島崎城(しまざきじょう)
島崎城の基本情報
通称・別名
- 嶋崎城
所在地
- 茨城県潮来市島須530他
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 島崎(行方)成幹
築城年
- 応永年間(1394〜1428)
主な改修者
- -
主な城主
- 島崎氏
廃城年
- 天正19年(1591)
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、馬出、井戸
指定文化財
- 市史跡(島崎城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
鹿島城(茨城県鹿嶋市)[7.9km]
津賀城(茨城県鹿嶋市)[9.4km]
小高城(茨城県行方市)[10.0km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[10.8km]
大崎城(千葉県香取市)[10.9km]
小見川城(千葉県香取市)[12.3km]
中居城(茨城県鉾田市)[13.9km]
神宮寺城(茨城県稲敷市)[15.0km]
森山城(千葉県香取市)[16.9km]
江戸崎城(茨城県稲敷市)[19.5km]
島崎城の解説文
島崎城の口コミ情報
2025年07月12日 マグロ常陸介祐平
長山城[島崎城 周辺城郭]
大掾氏の一族で、島崎氏初代高幹の兄の孫にあたる小高幹平の次男知幹が築城し、長山を名乗ります。7代目の宗幹は、上杉禅秀の乱で宗家大掾満幹に従い戦功をたて、勢力をましていきますが、大永2年(1522年)10代目幹綱は、島崎城主島崎安国(忠幹)に攻められ落城し自害、子の政幹は佐竹氏のもとに逃れています。政幹は、佐竹氏に従い、陸奥窪田の合戦で活躍するも、陸奥亀田城攻めで傷がもとで亡くなっています。
お城は連郭式の平山城で、3つの曲輪で構成されていたようですが、北側の三の丸は道路と緑地公園となり消滅しています。残る本丸と二の丸は保存状態が良好で、ある程度整備されており、見やすくなっています。本丸の南側下段に虎口があり、曲輪にも虎口と、二段構えの城門があったようで、本丸北東側は藪で見づらいですが桝形が見られます。
本丸と二の丸は堀切で分断され、二の丸は、北側の一部を除き土塁で囲まれています。お城の縄張りは戦国末期のもので、長山氏を駆逐した島崎氏か、佐竹氏により改修されたと推定されているようです。
2025年07月11日 マグロ常陸介祐平
堀之内大台城[島崎城 周辺城郭]
佐竹氏が、南方三十三館の仕置において鹿島-行方地区の領主を謀殺し、新たな拠点として島崎城近くに築いたお城です。佐竹氏の重臣の小貫頼久が城代を務めています。お城は、文禄3~4年頃(1594~95年)から築城を始め、慶長元年(1596年)に完成、慶長7年に佐竹氏が秋田に移ると廃城となっています。城跡には、昭和後期に中学校が建設され、遺構は残っていません。
中学校建設前に発掘調査が行われ、「歴史と旅 1984年11月号」によると、「東国では初めてとなる石塔・墓石転用の主殿(三間四方の対面所、三間四方の土間)跡が出土、主殿の正面には砂盛と壮大な枯山山水庭が築かれていたことも確認されています。また、虎口からは城門跡礎石群と柱跡、一の曲輪土塁コーナーからは天守建築相当の櫓跡、堀切からは廊下橋門と渡り櫓跡の礎石群、長屋二棟分の柱穴群などが次々と見つかり、城郭史を書き換えるような発見が相次いでいる。」と在りし日の航空写真と共に紹介されています。城跡から出土した墓石(供養塔)は、二本松寺に並んでいます。(島崎城跡を守る会のサイト参照)
戦国期と近世を繋ぐ貴重な遺構ということで、保存会まで結成されたようですが、公共事業の為に消滅したのは残念なことです。遺構がよく残る島崎城と対称的に破壊されたのは、島崎氏の遺臣の子孫による、佐竹氏への恨みとの説もあるようですが(朝鮮総督府みたいですね)、本当でしょうか。
幸いなことに、登録城である茨城県内の逆井城に、発掘調査を元にした主殿が復元されています。
2025年07月10日 マグロ常陸介祐平
島崎城
島崎氏は大掾氏の一族の行方景幹の次男高幹がこの地を与えられ初代となります。近隣の同族の鹿島氏や玉造氏、麻生氏を攻め、「南方三十三館」の最有力者となります。秀吉による小田原攻めでは、佐竹義宣に随行し秀吉に謁見、太刀一振と馬一頭を献上しています。その後義宣は、秀吉の許可を得て、南方三十三館の仕置を行い、島崎安定、徳一丸親子は誅殺され、島崎氏は滅びます。常陸太田城で三十三館の面々がまとめて殺害されたということではなく、佐竹氏の家臣で安定の妻の実家である小川氏(佐竹氏の一族)の頃藤城に預けられ、殺害されたというのが真相のようです。島崎城は、島崎氏滅亡後に佐竹氏の管理下となるも、佐竹氏による大台城の築城により廃城となっています。
お城は「島崎城跡を守る会」により整備されており、夏場でも見学コースで全体を回ることができます。国人レベルのお城としては広大で、土木量も多く、曲輪、空堀、土塁、虎口、武者走り、などを楽しむことが出来ました。
先人様の口コミに、虫に苦慮されたとありますが、酷暑のお陰で汗だくにはなりましたが、虫刺されもなく助かりました?
