森山城(もりやまじょう)

森山城の基本情報

通称・別名

東野城、飯田城、橘城、柑子城、仲城、仲之城

所在地

千葉県香取市岡飯田字根古屋

旧国名

下総国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

東胤頼

築城年

建保6年(1218)

主な改修者

主な城主

東氏

廃城年

遺構

曲輪、横堀(空堀)、横堀(水堀)、角馬出、虎口

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

小見川城(千葉県香取市)[5.1km]
桜井城(千葉県旭市)[5.6km]
大崎城(千葉県香取市)[14.2km]
鹿島城(茨城県鹿嶋市)[15.0km]
島崎城(茨城県潮来市)[16.9km]
前林城(千葉県成田市)[19.0km]
野手城(千葉県匝瑳市)[19.1km]
多古城(千葉県香取郡)[19.5km]
飯沼城(千葉県銚子市)[21.5km]
飯櫃城(千葉県山武郡)[22.8km]

森山城の解説文



森山城(もりやまじょう)は、千葉県香取市岡飯田(下総国香取郡)にあった日本の城。

利根川東遷工事などで内陸部に位置する形になっているが、元々は香取海かそれにつながる河沼沿いの台地上にあった城であると考えられている。

概要 

鎌倉時代初期に千葉常胤の子である東胤頼が築城し、代々東氏が居住していたとされているが、中世期の動向は不明な点が多い。戦国時代(天文年間)には千葉昌胤の子で海上氏を継いだ胤富が森山城に入って居城とした。ところが、1557年(弘治3年)になって胤富が末弟の親胤を廃して宗家当主を奪って本佐倉城に移ったため、粟飯原胤次が任じられて粟飯原氏が城主を継いだが、その後は千葉氏の重臣である原親幹が城主に任じられて今度は原氏が城主を継ぐ事になった。粟飯原・原両氏が城主を務めていたが、この間も千葉胤富の主導で城の整備が進められている。これは、香取・海上郡の境目にある森山城が東下総支配及び常陸国との水運の要地である事を城主であった胤富が強く認識していたからと考えられている。千葉氏が後北条氏の傘下に入ると、事実上の後北条氏の支城となり、里見氏の北上に対応する拠点ともなった。

1590年(天正18年)の小田原の役後、森山城は廃城になったとみられているが、徳川家康の家臣・青山成重が森山に入って、後に下総飯田藩が成立している事から、その廃城に関しては不明な部分も残されている。

現存の城跡は永禄-天正期に整備されたものとみられ、西から東に向かって3つの郭によって構成された東西620メートル・南北430メートルの規模と推定され、更に出城と見られる須賀山城を森山城の一部とみなすと東西1500メートル・南北500メートル規模になる。主郭部では空堀・土塁などが比較的良好な形で残されているという。

アクセス 

  • JR成田線 笹川駅 徒歩45分

参考文献 

  • 『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』(平凡社、1996年) ISBN 978-4-582-49012-1

森山城の口コミ情報

2024年08月14日 千葉相模守早雲【権六】
森山城



千葉常胤六男の東胤頼の居城。築城は建保六年(1218年)と伝えられ、東氏代々の本城として栄えるも、小田原征伐後間もなく廃城となったようです。(説明板より抜粋)
説明板には香取郡市の古城趾中、最大の規模とあるが、実際に歩けば納得の大きさ!奥仲城(主郭)、馬出、仲々城、仲城、三城が並ぶ連郭式山城です。

周辺に案内板がありますが、最後まで案内しておらず、登場口は分かりづらい。岡飯田の消防団分団の建物脇の小道を登って行きます。(スポット登録したので、詳細はそちらをご確認ください)

各郭は空堀で分断され、土橋(鋪装路)で繋いでいます。空堀は手入れされておらず、藪で奥まで見えませんが、規模は大きい。
三城、仲城共に畑になっており、仲々城は牛舎の間を抜けて行きますが、一本道で迷う事は無いと思います。牛舎の先で道がやや左へ折れて分岐を右へ。90度左へ道が曲がり、その先へ道なりに進むと、藪に覆われた空堀が見えてきます。

