島崎城(しまざきじょう)
島崎城の基本情報
通称・別名
- 嶋崎城
所在地
- 茨城県潮来市島須530他
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 島崎(行方)成幹
築城年
- 応永年間(1394〜1428)
主な改修者
- -
主な城主
- 島崎氏
廃城年
- 天正19年(1591)
遺構
- 曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、馬出、井戸
指定文化財
- 市史跡(島崎城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
鹿島城(茨城県鹿嶋市)[7.9km]
津賀城(茨城県鹿嶋市)[9.4km]
小高城(茨城県行方市)[10.0km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[10.8km]
大崎城(千葉県香取市)[10.9km]
小見川城(千葉県香取市)[12.3km]
中居城(茨城県鉾田市)[13.9km]
神宮寺城(茨城県稲敷市)[15.0km]
森山城(千葉県香取市)[16.9km]
江戸崎城(茨城県稲敷市)[19.5km]
島崎城の解説文
島崎城の口コミ情報
2023年09月18日 兵部少輔のむげん
島崎城
専用駐車場あり。地元の保存会の尽力により、非常に整備がされている。登城ルートや遺構の説明札、立派なパンフレットなど、この遺構を守っていく熱意を感じた。
遺構としては、曲輪、土塁、空堀、虎口、切岸、武者走り、土橋等…コレでもかというほどの魅力が詰まっている。
土の城としてはかなりの出来だが、虫、特に薮蚊に凄まじくやられたので、虫対策は大事。虫のいない時期に再度じっくり時間をかけて見たいと思う。
2023年08月17日 陸奥権中納言景衡
島崎城
「道の駅いたこ」で御城印が購入できます。5枚セットもあります。
2023年03月22日 水天一碧東方之衆
島崎城
島崎城の出城側から本城が見えるんですが、整備がされたことで本城の三の曲輪側からも眺める事ができるようになりました。保存会の方々によれば、出城の整備も視野に入れているとのことでした。
※写真中央の奥の張り出した山。出城のその位置はちょうど土壇がある辺りです。
2022年07月01日 昌幸近江守更に吉
二本松寺[島崎城 寺社・史跡]
二本松寺は平安時代創建の古刹で、初代島崎高幹が島崎城を築城の際、敷地を寄進して現在の地に移転開山した。境内を城郭化し砦の役割を持たせている。また島崎城の北西に位置するこの寺は京都比叡山を模して鬼門除けにもなっている。
以来400年、島崎氏代々の祈願寺として、島崎氏滅亡後も佐竹氏、水戸徳川氏の信仰を得て栄えた。
また『あじさいの杜』の名前がつくほど、あじさい寺としても有名で、6月は100種類10,000株が咲き誇る。
2022年06月30日 昌幸近江守更に吉
長國寺[島崎城 寺社・史跡]
長國寺(ちょうこくじ)は第13代城主、島崎長国が文明年間(1469〜86)に創建した寺です。佐竹氏の「三十三館の仕置き」により島崎氏は滅亡しましたが、江戸時代に子孫の島崎定幹が先祖発祥の地を忘れぬために、この寺に長国の墓碑を建立しました。(墓碑は探し出せませんでした)
駐車場あり。
2022年05月11日 水天一碧東方之衆
島崎城
島崎城の出城の半分、東側が見たいと言われたので、ほんの一握りの奇特でマニアックな需要にお応えします。
保存会の方から耕作放棄地と聞いていましたが、野菜が植えられていましたから、慎重に隅っこを歩いて確認しました。保存会の方たちが一度確認に入っているとのことで、ところどころにピンクのテープがついていました。出城の整備も…と意見があるようなんですが、今はまだ白紙のようです。
出城には保存会の方にお話をした上で入りました。
方角抜きでわかりやすく解説しますと、出城に登って右半分は既に出したとおり、竹藪笹藪だけど、写真にはなりますし、散策も余裕です。
左半分は古い航空写真を見ると、もうずっと畑になっていた箇所です。畑の一部を囲むように土塁と堀に見えるものがついているんですが…かなり土取りをしたそうなので崩れないように止めているように思える… 何かはあったかもしれないけれどもうわからないよねといった感じです…。色々な話を聞きましたが、なんとも言えないです。
いつか目の確かな方が判定してくださる日を待ちます。
皆さんの心眼でお楽しみください😊
①出城。土取りをした位置を見る。撮影者背後が島崎城方面。
②途中から道らしきものがついている。すぐなくなるけど😂かつて神社があったのと、畑があったからでしょうね。
③畑がある方に向かいます。陽当たりがいいから、まあ、よく伸びてますね〜。畑以外は下草が生き生きと伸び放題の藪です。平坦で広い感じ、少しはわかります?