「島崎城跡を守る会」のすごいのは、お城の整備だけではありません、HPも充実しています。
2025年07月09日 マグロ常陸介祐平
潮来陣屋[島崎城 周辺城郭]
元治元年(1864年)、武田耕雲斎の提言で潮来郷校(水戸藩による庶民教育の学校)や鹿島神宮などに参集した尊皇攘夷派を鎮圧するために築かれた陣屋です。目的とは反対に尊皇攘夷過激派の拠点となってしまい、元治甲子の争乱(天狗党の乱)で、幕府掃討軍の麻生藩兵により焼き討ちされています。陣屋着工から僅か7ヶ月のことです。この争乱で陣屋だけでなく、多くの民家も被害にあったようです。
陣屋は、ほぼ独立した台地に築かれていますが、それほどの広さはありません。曲輪は薮となっており、南無妙法蓮華経の碑が建ちます。台地のすぼまった部分に土塁が残るようですが、薮のため確認できませんでした。
2025年07月08日 マグロ常陸介祐平
稲荷山古墳群[島崎城 寺社・史跡]
茨城県の文化財に指定される仏殿や山門、国指定文化財の銅鐘がある長勝寺の裏山の「稲荷山公園」該当地となります。
余呉さんのサイトで、「城郭遺構と思われるようなものがあり、仮に稲荷山砦と呼称しておく」と紹介されているので、長勝寺の参拝がてら立ち寄ってみました。島崎城から南に3km弱、台地の先端に位置しており三方は崖で、立地的には城郭に適しています。
水戸黄門が休憩したとされる台地東側の遺愛亭跡(写真2枚目)の西側には、曲輪を仕切るような土塁が1条あり、部分的に堀状のくぼみが見られます(写真6枚目)。城域の西側には、稲荷神社が鎮座しており、展望台の手前には土塁の痕跡とも古墳とも思える土盛りがあり(写真5枚目)、神社の下段には腰曲輪状の平地が見られます(写真4枚目)。所々にある小さな土盛りは、稲荷山古墳群のものと思われます(写真3枚目)。
城郭として記録に残っていないようですが、城郭と信じて見てみると砦に思えてしまいます。
長勝寺は、文治元年(1185年)に源頼朝が武運長久を祈願して創建したとされる古刹で、江戸時代に水戸黄門が復興しています。大変見応えのあるお寺です(写真7,8枚目)。
2025年04月23日 気分爽快右大臣
島崎城
駐車場に素敵なパンフレットがあったので、じっくり見てまわりました。
土塁、空堀、土橋、虎口、井戸 等々見どころ満載な大規模城郭です。随所に案内板があり、リア攻めお勧めの城です。
①馬出曲輪
②馬出曲輪と東Ⅱ曲輪との間の空堀
③八幡台から見た東Ⅱ曲輪
④水の手曲輪とⅠ曲輪との間の空堀
⑤西Ⅱ曲輪虎口
⑥物見台
⑦Ⅲ曲輪土塁 207mあるらしい
⑧大堀 240mあるらしい
2025年01月28日 武蔵野式部大輔蘭丸
島崎城
隠れた名城!全ての曲輪が広く、土塁もしっかり残り、岩盤を掘った空堀は切り通しみたいになってます。入り口におかれたパンフレットもとてもいい!たまたまお会いした地元の方がすごく丁寧に城のことを教えてくれたのも嬉しかった!
