大崎城(おおさきじょう)
大崎城の基本情報
通称・別名
- 矢作城、城山
所在地
- 千葉県香取市大崎字城の内他
旧国名
- 下総国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 国分胤通
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 国分氏、鳥居氏
廃城年
- 慶長5年(1600)頃
遺構
- 土塁、横堀(空堀)、掘立柱建物跡、住居跡
指定文化財
- 市史跡(大崎城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
前林城(千葉県成田市)[9.1km]
小見川城(千葉県香取市)[9.5km]
島崎城(茨城県潮来市)[10.9km]
阿波崎城(茨城県稲敷市)[11.0km]
森山城(千葉県香取市)[14.2km]
神宮寺城(茨城県稲敷市)[14.2km]
多古城(千葉県香取郡)[15.7km]
鹿島城(茨城県鹿嶋市)[16.2km]
長沼城(千葉県成田市)[16.8km]
飯櫃城(千葉県山武郡)[16.9km]
大崎城の解説文
[引用元:Wikipedia「大崎城」の項目]
矢作城(やはぎじょう)、または大崎城(おおさきじょう)は、千葉県香取市大崎にあった日本の城。「大崎城跡」として香取市指定史跡。
概要
矢作城は大崎城とも呼ばれ、城址は香取市大崎字城内を中心としている。本矢作城主第4代の国分胤長の第二子・泰胤が城替えして拠ったもので、旧城には一族の行常が残った。
大崎の地はもともと、足利家氏の次男である斯波宗家の領有した大崎庄であったが、斯波氏がここを離れ、奥州を本拠とするようになったので、国分泰胤はその後を受けて領主となった。矢作城は、本矢作城に比べかなり大きく、さらに要害で、耕地が開けて佐原にも近く、交通至便である。本矢作城から移ったのは、14世紀の初め頃と言われる[1]。
戦国末期になると、他の千葉氏の城と同じく北条氏の配下に属したが、何度か里見氏の属将正木氏に攻められている。これにより、永禄8年(1565年)に一度落城したとの説がある。その後、正木氏は小見川を捨てて上総に引き上げたので、国分氏は再び城地を回復したが、天正14年(1586年)に再び正木軍の攻撃を受けて落城した。
天正18年(1590年)、矢作城は豊臣秀吉下の徳川家康の軍勢により開城させられた。このとき、国分氏は常陸鹿島惣大行事のもとへ逃れて庇護を受け、のちに水戸家の食客となった[2]。
構造
矢作城は、「城の内」と「外城」に分けられる。
城の内は、本妙寺の横から与倉を通って国道51号線に抜ける道路の北側にあり、本丸跡と妙見社が祀られた跡がある。外城は、本妙寺の南で、白旗神社のあたりまで多くの空堀があったという。大手門はこの南にあったと推定される[3]。
アクセス
- JR成田線佐原駅から多古行きバス 橋本下車 徒歩15分
参考文献
- 平井聖ほか 1980年「矢作城」『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社 p.65
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大崎城の口コミ情報
2024年03月04日 国府左京大夫城介
油田新城[大崎城 周辺城郭]
房総では数少ない相横矢がある技巧的な城
【歴史】
築城者・築城年代共に不明。
城の造りから、戦国時代後期と推測される。
油田という地名の由来は、香取神宮の灯油料所という説と、過去に地滑りがあった土地という説がある。
【遺構】
油田新城は、大崎城の南東約6kmにある舌状台地(標高40m/比高20m)に築かれた城郭です。
城は4つの郭から構成され、郭の間には深めの堀切が掘られており、堀底道としても用いられていた。
一番北にある1郭はあまり加工が施されていないが、中央部付近に区画仕切り用の土塁がある。
2郭は1郭の南にあり、城塁は他の郭より高くなるようになっている。2郭の北側には、土塁の内側に堀が掘られているという珍しい形状をしている。2郭の南側下には横堀が掘られている。