④祠があるけど、うーん…
⑤堀みたいな…胡散くさい🤣
⑥切岸風の何かを平場から。ただの段差ともいう😂とにかく改変が著しいみたいなのでなんとも…
⑦長い堀底道に見えなくもなかったけど…
2022年05月04日 水天一碧東方之衆
島崎城
島崎城の出城に行きました。
島崎城の駐車場付近から見える正面の山は島崎城のある台地と繋がっていたそうです。今は道路で分断されている写真①の左側の山に出城があると保存会の方から聞いたので、軽く登って来ました😊
来る人みんなに出城の話をしているようでしたから、いつか誰かが写真を出すと期待していたのに、意外と出ないので我慢できなくなりました🤣
保存会の方にお話をしてから見学しました。
ちなみに保存会の方から、出城の東側は耕作放棄地と伺いましたが、野菜が植えられていたので慎重に隅っこを歩いて確認しました。色んなお話を聞いた上で考えると、なんだか畑を囲む堀は遺構とは言い難い?と思い写真を載せていません。縄張図がない世界です。勝手な解説を生温い心眼でご覧いただければ幸いです😂
①島崎城の駐車場付近から見た出城。
②祠を発見。
③張り出した先にさらに祠を見つける。
④③を回り込んだら、倒れて埋もれた祠じゃなくてこれは塚かも?文字があるか確認するためにひっくり返す気にはなれず、手を合わせた。
⑤張り出したところから振り返るとなんとなくうっすら雰囲気土橋に竪堀感が…ないものもあるように見え始めてくる。もはや願望に近い。土取り跡なのか山の中はあちこち崩れすぎてて自分の目には難しい。
⑥広めの方形に堀がはしる部分がありテンションが上がった。下りてから話を聞いた保存会の方によれば、神社跡で今は麓に移したとのこと。
⑦土壇は櫓台!って3分ぐらい感動したけど、位置微妙じゃね?と気づく。土壇から見なくても木がなくなれば、本城だろうがどこでもよく見渡せるし、土壇の上はかなり狭い。この土壇に神社跡が見られたと偉大なるサイト「美浦村お散歩団」様に記載がありました。自分が見た現況は土壇上に小さな平場があるだけで、何かの痕跡はわかりませんでした。
⑧麓に移された神社と仏像。しっかりお参りいたしました。
本城からは見えない場所を見渡せるので、何かしら監視する施設はありそうだなあとは思いますが、これというものは自分にはわかりませんでした。いつか目の確かな方があらためて確認してくれるのを待ちます。
解説はテキトーですが、隅々まで歩いたので、現況の記録ぐらいにはなれたら嬉しいです。出城は気になったけど、行けなかった方たちの参考にもなれば。
2022年04月10日 千葉相模守早雲【三つ鱗】
島崎城
先人様の口コミにもあるように本丸(御礼神社)下に駐車場があります。パンフレットもこちらにあります。
欲望に抗えず、真っ先に本丸から攻城😅本丸はかなりの広さ。周囲を囲む土塁もよく残っており、虎口がハッキリと分かります。虎口を挟んで反対側に馬出曲輪があります。櫓台を兼ねていたと思われる土塁や東Ⅱ曲輪とを結ぶ土橋から見える空堀は、L字に屈曲し見事です。
東Ⅱ曲輪を囲む土塁の一端は八幡台と呼ばれ一際高くなっています。物見台との間に広がる空堀は深く圧巻です。切岸には大きな岩盤も利用されています。水の手曲輪には大井戸跡があり、石積みが残っています。脇には枡形虎口があり、西Ⅱ曲輪へと繋がります。西Ⅱ曲輪からは見晴らし素晴らしく、城下がよく見渡せたことでしょう😁
東Ⅱ曲輪下には帯曲輪が広がりますが、この東Ⅱ曲輪の切岸にも岩盤が利用されています。切岸脇の武者走りを抜けると上記の物見台下の空堀へ。物見台の裏側にも空堀があり、ここが最重要防御ラインなのだなと思われます。物見台裏の空堀(堀底道)を上がるとⅢ曲輪へ。ここは細く長い曲輪。外曲輪との間にも「大堀」と呼ばれる急で長い堀があります。
どちらの空堀、土塁も良く残っており、また「島崎城跡を守る会」の皆様のお陰で大変見やすくなっています。
期待を裏切らない、見応え十分な城郭だと思います😁
1.本丸虎口。
2.馬出曲輪、東Ⅱ曲輪間の土橋から見た空堀。L字に屈曲。
3.水の手曲輪に残る大井戸。
4.八幡台から見下ろす空堀。向かいは物見台。
5.帯曲輪。岩盤切岸。