2025年01月27日 青雅楽頭銅鉦
島崎城
空堀や土塁がとても良い状態で保存されており、また各所に曲輪や構造についての立て札があって巡りやすい城でした。特に東ニ曲輪の空堀はその深さもあってとても素晴らしい眺めです。また三曲輪の岩壁も良く、下から眺めるとより一層この城の雄大さを感じられます。
2024年04月09日 nonki
島崎城
潮来駅から徒歩40分程。 駐車場に無料のパンフあり。小高い台地の先端に築城された土の城。登りもほぼなく気軽に見学できます。
中は土塁、虎口、切岸、曲輪、空堀など土の城の魅力のオンパレードでした。地元の保存会の方による案内板や手入れが良くされており感謝です。
切岸の角度などもすごかったです。城域も広く30分位で回れるかと思っていましたが、気付くと1時間経ってました。
市の史跡レベルなのが不思議な位の良好な残り具合でした。枠の関係と思われるが続100名城に選ばれてもおかしくないと感じた。
ただ他の方が書いておられるように夏場は虫、草などで厳しいかも。行くなら秋から冬の時期をおすすめします。
2023年09月18日 武蔵守のむげん
島崎城
専用駐車場あり。地元の保存会の尽力により、非常に整備がされている。登城ルートや遺構の説明札、立派なパンフレットなど、この遺構を守っていく熱意を感じた。
遺構としては、曲輪、土塁、空堀、虎口、切岸、武者走り、土橋等…コレでもかというほどの魅力が詰まっている。
土の城としてはかなりの出来だが、虫、特に薮蚊に凄まじくやられたので、虫対策は大事。虫のいない時期に再度じっくり時間をかけて見たいと思う。
2023年08月17日 陸奥中納言景衡
島崎城
「道の駅いたこ」で御城印が購入できます。5枚セットもあります。
2022年07月01日 昌幸近江守更に吉
二本松寺[島崎城 寺社・史跡]
二本松寺は平安時代創建の古刹で、初代島崎高幹が島崎城を築城の際、敷地を寄進して現在の地に移転開山した。境内を城郭化し砦の役割を持たせている。また島崎城の北西に位置するこの寺は京都比叡山を模して鬼門除けにもなっている。
以来400年、島崎氏代々の祈願寺として、島崎氏滅亡後も佐竹氏、水戸徳川氏の信仰を得て栄えた。
また『あじさいの杜』の名前がつくほど、あじさい寺としても有名で、6月は100種類10,000株が咲き誇る。
2022年06月30日 昌幸近江守更に吉
長國寺[島崎城 寺社・史跡]
長國寺(ちょうこくじ)は第13代城主、島崎長国が文明年間(1469〜86)に創建した寺です。佐竹氏の「三十三館の仕置き」により島崎氏は滅亡しましたが、江戸時代に子孫の島崎定幹が先祖発祥の地を忘れぬために、この寺に長国の墓碑を建立しました。(墓碑は探し出せませんでした)
駐車場あり。
2022年04月10日 千葉相模守早雲
島崎城
先人様の口コミにもあるように本丸(御礼神社)下に駐車場があります。パンフレットもこちらにあります。
欲望に抗えず、真っ先に本丸から攻城😅本丸はかなりの広さ。周囲を囲む土塁もよく残っており、虎口がハッキリと分かります。虎口を挟んで反対側に馬出曲輪があります。櫓台を兼ねていたと思われる土塁や東Ⅱ曲輪とを結ぶ土橋から見える空堀は、L字に屈曲し見事です。
東Ⅱ曲輪を囲む土塁の一端は八幡台と呼ばれ一際高くなっています。物見台との間に広がる空堀は深く圧巻です。切岸には大きな岩盤も利用されています。水の手曲輪には大井戸跡があり、石積みが残っています。脇には枡形虎口があり、西Ⅱ曲輪へと繋がります。西Ⅱ曲輪からは見晴らし素晴らしく、城下がよく見渡せたことでしょう😁
