大崎城(おおさきじょう)
大崎城の基本情報
通称・別名
- 矢作城、城山
所在地
- 千葉県香取市大崎字城の内他
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 国分胤通
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 国分氏、鳥居氏
廃城年
- 慶長5年(1600)頃
遺構
- 土塁、横堀(空堀)、掘立柱建物跡、住居跡
指定文化財
- 市史跡(大崎城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
前林城(千葉県成田市)[9.1km]
小見川城(千葉県香取市)[9.5km]
島崎城(茨城県潮来市)[10.9km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[11.0km]
森山城(千葉県香取市)[14.2km]
神宮寺城(茨城県稲敷市)[14.2km]
多古城(千葉県香取郡)[15.7km]
鹿島城(茨城県鹿嶋市)[16.2km]
長沼城(千葉県成田市)[16.8km]
飯櫃城(千葉県山武郡)[16.9km]
大崎城の解説文
[引用元:Wikipedia「大崎城」の項目]
矢作城(やはぎじょう)、または大崎城(おおさきじょう)は、千葉県香取市大崎にあった日本の城。「大崎城跡」として香取市指定史跡。
概要
矢作城は大崎城とも呼ばれ、城址は香取市大崎字城内を中心としている。本矢作城主第4代の国分胤長の第二子・泰胤が城替えして拠ったもので、旧城には一族の行常が残った。
大崎の地はもともと、足利家氏の次男である斯波宗家の領有した大崎庄であったが、斯波氏がここを離れ、奥州を本拠とするようになったので、国分泰胤はその後を受けて領主となった。矢作城は、本矢作城に比べかなり大きく、さらに要害で、耕地が開けて佐原にも近く、交通至便である。本矢作城から移ったのは、14世紀の初め頃と言われる[1]。
戦国末期になると、他の千葉氏の城と同じく北条氏の配下に属したが、何度か里見氏の属将正木氏に攻められている。これにより、永禄8年(1565年)に一度落城したとの説がある。その後、正木氏は小見川を捨てて上総に引き上げたので、国分氏は再び城地を回復したが、天正14年(1586年)に再び正木軍の攻撃を受けて落城した。
天正18年(1590年)、矢作城は豊臣秀吉下の徳川家康の軍勢により開城させられた。このとき、国分氏は常陸鹿島惣大行事のもとへ逃れて庇護を受け、のちに水戸家の食客となった[2]。
構造
矢作城は、「城の内」と「外城」に分けられる。
城の内は、本妙寺の横から与倉を通って国道51号線に抜ける道路の北側にあり、本丸跡と妙見社が祀られた跡がある。外城は、本妙寺の南で、白旗神社のあたりまで多くの空堀があったという。大手門はこの南にあったと推定される[3]。
アクセス
- JR成田線佐原駅から多古行きバス 橋本下車 徒歩15分
参考文献
- 平井聖ほか 1980年「矢作城」『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社 p.65
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大崎城の口コミ情報
2026年08月16日 マグロ常陸介祐平
鴇崎城[大崎城 周辺城郭]
鴇崎(ときさき)一帯は中世に大戸荘に属し、鎌倉時代中期までは大須賀氏、以降は国分氏が領有しています。お城の来歴や城主などは資料に現れないようです。お城周辺には千葉氏の系統とされる鴇崎氏が現在も住まわれており、城主とも考えられているようです。
説明板(写真1枚目)の背後から、主郭へと登る道を進みます(写真2枚目)。主郭は南側は畑と草むらになっており、北側の林には千葉氏系統のお城らしく妙見様と呼ばれる星宮神社が鎮座しています(写真6枚目,元々は天之御中主神を祭神とする西坂神社の境内だったようです)。神社背後には土塁を伴う二重の堀切が見られ(写真3~5枚目)、北側が2郭となります。さらに北側には3郭と4郭が西から東へと続いていたようですが、土取りの為、消滅したようです。