この辺りは土橋、空堀、虎口、土塁など遺構がはっきりと残っています。と言っても薮が凄いので、奥仲城の案内板を見るまでは馬出に気がつきませんでしたが…

各郭の高低差は殆ど無く、連郭に並べて空堀で区切る縄張りは近隣の坂田城(横芝光町)を彷彿とさせる作りだなと思いました。

1.三城へ向かう土橋。
2.土橋脇の空堀。
3.三城・仲城間の土橋。
4.土橋脇の空堀。
5.道の左と正面は空堀。左へ折れると馬出。
6.土橋状の道が右へカーブし奥仲城へ。藪に覆われた部分は空堀。
7.奥仲城の虎口。
8.奥仲城・仲城間の空堀。

2024年08月14日 千葉相模守早雲【権六】
登城口[森山城  その他]

消防団分団の建物脇の道を入り、道なりに登って分岐を左、次の分岐も左へ行くと三城へ行けます。

2021年09月13日 つか征夷大将軍
駐車スペース[森山城  駐車場]



特に駐車場とは案内はしてないそうですが地元の方(仲々城で農作業されてた方)の話では停めても良いそうです。

2021年09月13日 つか征夷大将軍
奥仲城虎口[森山城  遺構・復元物]



馬出、空堀、土橋、土塁等の遺構があります。

2021年09月13日 つか征夷大将軍
大手[森山城  遺構・復元物]



土橋は道路になってます。空堀と土塁があります。

2021年09月13日 つか征夷大将軍
説明文[森山城  碑・説明板]



説明文と案内図があります。ここから入ると搦手への登城口があります。

2021年06月13日 Tsuchi8左衛門佐
森山城



千葉常胤の六男、東胤頼によって築かれた城。最初に築かれ後に出城だったのが吸収されて一体を成す須賀山城を含めると東西1500m南北50mで「北総最大の城郭」と謳うだけあってデカい。森山城の方はシンプルな連郭式の平山城ですが、クリアーに残る遺構、特にこれでもかと言うばかりの堀と徹底的な横矢、そして本郭の前の角馬出し(扇形)には圧倒させられました。須賀山城は連郭式と梯郭式のハイブリッドみたいな構造ですがこちらも空堀がすごい。全部観るのに時間かかりますが行って損はない城。

2020年12月03日 みかも内匠助48世
森山城



とにかく広いです。写真の場所にある駐車場から歩きましたが、全部見たら2時間近くかかりました。地元有志が整備されて大変綺麗になっています。ただ、遺構はそれほど多くなく畑の中を散策している気分でした、この時期でも虫がいたので、冬の訪問をお勧めします。

2020年11月23日 国府左京大夫城介
須賀山城[森山城  周辺城郭]



森山城の出城か、それとも独立した城か。

【歴史】
源頼朝の挙兵に尽力した千葉常胤の6男・東胤頼が文治6年(1190)に築城し、この地を治めていた。その後、東胤頼は隣接する森山城を築城し、建保6年(1218)森山城に居城を移している。須賀山城は、代々東氏一族が居城していたが、千葉胤富(第27代当主)の頃に破却したとも、森山城の外郭部に取り込まれたとも言われている。

【遺構】
須賀山城は、森山城と同じ台地上に築かれており、台地の東端に位置する。
1郭、馬出、西曲輪、第六天郭があり、腰曲輪を設置しつつ、各郭を空堀で隔てている。また、天然地形を利用した切岸で防御を固めている。
1郭の南側(馬出側)には、須賀山城で唯一(確認した範囲では)の土塁があり、高さ2、3m程となっている。
1郭と馬出の配置の仕方が森山城と同じとなっており、同様の設計思想で改修されており、須賀山城も戦国時代に使用されていたと思われる。
搦手口には複数の段曲輪によって、容易に侵入できないようになっている。