6.空堀。物見台(右)と八幡台(左)に挟まれる。
7.大堀。
2022年04月04日 国府左京大夫城介
麻生藩陣屋[島崎城 周辺城郭]
関東で数少ない外様である新庄氏(麻生藩)の陣屋
【歴史】
関ケ原の戦いで西軍に与した新庄直頼が、慶長9年(1604)に赦免(徳川家康の囲碁相手だったため)され、常陸・下野の8郡、3万300石を与え、麻生藩を立藩した。麻生藩は城主格ではないため、旧麻生城の東麓に陣屋を築き、元和5年(1619)に完成した。その後、5代藩主直矩が死去した際に無嗣により改易されるが、幕府は前藩主であった隠居していた直時を再登板させ、再興を許している。その後、幕末まで移封されることもなく麻生藩は存続した。
【遺構】
麻生小学校がある場所が陣屋であり、北から西に掛けて土塁が僅かに残っている。
小学校の南西に、麻生藩家老屋敷記念館(木~日・祝日のみ開館)として、麻生藩の家老屋敷(畑氏)が残っている。
また、北側には麻生藩の家老である三好氏の屋敷(明治に建築されたもの)(私有地)も残っているが、朽ちかけている。
【感想】
完全に小学校の敷地であるため、平日にカメラを持ってうろついていると高確率で通報されそうです(笑)
説明版は完全に校内にあり、カメラをズームにしないと見えないです。また、北から西に掛けて、土塁と堀の跡らしきものがありますが、小学校の敷地内なので、フェンス越しに写真を撮るしかできません。
現在、家老屋敷は2つ残っており、見学できるのは一つだけですが、綺麗に残っており、地元で愛されているのが良く分かります。新庄氏の家老は、「新庄の守りに勝ったる(畑) 神田 三好(舳)なくては舵は取れませい」と謡われていたそうです。この内、畑氏と神田氏は新庄氏と同じ近江の出身、三好氏はあの三好一族に連なる家系とのことです。
【アクセス】
①レンタサイクル(潮来駅の観光案内所から約16分)
②バス(潮来駅又は延方駅から鹿行北浦ライン(1日5便)で麻生庁舎で下車し、徒歩5分)
【写真】
1:説明版
2:土塁(西側)
3:土塁と堀(僅かに窪んでいる)
4:畑氏屋敷(麻生藩家老屋敷記念館)
5:三好氏屋敷
6:麻生藩陣屋御殿平面図
2022年03月28日 国府左京大夫城介
麻生城[島崎城 周辺城郭]
行方四頭麻生氏の居城
【歴史】
麻生氏が、天慶年間(938~947)若しくは鎌倉時代初期に築いたとされる。
麻生氏は大掾氏一族で行方四頭(小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏)の一つではあったが、戦国時代になると島崎氏と対立し、天正12年(1584)に、島崎義幹によって麻生城は落城し、麻生常安(17代)は自刃し、麻生氏は滅びました。ただし、江戸崎土岐氏を頼って、落ち延びたとも伝わっています。その後、島崎氏が統治しますが、佐竹氏による南方三十三館により粛清されると、佐竹氏家臣の下川辺氏が在城するも、関ケ原合戦後、佐竹氏が転封されると、麻生城は廃城となった。
別名:羽黒城
【遺構】
島崎城の北西5.9kmに位置する標高24mの丘陵に築かれており、現在は羽黒山公園となっている。
V字をした形状の地形で、東側の公園部分が主郭と思われる。複数の腰曲輪があり、北側の海了寺へ降りるあたりに虎口が残っている。また、西側の常安寺の墓地付近には三重堀が残っており、内二条は麓へ落ちる竪堀となっている。
【感想】
主郭があまりにも広すぎるため、本来は複数の曲輪があったが、公園として整備する際に改変を受けたように感じます。しかし、この城の一番の見所は、常安寺側にある三重堀だと思います。常陸の城らしい見事な空堀です。一番北側の堀は墓地造成の際により大部分壊されていますが、他の二条は明瞭に残っており、途中からは竪堀として麓へと落ちています。竪堀の方は、倒竹と時間の都合で降りることはしていないので、どの辺りまで落ちているかは不明です。
【アクセス】
①レンタサイクル(潮来駅の観光案内所から約45分)
②バス(潮来駅又は延方駅から鹿行北浦ライン(1日4便)で筑波銀行麻生支店前で下車し、徒歩6分)
【写真】
1:腰曲輪
2:南側の虎口の跡か?