お城から北に1km程には、説明板に記載のある光福寺があります(写真7枚目,鴇崎村内)。延久4年(1072年)創建の古刹で、千葉県内で唯一の「後醍醐天皇の綸旨」が伝わっています。また、文明3年(1471年)の平(国分氏)之胤や大永7年(1527年)の大崎城主国分朝胤の判物も伝わり、お城と国分氏との関連を感じます。境内には文永5年(1268年)の開山板碑(写真8枚目)が見られます。
2026年08月15日 マグロ常陸介祐平
毛成砦[大崎城 周辺城郭]
村田城から西に約1.2km、鴇崎城から南に約1.5km、来歴や城主など不明なようですが、栗林義長が大須賀氏を攻めるために築いたとする伝承があるようです(余呉さんのサイト)。立地的には大須賀氏に関連する砦でしょうか。Googleマップには「毛成城」で位置登録されています。舌状台地の先端に位置するほぼ単郭の砦のようです。
主郭は鉄塔が建っている為、北側の保安道から入城でき、2~3分でたどり着けます。主郭は広さはありますが傾斜地となっています。鉄塔周辺はひらけていますが周囲は薮が激しく、遺構として残っているらしい土塁は確認できませんでした。
毛成砦から120m程に館山砦が存在していたようですが、土取りの為、消滅しています。
2026年08月14日 マグロ常陸介祐平
小川台城[大崎城 周辺城郭]
国分氏関連のお城とされているようですが、詳細は不明です。主郭には皇産霊神社が鎮座していますが、千葉氏系統のお城らしく、元々は妙見神社だったようです。軍記物の東国闘戦見聞私記によると栗林義長に攻められたとあるようです。
皇産霊神社の建つ、南西に伸びる舌状台地が城址となります。お城は2つの郭で構成されており、南側の鳥居(写真1枚目)から石段を登った先(写真2枚目)が2郭で、北側の一段高い郭が主郭となります(写真4枚目)。主郭の手前西側に小さな稲荷社があり、背後には竪堀が見られます(写真3枚目)。主郭の神社背後には立派な土塁(写真5枚目)がありますが、堀を伴わないもので、神社としての構造物と思われます。その先には堀切がありました(写真6枚目)。お城は小規模で、イメージ的には砦です。
上小川の地は、肥前鹿島藩ゆかりの地でもあります。佐賀藩の藩祖鍋島直茂の次男忠茂は、関ヶ原の合戦の際に兄勝茂が西軍に付くも父の命により西軍の立花宗茂を攻め、鍋島氏の存続に貢献します。戦後、家康への人質として江戸に赴き、秀忠の近習となり、矢作の地に5千石を賜っています。陣屋は神埼町岩崎(下総神崎駅前付近)に築かれたようです。忠茂の「忠」の字は秀忠の偏諱を賜ったものです。慶長13年には佐賀藩から肥前鹿島2万石を分知され2万5千石の大名になっています。忠茂は大阪冬の陣に病身を押して参戦し、その後は神崎の陣屋ではなく上小川で療養しますが、寛永元年にこの地で亡くなっています。肥前鹿島藩は、忠茂の子の正茂が継ぎますが、佐賀藩主で叔父の勝茂は自身の9男直朝を養子に押し付けられるのを拒否し本藩と義絶、鹿島2万石を本藩に取り上げられ、矢作5千石の旗本として存続しています。肥前鹿島藩は、直朝が別家を立てて引き継いでいます。元禄11年に5代目長行(佐賀藩2代目藩主光茂の子、なんだったんでしょうか)が三河に所領替えとなっています。上小川城の麓にある圓通寺には、この地で亡くなった忠茂から4代目直旨までの墓があります(写真7,8枚目)。
上小川城のある台地上には古墳もあり、遺跡としての時代区分は古墳・中世・近世となっていますが、1992年に発掘調査では、江戸時代のものは出土していないようで、鍋島氏は台地上の城跡は使用していないと思われます。忠茂が療養した屋敷は、現在集落になっている場所にあったものと思われます。
2026年08月13日 マグロ常陸介祐平
村田城[大崎城 周辺城郭]
国分氏初代胤通の5男有胤が村田の地を領して村田を名乗っていますが(鎌倉時代初期)、以降の村田氏の動向は不明です。軍記物の東国闘戦見聞私記に、近隣の上小川城の城将に村田兵衛の名が見られるようですが、関連や実在の可能性は不明です。城址入口の標柱(写真1枚目)の裏面には、大須賀氏の領域の外縁に在ることから、大須賀氏が自己の領域を守るために築いた「境目の城」と考えられているとしています。城域には大須賀氏のお城らしく、妙見社が祀られています。