3郭が最も広く、2郭に接する西側は折れを伴った形状となっている。南側の虎口は、房総では珍しい相横矢が用いられている。また、3郭の北東下の腰曲輪には、横移動を阻害するように連続で堀切を入れている。4郭との間の堀切は、城内で最も深く掘られており、そのまま東側の麓へと降りれるようになっている。
4郭は外郭にあたるのか、あまり目立った遺構は残っていないが、台地の接続部には土塁が設けられている。
【感想】
房総では珍しい相横矢がある城郭ですが、余湖さんのサイト以外にほとんど情報がないお城です。
余湖さんのサイトにも書かれていますが、藪と倒木が凄まじいです。堀底道は歩きやすいのですが、各郭は倒木と藪(蔓で足を取られる位)で極めて歩きにくいです。しかも、一番のメインである相横矢が倒木のせいで完全な状態で確認することが出来ないです。しかし、城の造り自体はかなり技巧的な城で、かなりワクワクしながら周ることが出来ます。
この城は全く来歴が残っておらず、誰が築城したのか分かっていません。ただ、相横矢が用いられていることから、坂田城主の井田氏が築城した可能性が高いと考えれています。房総では、井田氏が築いた坂田城、津辺城にしか相横矢がないためです。井田氏が香取方面で城を築く可能性があるとすれば、永禄3年(1560)の正木氏による東総侵攻が挙げられます。この時の井田氏は千葉氏に属しており、おそらく正木氏と激しくやりあい、その過程で築城したのだと推測しています。
【アクセス】
①佐原駅からレンタサイクルで、約45分。
②小見川駅から香取市循環バスに乗車し、油田入口で下車し、徒歩5分。(平日限定で一日4便)
【写真】
①登城口(廃屋の右手の藪あたりから)
②4郭の城塁
③3郭と4郭の間の堀切
④3郭の相横矢(倒木で全く分かりませんが)
⑤2郭の虎口
⑥2郭北側の内堀
⑦合流点あたりの堀切
⑧3郭の北東下の堀切(藪で分かりにくいですが)
2023年01月05日 気分爽快陸奥守
大崎城
夏場は藪がひどかったので、冬を待って訪れたが、相変わらず藪がひどく遺構はよくわからなかった。道路に利用されたらしい垂直な堀切、白幡神社北側の堀切、本命寺横の藪だらけの郭を見て終了。
①白幡神社北側の堀切
②本命寺横の郭
③水路脇の北側郭(主郭?)
④垂直な堀切
2023年01月04日 マグロ常陸介祐平
岩ヶ崎城[大崎城 周辺城郭]
下総矢作藩の鳥居元忠が、国分氏の城跡を改修中に伏見城で戦死して、子の忠政が磐城平に栄転したことで未完成のまま廃城になったお城です。稲荷神社の郭と西側の三段の郭は見やすいですが(南の愛宕神社の郭は展望良し)、神社北側の郭へは、取り付く場所のないため、高さのある切岸をよじ登ることになりました。郭は二段になっており、高さはありますが狭く、山城の狼煙台の様な雰囲気でした。
神社敷地の西側は宅地化されており城の全容はわかりませんが、四万石の近世の城郭とは感じられませんでした。建造物を建てるには狭い郭が多数並び、薄めですが土塁や堀切も見られる面白いお城です。
2020年08月13日 国府左京大夫城介
岩ヶ崎城[大崎城 周辺城郭]
鳥居元忠が改築するも未完成のまま廃城となった城
【歴史】
元々はこの辺りを治めていた国分氏が大崎城に替わる本城として築城したという。
その後、徳川家康の関東への国替えに伴い、その重臣である鳥居元忠が下総矢作4万石を与えられた。おそらく北の佐竹氏に対する抑えとして、鳥居元忠が配置されたものと思われる。
当初、鳥居元忠は大崎城に入城したが、手狭なため、岩ヶ崎城の改築を行ったが、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した。戦後鳥居氏は陸奥磐城平へ転封されたことにより、岩ヶ崎城は未完成のまま廃城となった。
【遺構】
高さ20m程の台地上の築城されており、周囲は切り立った崖となっている。本丸があったと思われる西側部分は宅地化されているが、稲荷神社や愛宕神社かある東側は土塁等の遺構は残っている。稲荷神社の北側の高台にも遺構があるようだが、倒木と凄まじい薮で行けなかったので詳細は不明。
残存している土塁や堀からは、あまり織豊系の城らしくないので、鳥居元忠による改築は進んでいなかったように思われる。
【アクセス】
佐原駅から徒歩で15分程。
路上になるが、車を停めるスペースはあるが、駐車していいかは不明。
【写真】
1:稲荷神社参道入口
2:稲荷神社西側にある枡形虎口
3:土塁と堀に挟まれた通路
4:西側の虎口(その先が本丸?)