3:主郭
4:海了寺側の虎口
5:三重堀(南)
6:竪堀(南)
7:三重堀(中央)
8:三重堀(北)
2022年01月23日 みかも内匠助48世
島崎城
久しぶりに訪問しましたが、ものすごく綺麗に整備されていました。地元のボランティア活動には頭が下がります。案内板も多く、綺麗なパンフレットもあり、初めての方でも迷うことなく散策出来ると思います。今まで茨城県内の城跡を沢山まわりましたが保存状態も良く県内トップクラスではないでしょうか。近くの長山城とセットでどうぞ。
2021年09月24日 さすらいライダー
島崎城
民家もまばらで、周りは畑と田んぼの一角に、広い駐車場が整備されていました。登城口にはケースに入れられた、立派なパンフレットが用意され、小高い本丸、曲輪への道もきれいに整備されていました。
2021年09月20日 水天一碧東方之衆
長山城[島崎城 周辺城郭]
長山城への行き方です。
行き先は、Googleマップのかすみの郷公園にしてください。入り口のすぐ近くにある駐車場をお借りしました。トイレもあります。駐車場は12、3台ぐらいは駐められそうでした。公園の奥にある広い駐車場は、かすみの郷公園の正門が開いていないと駐められないです。
Googleマップにある長山城跡碑案内板を通り過ぎて、田んぼ(根小屋だったようですが道路建設の真っ最中)の畦道を少し歩くと登城口があります。
アクセスは大変良好ですし、近くの島崎城と合わせて非常にオススメのお城です。
この辺りをポチに来たらぜひ、両方とも見ていただきたいです。
2021年09月03日 昌幸近江守更に吉
長山城[島崎城 周辺城郭]
茨城県潮来市にある長山(永山)城/鎌倉時代中期、常陸平氏大掾庶流行方氏の小高幹平の次子知幹の築城に始まる。以降長山氏を名乗り二百数十年間続いた。その間、7代宗幹の時、歴史上有名な上杉禅秀の乱(応永23(1416)年)では、本宗家大掾満幹に従って戦功をたて、しだいに勢力を増した。大永2(1522)年10代幹綱の時、同族の島崎安国に攻められ落城したが、その子政幹は佐竹義篤のもとに逃れ、その保護を受けた。
主郭部を先端に置く連郭式の平山城で三郭は道路と公園の造成により消滅したが、主郭とニ郭は遺構がしっかりと残っている。
落城後は佐竹氏を頼ったとのこと。おそらく以前より佐竹氏と交流があり、城の造りも佐竹のエッセンスが入っているのではないか。
面白いなと思ったのは、虎口が非常に多いこと。例えば主郭は方形の各辺に虎口が備わっているし、ニ郭も同様。
車は三郭でもある「かすみの里公園」に駐車可能。
島崎城跡を守る会の方々が、最近この城も整備を始められ、看板がついた。
本当にありがとうございますm(_ _)m
【写真の説明】
①根小屋より長山城遠景
②ニ郭より主郭を見る
③主郭の土塁
④主郭の虎口
⑤主郭虎口から続く横堀
⑥主郭の東側の郭(出郭のようなもの)から主郭を見る。こちらも土塁が明瞭に残る。
⑦主郭-出郭間の空堀。橋台のような出っ張りがあり、木橋が架かっていたかも知れない。
⑧出郭-物見郭(のようなもの)間の空堀。後世に広げられてしまったか?