標柱の先を進む道は妙見社へと向かう参道ですが、1・2郭と3・5郭を区切る堀底を利用したものです(写真2枚目)。参道は突き当たりを右に折れ(写真3枚目)、神社の鳥居は虎口部分となります(写真4,5枚目)。虎口の先の神社は、2郭の腰郭となります。神社の背後から深い空堀が北へと続いていますが、降りることが出来ず、一旦虎口に戻って2郭から1郭の深い空堀沿いを進んでみました(写真7枚目)。途中には1郭と2郭を仕切る浅い堀と土塁が確認出来ます(写真8枚目)。空堀に沿って土塁も残っていますが(写真6枚目)、薮に阻まれ撤退しました。
標柱には「雄大な空堀や土塁を残す県下でも屈指の発達した構造を示す中世城郭」とあり、今回見ることの出来なかった北西部分は数箇所の横矢掛かりが見られるようです。各お城のサイトでもその部分の写真はあまり見られませんが、冬場ならなんとかいける気がします。
2026年08月12日 マグロ常陸介祐平
大戸城[大崎城 周辺城郭]
国分氏初代胤通の子の大戸四郎大夫親胤のお城と伝わるようです。また、天正時代の末期には同族の大須賀氏の一族が居城したともされるようです。軍記物の「東国戦記実録」には、天正9年(1581年)11月に千葉勢がこの城に立てこもり、栗林・土岐の両勢と激しく攻防戦を展開したことが記されているようです。
地福寺入口の一段上で農作業をされていた方にお城について尋ねると、「ここは城ノ口と言って城の入口だが、昔は行けたと思うけど、いまは薮で行けないよ。行けても何も残ってないよ。」とのことでした。墓地まで進むとその先は竹藪となり、入ってみると空堀らしきが見られます。30m程で竹藪を抜けると細尾根に堀切状の地形が見られますが、先程の空堀らしきは、台地の下に向かって降っていきます。空堀状のものは、おそらく堀ではなく台地の麓から墓地に至る廃道と思われます。細尾根の先は台地の先端で、やや削平の甘い狭い郭状の空間となります。堀切状の場所から台地を降ると、地福寺の歴代住職の墓付近に出ました。縄張り図と一致しないと思いながら探索しましたが(余呉さんのものを拡大して保存したもの)、後から調べたところ、お城は北に伸びる尾根を利用したもののようで、どうやら場所が異なっていたようでした(余呉さんも1度目の探索では同じ場所をまわったようです)。地元の方も場所をわかっていなかったのか、教えてもらった場所も城域なのかはわかりませんが、主郭とされる場所にも遺構はほとんど見られないようです。
地福寺は鎌倉時代初期に国分氏により創建されたお寺で、境内には沢山の板碑が見られます。その内2基は正元元年(1259年)の物で、千葉県の文化財に指定されています。1基には姓が見られますが、国分氏の平姓ではなく、丹治姓となっており板碑からは国分氏との繋がりはみえません。
2026年08月10日 マグロ常陸介祐平
大崎城
鎌倉時代末期に千葉常胤の5男胤通が下総国分寺付近に居を構え国分を称します。その後、本矢作に拠点を移し、4代目胤長の次男泰胤が、本矢作城から城替えして築いたとされています。
永禄8年(1565年)伊能景信が城将の際に里見氏の家臣正木憲時により落城し、天正14年にも再度正木憲時により落城したとされています。天正18年の小田原の役により徳川家康が関東に入ると国分氏は改易となり、矢作城には4万石でかの有名な鳥居元忠が入城し矢作藩を立藩、岩ヶ崎に新城を築き始めるも慶長5年(1600年)に関ヶ原の前哨戦の伏見城の戦いで討死してしまいます。矢作藩は子の忠政が継ぎますが、元忠の功績により慶長7年に10万石で磐城平に転封となり、大崎城も廃城になったようです。
小田原の役後の国分氏は、15代目の胤光が寛永元年に200石で水戸藩に仕官しています。歴代当主は矢作の地と交流を持ち続け、旧臣に官途状を発給したものも確認されているようです。
お城の中央にバイパス水路を設置するために4度に渡る発掘調査が行われ、遺構としては建物跡や井戸跡、遺物としては漆器類や中国産の陶磁器類、僧侶の名前と思われる墨書「遍光」のある土器、呪符木簡「急急如律令」、桜の木を削って作った永禄4年(1561年)の銘のある卒塔婆などが出土しています。