5:愛宕神社から佐原の街を臨む
6:南曲輪の土塁
7:西側虎口の土塁
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
本矢作城[大崎城 周辺城郭]
本矢作城は大戸荘に移った国分胤通によって築かれたという。鎌倉期の館であったと思われ、堀や土塁といった遺構は見受けられないが、果樹園となっている部分より南に、一段下がった土地がある。人工的に造られた地形であると見られ、大崎城の二段構造に通ずるものがある。
国分氏は泰胤の代に大崎城に移ったとされるが、泰胤は鎌倉期の人物である。明治期の地図を見ると、本矢作には大規模な集落があるのに対して、大崎には集落がない。大崎城の城郭が後世拡大されたものとしても、鎌倉期に集落から離れた場所に、拠点を築いたというのには違和感がある。また、本矢作城の近くにある知足院は国分氏の菩提寺と言われ、開山は室町中期、文亀年間とされる。このことから考えるに、大崎城は本矢作城の詰城として築かれ、室町中期までは本矢作城が居館として機能していたのではないか?
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
伊能氏
大崎城の北、利根川沿いにある水郷の街佐原の名主伊能家は元々国分氏の家臣であった。
伊能氏の発祥は大和国高市郡西田郷とされ、大同2(807)年、藤原景能という人物が勅命を受けて下総国香取郡大須賀郷を領したという。
以後、代々この地を領していたが、千葉常胤四男大須賀胤信が大須賀郷を領した後は、大須賀氏と関係を深めていった。
伊能朝辰は松子城南に伊能城を築いて拠ったが、その3代目の景信は国分氏の家臣となった。当時の国分氏当主胤政が、大須賀氏より養子を貰っていた説があり、その関係で大須賀氏から送られてきたのではないかと考えられる。
正木氏による大崎城落城の折には、景信は主とともに子の景久と孫の景常を脱出させ、自らは討死した。景久はその後も国分氏を助け、佐原を賜った。
景常は主に請い、帰農して佐原の名主となったと言われる。
その後も商家として佐原の地に根付いたが、時代を経るにつれて家勢は衰えていった。その最中、武射郡小堤村の酒造家神保家より婿養子に迎えたのが神保三治郎であった。三治郎はその才覚を発揮し、商家、そして名主としての伊能家を再興させた。この神保三治郎が後の測量家、伊能忠敬である。
忠敬の直系は孫の代で途絶えるが、同族の清宮家は後に国学者の清宮秀堅を輩出している。
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
その後の国分氏
小田原の役で徳川方に城を明け渡した後、国分氏の中には常陸鹿島神宮惣大行事の養子となって同職を継いだ流れ、水戸藩士となった流れ、土井氏(佐倉藩・唐津藩・古河藩)に仕えた子孫もあった。土井氏に仕えた国分氏は矢作氏を称し、本家の元を離れ北条氏に仕えていたが、北条氏が滅びた後は、三河へ流れ徳川に仕えた。矢作喜兵衛胤基は土井氏に仕え、佐倉城の縄張りを担当した。水戸藩士となった国分氏は大崎城主国分氏の最後の当主胤政の孫である国分胤次・国分胤久が水戸藩主・徳川頼房に仕えた事から始まる。胤久の嫡子胤良は旧領である矢作の地を訪ね、その際、観福寺を宿とした。観福寺は国分氏の老臣の家柄であった伊能家の菩提寺であり、伊能忠敬の義祖父、伊能三郎右衛門景利の元へも、胤良より土産物が届けられたという。水戸国分氏と旧領の人々の交流は江戸時代を通じて続いた。国分氏は途中、同じ千葉六党の武石氏の子孫と思われる武石胤将を婿養子に迎えながら、幕末まで続いたが、幕末の動乱、水戸藩内での諸生派と改革派の権力争いの中で、改革派として投獄された。その後の明治維新によって罪を許され、小姓頭取に就任した。
