐平
人見館[小高城 周辺城郭]
行方城(八甲城)や船子城の城主下河辺氏の家臣人見氏のお城と伝わるようです。お城は台地の先端に築かれています。
消防団の倉庫の先の坂を登り始めたところに、登城口があります。ゆるい山道を登ると虎口状の入り口があり(写真1枚目)、正面には墓地があります。この墓地に進む通路は、改変されたお城の西側の堀底となります。墓地の手前(堀底)から1m程登るとそこが主郭です。主郭はお城の中央の通路を除き(写真2枚目)、薮化しています。主郭の北側半分は空堀が囲み、北東部には薄い土橋が見られます(写真3~7枚目,薮でよくわかりませんが、現地肉眼ではわかりました)。薮の為進みませんでしたが、土橋の先も郭のようですので、単郭ではなく、複数の郭で構成されたお城のようです。
2025年06月07日 マグロ常陸介祐平
手賀城[小高城 周辺城郭]
城主の手賀氏は、大掾氏の一族で、鎌倉時代に玉造幹政の次男政家が手賀郷に居住したのが始まりとされます。500m程北にある鳥名木館の鳥名木氏は手賀氏の分家となります。天正19年(1591年)の佐竹氏による南方三十三館謀殺事件で、手賀刑部大輔-民部大輔の兄弟が太田で誅殺され、滅亡していますが、一族には生き延びた者もいるようで、横手在住の秋田藩士や地元麻生藩に士官した武士に、手賀の名前が見られるようです。近くにある養徳寺には、江戸時代のものも含む、手賀氏の墓があります。
先人様方の口コミ通り、お城は大変な薮城となっています。
お城の南側にある「新宿谷揚水機場」の脇から入城すると30m程で腰郭の切岸に突き当たります。切岸沿いを右に進むと激しい竹の倒木があり(写真1枚目)、くぐったり、またいだりしながら進むと目の前に大規模な二重の竪堀が姿を現します(写真2~5枚目)。竪堀は北へと延び、そのまま横堀として西側に折れていきます(写真6枚目)。北東の角は部分的に三重となっています。
本丸は、東側の馬出を除き帯郭が廻ります。本丸へは、北東のくびれた場所から登りましたが、このくびれは本丸の東側の馬出の境目で、本丸側に僅かな土塁(写真7枚目)と、馬出の東側先端部に土塁(写真8枚目)が見られます。縄張り図を見ながら攻城したので、馬出と認識しましたが、くびれた部分以外は境目が無く、縄張り図がなければ本丸の一部と思えてしまいます。
それほど比高差があるお城ではありませんが、明確な大手道や搦手道などがわからず、よじ登る感じで攻略したため、泥だらけになってしまいましたが、遺構の状態は良好で、小さいながらも迫力を感じるお城でした。
2025年05月30日 ᴿᴱᴰ 副将軍
小高城
南方三十三館の仕置により滅ぼされた小高氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。1192年に小高為幹により築かれたと云われます。
小高氏は常陸平氏である大掾氏の庶流とされ、行方忠幹の孫にあたる行方為幹が小高郷に移り、小高氏を称したのが始まりとされます。この頃に築いて居城としたのが小高城とされます。
約400年に渡り小高氏は行方郡に勢力を振いましたが、1591年に佐竹義宣が独立性の強かった鹿行の国人衆を粛正した「南方三十三館仕置き」が起こります。
佐竹義宣は梅見の宴と称して常陸太田に呼び出し鹿島城の鹿島清秀など9氏16人が謀殺。
小高城の小高治部少輔とその子某も、常陸太田城にて謀殺され小高氏は滅亡。
その後、小高城には佐竹氏重臣の北義憲、大山義則が城主となりましたが、1602年に佐竹氏が秋田へ転封となると小高城は廃城となりました。
見所
常光院南側の低湿地帯に囲まれた東西に延びた半島状台地の先端部に築かれています。
台地上を空堀で区画した主に四つの郭で構成されています。
一番北の郭は「万台」と呼ばれ、南北に長く低土塁で囲まれており、周囲に帯郭が敷設。
二番目の郭は「内御城」と呼ばれ、主郭とされます。周囲を高土塁と大規模な横堀が巡りますが、大規模なだけでなく、折れが伴う横矢が掛かる技巧的な縄張りです。残存度が高い反面、ヤブ化がかなり進んでいます。
内御城の東下が「小館」と呼ばれ、畑となっていますが根小屋であったとされます。
内御城の南側が「中城」と呼ばれ二郭とされますが、耕作地となり改変を受けています。
2025年03月09日 ClaD次遠征は7月
行方城[小高城 周辺城郭]
八甲城、中城とも呼ばれます。
大掾氏から分かれた行方氏が築き、やがて下河辺氏の居城となりました。下河辺氏親が豊臣秀吉に従って小田原北条氏と戦うのを拒否し、佐竹軍に攻められて敗死すると、佐竹配下の荒張尾張守が居城としましたが、佐竹氏の秋田移封に従ったため、廃城となりました。
台地の先端に築かれた2つの郭からなり、2郭のお宅にお願いして見学させてもらいました。主郭は畑になっており、周囲を取り巻く一部二重になっている横堀は猟友会による猪対策のくくり罠が仕掛けられているとのことで、堀底には下りられませんでした。北西には土橋が架けられ、そこから二重横堀がよく見えます。
写真①2郭の門に「八甲城」の文字。ここから入って見学をお願いした
写真②説明板
写真③土橋と内側の横堀
写真④土橋と外側の横堀
写真⑤横堀の南東端
2023年10月18日 大膳大夫しろし
小高城