お城は4つの曲輪で構成されており、北から1郭・2郭・3郭・4郭と並んでいます。本命寺の前を東西に通る道が2郭と3郭の境界のようです。今回、お城マークのある1郭を目指してみました。先人様が位置登録された登城口を西に進むと、巨大な切り通しとなります。おそらく1郭と2郭を区切る堀切の跡と思われますが、中央部は前記したバイパス水路があってガードレールのついた橋がかかっており、堀切と言うよりは切り通しの廃道のようになっています。登城口マークに戻り、北に向かう道を進むと左にターンする登り坂の切り通しとなります。登ってみると薮に包まれた2軒の廃屋があり、そのすぐの北側上段が1郭のようですが、薮に阻まれ断念しました。登り坂手前に北に向かう道が付いているので進んでみましたが(この地点でリア攻め認定)崖を登ることが出来ず、結局1郭には辿りつけませんでした。本命寺裏の3郭や白幡神社裏の4郭には遺構が残るようですが、今回確認できていません。
本命寺は、大崎城を築城したとされる泰胤が城内に創建したもので、墓域には昭和8年に建てられた国分氏の供養塔があります。
2026年08月10日 マグロ常陸介祐平
菱崎城[大崎城 周辺城郭]
大崎城から東南に約500メートル、大六天神社が鎮座する台地が城址となります。 城主や来歴などは不明のようですが、立地的には国分氏に関連するお城でしょうか。
城域のほとんどが削られてしまい、遺構は空堀の痕跡を残すのみとなっています。空堀の西側は土塁の痕跡のように感じられますが、その先が削られているので、一段高い曲輪の端部の可能性もあります。
1996年に発掘調査が行われ、遺構としては土塁・空堀・虎口・掘立柱建物・柵列・土坑・溝、遺物としては瀬戸製陶器・常滑系陶器・青磁・銭貨・かわらけ・宝篋印塔・五輪塔・内耳鍋・鉄鍋が出土したようです。
2026年08月08日 マグロ常陸介祐平
北台城[大崎城 周辺城郭]
香取神宮から西に約1km、城主や来歴など不明なお城です。立地的には香取神宮や国分氏に関連するお城でしょうか。
バス停前から軽自動車がやっと通れる程の舗装路を登ると、右側に城郭構造が見えてきます(写真1枚目)。登ってみると主郭南側の空堀でした(写真2枚目)。主郭へと登ると、薄めの虎口があります(写真3枚目)。主郭は40×50m程とされ土塁が囲みますが(写真4,5枚目)、北側は削られて消滅しています(写真6枚目)。感覚的には40×50mよりも狭く感じられました。もときた空堀の下には墓地となるやや広い郭がありますが(写真7枚目)、北・西・南よりも低い場所となっており、東側にはしっかりした虎口が見られます(写真8枚目)。虎口を抜けると出発点のバス停へと下れます。小さなお城ですが、そこそこ遺構は残っていました。
北台城の北向かいの台地には香取坊山城がありますが、登城口が見つからず、断念しました。
余談ですが、お城の入口にあるお蕎麦屋さんは、更科風の大変美味しいお蕎麦でした。
2026年08月07日 マグロ常陸介祐平
香取要害城[大崎城 周辺城郭]
関東でも大変有名な神社である香取神宮の西側の要石や護国神社付近が城址となります。城主や来歴などは不明ですが、神社と関連しているものと思われます。住所は佐原市香取字要害となっており、古くからお城と認識されていたことがわかります。
要石の入口部と、要石と護国神社の間に土塁と虎口が確認できます。護国神社の正面側は広さはあるものの、明確な遺構は見られません。
要石は、地震を起こす大鯰を抑える為に地中深くまで差し込んでいるとされる霊石です。僅かに露出している頭頂部は凸型で、鹿島神宮の要石の凹型と形状が対照的になっています。
2026年08月07日 マグロ常陸介祐平
山崎城[大崎城 周辺城郭]
香取神宮から北東に約600m、側高神社付近が城址となります。城主は現在の多古町出身の千葉氏の家臣で「天真正伝香取神道流」を創始し、室町幕府八代将軍足利義政の師範を務めた剣豪飯篠長威斎家直で知られる飯篠氏とされています。子孫は流派を伝え代を重ねていますが、このお城にも道場があったのでしょうか。
側高神社の鳥居(写真1枚目)をくぐり、石段を登ると虎口があり(写真2枚目)、神社の鎮座する主郭となります。参道に沿って西側と神社背後に土塁があり(写真3~5枚目)、西側から北側にかけて空堀が見られます(写真6,7枚目)。 整備された神社ということもあり、神社まではこの時期でも攻城するのに虫以外に支障はありません。背後の空堀はやや薮化していますが、歩けないほどの状態ではありません。主郭の参道より東側は、薮が酷く立ち入り困難でした。