2021年09月03日 昌幸近江守更に吉
長山城[島崎城 周辺城郭]
茨城県潮来市にある長山(永山)城のニ郭をご紹介。
【写真の説明】
①主郭-ニ郭間の空堀
②主郭からニ郭を見る
③ニ郭の土塁
④ニ郭虎口
⑤ニ郭-三郭間にあったと思われる竪堀。三郭は公園造成のため消滅
⑥竪堀下の削平地に設置された案内板
2021年08月07日 ファン掃部助トム治郎
島崎城
地元の方の尽力により見ごたえたっぷりの城跡です。案内や整備状況にはおもてなしの精神を感じられます。東曲輪にある八幡台から物見台を眺める際に下に20メートルくらいの堀があり見ごたえがあります。
2020年09月22日 みかも内匠助48世
島崎城
着々と整備されています。本日伺いましたが早速地元のボランティアさんから説明頂きました。6月に伺いましたがそれより整備が行き届いていて空堀や三曲輪にもアプローチ出来ました。ボランティアさんから10月にもまた整備しますよとの事。手を掛ければ小幡城を越える城跡になる可能性のある城跡と思います。
2020年08月02日 国府左京大夫城介
島崎城
公共交通機関を使ったリア攻めについて
島崎城をリア攻めするには、潮来駅を利用するのが最適です。
潮来駅からは、バス(神宮あやめ白帆ライン)が出ていますが、島崎城から最寄りのバス停(牛堀中央)から2km程あり、本数も少ない(8便/日)ので、あまりお薦めしません。
駅前の水郷潮来観光協会では、レンタサイクル(500円/日)が利用できるので、これを利用するのがベストだと思います。
観光協会は、営業時間が9:30~17:00で、火曜日が定休日となっています。
ただ一つ難点を上げるとすると、g先生の最短ルートだと、ちょっとキツメの坂を登る必要があります。全般的に車がほとんど通らない走りやすい道ではありますが…
因みに自分は、始発でのアタックだったので、潮来駅から40分程歩いてのリア攻めでした( ´∀`)
でも、それをする程の価値があるお城だったので、まだリア攻めしていない方がいましたら、是非行ってみてください!
2020年06月03日 みかも内匠助48世
島崎城
駐車場完備。城跡に向かうには駐車場の下の道に降りて城跡に向かって左側に回り込んで下さい。地元の有志の方々の尽力で綺麗に整備してあります。馬出し曲輪や枡形も残ってました。あちこちに立て看板もあり私の様な初心者には大変わかりやすかったです。2020.6.6追記 第三曲輪への道が倒木で塞がれてます。行けなくは無いですがお気をつけて。少し虫が出てきてます。でも良い所ですねぇ。
2020年01月29日 昌幸近江守更に吉
島崎城
主郭(御礼神社)を見上げる根古屋に駐車場ができました。20台位停められそうです。(写真左側の砂利のところ)
2020年01月20日 独眼竜弾正少弼
島崎城
神社がありますが、階段が機能していなく、斜面を登る感じで、ずるずる滑るので、登るのは断念。
おそらく難攻不落に近い城だったのかも⁉️
代々左衛門尉を称し小高、麻生、玉造など行方四頭と呼ばれ、それら諸氏の中で最大の武威を誇り、領内に数か所の支城を配していた。
戦国後期には麻生氏など同族を滅ぼし、鹿島氏も攻略し「南方三十三館」で筆頭の地位を得た。しかし、天正19年(1591)城主義幹は、佐竹義宣によって謀殺され落城した。
島崎城の縄張りは湿地帯の中へ北から南に突き出した台地の先端に主郭を置き、土塁と空堀で遮断しながら第五の曲輪まで順次下位の曲輪を配している。殊に第三の曲輪は広大でその北の空堀の深さは10mを越えている。
外構えは古宿、西側に表門搦手口に金井柵、麓部を根小屋、表門周辺は古屋、西出口を宿、南にかけて芝宿があり、集落の発達過程を示し、また水の手曲輪も井戸と共に現存する。
居住性と共に軍事性を重視した城造りは、他に類を見ることはできない。