東Ⅱ曲輪下には帯曲輪が広がりますが、この東Ⅱ曲輪の切岸にも岩盤が利用されています。切岸脇の武者走りを抜けると上記の物見台下の空堀へ。物見台の裏側にも空堀があり、ここが最重要防御ラインなのだなと思われます。物見台裏の空堀(堀底道)を上がるとⅢ曲輪へ。ここは細く長い曲輪。外曲輪との間にも「大堀」と呼ばれる急で長い堀があります。
どちらの空堀、土塁も良く残っており、また「島崎城跡を守る会」の皆様のお陰で大変見やすくなっています。
期待を裏切らない、見応え十分な城郭だと思います😁
1.本丸虎口。
2.馬出曲輪、東Ⅱ曲輪間の土橋から見た空堀。L字に屈曲。
3.水の手曲輪に残る大井戸。
4.八幡台から見下ろす空堀。向かいは物見台。
5.帯曲輪。岩盤切岸。
6.空堀。物見台(右)と八幡台(左)に挟まれる。
7.大堀。
2022年04月04日 国府左京大夫城介
麻生藩陣屋[島崎城 周辺城郭]
関東で数少ない外様である新庄氏(麻生藩)の陣屋
【歴史】
関ケ原の戦いで西軍に与した新庄直頼が、慶長9年(1604)に赦免(徳川家康の囲碁相手だったため)され、常陸・下野の8郡、3万300石を与え、麻生藩を立藩した。麻生藩は城主格ではないため、旧麻生城の東麓に陣屋を築き、元和5年(1619)に完成した。その後、5代藩主直矩が死去した際に無嗣により改易されるが、幕府は前藩主であった隠居していた直時を再登板させ、再興を許している。その後、幕末まで移封されることもなく麻生藩は存続した。
【遺構】
麻生小学校がある場所が陣屋であり、北から西に掛けて土塁が僅かに残っている。
小学校の南西に、麻生藩家老屋敷記念館(木~日・祝日のみ開館)として、麻生藩の家老屋敷(畑氏)が残っている。
また、北側には麻生藩の家老である三好氏の屋敷(明治に建築されたもの)(私有地)も残っているが、朽ちかけている。
【感想】
完全に小学校の敷地であるため、平日にカメラを持ってうろついていると高確率で通報されそうです(笑)
説明版は完全に校内にあり、カメラをズームにしないと見えないです。また、北から西に掛けて、土塁と堀の跡らしきものがありますが、小学校の敷地内なので、フェンス越しに写真を撮るしかできません。
現在、家老屋敷は2つ残っており、見学できるのは一つだけですが、綺麗に残っており、地元で愛されているのが良く分かります。新庄氏の家老は、「新庄の守りに勝ったる(畑) 神田 三好(舳)なくては舵は取れませい」と謡われていたそうです。この内、畑氏と神田氏は新庄氏と同じ近江の出身、三好氏はあの三好一族に連なる家系とのことです。
【アクセス】
①レンタサイクル(潮来駅の観光案内所から約16分)
②バス(潮来駅又は延方駅から鹿行北浦ライン(1日5便)で麻生庁舎で下車し、徒歩5分)
【写真】
1:説明版
2:土塁(西側)
3:土塁と堀(僅かに窪んでいる)
4:畑氏屋敷(麻生藩家老屋敷記念館)
5:三好氏屋敷
6:麻生藩陣屋御殿平面図
2022年03月28日 国府左京大夫城介
麻生城[島崎城 周辺城郭]
行方四頭麻生氏の居城
【歴史】
麻生氏が、天慶年間(938~947)若しくは鎌倉時代初期に築いたとされる。
麻生氏は大掾氏一族で行方四頭(小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏)の一つではあったが、戦国時代になると島崎氏と対立し、天正12年(1584)に、島崎義幹によって麻生城は落城し、麻生常安(17代)は自刃し、麻生氏は滅びました。ただし、江戸崎土岐氏を頼って、落ち延びたとも伝わっています。その後、島崎氏が統治しますが、佐竹氏による南方三十三館により粛清されると、佐竹氏家臣の下川辺氏が在城するも、関ケ原合戦後、佐竹氏が転封されると、麻生城は廃城となった。