香取神宮奥宮の入口には、飯篠長威斎の墓があります(写真8枚目)。
2026年08月05日 マグロ常陸介祐平
大関田城[大崎城 周辺城郭]
遺構が残る割には、情報量の少ないお城です。城主や来歴なども不明ですが、時代区分は中世から近世とされ、1997年の調査では、土師器・瀬戸製陶器・肥前系磁器・かわらけ・銭貨・五輪塔・宝篋印塔・板碑が検出されています。
龍光院が3郭(写真1枚目)で、お寺の入口(写真3枚目)や本堂の裏側(写真2枚目)に土塁が見られ、その下は切り通しの道になっていますが、空堀の痕跡と思われます(写真6枚目)。お寺の南側には2郭と区切る堀切の痕跡が分かり、2郭の南側の坂虎口(写真4枚目)の先が1郭となります。1郭の南側には土塁が見られます(写真5枚目)。また、お寺の西側の切り通しの先も郭と思われ、竪堀状の城郭的構造(写真7枚目)も見られます。
龍光院自体は江戸時代前期の寛文年間の開山とされますが、墓域には多数の板碑(写真8枚目,出土品?)が見られます。
2026年08月04日 マグロ常陸介祐平
多田城[大崎城 周辺城郭]
千葉氏流大須賀氏の一族の多田氏のお城とされていますが、多田蔵人源満仲のお城ともされ、お城の南側に隣接する光明院には源満仲の供養塔があります(写真5枚目)。おそらく多田の地名から関連付けられたものだと思われます。
千葉氏系統のお城らしく、妙見神社も北側に隣接しています(写真3,4枚目)。周辺には現在も多田姓(家紋は何故か違い鷹の羽)が多く見られ、千葉一族と思われる香取氏(家紋は九曜)も多数見られます。
台地の縁に位置していますが、明確な遺構は見られませんでした(写真1,2枚目)。集落に飲み込まれてしまったようです。光明院は寺伝によると天慶年間に源(多田)満仲が、平将門追討の為に出陣するも、藤原秀郷らに討たれてしまい、帰還する際に摂津多田荘に類似したこの地を「多田」と名付け、将門の供養のために一寺と八幡宮(写真6枚目)を建立したのが始まりとされています。天正6年(1578年)に建立された阿弥陀堂は千葉県の指定文化財(写真7枚目)、源満仲伝承地として香取市の指定史跡となっています。また、満仲の縁で多田荘のあった兵庫県川西市と香取市は、姉妹都市となっています。
2025年05月06日 ラッセル相模守【】栗太郎
香取神宮[大崎城 寺社・史跡]
JR香取駅から歩いていきました。
古くから国家鎮護の神として皇室からの御崇敬が最も篤いことで、知られる。「日本書記」に出てくる経津主大神を御祭神とし、全国に約400ある香取神社の総本山です。
下総国の一の宮であった香取神宮は、国府と密接な結び付きを持ち、伊勢神宮と同じように20年に一度、社殿等を建て替えて御神体等を遷す式年遷宮が行われていました。下総国を代表する大名である千葉氏と葛西氏は、交代で遷宮の費用は、下総国内の領主に割り当てられましたが、千葉氏とその一族も多く負担していました。
今の本殿は、元禄13年(1700)徳川幕府の手によって造営され、昭和52年に国の重要文化財として指定されました。屋根は、檜皮葺、黒漆を基調とした色合いに極彩色で彩りを加え、御神威の大きさを感じさせます。
楼門は本殿同様元禄13年に造営され、昭和58年重要文化財指定された。南側の楼上の額は東郷平八郎の筆によるもの。
拝殿は昭和15年国費を以って造営されました。黒の漆塗りを基調とし極彩色を取り入れた装い。
神楽殿は、現拝殿を造営するにあたり、旧拝殿を現在の場所へ移築した。
【奥宮】楼門より旧参道を西へ100m程に鎮座する社。経津主大神の荒魂を祀る。現在の社殿は昭和48年伊勢神宮遷宮の折の古材によるもの。
【要石】かつて地中に大きなナマズが住み、荒れ騒いで大地震が起こると考えられていた。そこで地中に深く石棒を差し込み静めたという言い伝えが残ります。
2025年04月03日 マグロ常陸介祐平
所城[大崎城 周辺城郭]
日本城郭大系には天正年間に大須賀氏と粟飯原氏の居城だったといわれているとしていますが、お城の麓の御堂の脇に建つ「小貫平右衛門歴代之碑」には、所城之古事として我祖武田大学助重一が大永六年(1526年)に設けたとしています(写真3枚目,地衣類が激しく全文読めない)。