近くの常光院には秋田に着いて行かなかった佐竹家家臣のお墓と桃山様式の山門があります。たまたま声を掛けてくれたお寺のお姉さんにお寺から城跡までの案内図と自作のマグネットシールを貰っちゃいました。
2023年05月15日 ᴿᴱᴰ 副将軍
手賀城[小高城 周辺城郭]
南方三十三館の仕置きで佐竹氏により謀殺され滅亡した手賀氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。在地土豪の手賀氏によって築かれたその居城と云われます。
手賀氏は、大掾氏の一族で玉造幹政の次男である玉造政家が手賀郷を領して手賀氏を称したのが始まりとされます。
1425年に手賀出羽守は鹿島社造営奉行を勤めるほどの勢力がありました。
1559年、手賀景幹は玉造宗幹とともに小田氏治を柄崎で撃退。
1591年、手賀高幹の兄弟は佐竹義宣の「南方三十三館の仕置」によって常陸太田城にて謀殺されてしまい手賀氏は滅亡しました。
見所
主郭、副郭を土塁と長大な二重横堀(一部は三重横堀となっている)が巡る圧巻の縄張りです。
主郭北側の馬出より大空堀を見下ろせば10m近いかなりの深さです。
凄まじい竹藪と倒木で覆われていますが、小幡城と同等の深さが体験できます。
私は城友さんのアテンドで登城しましたが、地元の方でも入らない様な激ヤブ城ですので登城の際はご注意下さいませ。
※素晴らしい遺構が残っていますが竹藪に覆われ、写真では伝わり難いです。手練れの山城ハンターの皆様は心眼を用いてご覧下さい🙇♀️
2021年04月11日 龍馬備中守【】
手賀城[小高城 周辺城郭]
茨城県の行方市にある手賀城☆この城郭もまた南方三十三館の仕置きで滅亡に追い込まれる城郭の1城です。。
築城年代は不明です☆手賀氏によって築かれたと伝わります☆手賀氏は常陸大掾氏一族で玉造幹政の次男政家が手賀郷に住んで手賀氏を称した事に始まりました☆
手賀出羽守は鹿島社造営奉行を勤めました☆手賀太郎景幹は玉造宗幹と共に小田氏治軍を柄崎で撃退します☆時は流れ城主・手賀高幹兄弟の時代に佐竹義宣の【南方三十三館の仕置】の際に常陸太田城に呼び出しを喰らい謀殺され手賀氏は滅亡しちゃいました☆
手賀氏の菩提寺である養徳寺の東方にあり、南西に伸びた台地の南端に築かれています☆
主郭、副郭から北東に伸びる郭先端に土塁を構え下に巨大な二重横堀を持ちます♪場所によっては三重堀を造ります☆大手道は西側に堀底道を伴う動線があってそこだと思われます☆ゲキ藪の為、登城の際はそこからをオススメします☆遺構としては抜群で人が立ち入りをしていないので明瞭に残っています☆
2019年06月23日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
小高城
内御城の北西側には空堀を挟んで小さな帯曲輪らしきがあり、ここも堀切等で防御されています。浄光院のある方向からの攻撃に備えていたのでしょう。★道には虎口らしきがあリますが、しばらく下ってゆくと森の中に消えていて、今は浄光院方面からは登れないようです。
2019年06月11日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
小高城
内御城の東側にも深い空堀が走っていて、その南端近くには横矢がかりらしい張り出しも出ていて、戦国時代らしい軍事要塞の顔を垣間見せています。★この空堀からは東隣の万台と呼ばれる郭に登る虎口があります。万台は完全な森で下草に埋め尽くされた強烈なヤブですが、周囲の土塁はガッチリ残っています。
2019年06月09日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
小高城
めくるめく遺構の世界は内御城、万台という2つの郭とその周りですが、完全な森で、落ち葉が積もる上に草も深く、足場は悪いです。内御城を取り巻く空堀ははっきりした薬研堀で深さも幅もあり、忘れられた土木遺構の雰囲気たっぷりです。★内御城、万台といった郭の名前は現地には全く表示がありません。現在地の把握は怠りなく…
2019年06月09日 愛甲左京大夫【相模の狂人】
中城[小高城 遺構・復元物]
小高城に入るには、先人の情報どおり城址の説明板のところから畑の中の道を入っていきます。300mほどでこの中城と呼ばれる郭に着きますが、完全な畑です。手前には空堀が走っているようですが、酷いヤブで内部を覗うのは無理でしょう。★道はさらに東に伸びて森の中に入っていき、間もなく内御城の空堀に入ります。
2016年10月19日 まー刑部卿
小高城
県道50号沿いにある『かすみ薬局』向かい側の道に入ると小高城跡の案内板まで道なりに進むことができる。
2016年10月19日 まー刑部卿
小高城
地図に位置されてるとおりに行き舗装された道路をひたすら進むと案内板がある。(それを知らずに城跡の周りを一周し時間をロスしていた。)その前に一台分駐車出来る。そこから畑に行く道をひたすら進む。軽自動車なら行けるが農作業の方の車の邪魔にならないよう歩くのが良いです。畑の間を進むと空堀と上(二の郭)に行く分岐点がある。空堀を進むと本郭に着く。二の郭の周りに空堀が良好な状態で残っている。本郭は四方を土塁に囲まれているが本郭中心部は藪で覆われている。本郭の土塁を辿ってみたら倒木や蜘蛛の巣に憚れてはいたが何とか一周出来た。