別名:羽黒城
【遺構】
島崎城の北西5.9kmに位置する標高24mの丘陵に築かれており、現在は羽黒山公園となっている。
V字をした形状の地形で、東側の公園部分が主郭と思われる。複数の腰曲輪があり、北側の海了寺へ降りるあたりに虎口が残っている。また、西側の常安寺の墓地付近には三重堀が残っており、内二条は麓へ落ちる竪堀となっている。
【感想】
主郭があまりにも広すぎるため、本来は複数の曲輪があったが、公園として整備する際に改変を受けたように感じます。しかし、この城の一番の見所は、常安寺側にある三重堀だと思います。常陸の城らしい見事な空堀です。一番北側の堀は墓地造成の際により大部分壊されていますが、他の二条は明瞭に残っており、途中からは竪堀として麓へと落ちています。竪堀の方は、倒竹と時間の都合で降りることはしていないので、どの辺りまで落ちているかは不明です。
【アクセス】
①レンタサイクル(潮来駅の観光案内所から約45分)
②バス(潮来駅又は延方駅から鹿行北浦ライン(1日4便)で筑波銀行麻生支店前で下車し、徒歩6分)
【写真】
1:腰曲輪
2:南側の虎口の跡か?
3:主郭
4:海了寺側の虎口
5:三重堀(南)
6:竪堀(南)
7:三重堀(中央)
8:三重堀(北)
2022年01月23日 みかも内匠助48世
島崎城
久しぶりに訪問しましたが、ものすごく綺麗に整備されていました。地元のボランティア活動には頭が下がります。案内板も多く、綺麗なパンフレットもあり、初めての方でも迷うことなく散策出来ると思います。今まで茨城県内の城跡を沢山まわりましたが保存状態も良く県内トップクラスではないでしょうか。近くの長山城とセットでどうぞ。
2021年09月24日 さすらいライダー
島崎城
民家もまばらで、周りは畑と田んぼの一角に、広い駐車場が整備されていました。登城口にはケースに入れられた、立派なパンフレットが用意され、小高い本丸、曲輪への道もきれいに整備されていました。
2021年09月03日 昌幸近江守更に吉
長山城[島崎城 周辺城郭]
茨城県潮来市にある長山(永山)城/鎌倉時代中期、常陸平氏大掾庶流行方氏の小高幹平の次子知幹の築城に始まる。以降長山氏を名乗り二百数十年間続いた。その間、7代宗幹の時、歴史上有名な上杉禅秀の乱(応永23(1416)年)では、本宗家大掾満幹に従って戦功をたて、しだいに勢力を増した。大永2(1522)年10代幹綱の時、同族の島崎安国に攻められ落城したが、その子政幹は佐竹義篤のもとに逃れ、その保護を受けた。
主郭部を先端に置く連郭式の平山城で三郭は道路と公園の造成により消滅したが、主郭とニ郭は遺構がしっかりと残っている。
落城後は佐竹氏を頼ったとのこと。おそらく以前より佐竹氏と交流があり、城の造りも佐竹のエッセンスが入っているのではないか。
面白いなと思ったのは、虎口が非常に多いこと。例えば主郭は方形の各辺に虎口が備わっているし、ニ郭も同様。
車は三郭でもある「かすみの里公園」に駐車可能。
島崎城跡を守る会の方々が、最近この城も整備を始められ、看板がついた。
本当にありがとうございますm(_ _)m
【写真の説明】
①根小屋より長山城遠景
②ニ郭より主郭を見る
③主郭の土塁
④主郭の虎口
⑤主郭虎口から続く横堀
⑥主郭の東側の郭(出郭のようなもの)から主郭を見る。こちらも土塁が明瞭に残る。
⑦主郭-出郭間の空堀。橋台のような出っ張りがあり、木橋が架かっていたかも知れない。
⑧出郭-物見郭(のようなもの)間の空堀。後世に広げられてしまったか?