お城は、逆「く」の字型の北に伸びる台地を利用したもので、4つの曲輪が並ぶ連郭式の縄張りとなっています。北側の1郭と2郭を仕切る堀切は底を埋められて畑となっていますが(写真1枚目)、巾の広さがよく分かります。1郭の北側には、土塁や空堀が残るようですが、草が高く見れていません。2郭の東下には小貫家の墓地となる腰郭が見られます。2郭と3郭のを仕切る堀切は変電施設の脇にありますが、巾は狭いものの深さを感じます(薮で写真では表現できない)。3郭と4郭を仕切る堀切は、車道となっている為、掘り下げられたものかもしれませんが(写真2枚目)、3郭に上がるには、変電施設に向かうハシゴ(写真7枚目)を登る必要があるほど深いものです。4郭は他の郭に比べ大変広さがありますが、後世に開墾されたもののようにも思えます(写真4,5枚目)。麓からの比高はそれほどではありませんが、居館というよりは詰城の雰囲気があります。
麓のお宅には、水堀に土橋のように見える構造が見られ(写真8枚目)、居館のように感じられます。
2025年02月16日 治部卿ヒトリモン
村田城[大崎城 周辺城郭]
城域の南を走る道が頂部でカーブする所に標柱が立っており、案内板はないが2郭の妙見神社への参道がついています
どうにかすれば車1台は停め置けそうです
2024年03月04日 国府左京大夫城介
油田新城[大崎城 周辺城郭]
房総では数少ない相横矢がある技巧的な城
【歴史】
築城者・築城年代共に不明。
城の造りから、戦国時代後期と推測される。
油田という地名の由来は、香取神宮の灯油料所という説と、過去に地滑りがあった土地という説がある。
【遺構】
油田新城は、大崎城の南東約6kmにある舌状台地(標高40m/比高20m)に築かれた城郭です。
城は4つの郭から構成され、郭の間には深めの堀切が掘られており、堀底道としても用いられていた。
一番北にある1郭はあまり加工が施されていないが、中央部付近に区画仕切り用の土塁がある。
2郭は1郭の南にあり、城塁は他の郭より高くなるようになっている。2郭の北側には、土塁の内側に堀が掘られているという珍しい形状をしている。2郭の南側下には横堀が掘られている。
3郭が最も広く、2郭に接する西側は折れを伴った形状となっている。南側の虎口は、房総では珍しい相横矢が用いられている。また、3郭の北東下の腰曲輪には、横移動を阻害するように連続で堀切を入れている。4郭との間の堀切は、城内で最も深く掘られており、そのまま東側の麓へと降りれるようになっている。
4郭は外郭にあたるのか、あまり目立った遺構は残っていないが、台地の接続部には土塁が設けられている。
【感想】
房総では珍しい相横矢がある城郭ですが、余湖さんのサイト以外にほとんど情報がないお城です。
余湖さんのサイトにも書かれていますが、藪と倒木が凄まじいです。堀底道は歩きやすいのですが、各郭は倒木と藪(蔓で足を取られる位)で極めて歩きにくいです。しかも、一番のメインである相横矢が倒木のせいで完全な状態で確認することが出来ないです。しかし、城の造り自体はかなり技巧的な城で、かなりワクワクしながら周ることが出来ます。
この城は全く来歴が残っておらず、誰が築城したのか分かっていません。ただ、相横矢が用いられていることから、坂田城主の井田氏が築城した可能性が高いと考えれています。房総では、井田氏が築いた坂田城、津辺城にしか相横矢がないためです。井田氏が香取方面で城を築く可能性があるとすれば、永禄3年(1560)の正木氏による東総侵攻が挙げられます。この時の井田氏は千葉氏に属しており、おそらく正木氏と激しくやりあい、その過程で築城したのだと推測しています。
【アクセス】
①佐原駅からレンタサイクルで、約45分。
②小見川駅から香取市循環バスに乗車し、油田入口で下車し、徒歩5分。(平日限定で一日4便)
【写真】
①登城口(廃屋の右手の藪あたりから)
②4郭の城塁
③3郭と4郭の間の堀切
④3郭の相横矢(倒木で全く分かりませんが)
⑤2郭の虎口
⑥2郭北側の内堀
⑦合流点あたりの堀切
⑧3郭の北東下の堀切(藪で分かりにくいですが)
2023年01月05日 気分爽快修理亮
大崎城
夏場は藪がひどかったので、冬を待って訪れたが、相変わらず藪がひどく遺構はよくわからなかった。道路に利用されたらしい垂直な堀切、白幡神社北側の堀切、本命寺横の藪だらけの郭を見て終了。
①白幡神社北側の堀切
②本命寺横の郭
③水路脇の北側郭(主郭?)
