行方城
行方城([小高城 周辺城郭])
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行方城の口コミ情報
2025年06月11日 マグロ常陸介祐平
平安時代末期に、吉田大掾清幹の子の忠幹が郡司としてこの地に居住し、行方氏を名乗ったのが始まりとされます。その子の景幹は源平合戦で屋島にて戦死し、論功としてその子らは行方、嶋崎、麻生、玉造を分知され、それぞれ領主となっています(東京都大田区の行方氏も一族かもしれません)。行方氏はその後、小高城を築いて移り小高氏を名乗って、行方城は一旦廃城になります。室町期になると、永享の乱に敗れ、関宿城から船子城に移った下河辺義親が行方城を改修し、八甲城と改名して代々居城するも、天正18年の小田原出陣を拒否して佐竹氏に攻められ下河辺氏は滅亡、佐竹氏の重臣荒尾尾張守の居城となるも、慶長7年の秋田移封により廃城となっています。
お城は、「農家レストラン八甲城」となる南側の曲輪Ⅱと、主郭である広さのある曲輪Ⅰの2つの曲輪で構成されています。残念ながら曲輪Ⅱのレストランは人の気配がなく、曲輪Ⅰも納屋が立つ畑で立ち入れる感じではないため、お城の西側のみの探査となりました。
2つの曲輪はそこそこの規模の堀切で分断され、遠目に土橋が確認できます。また、曲輪Ⅰの西側は外周を深い空堀、上段にも空堀が巡る二重の堀となっており、南西の角は外側の土塁が開口しています。
土木量も感じられ、二重の堀を持つなど、しっかりとした造りですが、船子城に比べると小規模です。
2025年03月09日 ClaD次遠征は7月
八甲城、中城とも呼ばれます。
大掾氏から分かれた行方氏が築き、やがて下河辺氏の居城となりました。下河辺氏親が豊臣秀吉に従って小田原北条氏と戦うのを拒否し、佐竹軍に攻められて敗死すると、佐竹配下の荒張尾張守が居城としましたが、佐竹氏の秋田移封に従ったため、廃城となりました。
台地の先端に築かれた2つの郭からなり、2郭のお宅にお願いして見学させてもらいました。主郭は畑になっており、周囲を取り巻く一部二重になっている横堀は猟友会による猪対策のくくり罠が仕掛けられているとのことで、堀底には下りられませんでした。北西には土橋が架けられ、そこから二重横堀がよく見えます。
写真①2郭の門に「八甲城」の文字。ここから入って見学をお願いした
写真②説明板
写真③土橋と内側の横堀
写真④土橋と外側の横堀
写真⑤横堀の南東端