大崎城(おおさきじょう)

大崎城の基本情報

通称・別名

矢作城、城山

所在地

千葉県香取市大崎字城の内他

旧国名

下総国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

国分胤通

築城年

鎌倉時代前期

主な改修者

主な城主

国分氏、鳥居氏

廃城年

慶長5年(1600)頃

遺構

土塁、横堀(空堀)、掘立柱建物跡、住居跡

指定文化財

市史跡(大崎城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

本矢作城(千葉県香取市)[2.8km]
前林城(千葉県成田市)[9.1km]
小見川城(千葉県香取市)[9.6km]
島崎城(茨城県潮来市)[10.9km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[11.0km]

大崎城の口コミ情報

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年02月28日]
伊能氏
大崎城の北、利根川沿いにある水郷の街佐原の名主伊能家は元々国分氏の家臣であった。伊能氏の発祥は大和国高市郡西田郷とされ、大同2(807)年、藤原景能という人物が勅命を受けて下総国香取郡大須賀郷を領したという。以後、代々この地を領していたが、千葉常胤四男、大須賀胤信が大須賀郷を領した後は、大須賀氏と関係を深めていった。伊能朝辰は松子城南に伊能城を築いて拠ったが、その3代目の景信は国分氏の家臣となった。当時の国分氏当主胤政が、大須賀氏より養子を貰っていた説があり、その関係で大須賀氏から送られてきたのではないかと考えられる。正木氏による大崎城落城の折には、景信は主とともに子の景久と孫の景常を脱出させ、自らは討死した。景久はその後も国分氏を助け、佐原を賜った。景常は主に請い、帰農して佐原の名主となったと言われる。その後も商家として佐原の地に根付いたが、家勢は衰えていった。後に神保三治郎を婿に迎え、名主として再興した、この神保三治郎が後の測量家、伊能忠敬である。忠敬の直系は孫の代で途絶えるが、同族の清宮家は後に国学者の清宮秀堅を輩出している。

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年02月28日]
その後の国分氏
小田原の役で徳川方に城を明け渡した後、国分氏の中には常陸鹿島神宮惣大行事の養子となって同職を継いだ流れ、水戸藩士となった流れ、土井氏(佐倉藩・唐津藩・古河藩)に仕えた子孫もあった。土井氏に仕えた国分氏は矢作氏を称し、本家の元を離れ北条氏に仕えていたが、北条氏が滅びた後は、三河へ流れ徳川に仕えた。矢作喜兵衛胤基は土井氏に仕え、佐倉城の縄張りを担当した。水戸藩士となった国分氏は大崎城主国分氏の最後の当主胤政の孫である国分胤次・国分胤久が水戸藩主・徳川頼房に仕えた事から始まる。胤久の嫡子胤良は旧領である矢作の地を訪ね、その際、観福寺を宿とした。観福寺は国分氏の老臣の家柄であった伊能家の菩提寺であり、伊能忠敬の義祖父、伊能三郎右衛門景利の元へも、胤良より土産物が届けられたという。水戸国分氏と旧領の人々の交流は江戸時代を通じて続いた。国分氏は途中、同じ千葉六党の武石氏の子孫と思われる武石胤将を婿養子に迎えながら、幕末まで続いたが、幕末の動乱、水戸藩内での諸生派と改革派の権力争いの中で、改革派として投獄された。その後の明治維新によって罪を許され、小姓頭取に就任した。

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年02月28日]
国分氏
初代胤通は父常胤の代理として国衙に関わっていたと考えられ、頼朝の元に参上した時には既に国分を称していた。香取神宮領の地頭職を常胤から譲られ、嫡男時通を除いた国分氏は皆、大戸荘へ移った。時通には後継がなく、惣領家は初期に姿を消し、大戸荘に移った国分氏はそれぞれ独立した御家人となった。本矢作城、大崎城主であった矢作国分氏は時通の六男常義から始まる国分氏を代表する家であるが、常義の頃はただの一流に過ぎなかった。常義の嫡子胤実は千葉介頼胤の後見人となり、その孫泰胤は「国分矢作惣領」と記されていることから、この頃には国分氏の中でも大きな勢力を持っていたと考えられる。大崎城を築いたのもこの頃とされる。享徳の乱では、馬加康胤に味方したらしく、その後も下総千葉氏に仕えて、臼井合戦や武田氏の小弓城攻めの際には、千葉介の命令で援軍を送っている。永禄4(1561)年頃から度々正木氏の攻撃を受け、永禄8(1565)年、遂に落城する。しかし、胤政は天正9(1581)年、大戸川内の浄土寺を再建したとあり、天正年中には大崎城を取り戻していた様だ。その後本拠を岩ヶ崎城へ移したと言われるが、定かではない。

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年02月28日]
本命寺の西にあるトンネルの上には両総用水が流れており、4郭と2郭を繋いでいる。脇に上に登る階段が作られていたが、関係者以外立入禁止となっており、登ることは叶わない。2郭、1郭に入る手段がないかと、周囲を回っていたら、東側に1郭、2郭の間の堀を利用した舗装されていない道があった。入っていいものかと躊躇して結局入らなかったが、調べてみると入った先に虎口があるそうだ。行けばよかった。舗装されていない道の北には1郭に登る舗装された道がある。登った先には畑と両総用水があり、用水には橋が架かっており、1郭内部へと行ける道があった。腰曲輪のような構造が1郭、4郭に見られ、二段構造となっており、この城の特徴と言える。全体的に遺構はよく残っているので、整備しないまでも、もう少し案内などをおいては貰えないだろか。

佐野民部少輔藤原朝臣氏胤様[2018年02月28日]
大崎城は北に延びる半島台地上にあり、南に位置する白幡神社から北に向かい4郭、東寄りに3郭、2郭、1郭と縄張りが造られている。現在は両総用水が南北を貫いており、ある程度の改変が考えられるが、全体的に堀や土塁はよく残っている。大手門と考えられる白幡神社奥の社の裏手から4郭前の堀に行ける。堀を越えると4郭の土塁の上に上がり、その先には広い4郭がある。4郭を進んで行くと、下へと降りて行く道があり、降りた先にまた堀がある。堀の横には両総用水があり、そのまま2郭へと繋がっている様であったが、柵が張られており、先には進めなかった。取り敢えず、堀を越えて東寄りの3郭方面へ向かう。堀の先は小さい郭になっており、すぐ先にまた堀がある。堀の先は3郭となっているが、非常に高く、登るのは困難と思われたので、一度白幡神社に戻った。3郭には本命寺横の小道から登ることが出来、古い墓地として利用されていた様である。五輪塔の裏手に先ほどの堀が見える。

藤井伊賀守様[2016年01月08日]
城跡南端の白幡神社の裏からよじ登ると、四郭の空堀と、土塁がみごと。

用水道が、城内を貫通してますが、主郭、二郭間の堀切など見応えある城跡です。

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