2021年09月03日 昌幸近江守更に吉
長山城[島崎城 周辺城郭]
茨城県潮来市にある長山(永山)城のニ郭をご紹介。
【写真の説明】
①主郭-ニ郭間の空堀
②主郭からニ郭を見る
③ニ郭の土塁
④ニ郭虎口
⑤ニ郭-三郭間にあったと思われる竪堀。三郭は公園造成のため消滅
⑥竪堀下の削平地に設置された案内板
2021年08月07日 ファン掃部助トム治郎
島崎城
地元の方の尽力により見ごたえたっぷりの城跡です。案内や整備状況にはおもてなしの精神を感じられます。東曲輪にある八幡台から物見台を眺める際に下に20メートルくらいの堀があり見ごたえがあります。
2020年09月22日 みかも内匠助48世
島崎城
着々と整備されています。本日伺いましたが早速地元のボランティアさんから説明頂きました。6月に伺いましたがそれより整備が行き届いていて空堀や三曲輪にもアプローチ出来ました。ボランティアさんから10月にもまた整備しますよとの事。手を掛ければ小幡城を越える城跡になる可能性のある城跡と思います。
2020年08月02日 国府左京大夫城介
島崎城
公共交通機関を使ったリア攻めについて
島崎城をリア攻めするには、潮来駅を利用するのが最適です。
潮来駅からは、バス(神宮あやめ白帆ライン)が出ていますが、島崎城から最寄りのバス停(牛堀中央)から2km程あり、本数も少ない(8便/日)ので、あまりお薦めしません。
駅前の水郷潮来観光協会では、レンタサイクル(500円/日)が利用できるので、これを利用するのがベストだと思います。
観光協会は、営業時間が9:30~17:00で、火曜日が定休日となっています。
ただ一つ難点を上げるとすると、g先生の最短ルートだと、ちょっとキツメの坂を登る必要があります。全般的に車がほとんど通らない走りやすい道ではありますが…
因みに自分は、始発でのアタックだったので、潮来駅から40分程歩いてのリア攻めでした( ´∀`)
でも、それをする程の価値があるお城だったので、まだリア攻めしていない方がいましたら、是非行ってみてください!
2020年06月03日 みかも内匠助48世
島崎城
駐車場完備。城跡に向かうには駐車場の下の道に降りて城跡に向かって左側に回り込んで下さい。地元の有志の方々の尽力で綺麗に整備してあります。馬出し曲輪や枡形も残ってました。あちこちに立て看板もあり私の様な初心者には大変わかりやすかったです。2020.6.6追記 第三曲輪への道が倒木で塞がれてます。行けなくは無いですがお気をつけて。少し虫が出てきてます。でも良い所ですねぇ。
2020年01月29日 昌幸近江守更に吉
島崎城
主郭(御礼神社)を見上げる根古屋に駐車場ができました。20台位停められそうです。(写真左側の砂利のところ)
2020年01月20日 独眼竜常陸介
島崎城
神社がありますが、階段が機能していなく、斜面を登る感じで、ずるずる滑るので、登るのは断念。
おそらく難攻不落に近い城だったのかも⁉️
代々左衛門尉を称し小高、麻生、玉造など行方四頭と呼ばれ、それら諸氏の中で最大の武威を誇り、領内に数か所の支城を配していた。
戦国後期には麻生氏など同族を滅ぼし、鹿島氏も攻略し「南方三十三館」で筆頭の地位を得た。しかし、天正19年(1591)城主義幹は、佐竹義宣によって謀殺され落城した。
島崎城の縄張りは湿地帯の中へ北から南に突き出した台地の先端に主郭を置き、土塁と空堀で遮断しながら第五の曲輪まで順次下位の曲輪を配している。殊に第三の曲輪は広大でその北の空堀の深さは10mを越えている。
外構えは古宿、西側に表門搦手口に金井柵、麓部を根小屋、表門周辺は古屋、西出口を宿、南にかけて芝宿があり、集落の発達過程を示し、また水の手曲輪も井戸と共に現存する。
居住性と共に軍事性を重視した城造りは、他に類を見ることはできない。