④垂直な堀切
2023年01月04日 マグロ常陸介祐平
岩ヶ崎城[大崎城 周辺城郭]
下総矢作藩の鳥居元忠が、国分氏の城跡を改修中に伏見城で戦死して、子の忠政が磐城平に栄転したことで未完成のまま廃城になったお城です。稲荷神社の郭と西側の三段の郭は見やすいですが(南の愛宕神社の郭は展望良し)、神社北側の郭へは、取り付く場所のないため、高さのある切岸をよじ登ることになりました。郭は二段になっており、高さはありますが狭く、山城の狼煙台の様な雰囲気でした。
神社敷地の西側は宅地化されており城の全容はわかりませんが、四万石の近世の城郭とは感じられませんでした。建造物を建てるには狭い郭が多数並び、薄めですが土塁や堀切も見られる面白いお城です。
2020年08月13日 国府左京大夫城介
岩ヶ崎城[大崎城 周辺城郭]
鳥居元忠が改築するも未完成のまま廃城となった城
【歴史】
元々はこの辺りを治めていた国分氏が大崎城に替わる本城として築城したという。
その後、徳川家康の関東への国替えに伴い、その重臣である鳥居元忠が下総矢作4万石を与えられた。おそらく北の佐竹氏に対する抑えとして、鳥居元忠が配置されたものと思われる。
当初、鳥居元忠は大崎城に入城したが、手狭なため、岩ヶ崎城の改築を行ったが、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した。戦後鳥居氏は陸奥磐城平へ転封されたことにより、岩ヶ崎城は未完成のまま廃城となった。
【遺構】
高さ20m程の台地上の築城されており、周囲は切り立った崖となっている。本丸があったと思われる西側部分は宅地化されているが、稲荷神社や愛宕神社かある東側は土塁等の遺構は残っている。稲荷神社の北側の高台にも遺構があるようだが、倒木と凄まじい薮で行けなかったので詳細は不明。
残存している土塁や堀からは、あまり織豊系の城らしくないので、鳥居元忠による改築は進んでいなかったように思われる。
【アクセス】
佐原駅から徒歩で15分程。
路上になるが、車を停めるスペースはあるが、駐車していいかは不明。
【写真】
1:稲荷神社参道入口
2:稲荷神社西側にある枡形虎口
3:土塁と堀に挟まれた通路
4:西側の虎口(その先が本丸?)
5:愛宕神社から佐原の街を臨む
6:南曲輪の土塁
7:西側虎口の土塁
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
本矢作城[大崎城 周辺城郭]
本矢作城は大戸荘に移った国分胤通によって築かれたという。鎌倉期の館であったと思われ、堀や土塁といった遺構は見受けられないが、果樹園となっている部分より南に、一段下がった土地がある。人工的に造られた地形であると見られ、大崎城の二段構造に通ずるものがある。
国分氏は泰胤の代に大崎城に移ったとされるが、泰胤は鎌倉期の人物である。明治期の地図を見ると、本矢作には大規模な集落があるのに対して、大崎には集落がない。大崎城の城郭が後世拡大されたものとしても、鎌倉期に集落から離れた場所に、拠点を築いたというのには違和感がある。また、本矢作城の近くにある知足院は国分氏の菩提寺と言われ、開山は室町中期、文亀年間とされる。このことから考えるに、大崎城は本矢作城の詰城として築かれ、室町中期までは本矢作城が居館として機能していたのではないか?
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
伊能氏
大崎城の北、利根川沿いにある水郷の街佐原の名主伊能家は元々国分氏の家臣であった。
伊能氏の発祥は大和国高市郡西田郷とされ、大同2(807)年、藤原景能という人物が勅命を受けて下総国香取郡大須賀郷を領したという。
以後、代々この地を領していたが、千葉常胤四男大須賀胤信が大須賀郷を領した後は、大須賀氏と関係を深めていった。
伊能朝辰は松子城南に伊能城を築いて拠ったが、その3代目の景信は国分氏の家臣となった。当時の国分氏当主胤政が、大須賀氏より養子を貰っていた説があり、その関係で大須賀氏から送られてきたのではないかと考えられる。
正木氏による大崎城落城の折には、景信は主とともに子の景久と孫の景常を脱出させ、自らは討死した。景久はその後も国分氏を助け、佐原を賜った。
景常は主に請い、帰農して佐原の名主となったと言われる。
その後も商家として佐原の地に根付いたが、時代を経るにつれて家勢は衰えていった。その最中、武射郡小堤村の酒造家神保家より婿養子に迎えたのが神保三治郎であった。三治郎はその才覚を発揮し、商家、そして名主としての伊能家を再興させた。この神保三治郎が後の測量家、伊能忠敬である。
忠敬の直系は孫の代で途絶えるが、同族の清宮家は後に国学者の清宮秀堅を輩出している。
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