【感想】
地元の方が定期的に整備しているのか、藪がほとんどなく極めて遺構が見やすい状態になっている。
特に、1郭と馬出を隔てる空堀を藪を漕ぐことなく歩くことができるのは、北総の城郭では初めての経験でした。一方、森山城と同じく馬出や西曲輪の一部は畑になっています。
もし、森山城を訪れたのならば、是非須賀山城も訪れるべきだと思います。
因みに、この城は香取市と東庄町の境にあるので、説明板が2つあったりしますwww

【アクセス】
JR成田線・笹川駅より徒歩で20分程。
県道266号線をひたすら南に歩くと、須賀山城入口の看板が見えてくる。

【写真】
1:搦手口
2:搦手にある段曲輪
3:第六天郭
4:馬出(左)と1郭(奥)を繋ぐ土橋
5:木製の須賀山城看板
6:1郭にある土塁
7:1郭と西曲輪間の空堀
8:西曲輪

2020年06月06日 弾正少弼里見家子孫
森山城

案内図の前で車をどこに停めるか迷っていると「城に興味あるかい?」と声をかけられ、2郭?にある牛舎近くの空地まで案内してもらい、更に一番奥の主郭まで軽トラックに乗せていただきました。そこには地域の方々が城の整備のため集まっていて、森山城の見所や城付近の説明をしてくれました。城愛にあふれた方々でした。(基本的に駐車場はありません)

2016年02月21日 日高守きこりん
森山城

台地を深い堀で区切った連郭式の縄張りで、非常に規模の大きい城です。
現在、地元有志の手で刈払など整備が進められており、私が登城した際も爺様方が熱心に作業しておられ、城を見学に来たと分かるととても嬉しそうに声をかけて下さいました。全くのボランティアだそうで、頭が下がります。まだまだ多くが藪に覆われてますが、今後も整備を進めていくそうなので、次第にスケールの大きな遺構が姿を見せてくれるでしょう。
私は麓の集落に車を置き(特に駐車場は無い)星宮大神の鳥居脇からの登城路を登りましたが、車で乗り込めます(小ぶりの四駆推奨)。
なお、同じ台地上にほぼ連続して須賀山城という城もあり、こちらも別の有志グループが整備をしておられるようです。時間に余裕があればセットで見るといいでしょう。
爺様方に、拡めてほしいと頼まれたのでここに記します。メグラーの皆様、近くに行かれることがあったらぜひ見に行ってあげて下さい。

2013年06月09日 民部卿たくぞう
森山城

【説明板より】
小見川の最南端部、標高四五メートル、十万平方メートル以上の広大な城郭である。千葉常胤六男、東六郎胤頼の居城として知られている。
築城は建保六年(一二一八)と伝えられ、以降東氏代々の本城として栄えた。廃城は北条氏滅亡から間もない頃と言われている。
遺構は本丸、二の丸、三の丸が空堀によって区別され、土塁、土橋、曲輪がまだ残っている。城の形式は直線連郭で東庄町の須賀山城と城づたいになっている。香取郡市の古城址中、最大の規模をもつ。
城の南側の麓には、真性院芳泰寺がある。この寺は東氏代々の菩提寺で、寺伝では安貞二年(一二二八)、城主・東胤頼が埋葬され、大きな供養塔などが建立されている。
東氏は千葉六党の一つで、鎌倉時代から南北朝にかけて、下総一帯に大勢力を張った豪族で、この一族は月星の紋印をもち、これを誇りとしている。

森山城の周辺スポット情報

 大手(遺構・復元物)

 奥仲城虎口(遺構・復元物)

 土橋(遺構・復元物)

 須賀山城 土橋(遺構・復元物)

 (遺構・復元物)

 案内図(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(縄張り図)(碑・説明板)

 登城口(碑・説明板)

 説明文(碑・説明板)

 須賀山城(周辺城郭)

 寺嶋陶苑(御城印)

 駐車スペース(駐車場)

 須賀山城登城口(その他)

 須賀山城登城口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

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