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
国分氏
初代胤通は父常胤の代理として国衙に関わっていたと考えられ、頼朝の元に参上した時には既に国分を称していた。香取神宮領の地頭職を常胤から譲られ、嫡男時通を除いた国分氏は皆、大戸荘へ移った。時通には後継がなく、惣領家は初期に姿を消し、大戸荘に移った国分氏はそれぞれ独立した御家人となった。本矢作城、大崎城主であった矢作国分氏は時通の六男常義から始まる国分氏を代表する家であるが、常義の頃はただの一流に過ぎなかった。常義の嫡子胤実は千葉介頼胤の後見人となり、その孫泰胤は「国分矢作惣領」と記されていることから、この頃には国分氏の中でも大きな勢力を持っていたと考えられる。大崎城を築いたのもこの頃とされる。享徳の乱の際の動向は不明である。馬加康胤、原胤房と戦った東常縁に国分五郎が加担している一方で、矢作国分氏自体はその後も下総千葉氏に仕えている為、国分氏の中でも意見が分かれていた様だ。臼井合戦や武田氏の小弓城攻めの際には、千葉介の命令で援軍を送っている。永禄4(1561)年頃から度々正木氏の攻撃を受け、永禄8(1565)年、遂に落城する。しかし、胤政は天正9(1581)年、大戸川内の浄土寺を再建したとあり、天正年中には大崎城を取り戻していた様だ。その後本拠を岩ヶ崎城へ移したと言われるが、定かではない。
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
本命寺の西にあるトンネルの上には両総用水が流れており、4郭と2郭を繋いでいる。脇に上に登る階段が作られていたが、関係者以外立入禁止となっており、登ることは叶わない。2郭、1郭に入る手段がないかと、周囲を回っていたら、東側に1郭、2郭の間の堀を利用した舗装されていない道があった。入っていいものかと躊躇して結局入らなかったが、調べてみると入った先に虎口があるそうだ。行けばよかった。舗装されていない道の北には1郭に登る舗装された道がある。登った先には畑と両総用水があり、用水には橋が架かっており、1郭内部へと行ける道があった。腰曲輪のような構造が1郭、4郭に見られ、二段構造となっており、この城の特徴と言える。全体的に遺構はよく残っているので、整備しないまでも、もう少し案内などをおいては貰えないだろか。
2018年02月28日 山内右兵衛佐伊右衛門俊胤
大崎城
大崎城は北に延びる半島台地上にあり、南に位置する白幡神社から北に向かい4郭、東寄りに3郭、2郭、1郭と縄張りが造られている。現在は両総用水が南北を貫いており、ある程度の改変が考えられるが、全体的に堀や土塁はよく残っている。大手門と考えられる白幡神社奥の社の裏手から4郭前の堀に行ける。堀を越えると4郭の土塁の上に上がり、その先には広い4郭がある。4郭を進んで行くと、下へと降りて行く道があり、降りた先にまた堀がある。堀の横には両総用水があり、そのまま2郭へと繋がっている様であったが、柵が張られており、先には進めなかった。取り敢えず、堀を越えて東寄りの3郭方面へ向かう。堀の先は小さい郭になっており、すぐ先にまた堀がある。堀の先は3郭となっているが、非常に高く、登るのは困難と思われたので、一度白幡神社に戻った。3郭には本命寺横の小道から登ることが出来、古い墓地として利用されていた様である。五輪塔の裏手に先ほどの堀が見える。
2016年01月08日 藤井伊賀守
大崎城
城跡南端の白幡神社の裏からよじ登ると、四郭の空堀と、土塁がみごと。
用水道が、城内を貫通してますが、主郭、二郭間の堀切など見応えある城跡です。