その後の国分氏
小田原の役で徳川方に城を明け渡した後、国分氏の中には常陸鹿島神宮惣大行事の養子となって同職を継いだ流れ、水戸藩士となった流れ、土井氏(佐倉藩・唐津藩・古河藩)に仕えた子孫もあった。土井氏に仕えた国分氏は矢作氏を称し、本家の元を離れ北条氏に仕えていたが、北条氏が滅びた後は、三河へ流れ徳川に仕えた。矢作喜兵衛胤基は土井氏に仕え、佐倉城の縄張りを担当した。水戸藩士となった国分氏は大崎城主国分氏の最後の当主胤政の孫である国分胤次・国分胤久が水戸藩主・徳川頼房に仕えた事から始まる。胤久の嫡子胤良は旧領である矢作の地を訪ね、その際、観福寺を宿とした。観福寺は国分氏の老臣の家柄であった伊能家の菩提寺であり、伊能忠敬の義祖父、伊能三郎右衛門景利の元へも、胤良より土産物が届けられたという。水戸国分氏と旧領の人々の交流は江戸時代を通じて続いた。国分氏は途中、同じ千葉六党の武石氏の子孫と思われる武石胤将を婿養子に迎えながら、幕末まで続いたが、幕末の動乱、水戸藩内での諸生派と改革派の権力争いの中で、改革派として投獄された。その後の明治維新によって罪を許され、小姓頭取に就任した。
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
国分氏
初代胤通は父常胤の代理として国衙に関わっていたと考えられ、頼朝の元に参上した時には既に国分を称していた。香取神宮領の地頭職を常胤から譲られ、嫡男時通を除いた国分氏は皆、大戸荘へ移った。時通には後継がなく、惣領家は初期に姿を消し、大戸荘に移った国分氏はそれぞれ独立した御家人となった。本矢作城、大崎城主であった矢作国分氏は時通の六男常義から始まる国分氏を代表する家であるが、常義の頃はただの一流に過ぎなかった。常義の嫡子胤実は千葉介頼胤の後見人となり、その孫泰胤は「国分矢作惣領」と記されていることから、この頃には国分氏の中でも大きな勢力を持っていたと考えられる。大崎城を築いたのもこの頃とされる。享徳の乱の際の動向は不明である。馬加康胤、原胤房と戦った東常縁に国分五郎が加担している一方で、矢作国分氏自体はその後も下総千葉氏に仕えている為、国分氏の中でも意見が分かれていた様だ。臼井合戦や武田氏の小弓城攻めの際には、千葉介の命令で援軍を送っている。永禄4(1561)年頃から度々正木氏の攻撃を受け、永禄8(1565)年、遂に落城する。しかし、胤政は天正9(1581)年、大戸川内の浄土寺を再建したとあり、天正年中には大崎城を取り戻していた様だ。その後本拠を岩ヶ崎城へ移したと言われるが、定かではない。
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
本命寺の西にあるトンネルの上には両総用水が流れており、4郭と2郭を繋いでいる。脇に上に登る階段が作られていたが、関係者以外立入禁止となっており、登ることは叶わない。2郭、1郭に入る手段がないかと、周囲を回っていたら、東側に1郭、2郭の間の堀を利用した舗装されていない道があった。入っていいものかと躊躇して結局入らなかったが、調べてみると入った先に虎口があるそうだ。行けばよかった。舗装されていない道の北には1郭に登る舗装された道がある。登った先には畑と両総用水があり、用水には橋が架かっており、1郭内部へと行ける道があった。腰曲輪のような構造が1郭、4郭に見られ、二段構造となっており、この城の特徴と言える。全体的に遺構はよく残っているので、整備しないまでも、もう少し案内などをおいては貰えないだろか。
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
大崎城は北に延びる半島台地上にあり、南に位置する白幡神社から北に向かい4郭、東寄りに3郭、2郭、1郭と縄張りが造られている。現在は両総用水が南北を貫いており、ある程度の改変が考えられるが、全体的に堀や土塁はよく残っている。大手門と考えられる白幡神社奥の社の裏手から4郭前の堀に行ける。堀を越えると4郭の土塁の上に上がり、その先には広い4郭がある。4郭を進んで行くと、下へと降りて行く道があり、降りた先にまた堀がある。堀の横には両総用水があり、そのまま2郭へと繋がっている様であったが、柵が張られており、先には進めなかった。取り敢えず、堀を越えて東寄りの3郭方面へ向かう。堀の先は小さい郭になっており、すぐ先にまた堀がある。堀の先は3郭となっているが、非常に高く、登るのは困難と思われたので、一度白幡神社に戻った。3郭には本命寺横の小道から登ることが出来、古い墓地として利用されていた様である。五輪塔の裏手に先ほどの堀が見える。
2016年01月08日 藤井伊賀守
大崎城
城跡南端の白幡神社の裏からよじ登ると、四郭の空堀と、土塁がみごと。
用水道が、城内を貫通してますが、主郭、二郭間の堀切など見応えある城跡です。









